寒いですね~、と言っても静岡では「たかが知れてる」状況ですが、それでも寒いは寒い。
っていうのに、昨晩はうちの猫のおめが君がいつの間にやら脱走していて、外泊してました。
朝、玄関前で待ってました(爆)
猫って言えば、猫ボランティアやってる場所で子猫を発見して、その後数日は見かけなかったのだが、その後、また見ました!!
今度はしっかりチェックしましたが、灰色の縞模様の子で、まだ母親といっしょにいます。
しま男君か、しま子ちゃんですな(爆)
母親も灰色縞模様でした(鳴き方が違うので、子持ちの猫だとわかるんだな~)
うーむ、もうちょっと独立してからの方が捕まえやすいか。
で、寒いんだけど、時々夜にジョギングはしています。
ほーんと、だんだんと楽になってくるというか、30分いつも同じ時間を走ってるんだけど、確実に走れる距離は伸びてます。
今、最新で4、85kmです。
最初は、4Kmちょいだったから、進歩してますよね、微々状態ですが。
しかも、走り終わった後の疲れ感は変わらない、というか走ってる最中はかえって体が軽くなってきてます、あ、体重は変わってないですが、あんまり^_^;
うーむ、マラソンやってる人の「面白さ」「楽しさ」ってこーいうこともあるんだろうなぁ、これならやりたくなる気持ちもわかるなぁ、と感じる今日この頃です。
私が高校生の時代、体育の授業でやはり長距離走があって、それは20分間で5Km走るという、通称「20分完走」で、結構名物(?)です。
20分で走り終われないと、追試みたいに余計に走らされたような気がする・・・が、私はいつも大体ギリギリ時間でクリアーしてたので追試はやらんかった。
しーかし、これ、大変でしたよ、終わると、ゼイゼイ青息吐息、っていう感じで非常~にシンドイ。
ほんとに、「苦行」っていう感じでございました。
こーいうのをやってたから、卒業して大人になった後でも、
「マラソン?長距離走?いやいや、金を払ってもやりたくないねっ!!」と、憎んで(?)いたんだけど、実際にやってみると・・・
実は、案外つらくも大変でもなくて、結構楽しいことが判明したわけです。
授業だと、どうしても「楽しむ」よりも「結果」しかも、「よい結果」しか望まれないわけだから、時間制限とか無理してやる、苦しむ、みたいな方向になって、その結果=嫌い、になってしまうんだろうなぁ。
今、健康増進とか疾病予防のために、成人の運動が薦められてるけど、もし高校時代の体育とかで、こういった「無理」で大変イヤじゃないという方向で、運動(まぁなんでもいいんだけど)を好きにする方向で進めていってくれていたのならば、もっと自然に自ら運動をしたくなる社会人、大人も増えていってたんだろうに・・・、と思わずにはいられません。
体育だけじゃくて、勉強でもそうでしょうがねぇ。
教える側が、知識を暗記、みたいな感じじゃなくて、「学ぶ楽しさ」を伝えられたなら、そしたら学ぶ方は強制されずとも、勝手に自分でズンズン勉強していくんだろうなぁ、とは思うけど・・・
でも、子供にそれを伝えるのって難しいし、そうなるとどうしても「好き嫌い」で選り好みが出てしまうから、「平均的」「バランスの取れた」お勉強・学習能力を望む、としては難しいのかもねぇ~。
ま、他者に無い物ねだりで望むよりも、自分が大人になってからでもその先入観を払拭し、新たに再発見して実践すればいいのではありますがね~。
で、最近読んだ本です。
12月25日の怪物
12月25日の怪物=いわゆるサンタクロース、のことなんですが。
サンタ伝説を追う、みたいな感じですが、これがかなり面白い。
サンタのモデルとなった聖人が、実はトルコにいたそうでして。
お隣の家の父親が、貧乏で娘を売りに出そうとしていた時、こっそり真夜中にその家に金塊を投げ込んで娘を救った、という行いをした聖人がいまして、それが「贈り物をしてくれる」という伝説となった。
でも、モデルの聖人は聖人らしく痩身でツルツル頭であったそうな(笑)
その伝説がキリスト教に入り込み、布教や交易等で国を越え、海を越え広まっていく。
で、カソリックでは特に問題なかったそうなんだけど、プロテスタントって反カソリックから始まったのもあり、父なる神・子なるキリスト・精霊、聖書主義みたいな感じで、聖人とか偶像的(特に神以外)は認めないので、実は最初プロテスタントではサンタは排除方向であった、けど、やはり「よい子にプレゼント」が魅力的であり、なかなか根絶は不可能であった。
で、打開策として、実在した聖人のサンタではなく、サンタは精霊の仲間である、という方向に進み、当時精霊=エルフは北欧からやってくる、という感じだっあたりから、サンタはフィンランドからやってくる、になっていったらしい。。。
さらに、そのあたりの時節って、新年が近く、また新春の儀式がキリスト教だけじゃなくていろんな各地の風習で元々あったところから、そのお祝いとサンタが結びついてくる、新しい年に祝福をもたらす存在ともなり、さらに各地の元々の習慣行事と組み合
わさり、広められていく。
さらに、よい子にはプレゼントの裏には「悪い子には罰」というのも当然あり、昔は悪い子は鞭でたたかれる、という言い伝えもあるそうでして。
その「悪い役」にあたる例が、日本の「なまはげ」とかであり、西洋世界でも、悪い精霊が出てきて人々を鞭(枝とか)でたたくという風習もあり、これもサンタの裏バージョンとも取れる、
で、現代近くになると、その風習が商業主義と絡みあい、現代のメタボサンタのデザインが登場し(元はコカコーラのデザインから出てるそうだ)「よい子にはプレゼントを」が強調されるようになる、というような流れというか。
と、簡単に書けるモノでもないですが、こーいうのを裏付けるために世界各国を回って実証をしてきた、という本です。
ネットで参考資料を集めて、っていうんじゃなくて自らの足で現地にいって調べ、話を直接に聞き、祭りに参加し、という、まさにフィールドワークの本でございました。
サンタっていうと「いるか、いないか?」というのを子供がいつ知るか?どうやって知るのか?っていうことで、これは一種の通過儀礼であるようでいながら、昨今はなんか親側の方がドリーム大きすぎて、サンタの存在を子供に疑わせたくない、と思わせたい気が行き過ぎているような気がしないでもないが、まぁそれは各々の家庭の主義というか価値判断だから他からどうのこうの、っていうレベルでもないですがねぇ。
しかし、簡単にある、なしで語れるほどサンタっていう存在は簡単でもないのだ、ということをこの本を読んで感じました。
神はあるか?ないか?を語るのと同じようなレベルっていうか。
あなたがそう思うなら、神はいるし、サンタもいる、っていうことが無難でしょうかねぇ?(苦笑)
思い出してみると、私自身はサンタの正体を知った(というか感づいたのは)小学校低学年あたりだったと思うなぁ。
結構本とかは読んでたので、「架空」と「現実」との区別をしっかりわかっていた、というか。
大人が言うサンタの話を、「それがリアルなノンフィクションの物語である」って思うのには無理がある、っていうのを結構早く感じたからなぁ。
でも、子供を育てる側としては、「よい子にはサンタさんがプレゼントを・・・」っていうのは、実に使いやすい、巧い手だと思います(爆)
犬や猫に通じないのは残念でございますが(爆)
っていうのに、昨晩はうちの猫のおめが君がいつの間にやら脱走していて、外泊してました。
朝、玄関前で待ってました(爆)
猫って言えば、猫ボランティアやってる場所で子猫を発見して、その後数日は見かけなかったのだが、その後、また見ました!!
今度はしっかりチェックしましたが、灰色の縞模様の子で、まだ母親といっしょにいます。
しま男君か、しま子ちゃんですな(爆)
母親も灰色縞模様でした(鳴き方が違うので、子持ちの猫だとわかるんだな~)
うーむ、もうちょっと独立してからの方が捕まえやすいか。
で、寒いんだけど、時々夜にジョギングはしています。
ほーんと、だんだんと楽になってくるというか、30分いつも同じ時間を走ってるんだけど、確実に走れる距離は伸びてます。
今、最新で4、85kmです。
最初は、4Kmちょいだったから、進歩してますよね、微々状態ですが。
しかも、走り終わった後の疲れ感は変わらない、というか走ってる最中はかえって体が軽くなってきてます、あ、体重は変わってないですが、あんまり^_^;
うーむ、マラソンやってる人の「面白さ」「楽しさ」ってこーいうこともあるんだろうなぁ、これならやりたくなる気持ちもわかるなぁ、と感じる今日この頃です。
私が高校生の時代、体育の授業でやはり長距離走があって、それは20分間で5Km走るという、通称「20分完走」で、結構名物(?)です。
20分で走り終われないと、追試みたいに余計に走らされたような気がする・・・が、私はいつも大体ギリギリ時間でクリアーしてたので追試はやらんかった。
しーかし、これ、大変でしたよ、終わると、ゼイゼイ青息吐息、っていう感じで非常~にシンドイ。
ほんとに、「苦行」っていう感じでございました。
こーいうのをやってたから、卒業して大人になった後でも、
「マラソン?長距離走?いやいや、金を払ってもやりたくないねっ!!」と、憎んで(?)いたんだけど、実際にやってみると・・・
実は、案外つらくも大変でもなくて、結構楽しいことが判明したわけです。
授業だと、どうしても「楽しむ」よりも「結果」しかも、「よい結果」しか望まれないわけだから、時間制限とか無理してやる、苦しむ、みたいな方向になって、その結果=嫌い、になってしまうんだろうなぁ。
今、健康増進とか疾病予防のために、成人の運動が薦められてるけど、もし高校時代の体育とかで、こういった「無理」で大変イヤじゃないという方向で、運動(まぁなんでもいいんだけど)を好きにする方向で進めていってくれていたのならば、もっと自然に自ら運動をしたくなる社会人、大人も増えていってたんだろうに・・・、と思わずにはいられません。
体育だけじゃくて、勉強でもそうでしょうがねぇ。
教える側が、知識を暗記、みたいな感じじゃなくて、「学ぶ楽しさ」を伝えられたなら、そしたら学ぶ方は強制されずとも、勝手に自分でズンズン勉強していくんだろうなぁ、とは思うけど・・・
でも、子供にそれを伝えるのって難しいし、そうなるとどうしても「好き嫌い」で選り好みが出てしまうから、「平均的」「バランスの取れた」お勉強・学習能力を望む、としては難しいのかもねぇ~。
ま、他者に無い物ねだりで望むよりも、自分が大人になってからでもその先入観を払拭し、新たに再発見して実践すればいいのではありますがね~。
で、最近読んだ本です。
12月25日の怪物
12月25日の怪物=いわゆるサンタクロース、のことなんですが。
サンタ伝説を追う、みたいな感じですが、これがかなり面白い。
サンタのモデルとなった聖人が、実はトルコにいたそうでして。
お隣の家の父親が、貧乏で娘を売りに出そうとしていた時、こっそり真夜中にその家に金塊を投げ込んで娘を救った、という行いをした聖人がいまして、それが「贈り物をしてくれる」という伝説となった。
でも、モデルの聖人は聖人らしく痩身でツルツル頭であったそうな(笑)
その伝説がキリスト教に入り込み、布教や交易等で国を越え、海を越え広まっていく。
で、カソリックでは特に問題なかったそうなんだけど、プロテスタントって反カソリックから始まったのもあり、父なる神・子なるキリスト・精霊、聖書主義みたいな感じで、聖人とか偶像的(特に神以外)は認めないので、実は最初プロテスタントではサンタは排除方向であった、けど、やはり「よい子にプレゼント」が魅力的であり、なかなか根絶は不可能であった。
で、打開策として、実在した聖人のサンタではなく、サンタは精霊の仲間である、という方向に進み、当時精霊=エルフは北欧からやってくる、という感じだっあたりから、サンタはフィンランドからやってくる、になっていったらしい。。。
さらに、そのあたりの時節って、新年が近く、また新春の儀式がキリスト教だけじゃなくていろんな各地の風習で元々あったところから、そのお祝いとサンタが結びついてくる、新しい年に祝福をもたらす存在ともなり、さらに各地の元々の習慣行事と組み合
わさり、広められていく。
さらに、よい子にはプレゼントの裏には「悪い子には罰」というのも当然あり、昔は悪い子は鞭でたたかれる、という言い伝えもあるそうでして。
その「悪い役」にあたる例が、日本の「なまはげ」とかであり、西洋世界でも、悪い精霊が出てきて人々を鞭(枝とか)でたたくという風習もあり、これもサンタの裏バージョンとも取れる、
で、現代近くになると、その風習が商業主義と絡みあい、現代のメタボサンタのデザインが登場し(元はコカコーラのデザインから出てるそうだ)「よい子にはプレゼントを」が強調されるようになる、というような流れというか。
と、簡単に書けるモノでもないですが、こーいうのを裏付けるために世界各国を回って実証をしてきた、という本です。
ネットで参考資料を集めて、っていうんじゃなくて自らの足で現地にいって調べ、話を直接に聞き、祭りに参加し、という、まさにフィールドワークの本でございました。
サンタっていうと「いるか、いないか?」というのを子供がいつ知るか?どうやって知るのか?っていうことで、これは一種の通過儀礼であるようでいながら、昨今はなんか親側の方がドリーム大きすぎて、サンタの存在を子供に疑わせたくない、と思わせたい気が行き過ぎているような気がしないでもないが、まぁそれは各々の家庭の主義というか価値判断だから他からどうのこうの、っていうレベルでもないですがねぇ。
しかし、簡単にある、なしで語れるほどサンタっていう存在は簡単でもないのだ、ということをこの本を読んで感じました。
神はあるか?ないか?を語るのと同じようなレベルっていうか。
あなたがそう思うなら、神はいるし、サンタもいる、っていうことが無難でしょうかねぇ?(苦笑)
思い出してみると、私自身はサンタの正体を知った(というか感づいたのは)小学校低学年あたりだったと思うなぁ。
結構本とかは読んでたので、「架空」と「現実」との区別をしっかりわかっていた、というか。
大人が言うサンタの話を、「それがリアルなノンフィクションの物語である」って思うのには無理がある、っていうのを結構早く感じたからなぁ。
でも、子供を育てる側としては、「よい子にはサンタさんがプレゼントを・・・」っていうのは、実に使いやすい、巧い手だと思います(爆)
犬や猫に通じないのは残念でございますが(爆)