新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

戦前から戦後まで見てきた者として

2019-05-18 10:17:51 | コラム
「欲しがりません勝つまでは」から「アメリカファースト」まで:

戦前というのか、大東亜戦争が明らかに我が国にとって不利になってきた頃に、私は中学校に入っていた。そして戦争が終わって自由になって、頭髪を丸刈りにしなくても良い時代がやって来た。だが、同時にやって来たことは「食べられる物であれば何でも食べる以外に道はない」という食糧難だった。大豆の絞りかす、薩摩芋、乾燥芋(今は別な名前になっている方だが)、南瓜、大麦・小麦、そして偶にはご飯という生活だった。お米は配給券でしか入手できなかった。

戦前の暮らしで覚えていることは「後楽園に職業野球を見に行って川上哲治だとか苅田久徳やビクトル・スタルヒン(改名させられて須田になっていたが)等を見たこと」や、今にして思えば「現在のように大きな格差(貧富の差と言うべきか)が生じている世の中では、怪しからんと大声で非難する時代ではなかったか」ということである。要するに「耐え難きを耐え」ではなく、食べるということはこういう暮らしをすることだと受け止めていた。一升瓶の中に玄米を入れて棒で突いて白くしていたのは普通のことだったのだ。

そういう時期を経て行く間には「蹴球部で革の靴を履いていた者が何人いたか」であるとか、「アメリカ軍の衣類の横流しのルートを持っていた者が結構な小遣い稼ぎをしていた」とか、「藤沢の駅の近くに販売店があった“Blue Seal”というアイスクリームだったのだろうアメリカの食べ物を食べられる者が幅をきかせていた」のだ。だが、その時期が過ぎると朝鮮動乱が始まって我が国には思いかけなかった「特需」が巻き起こって復興が足早に進んでいったのだった。確かに「闇市」はあったが、当時住んでいた藤沢市には存在していなかったと思う。

我が家は私が病弱だったことに加えて疎開すべきだということで藤沢の鵠沼に言わば半分は転地療養していた為に1945年4月の空襲で帰るはずだった小石川の家が焼失したので、何れ帰る予定で置いてきた家も主な家財も失って一気に「持たざる者」にされてしまった。と言うことは、この年の8月以降は「戦時中の耐乏生活」とは一寸異なった借家住まいという生活をせざるを得なくなってしまったのだった。

その敗戦後に我が国が目覚ましい復興発展を続け世界有数の経済大国にのし上がっていく過程を、何故か私は「これは我が国としては最初からその底力があったので当然のことで、予定していたというか、恰も予め描いていた経済発展のコースを順調に辿っていっているだけなので不思議でも何でもない」と受け止めていた。池田勇人総理の「所得倍増計画」も無茶なことを言っておられると聞くよりも「そうなるのも当たり前かな」と受け止めていた。

アメリカと安全保障条約を結んだことは知っていたが、その為に大きな「安保反対」の闘争が巻き起こって大規模なデモも行われていた。あの樺さんが亡くなった日のデモも帰宅中の新橋駅の近所で見ていたが、デモ隊が去った後にハイヒールの靴の片方が残されていた景色を未だに覚えている。私は要するにかかる樹億追うの単なる傍観者で「会社の為に一所懸命に働くこと」しかなかった、言ってみれば当時良く言われた「ノンポリ」的な存在の会社員だったのだ。

最悪と言われた不況期で所謂「砂糖、セメント、紙」の三泊時代の末期に紙パルプ産業界の会社に雇って頂いた私は、そこから先はただひたすら発展し続けていった我が国の高度成長期の恩恵を十分に楽しませて頂けたというか、民主主義と自由主義経済の有り難さをも経験していた。確かに戦時中は敵であったはずのアメリカの援助はあったかとは思うが、アメリカ自身も我が国の産業界の指導的立場にあって多くの特許等の使用を認め、先進工業国としてライセンスも降ろしていたので、指導もしたのは事実だろうが、巧みに利用していたとも言えるのではないのか。

だが、私が何度でも言ってきたことで「偶然の積み重ねでアメリカの大手紙パルプメーカーに転身した」頃辺りから、我が国の製造業界の一部には徐々に技術的にアメリカを抜き去る傾向が出てきたのだった。その流れを表す現象の一つが、1970年前半だったと記憶するNBCが放送した「日本に出来ることが何故アメリかでは出来ないのか」という番組だったと思う。我がW社でも大変な反響が起こっていた。これをアメリカで見損なったという陸軍中佐は日本に出張してきた際に、藤沢市の我が家まで来て日本のテレビでの日本語の音声付きを聞いたほどの大流行だった。

私が転じた頃のW社の我が事業部は我が国におけるアメリカのサプライヤーとしては末席を汚しているような状況だった。だが、我が国の経済の急速な発展に伴う食生活の質の向上の流れに乗れたお陰と、私が常に「生涯最高の上司」と呼ぶ副社長の巧妙な対日政策の効果と相まって遂には1980年代後半には我が国への液体容器原紙のサプライヤーとしての#1の座を確保できたし、W社全体としては「アメリカの会社別対日輸出金額でボーイング社に次ぐ第2位にまで伸ばしていたのだった。

正直に回顧すれば、私の在籍中の1993年末までは中国にはその人口の大きさから見れば膨大な可能性を秘めていることは、言わば世界の経済界では常識の如きで、その可能性に賭けて進出していく企業が多かった。W社は直接的な投資には至っていなかったが、香港に拠点は置いていたし、上海には駐在員も置いていた。また、鄧小平がワシントン州タコマ(現在はフェデラルウエイ市とな
っている)の本社を訪問して「(中国には不足している)木材資源を買いに来たのではない。植林の方法と森林の運営の仕方をし得て欲しい」とCEOのジョージに要望したことは「流石に見ているところが違う」という見方が遍く社内には広まっていた。

その森林産業界のみならず世界経済を引っ張っていくはずのアメリカが、今ではのし上がってきた中国と如何に対抗していくかにトランプ大統領以下が腐心する状態になり、中国は世界の下請け工場からICT化された産業の分野では世界の脅威となるまでの経済大国になってしまった。私は中国にここまでの成長というか増長を許した背景にはオバマ政権下の8年が大きくマイナスの貢献をしたと思っている。だからこそ、トランプ大統領はオバマ大統領の実績の反対を行く政策を選ばれたのかとすら考えている。

私はその限りにおいては、トランプ大統領が中国を頭から押さえ込もうとしておられるのか良いことだし、歓迎すべき事だし、我が国としてでいることをして援助しても良いと思っている。だが、私が見る限りでは「トランプ大統領の対中国押さえ込み作戦が進めば進むほど、親アメリカはである諸国の景気というか経済に少なからざるマイナスの影響が出てくることになるだろう」となりかねないのだ。そこにはトランプ大統領の大看板である「アメリカファースト」の旗が閃いている以上は急には方針が大きくは変わらないと思う。

だが、6月G20の機会を捉えてトランプ・習近平の首脳会談が行われるようだ。それまでには未だ1ヶ月は残されているが、その間に両首脳が相まみえて「両国にとって良い解決案であり、世界各国にとっても『目出度し、目出度し』となるのだろうか。私は少なくともアメリカ人の思考体系からすればトランプ大統領が妥協的な案を提示するとは思えないし、習近平とても共産党までが承認するアメリカとの妥協が出来る立場にはいないのだろう」という専門家の先生方の意見を採りたい。

私の個人的な見方では世界ではすべの国が発展していくのは良いことかとは思う。だが、何処か一国だけが群を抜いて成長・発展して覇権をとって、経済から軍事までを独占的に支配するような事態は望ましくないと思う。現在のように、私には内容というか実体の凄さが想像も出来ない5Gを巡る激しい対立がアメリカと中国の間で生じている時代にあっては、アメリカと中国が残る世界の諸国に与えるプラスとマイナスの影響まで十分に考慮する会談が出来るのかと不安になってくる。

ある専門家は「本格的に経済面で争えばアメリカが圧倒的に有利だ」だと言われた。トランプ大統領はそこまでのことを狙っておられるのだろうか。また、習近平が惨敗すれば、その結果として世界というか中国について行った諸国がどうなってしまうのかと重大な問題になると思う。習近平はそこまで考えて横車を押し続けてきたのだろうか。トランプ大統領は再選される為には何処まで行こうと「アメリカファースト」で推し進められるのだろうか。世界の経済の将来がこのお二方の双肩にかかっているのだ。