УРАЧКА!!

雑文・駄文なお気楽日記です。よろしゅーに。

西の登呂、とは?

2025-01-26 19:32:45 | 土偶・縄文・考古学
今日は午前中に地震がありました、震度2。
大体、静岡の地震って駿河湾で起こる事多いけど、今回は陸地、というか南アルプス山中です。
短時間で終わったが、嫌だねー地震って。

で、本日は登呂遺跡に行きました。
昨日から新しい特別展が始まりまして、『西の登呂、静岡に初上陸』


西の登呂、って言われても全然ピンと来ませんが、それは大分県国東市にある安国寺集落遺跡という弥生時代の遺跡の事だそうな。
と、言われてもやはり全くピンと来ませんが、



このあたり、らしい。くにさき、って読むそうな。
ここに弥生時代の集落跡があり、それが『西の登呂』という二つ名を持ってるそうなー。
今だと、弥生時代の遺跡って言えば佐賀の吉野ヶ里遺跡、ってイメージだが、以前は静岡の登呂遺跡!だったんだよね。
終戦間際に発見されて、終戦後から本格的に発掘調査が始められ、日本の考古学史の新たなる幕開け!とされたのが登呂遺跡、その2.3年後にこの安国寺集落遺跡が発見!
これは西日本地域における『登呂遺跡』並の発見である!って位置づけ、らしい。
なんとなくサウナーの東の聖地=静岡のしきじ、西の聖地=熊本の湯ラックス、と似てる??

まあ、それはさておき、同じ弥生時代の遺跡でも、


復元された住居予想がこんな感じなんですよ!


登呂遺跡模型と比べてみるとわかりやすいが、地面に穴を掘る竪穴式、ではなく柱を立てて、その上に住居がある高床式。
登呂だと食糧保存倉庫だけ高床式だが、安国寺のは全部高床式。
これは周辺環境、安国寺はすぐ近くに川があり、日常的に氾濫が起こりやすい地域だったから最初から高床式らしい。
後、登呂のと比べるとかなり藁度が高くてモサモサ。
なんとなく、NHKのダーウィンが来た、に出てくるヒゲじい、を思い出す・・
この実物の復元作る時、全部人力で、なるべく当時に近い道具使って作ってたのが印象的でした。


↑参考画像

で、登呂遺跡では針葉樹の杉の木が使われているケースが多く、杉は柔らかくて加工しやすい、が安国寺の場合は広葉樹のカシとかヒノキとか硬めな木で加工が大変。
だから、


家の足の部分の木は、一本柱ではなくあえて枝分かれしてる部分を使い、その分かれ目Y字部分に床部分の木材を置く事で、安定と丈夫さを狙ったらしい。





土器に関しても、安国寺の方がやや薄めで、口部分の縁も繊細で洗練されてる感じだが、赤色つけたりは登呂のと共通してる。


木製品とか石器系はあまり変わらんねー、農作業グッズ的なのはこの時代にすでに完成形なのかもしれない。


こちらでも黒曜石使ってたそうだが、白〜灰色っぽい黒曜石で、瀬戸内海の姫島ってとこから取ってきたらしい。

VR画面で見られるが、なんか酔いそう・・


で、やはり朝鮮半島や大陸から近いせいか、変わったのもあり、これなんかモロにマグカップだが、木をくり抜いて作られたらしい。

こちらは魚型土器の頭部分では?と、考えられているらしい。

同じ弥生時代、縄文時代に比べ期間は短くとも、その暮らす環境に応じて、進化として自らの遺伝子変えて適応するのではなく、道具と工夫で適応していく、が人類の強みだったんだなあ、と改めて感じたりしました。

お隣の芹澤けいすけ博物館では、丁度彼のコレクションの縄文土偶も展示されてましたー。ラッキー♪











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする