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見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(43)
2016.10.26
前田 高行
第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)
7.二つの予言:「歴史の終わり」と「文明の衝突」
20世紀も残すところ10年となった1990年代、米国の二人の政治学者が相次いで発表した著書が大きな評判を呼んだ。1992年に出版されたフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と1996年に出版されたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」である。世紀末が近づくと「ハルマゲドン」或いは「ノストラダムスの大予言」など世界の終末をおどろおどろしく語るキワモノが出回るが、「歴史の終わり」と「文明の衝突」は高名な学者による文明論である。但し二人の論調は対照的である。
二つの著書は中東アラブ・イスラム世界だけ取り上げたものではないが、中東は有史以来東西文明の交叉点として歴史に翻弄されてきた。その意味では中東の歴史を見るうえで両書が示唆するところは大きい。
フクヤマは、21世紀の世界は民主主義と市場経済が定着したグローバル社会となり、もはやイデオロギーなどの大きな歴史的対立がなくなる「歴史の終わり」の時代になろう、と予言している。一方、ハンチントンは21世紀の世界は地球規模の一体化という方向ではなく、むしろ数多くの文明の単位に分裂してゆき、相互に対立・衝突する流れが新しい世界秩序の基調になる、というものである。
ハンチントンは現代の主要文明として西欧文明、イスラム文明、中華文明、ヒンズー文明のほか東方正教会文明、ラテンアメリカ文明及び日本文明の7つを挙げている。通常民俗学、地政学的には極東アジアの範疇に入る日本をハンチントンは独立した文明と捉えていることは興味深い。これら7つの文明の中で西欧文明が最も新しく18世紀の産業革命から始まったものであり、自由主義、資本主義といったイデオロギー(智)を中核としている。
これに対してイスラム文明は14世紀のムハンマドに始まる宗教(心の絆)を中核とする文明であり、東方正教会文明も同じくキリスト教文化という宗教に根差した文明である。そして中華文明及びヒンズー文明は世界四大文明とされる黄河文明、インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明のうちの黄河文明及びインダス文明の流れを汲み、民族(血の絆)を中核とする文明と見ることができる。(エジプト文明及びメソポタミア文明は継承するものが無く、考古学上の文明として名を残すにとどまっている。)ラテンアメリカ文明や日本文明もこの民族(血の絆)の文明の範疇に入ると考えられる。ただ現在のわれわれ日本人にとっては「日本文明」という呼称に違和感を覚え、むしろ「日本文化」と言い方が一般化しているようである。
「文明」と「文化」は英語ではそれぞれcivilizationとcultureであるが、一般にはほぼ同じ意味で使われている。広辞苑によれば文明(civilization)は「「宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての文化に対し、人間の技術的・物質的所産」であり、他方、文化(culture)は「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果」としており、文化の方が文明より意味が広いようである。
フクシマの「歴史の終わり」は、ベルリンの壁が崩壊し(1987年)、ソ連が解体して(1991年)世界が米国一強時代になった時代、即ち社会主義・共産主義が駆逐され、自由主義・資本主義がデファクト・スタンダード(事実上の世界標準)になった時代の申し子として生まれた。一方、ハンチントンの「文明の衝突」はイラン革命(1979年)、ソ連のアフガニスタン侵攻と撤退(1990年~1989年)、さらには湾岸戦争(1991年)と続く中東の激変の歴史に強く影響を受けたことは間違いないであろう。
劇的に変化する歴史のパラダイムシフトの中でこれら2冊の思想書が世に出たが、それらと並行して実践的なイデオロギーとして米国で頭角を現わしたのが「新保守主義(Neo Conservatism)」、いわゆる「ネオコン」である。ネオコンそのものの歴史は1930年代までに遡るが、第二次大戦後の米ソ冷戦時代にソ連との緊張緩和(デタント)に反対する勢力の理論的支柱として育っていった。そしてそのネオコンを支えたのは在米ユダヤ人たちイスラエル・ロビーである。
1964年の共和党大統領候補バリー・ゴールドウォーターが行った演説は保守派の熱狂的な支持を集め共和党の主流となった。
「自由を守るための急進主義は、いかなる意味においても悪徳ではない。そして、正義を追求しようとする際の穏健主義は、いかなる意味においても美徳ではない」
1981年のレーガン大統領から1993年のブッシュ(父)大統領まで続いた共和党政権は、米国が自国の正しさを確認し、自分たちが神に選ばれ世界平和の使命を与えられたと確信した時代であった。米国はアフガニスタンからソ連を撤退させ、東西ドイツ統一を推進し、イラン・イラク戦争で世俗政権のイラクを支援した。そして経済の分野では自由貿易による単一市場化(グローバリゼーション)を押し付け、世界経済における米国の力を不動のものにしたのである。
このシナリオはまさにフクヤマの「歴史の終わり」そのものである。フクヤマは決して歴史が終わると言っているのではない。彼は冷戦が終わった後の世界は民主主義と市場経済が唯一のイデオロギーへと収れんする歴史の最終章の始まりだ、と説いたのである。20世紀末にこのような一種の歴史終末論を主張したことが「歴史の終わり」をベストセラーたらしめたのである。
米国は独裁者フセインを湾岸戦争で力づくで封じ込めてアラブ・イスラム諸国の為政者たちを震え上がらせ、フクヤマの「歴史の終わり」を中東に実現させて21世紀を迎えるつもりであった。しかしフクヤマの思想に異議を唱えたのがハンチントンの「文明の衝突」であった。不幸にして21世紀はハンチントンの予言を裏付けるような9.11同時多発テロ事件で幕を開けたのであった。
(続く)
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荒葉一也
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第5章:二つのこよみ(西暦とヒジュラ暦)
6.二度にわたりノーベル平和賞を受賞したイスラエルの首相
世界平和に貢献した者に対して授与される賞は国連平和賞、フィリピンのマグサイサイ賞などいくつかあるが、知名度の高さ或いは歴史の長さなどの点でノーベル平和賞に適うものはないであろう。第1回のノーベル平和賞は1901年、赤十字社を創設したスイス人アンリ・デュナンが受賞、今年コロンビアのサントス大統領が受賞するまで115年間にわたり連綿と続いている。
この名誉あるノーベル平和賞に二度にわたりイスラエルの首相が受賞している。最初は1978年のメナハム・ベギンであり、この時はエジプトのサダト大統領との共同受賞であった。二人は1973年の第四次中東戦争後、周囲の反対を押し切って和平に踏み切ったことが評価されたのである。二度目は1994年のイツハク・ラビンとシモン・ペレスであり、当時ラビンは首相、ペレスは外務大臣(後に首相)であった。そして彼らと共同受賞したのがPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長である。湾岸戦争後のこの時、イスラエル・パレスチナ間に対話の機運が生まれ、ノルウェーの調停により両者の間にいわゆる「オスロ合意」が締結された。イスラエルとPLOが相互に承認するという歴史的な出来事がノーベル平和賞の受賞理由となったのである。
歴代のノーベル平和賞受賞者を見ると個人と団体がほぼ半々である。そして個人では平和運動家や哲学家などの民間人が殆どであり、政治家は多くない。まして一国のトップは今回のコロンビア大統領を含めてもわずかである。さらにトップと言っても日本の佐藤栄作元首相のように受賞時はすでに現役を引退している者が大半である。加えてこれら一国トップの受賞者を国別にみるとセオドア・ルーズベルト(1906年)、ウッドロー・ウィルソン(1919年)、ジミー・カーター(2002年)、バラク・オバマ(2009年)など歴代大統領が並ぶ米国を別格として一国で政治家が複数回受賞した例は極めてまれである。
そのような中でイスラエルのトップが1978年と1994年の二度にわたりノーベル平和賞を受賞したことは驚嘆すべきことと言えよう。さらに驚くべきことは受賞者たちのその後の暗転の歴史である。1978年にベギンと共同受賞したエジプトのサダト大統領は3年後に暗殺されている。そして1994年の受賞者であるラビン首相も2年後に同じく暗殺されている。共に現職の国家元首のまま和平に反対する自国の軍人或いは反対派の青年に狙撃されている。
そもそもノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルは遺言で、平和賞を「国家間の友好関係、軍備の消滅・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべしとしている。そしてスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を願って「平和賞」の授与はノルウェーで行うことになっている。この結果物理学、化学、生理学・医学、文学、経済の5分野のノーベル賞はスウェーデンのストックホルムで授与されるのに対して、平和賞だけはノルウェーのオスロで授与式が行われている。
イスラエルとパレスチナの中東和平に与えられたノーベル平和賞とは一体何だったのであろうか。「中東に和平を築く努力に対して」というのが彼らの受賞理由である。イスラエルの政治家3人が国内の根強い反対の中でパレスチナとの和平に大変な努力をしたことは間違いなく、それがノーベル平和賞に値するとの選考委員の判断に異論をはさむつもりは毛頭ない。
しかし第二次大戦後の中東の平和問題がイスラエルとパレスチナの関係に限定されてよいものであろうか。戦後の欧米の中東論は中東和平即ちイスラエルとパレスチナ(およびアラブ諸国)の和平という視点が強すぎ、そのような中でイスラエルが四度の戦争に勝った事実を事後承認する形で中東の平和が語られている。そこにはパレスチナでのユダヤ人のホームランド建設(イスラエル建国)の結果、中東に四度もの紛争を引き起こした問題を「中東和平」という形に変え、それをノーベル平和賞でオブラートに包もうとした西ヨーロッパ諸国の意図が見透かされる。また1994年の受賞のきっかけとなったのがノルウェーの調停であり、そのノルウェーがノーベル平和賞を与える立場にあったことも何やら自画自賛の匂いすら感じられる。
確かに第四次中東戦争、そして二度にわたるノーベル平和賞の授与以降、イスラエルとパレスチナ及びアラブ諸国との戦争は無くなった。それでは地域に平和が訪れたかと言えば否というほかない。ラビン首相暗殺以降も中東の平和は悪化の一途をたどっていると言えよう。
(続く)
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