まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

書くということ

2004年08月23日 20時08分00秒 | 日々雑感
とある文芸誌で癌で余命いくばくもない人が

自分のこれまでのことなどを書き綴っているという話が掲載されていた。

その人はこれまで身体を動かす仕事をしていたので書くということが

日常的にそばにあったわけではないらしい。

しかし今、書くということがまるで天職ででもあったかのように彼を支えているという。

以前読んだ随筆の中で開高健が「本当の絶望者は何も言わないし書かない。

彼の言っていることや書いていることがどんなに絶望的な内容でも

書いている限り彼は希望を捨てていない」

というようなことを書いていて、確かにそれはなるほどと思うのだ。

わたしも本当に絶望的な気分のときは何も書かない。

(わたしの絶望なんてたかがしれてるけど)

書かないというより書けない。

いや、やっぱり書かないのかな。

書いても仕方ないって思う。

そして満たされて幸せなときにも書かない。

幸せなときに書くべきことなんて何ひとつない。

誰かに「わたしはこんな風に幸せなんです」と知らせたくもない。

わたしが書くのは漠然と不安を抱えながらさりとて最悪というわけでもなく

中途半端にいらいらしているようなとき。

またはどうしていいかわからないことがあるけれど、その答えは本当は自分はわかっていて

しかし決断することも出来なくてそんな自分に呆れているときとか。

ひどく不幸でもひどく幸せでもないときに書いている。

死を近く感じながら書く彼も絶望はしていないのだ、きっと。

これは個人差のあることだろうな。

自暴自棄になりもちろん書くなんてことできない人もいるだろうし。

わたしはどうなんだろう。

もしも余命半年と言われたら。

この日記をつけ続けることはできるんだろうか。

生きているということは、いつか死ぬという宣告を受けていることではあるんだけど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

避けられないこと

2004年08月22日 22時00分00秒 | 日々雑感
夏の初めの頃、各地の海開きや川遊びなどをテレビで見ていて母と

今年も水の事故で亡くなる人がいるんだろうね、という話をした。

もう今の時点ではその人は死ぬって決まってるんだよね。

でもその人はこの夏遊びに行った先で自分が死ぬなんて今は知りもせず

学校に行ったり仕事をしたり家族や恋人と楽しい時間を過ごしているんだよね。

事故に遭う日、まさか死ぬなんて思わず出かけてゆくんだよね。

それはもう運命なんだよね。

そんなことを話した。

そう思うと今生きているのは幸運なことなのだろう。

明日のことは誰にも分からない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へそ出して気疲れ

2004年08月21日 21時42分00秒 | 日々雑感
ピーコのファッションチェックという番組の中では

街ゆく素人の服装をあれこれ評価するのだが

ほめられる人はほとんどいない。

というよりもわざとこれはどうかなと言いたくなるような人を選んでるとしか思えないほど

普通は目にしないファッションを見つけてくる。

それとも東京にはああいう人がいっぱい歩いているの?

ピーコは若作りの人が嫌いで「いくらスタイルが良くても若い子と同じ格好しちゃダメ」

というようなことを言う。

確かにそれはある。

最近の30代、40代はスタイルがいいので娘と服を共有したり

娘と同じさらさらシャギーだったりする。

わたしのファッションに関しての考えは不潔ではないことが基本で

あとは誰が何を着ようと好きな服を着るのなら他人がとやかく言うことではないと思っている。

しかしやっぱりピーコの言うように年代によって似合わない服があるのも事実だ。

スタイルはよくても自分では見えない部分が若い子よりたるんでいたりする。

自分に見えない部分に限って人からはよく見えるのよね。

年を重ねたら、どんなにスタイルがよくても徐々に露出部分を減らしていったほうが素敵かもね。

長いスカートからちらっと見えるくるぶしに色気を感じてもらえるのが理想。

今、また上の浅いジーンズをはいている人が多いが

あれはちょっとかがむと背中が丸見えになる。

ヒップハングの下着をつけているから下着は見えないかもしれないけど

上から見るとお尻まで見えそうである。

いくら若い子でもあれはおかしいと思うけど

気づいてないのか平気なのかあまり気にしていないようである。

わたしは寒がりでたいがい腰にシャツやカーディガンを巻いているので

背中丸見えはないのだが、たまに巻かないときには

かがむときにいちいちTシャツを引っ張ったりしてる。

そんなわたしがなにをとち狂ったか今日、丈の短い、へそすれすれのTシャツを着てみた。

ずいぶん前に買った物が服の整理中に見つかり

夏も終わりのことなので着ておこうかという気になったのだ。

これで近所のスーパーに行ったのだが。

まず自転車に乗って日傘をさした時点で一瞬へそ丸見え。

降りて鍵を抜こうと身をかがめればわき腹丸見え。

そして中に入ったらへそを中心に寒い。

帰ってきてしみじみ思った。

わたしへそ出しに向いてない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見知らぬ人の・・・

2004年08月20日 23時21分00秒 | 日々雑感
パソコンを使うようになり、インターネットを利用し始めて

3年近くになるのだろうか。

思ったより夢中にならないな、というのが感想だ。

そして実生活で友達の出来にくい人間は

インターネット上でも出来にくいということも正直な感想。

もちろん例外はあるだろう。

実生活では内向的で人と話すのは苦手だが、インターネットでは饒舌になり

多くの人と仲良くなれるとか。

インターネットは素晴らしい可能性や利便性を持っている。

以前だったら決して知り合うことのなかった特殊な趣味を持つ同士が

瞬時に日本どころか世界中に同好の士を見つけることが出来るし

専門店や都市でしか買えなかったものがどんな片田舎でも手に入るし。

そしてインターネット以前には考えられなかったほどの大量の情報を得ることが出来る。

しかしその情報のすべてが有効であるわけもなく、その選別は結局自分の責任で行うのだ。

わたしはインターネットで知り合った人とは出来れば直に会ってみたいと思う。

そうでなければわたしにとってその人はいつまでも(仮)知人でしかないから。

見知らぬ人が口汚く争う掲示板が嫌いなのは

そこがわたしに知らない人たちの悪意を見せ付ける場所だからだ。

実生活の知り合いの中にも口の悪い人や辛辣な人はいる。

しかしわたしはその人たちの優しさや、とぼけたところも知っている。

いろいろな面を見ているからきつい言葉も受け容れられる。

インターネット上のすべての人ときちんと知り合うことは不可能なんだけど

それでも出来るだけ互いの悪意だけを見ずにインターネットで人と関わりたいのだ。

※写真を更新しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の都々逸

2004年08月20日 21時12分00秒 | 57577または575
「迷子の子猫になれるものならなってにゃんにゃん泣いてみる」

しかしすでに猫又になるほうが早そうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする