ざんすね、そー言えば(笑)
待機当番日なので、おおっぴらに酒飲めないのがツライ(?)とこですが、白酒くらいならいいかなぁ?
で、ひな祭りとは全く関係ありませんが、ラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」見てきました。
『メランコリア』予告編
うーん、風邪中というのはありましたが、かなり正視が大変な映画でした。
いや、残酷な場面があるとかというのではなくて、かなり絵画的で美しい図が多いのですが、手持ちでビミョーに揺れるシーンが多くて気持ち悪くなりました・・・
でも、内容的には面白い・・・と言ってもいいかどうか。
日常では無視するというか、見て見ぬふりをしている方が安心的なことを正面から取り上げているような感じの映画です。
根性があったら、映画ブログの方にもうちょい詳しく感想を載せたいと思いますが。
で、今日は、イスラムについての講座を3時間ほど聞いてきました。
しかし、今までなーんとなく一般常識的に知ってる気になっていた事がいかに間違っていたか、偏っていたのか?を知った3時間でありました(苦笑)
そもそも、イスラム教というのは正しくない。
イスラムという事が、イスラムという宗教を示しているのだから、仏教で言ったら仏教教と言ってるようなもんである、という事。
また、ユダヤ教とキリスト教とイスラムは、実は兄弟みたいな関係であり、信じる神は同一なのである、という事。
イスラムは「アラーの神」を信じてる、っというこのアラーっていうのは固有名詞じゃなくて、「唯一の」という意味で、キリスト教で言うところの「父と子と精霊の御名において・・・」のその「父」と同じ神なのだねぇ。
その神は、人間に対して、たびたび自分の考えを伝えようと、選んだ人間を介して人類にいろいろ教えを広めようとしてきた。
その数名のうちの一人がモーゼであり、キリストであり、で、最後の6人目がムハンマドであった、で、そのムハンマドの伝える教義を守るのがイスラーム。
だから、イスラムにおいてはキリストも予言者の一人である、言ってみれば聖人の一人である、という事らしい。
でも、キリストへの予言、また彼の働きが不完全だったので、それでは不満を感じた神が最後に託した予言者がムハンマド、という事で。
そーなると、キリスト教は不完全な状態での宗教で、イスラームの方がより完全に近い、洗練された、っていう意味にも取れる・・・ので、もしかしてイスラム教徒の対キリスト教感よりも、キリスト教徒の対イスラーム感の方が、よりネガティブになっている傾向にあるという事かも。
アメリカ兵がコーラン焼いただの、トイレの近くに捨てただのってニュースになるけど、反対の聖書を焼いたとかっていうニュースはあんまり聞かないなぁ、確かに。
流さないだけかもしれないけど。
また、私の先入観というか常識的レベルでのイスラームの知識がかなり間違っているというところ、よく、「お互いを知らない事から誤解が生じる、理解しあえない」っていうのはよく聞くし、納得できるけど、実は「知ってると思っているその事柄が、かなり操作された一方的な内容からの視点であって、それが理解を阻む」という見解があるという事実も確かに・・・と思いました。
相違点、特異点だけを大げさに取り上げて、それで「全く違う、理解しあえないだろう」という意識を植え付けられてしまう、これもありなんだな~とひしひしと思いました。
今の、日本の一般報道におけるロシアの取り上げ方とかもまさしくこーいう感じだし。
で、関係ないけど、今日の地元新聞の読者からの投稿意見欄に、90歳代の人からの投稿で、「戦争(第二次世界大戦)を体験した世代が鬼籍に入り、戦争の悲惨さを語る人がいなくなってきた。・・・今の若い人達はあまり意思をはっきりさせないし「戦争はダメ、イヤ」というだろうとは思うが、もし東条やヒトラーとかの独裁者が出てきて戦争に誘導された場合、果たして拒否できるだろうか?」というような内容。
まぁ、一理あるけど、私はかえってその反対の見方です。
昔のその当時のこの投稿者のような若者がこぞって「戦争賛成」に走った結果が、戦争参加につながったのであり、「No」を言わない、言わせない、言ったものを迫害していく、という風潮があったからこそ、戦争につながったのかと。
今のような、意見をはっきり言わない、というか自分の意見を持ってないように見えるかもしれないけど、それはそれだけ客観性を持ち、多様性の視点を秘めているから、断言しない、一面的に決め付けない、という事とも取れると思うのだ。
一方的に急に人気が出たり、強い存在に対して、ほとんどかならず「アンチ」という強い勢力も出現してくるのも、これに関係していると思うのです。
昔のように、自分および自分の周辺=白、相手および相手の周辺=黒、という存在がぶつかってトラブルになりつつあった場合、自分の白を相手にぶつけて全部白に染めて解決する、じゃなくて、今は話し合いとか相互理解で、白でも黒でもなく灰色にして妥協するの方がよいのではないかな?と思うのだ。
その灰色の中で、いかに「白に出来るだけ近い灰色」に近づけるか?の方に力点を置くべきであって。
とかと、今日もニュースに出てた「北方領土」に対するプーチン首相の見解の記事を見ていて思いました。
待機当番日なので、おおっぴらに酒飲めないのがツライ(?)とこですが、白酒くらいならいいかなぁ?
で、ひな祭りとは全く関係ありませんが、ラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」見てきました。
『メランコリア』予告編
うーん、風邪中というのはありましたが、かなり正視が大変な映画でした。
いや、残酷な場面があるとかというのではなくて、かなり絵画的で美しい図が多いのですが、手持ちでビミョーに揺れるシーンが多くて気持ち悪くなりました・・・
でも、内容的には面白い・・・と言ってもいいかどうか。
日常では無視するというか、見て見ぬふりをしている方が安心的なことを正面から取り上げているような感じの映画です。
根性があったら、映画ブログの方にもうちょい詳しく感想を載せたいと思いますが。
で、今日は、イスラムについての講座を3時間ほど聞いてきました。
しかし、今までなーんとなく一般常識的に知ってる気になっていた事がいかに間違っていたか、偏っていたのか?を知った3時間でありました(苦笑)
そもそも、イスラム教というのは正しくない。
イスラムという事が、イスラムという宗教を示しているのだから、仏教で言ったら仏教教と言ってるようなもんである、という事。
また、ユダヤ教とキリスト教とイスラムは、実は兄弟みたいな関係であり、信じる神は同一なのである、という事。
イスラムは「アラーの神」を信じてる、っというこのアラーっていうのは固有名詞じゃなくて、「唯一の」という意味で、キリスト教で言うところの「父と子と精霊の御名において・・・」のその「父」と同じ神なのだねぇ。
その神は、人間に対して、たびたび自分の考えを伝えようと、選んだ人間を介して人類にいろいろ教えを広めようとしてきた。
その数名のうちの一人がモーゼであり、キリストであり、で、最後の6人目がムハンマドであった、で、そのムハンマドの伝える教義を守るのがイスラーム。
だから、イスラムにおいてはキリストも予言者の一人である、言ってみれば聖人の一人である、という事らしい。
でも、キリストへの予言、また彼の働きが不完全だったので、それでは不満を感じた神が最後に託した予言者がムハンマド、という事で。
そーなると、キリスト教は不完全な状態での宗教で、イスラームの方がより完全に近い、洗練された、っていう意味にも取れる・・・ので、もしかしてイスラム教徒の対キリスト教感よりも、キリスト教徒の対イスラーム感の方が、よりネガティブになっている傾向にあるという事かも。
アメリカ兵がコーラン焼いただの、トイレの近くに捨てただのってニュースになるけど、反対の聖書を焼いたとかっていうニュースはあんまり聞かないなぁ、確かに。
流さないだけかもしれないけど。
また、私の先入観というか常識的レベルでのイスラームの知識がかなり間違っているというところ、よく、「お互いを知らない事から誤解が生じる、理解しあえない」っていうのはよく聞くし、納得できるけど、実は「知ってると思っているその事柄が、かなり操作された一方的な内容からの視点であって、それが理解を阻む」という見解があるという事実も確かに・・・と思いました。
相違点、特異点だけを大げさに取り上げて、それで「全く違う、理解しあえないだろう」という意識を植え付けられてしまう、これもありなんだな~とひしひしと思いました。
今の、日本の一般報道におけるロシアの取り上げ方とかもまさしくこーいう感じだし。
で、関係ないけど、今日の地元新聞の読者からの投稿意見欄に、90歳代の人からの投稿で、「戦争(第二次世界大戦)を体験した世代が鬼籍に入り、戦争の悲惨さを語る人がいなくなってきた。・・・今の若い人達はあまり意思をはっきりさせないし「戦争はダメ、イヤ」というだろうとは思うが、もし東条やヒトラーとかの独裁者が出てきて戦争に誘導された場合、果たして拒否できるだろうか?」というような内容。
まぁ、一理あるけど、私はかえってその反対の見方です。
昔のその当時のこの投稿者のような若者がこぞって「戦争賛成」に走った結果が、戦争参加につながったのであり、「No」を言わない、言わせない、言ったものを迫害していく、という風潮があったからこそ、戦争につながったのかと。
今のような、意見をはっきり言わない、というか自分の意見を持ってないように見えるかもしれないけど、それはそれだけ客観性を持ち、多様性の視点を秘めているから、断言しない、一面的に決め付けない、という事とも取れると思うのだ。
一方的に急に人気が出たり、強い存在に対して、ほとんどかならず「アンチ」という強い勢力も出現してくるのも、これに関係していると思うのです。
昔のように、自分および自分の周辺=白、相手および相手の周辺=黒、という存在がぶつかってトラブルになりつつあった場合、自分の白を相手にぶつけて全部白に染めて解決する、じゃなくて、今は話し合いとか相互理解で、白でも黒でもなく灰色にして妥協するの方がよいのではないかな?と思うのだ。
その灰色の中で、いかに「白に出来るだけ近い灰色」に近づけるか?の方に力点を置くべきであって。
とかと、今日もニュースに出てた「北方領土」に対するプーチン首相の見解の記事を見ていて思いました。