初出:2007.8.15
再録:2019.2.12
(注)以下の人名、肩書はいずれも2007年当時のものです。
(第13回)サウド家の有力家系(2):スルタン皇太子家(スデイリ・セブン1)
スルタン皇太子[1]はアブドルアジズ初代国王の15番目の息子である。母親のハッサ妃は名門スデイリ家の出身で、同妃はアブドルアジズとの間に7人の男児を産んだ。彼ら7人は「スデイリ・セブン」として有名であり、スルタンはその次男である。長男のファハド前国王は2005年8月に亡くなったため今ではスルタンが「スデイリ・セブン」のリーダーである。
スルタンは1926年 (1928年或いは1924年説もある)生まれで、1947年にはわずか21歳の若さでリヤド知事となり、1953年に農業大臣として入閣している。そして1962年には国防航空大臣(現)に就任し、大臣在任期間は実に45年の長きにわたっている。1982年に第4代国王が亡くなり、長兄のファハドが第5代国王兼首相に即位した時、ファハドは皇太子兼第一副首相にアブダッラー(現国王)を指名したが (同国では皇太子が第一副首相を兼務することが慣例となっている)、同時に実弟スルタンを第二副首相に指名した。これは将来、スルタンの皇太子ポストを確実にするための布石であり、実際2005年のファハド没後スルタンはアブダッラー新国王から皇太子に指名されたのである。
スルタンには6人の女性との間に32人の王子・王女がいるが(「スルタン皇太子家々系図」参照)、その中で最も有名なのは元駐米大使で現在は国家安全委員会(NSC)事務局長のバンダル王子であろう。その他の王子ではバンダルの異母兄弟でハジール妃の長男ハーリド王子が父親スルタンの右腕として国防・航空副大臣を務めており、その実弟トルキ王子が情報省次官である。また彼らの異母兄弟でムニーラ妃の長男ファイサル王子が企画省副大臣、その実弟ファハド王子はタブーク州の知事である。このようにスルタンの息子達はサウジアラビアの中央省庁・地方行政府に深く根を張っている[2]。
バンダルNSC事務局長は1949年生まれである 。彼の母親はアフリカ生まれの奴隷でスルタンの召使であった。そのため彼女は正式の王妃となることができず、単に「ウンマ・バンダル(バンダルの母親)」と呼ばれている。しかし父親スルタンが王族であるため、バンダル王子は正式なサウド家の王族として扱われた。王子は英国のCranwell空軍大学でパイロットの資格をとり、帰国後はサウジ空軍中尉となった。そして彼は当時国王であったファイサルの娘ハイファ王女と結婚した。因みにハイファ王女はサウド外相(現)[3]の実妹であり、従ってサウド外相とバンダル王子は義理の兄弟と言う関係になる。
バンダル王子は1978年以降、外交分野に転進する。当時はサウジアラビアにとって第一次オイル・ブームであり、国防分野でも米英の新鋭戦闘機を含む最新兵器に大量のオイル・マネーが注ぎ込まれた時期であった。ここでバンダル王子のパイロット時代の米英での経験と人脈が大いに活きてきたのである。当時、マクドネル・ダグラス社製最新鋭戦闘機F-15のサウジアラビアへの売却議案が米国議会で審議されていた。サウジアラビアへの売却に反対するイスラエルとそれを後押しするユダヤロビーにより米国議会には議案に反対する空気が強かった。しかしバンダル王子は強力なロビー活動を展開、ついにサウジアラビアへのF15売却を承認させたのである。この功績により彼は1983年に米国大使に任命され、2005年に帰国するまで22年間もの間、駐米大使を勤めたのである。
スルタンーバンダル父子には武器取引にまつわる黒い噂が絶えない。武器取引に闇献金がつきものであることは、田中角栄のロッキード事件を見れば明らかである。従ってF15戦闘機の導入時にも同じことが起ったことはほぼ間違いない。戦闘機の決定権はスルタン国防相或いは病弱のハリド国王に代わって実権を振るっていたファハド皇太子(当時)のスデイリ兄弟であり、商談の最先端にいたのがバンダル駐米大使であった。サウド家専制政治のサウジアラビアでは権力を掌握しているスデイリ・セブンの決定は絶対的である。兵器メーカーから闇献金を受け取ることについて、彼らには「汚職」と言う意識は無く、むしろ当然のことと感じていたのではないだろうか。
それはその後1985年の英国製戦闘機トルネードの商談に際しても変わらなかったようである。バンダル駐米大使はこの商談でも暗躍し、メーカーのBritish Aerospace(現BAE)はサウド家に多額の闇献金を行っていたことが昨年になって判明した 。英国の捜査当局の調査によれば、British Aerospace社は取引成立後、摘発を受けるまでの間に総額10億英ポンド(20億米ドル)もの巨額の金をワシントンのサウジアラビア大使館に送金していた。しかし英国政府は昨年末この贈賄事件に対して強引に幕を引き事件の真相は闇に葬られたままである。
この時の闇献金の一部はバンダル大使(当時)のロビー活動費或いは彼がコロラドに所有する豪華な別荘の購入費用に当てられたようである。そして献金の大半は父親のスルタンの懐に入ったものと考えて間違いない。兵器調達先の決定権を持つ国防大臣は巨大な利権を生むポストである。その意味でスルタンは明治の元勲山県有朋になぞらえることができる。山県有朋は富国強兵の国策を遂行する過程で政商から巨額の賄賂を得たといわれ、彼はその金で目白に豪壮な邸宅(椿山荘)を建てた。しかしそのような黒い噂のある山縣は庶民に全く人気が無く、総理大臣までつとめながら彼の葬儀は参列者が少なく寒々としたものであった、と伝えられている 。
スルタンも山縣同様、サウジ国民には不人気であり、海外での評判も高くない。皇太子時代には地味な印象しかなかったアブダッラーは国王に即位してから国内及び海外での評価が高まり、国民の間でカリスマ的人気すら出ている。これに比べてスルタン皇太子はあくまで「闇将軍」の趣である。長兄ファハド亡き後のスデイリ・セブンのリーダーとしては外部での人気は無関係であろうが、次期国王として国民に人気の無いことは、サウド家全体にとって必ずしも些細な問題とは言えないのではないだろうか。
(続く)
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荒葉一也
Arehakazuya1@gmail.com
(再録注記)
[1] 2011年11月死亡。
[2] スルタンの死後とサルマン現国王即位後にスルタン家の勢力は大幅に下がっている。
「スルタン元皇太子家々系図参照。http://menadabase.maeda1.jp/3-1-5.pdf
[3] 2015年7月死亡。