来てますねー、とは言っても静岡は雪降らんし風が強くて冷たいくらい。
今朝、ホッカイロ出したんだけど結局あったかくならなくて上着のポケットに入れたままになってたら、帰宅時にはポカポカになってました。
で、今日駅を通りかかったら、
元・谷津の甘栗売ってたあたりのお店に甘栗が売ってましたー!
でも、谷津ではなくて別の会社でありました。
まあ、静岡の会社だが。
もしかして、天津甘栗のパッケージってみんな同じだったりするのか??
お店独自オリジナル、じゃなくて天津甘栗用パッケージとして業務用としてあるのかなー?
この赤い紙袋が私的には=天津甘栗、なんだがそうでない地域もきっとあるのであろう。
で、袋開けるとやめられない止まらない、で一気に食べちゃうとこはお約束。
あと、水道橋博士がツイート再開しました。
お詫びとリハビリも兼ねて、とですが、とりあえず『いいね』だけ押しました。
コメするのも、批判は論外だが例え応援でも負担かなー、って思ってポチっといいね、だけで。
今、軽度鬱をずっと患ってる人の本を読んでるんだが、周りの人としては何かしてあげたい助けてあげたい、って思うけど、何か出来る事はあるけどできない事もあるんだ、って知るのも大切、ってありました。
鬱の人と対してマイナスのエネルギーを受ける事はしんどいから、あくまで自分は自分として出来ない事はできないと開き直る、って感じで。
話を聞いてあげるだけで良い、って鬱に限らずよく言われますよね?
私は昔はそれに懐疑的だった。
話すからには向こうはそれに対する解決策や自分とは違う他人の意見を聞いて打開の一策にしたい、だから話すんじゃないか?って。
だから、私は私の意見を言う、ってスタンツだったが、最近はそうばかりじゃないなーって思ったり。
もちろん、議論したい話を重ねたい人やそのような時は思う存分意見を言い合う必要がある、けど別に他人の意見を聞きたいから、ではなく自分の気持ちを吐き出したいから話す、ってケースもあるんだなあ、って。
話す事、は対象者がいるからその人に伝わるように自分なりに自分の感情や意見を言語化する必要があり、その過程で客観的視点が一枚加わり、それで自分が自分を理解してまとめる一手法にもなる、だもんで聞き手は話し手がまとめやすいように相槌したり、合いの手入れたり、つまり○○って思ったのかな?みたいにまとめる手助けをしたり。
ホントにただ聞いてるだけで直接的な解決策を提案できなくても、なんか助けになったんだなーって感じたケースが最近あったので。
鬱は心の風邪、って例えられるけど、風邪って言うより肺炎だそうだ。
なかなか治るのには時間がかかるし、ダメージも大きいし再発する事もある。
でも、共に生きていく事はできる、と経験者らしい重みのある言葉でありました。