(石油関連ニュース)
原油/天然ガス価格チャート:https://tradingeconomics.com/commodity/brent-crude-oil
・米の供給減と中国の需要増で原油価格上昇。WTI $93.02, Brent $96.26。
・サウジアラムコ、LNG事業に進出。MidOcean社に5億ドル出資。
(中東関連ニュース)
・リビア東部地区支配のHaftar司令官、プーチン露大統領と会談。
*「主要国のソブリン格付け(2023年8月現在)」参照。
(石油関連ニュース)
原油/天然ガス価格チャート:https://tradingeconomics.com/commodity/brent-crude-oil
・米の供給減と中国の需要増で原油価格上昇。WTI $93.02, Brent $96.26。
・サウジアラムコ、LNG事業に進出。MidOcean社に5億ドル出資。
(中東関連ニュース)
・リビア東部地区支配のHaftar司令官、プーチン露大統領と会談。
*「主要国のソブリン格付け(2023年8月現在)」参照。
(英語版)
(アラビア語版)
(目次)
第2章 戦後世界のうねり:
058第三次中東戦争とナセルの死(2/3)
1967年6月5日午前8時を期してイスラエルの奇襲攻撃が始まった。目指す相手は国境を接するエジプト、ヨルダンおよびシリアである。まずシナイ半島のエジプト空軍基地を奇襲し、空爆で滑走路を使用不可能にするとともに、駐機していたソ連製戦闘機すべてを破壊した。寝覚めを襲われたエジプト側は全く反撃できなかった。イスラエル軍は怒涛のごとくシナイ半島を横断、スエズ運河の対岸に達したのである。
シナイ半島を制圧したイスラエルは踵を返すとヨルダン川西岸のヨルダン領を占領、さらにシリア領のゴラン高原も押さえた。第三次中東戦争はイスラエルの圧勝、エジプトはじめアラブ側の惨敗と言う結果に終わった。両者の戦闘はわずか6日間で決着が付いたのである。このため第三次中東戦争は俗に「6日間戦争」と呼ばれている。この戦争でイスラエルはシナイ半島とガザ地区、ヨルダン川西岸地区及びゴラン高原を一挙に手に入れ国土面積は倍増した。シナイ半島は後にエジプトに返還されたが、その他のガザ地区、ヨルダン川西岸およびゴラン高原は今もイスラエルによる占領状態が続いている。
スエズ運河はしばらく閉鎖され国際経済に多大な影響が出た。それよりももっと大きな悲劇はヨルダン川西岸に住んでいたパレスチナ人たちの上に降りかかった。彼らの多くは難民となってヨルダンに雪崩れ込み、その数は百万人に達した。
(続く)
荒葉 一也
E-mail: Arehakazuya1@gmail.com
4. 経済・金融連携
(今や「ゾンビ銀行」の危機!)
4-3. NDB(新開発銀行)
NDB(New Development Bank、新開発銀行)はBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)が運営する国際開発金融機関であり、2013年の第5回BRICSサミットで合意され、2014年に発足した。当初資本金は500億ドルで各国が100億ドルずつ拠出している。国際的な金融ひっ迫時に対応するため外貨準備金1千億ドルを保有しており、その役割から小規模版IMFと呼ばれている。本部は中国の上海。
MENA地域からはUAE及びエジプトが2021年に加盟している。NDBは米国の支配下にある世界銀行に対抗してBRICSが設立したものであり、ドルに対する挑戦を掲げている。しかし、ロシアのウクライナ侵攻が原因で新規融資はほぼ停止、債務返済のためのドル資金調達も困難になり、いまや「ソンビ銀行」に変容する危機に瀕していると伝えられている。
(続く)
本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。
前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
E-Mail; maeda1@jcom.home.ne.jp
(石油関連ニュース)
原油/天然ガス価格チャート:https://tradingeconomics.com/commodity/brent-crude-oil
・仏TotalEnergies、今後5年間は化石燃料生産をアップ。
・エジプト:伊Eni, bpなどにナイルデルタ石油開発権供与。
(中東関連ニュース)
・Fitch、オマーンのソブリン格付けをBBからBB+に引き上げ。 *
*S&P格付け表1-G-3-01参照。
4. 経済・金融連携
(無利子のイスラム金融がインフラ整備に果たす役割!)
4-2. イスラム開発銀行(Islamic Development Bank, IsDB)
イスラム開発銀行はイスラム諸国と非イスラム国のイスラム社会における経済発展のための金融支援を目的として1973年のイスラム会議(現イスラム協力機構, OIC)で設立された。
イスラム協力機構(本稿6参照)の参加国57カ国がメンバーである。メンバー全員が出資し、本店はサウジアラビアのジェッダにある。サウジアラビアが最大の出資者で出資比率は全体の4分の1弱(23.5%)に達する。その他の出資国もリビア(9.43%)、イラン(8.25%)、ナイジェリア(7.66%)、UAE(7.51%)など産油国が上位を占めている。
融資対象プロジェクトはイスラム法(シャリア)が適用されるため無利子である。ほとんどのイスラム国は発展途上国であり、インフラ事業に対する融資需要は高い。シャリアにはムダラバ、ムシャラカなどのプロジェクト金融方式があり、利子方式の西欧金融とほぼ同様の効果を発揮しているが、世界的には有利子方式が圧倒的である。
イスラム開発銀行は設立後半世紀を過ぎたが、アジア開発銀行、アジアインフラ投資銀行など同種の開発金融機関に比べ必ずしも存在感が大きいとは言えない。
(続く)
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(英語版)
(アラビア語版)
(目次)
第2章 戦後世界のうねり:
057第三次中東戦争とナセルの死(1/3)
1964年に結成されたPLO(パレスチナ解放機構)は祖国の地パレスチナをイスラエルから奪回するための活動を開始した。当初活動の拠点はヨルダンのアンマンにおかれた。
この頃中東では、エジプトとシリアのアラブ連合結成(1958年)とその解消(1961年)、イラクとヨルダンのハシミテ王国連邦結成および同じ年のイラク革命による連邦解体(1958年)、イエメン内線(1962年)などアラブ諸国は内輪もめを繰り返していた。これを横目でじっと眺めていたのがイスラエルである。エジプト、シリア、イラクなど各国の独裁的指導者たちは自分たちの失政を糊塗し、あるいは権力を正当化するため自国民に向けて「イスラエルを地中海に突き落とせ」と声を張り上げた。独裁者が国民の目をそむけるためにヘイトスピーチによる外交的扇動を行うのは洋の東西を問わない。
一方のイスラエルも国内向けに亡国の危機キャンペーンを張った。時の首相は退役した隻眼の猛将モシェ・ダヤンを国防相に呼び戻した。ダヤンの戦略は先手必勝である。彼は世界第一級の諜報組織モサドが集めた周辺アラブ諸国の情勢を分析し、奇襲攻撃のタイミングを探った。
1967年6月5日午前8時を期してイスラエルの奇襲攻撃が始まった。目指す相手は国境を接するエジプト、ヨルダンおよびシリアである。まずシナイ半島のエジプト空軍基地を奇襲し、空爆で滑走路を使用不可能にするとともに、駐機していたソ連製戦闘機すべてを破壊した。寝覚めを襲われたエジプト側は全く反撃できなかった。イスラエル軍は怒涛のごとくシナイ半島を横断、スエズ運河の対岸に達したのである。
(続く)
荒葉 一也
E-mail: Arehakazuya1@gmail.com
(石油関連ニュース)
原油/天然ガス価格チャート:https://tradingeconomics.com/commodity/brent-crude-oil
・露の燃料油輸出停止で原油価格上昇。Brent $93.96, WTI $90.57。
(中東関連ニュース)
・エジプト大統領選挙、12月10-12日実施決定。現大統領含め7人立候補か。
・サウジ-イエメン国境付近でバハレーン兵士、フーシ派攻撃で死亡。
・岸田首相、UAEのCOP28担当大臣と面談。日本の貢献説明。
・エチオピアのナイル川ダム計画、エジプト、スーダンとの協議決裂。
4. 経済・金融連携
(いつまでも開発途上国の顔をする中国!)
4-1. G77
G77(Group of Seventy-seven、77カ国グループ)は、1964年の第一回国連貿易開発会議(UNCTAD)でアジア、アフリカ、ラテンアメリカの開発途上国77カ国によって形成されたグループである。参加国の数は現在では130カ国以上に増加している。中国が主導的な役割を果たしていることから、最近ではG77+Chinaと呼ばれることが多い。MENA諸国はほぼ全てG77のメンバーである。
2023年の首脳会合はキューバで行われ習中国主席、ルーラ・ブラジル大統領などが出席している。会合で採択された政治宣言では、途上国が直面する食料やエネルギー価格の高騰、貧困や難民の増加などに対して明確な対応策を求めている。
このようにG77は数の力により先進国に対応を促す圧力団体の様相を呈しており、加盟国間の相互協力や自助努力などは取り上げられていない。G77の中でも年々経済格差は広がっており、今や中国は国際舞台で突出した経済力、技術力、政治力を発揮している。中国が開発途上国を自称しながら他の途上国をどのように味方につけられるかが、今後のG77の最大の課題であろう。
(続く)
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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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3. 軍事・安全保障連携
(著しいサウジアラビアの指導力低下!)
3-3. GCC(湾岸協力会議)
GCC(Gulf Cooperation Council、湾岸協力会議)はアラビア(ペルシャ)湾沿岸の絶対君主制国家6カ国(サウジアラビア、UAE、クウェイト、オマーン、カタール及びバハレーン)により1981年に結成された地域安全保障連合である。2年前の1979年、イラン革命が勃発しイスラム共和制国家が出現したことが結成の経緯であった。
それまで湾岸地域はイランのシャー独裁体制が「湾岸の警察官」を自認し、背後の米国とともに脆弱な湾岸君主制国家を支える構図であった。しかしイスラム共和国のホメイニ最高指導者はイスラム革命の輸出を標榜、湾岸君主制国家の支配者たちは東のイラン、西のイスラエルに挟まれる形となり脅威に駆られて連合を結成した。
GCCの構成国は石油・天然ガスに恵まれているが、大半の国は人口が少なく国土も狭い。そのような中でサウジアラビアは人口が際立って多く、国土も広大である。同国は自他ともに認めるGCCのリーダーである。本部はジェッダ。
イラン革命後もGCCは常に安全を脅かされ続けた。1980年代のイラン・イラク戦争ではアラビア湾のタンカー運行が危険にさらされた。輸出ルートがイランとオマーンに挟まれたホルムズ海峡のみであることがアキレス腱となった。そしてイラン・イラク戦争後の1990年にはクウェイトがイラクの独裁者フセインにより侵攻され、翌年米国を中心とする多国籍軍により解放された(湾岸戦争)。
次いでGCC諸国は国家対国家ではなく国境を越えた宗教或いは民衆活動により体制が揺らいだ。2001年の9.11同時多発テロをピークとするスンニ派イスラム組織アルカイダのテロ活動であり、或いは2011年のチュニジアに端を発する「アラブの春」運動であった。GCCで最も脆弱なバハレーンでは王制打倒運動に火が付いた。この時はサウジアラビアを中心とするGCCの治安部隊によりデモは鎮圧された。
サウジアラビアがGCCの盟主として指導力を誇示できたのはこの頃がピークだったと言えよう。「アラブの春」でサウジはイエメン内戦に巻き込まれサウジとイランの代理戦争の様相を呈して今日に至っている。一方、GCCの同盟国カタールとはイラン及びイスラム同胞団の扱いをめぐって対立、ついにはカタールと断交している。この時バハレーンはサウジに盲従、UAE、クウェイトがサウジに同調、オマーンは中立的立場となり、GCCの結束にひびが入った。
この頃から他の加盟国はサウジアラビアの独善的な姿勢に嫌気がさし、独自の行動に走るようになった。2020年にはUAEとバハレーンがイスラエルと国交を正常化し(いわゆる「アブラハム合意」)、これと並行するようにカタールは米軍のアフガニスタン撤退とその後の外交窓口としての存在感を示し、オマーンは従来から続いていたイランとの友好関係によりイエメンをめぐるサウジアラビアとイランの代理戦争の停戦仲介など重要な外交問題の解決に寄与している。
このようにサウジアラビアの指導力は年々低下しており、むしろGCC内部で孤立しているとすら言える状況である。
(続く)
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(英語版)
(アラビア語版)
(目次)
第2章 戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界(18)
056立ち上がるパレスチナ人(3/3)
結局パレスチナのアラブ人たちの多くは土地を追われ難民となってヨルダンなど隣国のアラブ諸国に移り住んだ。その動きを加速したのが第一次中東戦争、いわゆるイスラエル独立戦争である。70万人ともいわれるパレスチナ人が祖国を追い出された。祖国に残り或いは祖国を離れたアラブ人たちは以後「パレスチナ人」と呼ばれるようになった。親子代々パレスチナに住み続けた彼ら自身にはそもそも「パレスチナ人」などと言う意識は無かったはずである。第二次大戦後、国民国家が当たり前となり誰しもが「何々国民」として色分けされる世界になり、パレスチナにパレスチナ人が生まれたのである。
彼らパレスチナ人はいつの日にかアラブの同胞が自分たちの土地を取り戻してくれると信じ、1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)さらには8年後の第二次中東戦争(スエズ戦争)に耐え抜いてきた。第一次中東戦争ではイスラエルなど一ひねりで潰してみせると豪語したアラブ諸国の為政者たちに裏切られた。そして第二次中東戦争(スエズ戦争)ではエジプト軍とイスラエル軍の装備と戦闘能力の差をいやと言うほど見せつけられた。結局第一次中東戦争ではアラブ連合軍が単なる烏合の衆に過ぎなかったことを思い知らされ、第二次中東戦争ではスエズ運河の国有化を勝ち取ったナセル大統領ただ一人が英雄となった。パレスチナ人の心の中にはアラブ陣営が束になってもイスラエルには勝てないと言う無力感が残っただけであった。まさに「一将功成って万骨枯る」である。パレスチナ人はアラブの同胞に失望した。
パレスチナ人たちに残された道はただ一つ、自ら立ち上がることであった。1964年、彼らはパレスチナ人の民族自決と離散パレスチナ人の帰還を目的とするパレスチナ解放機構(PLO)を結成する。
(続く)
荒葉 一也
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