以前に読んだエッセイに「悲劇と喜劇は紙一重」といったようなことが書かれていた。
悲劇の中に喜劇が、喜劇の中に悲劇が・・・
一例としてチャップリンの映画のワンシーンが紹介されていた。
『男が葬式の参列中に通りの向こうで太ったおばさんが滑って転ぶのを目撃してしまう。
男はおかしくて仕方ないのだが、場所が場所だけに笑うわけにもいかない。
しかし、こらえればこらえるほど笑いが込み上げてくる。
仕方なく葬式の場から離れ、安心して笑える場所、喜劇映画の上映館に入る。
おかしな場面が繰り広げられるスクリーンを見た途端、男は深いかなしみを感じる・・・』
ちょっとうろ覚えだが、こんな内容だったと思う。
それを読んだときは、そんなもんかねぇと思ったわたしだが
先日、まさにそのままの出来事を体験したのだ。
少し前から具合の悪かったウチの犬が、先週息を引き取った。
前の日から急に食べなくなり、夜には立てなくなってしまったので危ないな、と思った。
その晩は玄関の中に入れ、わたしは玄関から一番近い居間に寝た。
30分から一時間おきに辛そうに鳴くので様子を見に行くと
引っくり返ってるわけでもなく、ただ鳴いているだけである。撫でてやると鳴きやむ。
そんなことを夜中まで繰り返したが、4時を過ぎるともう駄目である。
鳴いているのが分かっていても起き上がれない。
「はいはい」と返事をするだけだが鳴き止んだりするからけなげだ。
前に、19歳で死んだ犬のときは悪くなってから長かったので
正直、面倒を見るのがつらいときもあった。
知り合いが病気の犬を「可哀想で見ていられなくて」安楽死させたと言っていたが
本当のところは看病が大変だったのではないだろうか。
わたしが犬を安楽死させないのは、犬が自殺という選択を持たない生き物だからだ。
そして、わたしにとって犬は家族だから
たいがいの親が子供の世話を放棄しないのと同じく、犬の世話をするのは当たり前なのだ。
ただ、家族とはいえウチの親は「犬は犬、人は人」という昔気質である。
前の犬の時は玄関に入れるのは許されなかったので
真冬の夜中、オシッコなどさせに行くのはちょっとつらかった。
今回は玄関に入れてもらえたので全く楽だった。
そして、鳴き通しの翌日、仕事から帰ってくると全く鳴かなくなっていた。
もう鳴く力も残っていなかったのだろう。ただ、深く呼吸をしているように見えた。
そして22時頃に見ると、横たわって目を開いたまま昏睡していた。
わたしはまた、居間に寝た。恐らく夜中のうちに死んでしまうだろう。
死ぬ前に多分、鳴くだろうから近くにいた方がいいと思ったのだ。
3時半くらいに一度、短く鳴いた。見に行くと投げ出した両手両足が上がっている。
体を撫でるとそれが、すーっと下がった。
その後、もう一度鳴いたのだがわたしは起きられなかった。
5時半ごろハッとして見に行くと既に息はなかった。
これまでに何頭かの犬と猫のなきがらを見てきたが、一番きれいな死に姿で
死んでいるのが分かっているのに、寝ているんじゃないかと思えるほどだった。
大概わたしはなきがらを見て泣くのだが、今回は泣かなかった。
はっきりと死期が分かっていたからかも知れない。
いつも、飼い犬や猫を失ったときはもっとしてやれることがあったのではないか、と
悔やまれるのだが、してやれることはあり過ぎてキリがないのだから悔やんでも仕方ない。
さて、犬が死んだとき、以前は庭に埋めたのだが(違法?)さすがに近年は火葬場に行く。
中学生のときからわたしは、葬式なんて意味がないと思っていて
死んだ後は粉になるまで焼いてその辺にまいてくれりゃいいと思っていたが
犬は霊園で焼いて供養してもらうんだからおかしいよね。
だって、保健所に引き取りにきてもらう気にはなれないんだもん。
さて、霊園に着くと男の人が出迎えてくれて、犬をうやうやしく棺に入れてくれる。
「最後のお別れでございます」と言われながら用意された線香に火をつける。
なんだかなぁ、と思っていたらとんでもない間違いをしてしまった。
あの、名前は知らないけどチーンって鳴らすのが用意されてたんだけど
なに考えてんだかわたし、線香立てを叩いてしまった。
お父さんもお母さんも呆れるやら笑うやら。
「それ叩いてどうすんだ」
わたしも大笑いである。
大笑いした途端、ボロボロと涙が出てとまらない。
なんなんだ、一体。
それまで泣きそうにさえならなかったのに。
思うに、感情のスイッチというのは複雑に交差していて
片方が入ったついでにもう片方も入っちゃうんでしょうかね。
不思議な体験ではありました。
それにしても。
長患いもせず下の世話もかけずひどく苦しみもせずきれいに死んで、いい子でした。
悲劇の中に喜劇が、喜劇の中に悲劇が・・・
一例としてチャップリンの映画のワンシーンが紹介されていた。
『男が葬式の参列中に通りの向こうで太ったおばさんが滑って転ぶのを目撃してしまう。
男はおかしくて仕方ないのだが、場所が場所だけに笑うわけにもいかない。
しかし、こらえればこらえるほど笑いが込み上げてくる。
仕方なく葬式の場から離れ、安心して笑える場所、喜劇映画の上映館に入る。
おかしな場面が繰り広げられるスクリーンを見た途端、男は深いかなしみを感じる・・・』
ちょっとうろ覚えだが、こんな内容だったと思う。
それを読んだときは、そんなもんかねぇと思ったわたしだが
先日、まさにそのままの出来事を体験したのだ。
少し前から具合の悪かったウチの犬が、先週息を引き取った。
前の日から急に食べなくなり、夜には立てなくなってしまったので危ないな、と思った。
その晩は玄関の中に入れ、わたしは玄関から一番近い居間に寝た。
30分から一時間おきに辛そうに鳴くので様子を見に行くと
引っくり返ってるわけでもなく、ただ鳴いているだけである。撫でてやると鳴きやむ。
そんなことを夜中まで繰り返したが、4時を過ぎるともう駄目である。
鳴いているのが分かっていても起き上がれない。
「はいはい」と返事をするだけだが鳴き止んだりするからけなげだ。
前に、19歳で死んだ犬のときは悪くなってから長かったので
正直、面倒を見るのがつらいときもあった。
知り合いが病気の犬を「可哀想で見ていられなくて」安楽死させたと言っていたが
本当のところは看病が大変だったのではないだろうか。
わたしが犬を安楽死させないのは、犬が自殺という選択を持たない生き物だからだ。
そして、わたしにとって犬は家族だから
たいがいの親が子供の世話を放棄しないのと同じく、犬の世話をするのは当たり前なのだ。
ただ、家族とはいえウチの親は「犬は犬、人は人」という昔気質である。
前の犬の時は玄関に入れるのは許されなかったので
真冬の夜中、オシッコなどさせに行くのはちょっとつらかった。
今回は玄関に入れてもらえたので全く楽だった。
そして、鳴き通しの翌日、仕事から帰ってくると全く鳴かなくなっていた。
もう鳴く力も残っていなかったのだろう。ただ、深く呼吸をしているように見えた。
そして22時頃に見ると、横たわって目を開いたまま昏睡していた。
わたしはまた、居間に寝た。恐らく夜中のうちに死んでしまうだろう。
死ぬ前に多分、鳴くだろうから近くにいた方がいいと思ったのだ。
3時半くらいに一度、短く鳴いた。見に行くと投げ出した両手両足が上がっている。
体を撫でるとそれが、すーっと下がった。
その後、もう一度鳴いたのだがわたしは起きられなかった。
5時半ごろハッとして見に行くと既に息はなかった。
これまでに何頭かの犬と猫のなきがらを見てきたが、一番きれいな死に姿で
死んでいるのが分かっているのに、寝ているんじゃないかと思えるほどだった。
大概わたしはなきがらを見て泣くのだが、今回は泣かなかった。
はっきりと死期が分かっていたからかも知れない。
いつも、飼い犬や猫を失ったときはもっとしてやれることがあったのではないか、と
悔やまれるのだが、してやれることはあり過ぎてキリがないのだから悔やんでも仕方ない。
さて、犬が死んだとき、以前は庭に埋めたのだが(違法?)さすがに近年は火葬場に行く。
中学生のときからわたしは、葬式なんて意味がないと思っていて
死んだ後は粉になるまで焼いてその辺にまいてくれりゃいいと思っていたが
犬は霊園で焼いて供養してもらうんだからおかしいよね。
だって、保健所に引き取りにきてもらう気にはなれないんだもん。
さて、霊園に着くと男の人が出迎えてくれて、犬をうやうやしく棺に入れてくれる。
「最後のお別れでございます」と言われながら用意された線香に火をつける。
なんだかなぁ、と思っていたらとんでもない間違いをしてしまった。
あの、名前は知らないけどチーンって鳴らすのが用意されてたんだけど
なに考えてんだかわたし、線香立てを叩いてしまった。
お父さんもお母さんも呆れるやら笑うやら。
「それ叩いてどうすんだ」
わたしも大笑いである。
大笑いした途端、ボロボロと涙が出てとまらない。
なんなんだ、一体。
それまで泣きそうにさえならなかったのに。
思うに、感情のスイッチというのは複雑に交差していて
片方が入ったついでにもう片方も入っちゃうんでしょうかね。
不思議な体験ではありました。
それにしても。
長患いもせず下の世話もかけずひどく苦しみもせずきれいに死んで、いい子でした。