新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月4日 その2 徒然なるままに

2020-05-04 11:41:39 | コラム
何かを考えているのだったが:

黄金週間:

マスメディアは一向に採り上げないし、政治家も触れてくれた記憶もないが、慢性心不全(BNPの数値が200前後)を抱えている私にとっては、新型コロナウイルスに感染するかも知れないという恐怖感もさることながら「もしも何か異常事態に陥ったときにどうすれば良いのか」との不安感に十分に苛まれている。開業医の先生方は皆休診だし、発熱くらいで仮令掛かりつけであっても大病院の救急に駆け込む訳にはいかない現在の状況である。実は先週リンパ液を抜いていただいた膝は、まだ痛みが再発してきているのだ。急変したら処置ではなく本格的な治療が必要かと恐れている。

私が言いたいことというか望むことは「東京都区内であれば、休み中も開けておられる当番医のような診療所なりクリニックの場所と電話番号くらいを、テレビででも新聞の折り込みででも周知して欲しいものだ」という辺りだ。「町のお医者様に行けば、こういう期間中に連絡すべき電話番号が掲示されているではないか。それを記録しておくべきではないか」などと言うのだったならば、それは血が通っていない行政ではないのか。ある喘息持ちの知人は「万一の場合にどうせよとの指示がない」と嘆いていた。これは専門家会議のお医者様が管轄されるような事項ではないのかな。

ここで矢張り英語の講釈をしておこう。誰が言い出したか記憶はないが、これを英語ぶって“Golden week”などと言うのは、我が国の英語教育の至らなさに毒された考え方だ。ここでは“Golden week holidays”とまで言わないことには、英語を母国語にしておられる人たちには「何のこと?」となりかねないと思う。「お休みの期間中のことだから、holidaysと言わなくても解ってくれるだろう」という考え方が通じにくいのが、英語の発想だとご理解願いたい。なお、“holiday”は「ホリデイ」とは発音しない。Oxfordでも「ハラデイ」と表記されているのだ。

標準語:
もう60年ほども昔のことになってしまったが、兵庫県の有名な私立校から東京(というが実際は横浜市だったが)の大学に進学してきた友人が、興味あることを言っていたのが忘れられない。それは「大阪や兵庫のような関西から出てきた者たちの中で、直ちに恰も昨日まで使っていたかの如くに標準語で話し出す者たちは油断ならない利口者か、小ずるい点があるのだ」だったのだ。そう聞いて注意していると、確かにそういう傾向はあった。関西系の某商社でも公用語とまで言われていた関西弁のままで押し通す人たちには、信頼できる人が多いという実感はあった。

何故、今頃になってこういう昔話を持ちだしたかと言えば、ここ暫くきつい言葉で批判している西村康稔大臣は兵庫県の灘高出身でありながら、当方の友人の中には「まさか兵庫県出身者とは思えなかった」と驚いていた者がいたほど、神戸のアクセントも何も残っていないと思わせるほど標準語で語られるのだ。ここまでで、私が何を言いたいのかをお解り願えれば幸甚だ。実は、私は先頃の内閣改造で西村康稔氏が入閣したときには「彼には期待しても良いか」とすら見ていたので、特措法担当となってからの責任回避的な小ずるい言動には大いに失望しているのだ。

昨日の「テレビタックル」は3週間振りにビデをテープを見せるだけではなかったが、締めくくりに北野武が「近頃の政治家には『やってやろう』という気迫を見せる者がいないな」と嘆いて見せたのは同感だった。これは何も西村康稔大臣だけに当て嵌まる批判ではないのだと思う。アメリカ式に言えば、年間に2,000万円以上もの多額の報酬を得ていれば、それに見合うだけの気迫を見せて働いて貰わねばならない。それに相応しくない働き振りでは退場すべきだ。

休日に国会を開いて「異例だ」などと報道させているようでは、信頼できる訳がない。何もアメリカ式を礼賛するのではないが、ある一定の地位に達して高い年俸を取っている本部長や副社長級には土曜日も日曜日も祝祭日などあって無きが如きだ。実際には閣僚も国会議員も休日も返上で働いてくれていると思っているが、1日くらい国会を開いてニュースになるようで怪しからんと思う。もっと覚悟を以て、お国と国民の為に、目に見えるところで働けと言いたくなる。


英語擬きを使うのを止めよう

2020-05-04 08:27:41 | コラム
日本語を大事にしよう:

今回は「カタカナ語排斥論者」としてではなく、何らの必然性もないだけではなく何の必要もないにも拘わらず、英語擬きの表現を使うことを止めようと言いたいのである。その最たる悪い例としては、躊躇せずに小池百合子東京都知事を挙げたい。この方は何かと言えば記者会見の語りなどに英語の単語乃至は熟語をお入れになるが、私に言わせて貰えば「あれではご当人は英語を本格的に正確にお解りではない」と問わず語りをしているのと同じだし、一般の方を相手に「どうです、私は凄いでしょう」と言っているのと同じだと思って嫌みだとみている。

その英語擬きの最悪の例が、例の「オーバーシュート」で、専門家会議という権威ある存在の副座長様が誤用されるや否や軽々しく真似て「所謂オーバーシュート」などと追随して見せた点だけで自らの英語力の怪しさを立証してしまった。尾身氏が使われたからと言っても、都知事自身も側近も英和乃至は英英辞典くらい見る時間の余裕があったはずではないのか。それだけに止まらず、小池都知事はこの度は“Stay home. Save life.”と一見尤もらしい英語による標語を持ち出された。今回は言葉の誤用はないように見える。

だが、私は「ここは日本国・東京都である。何の合理的必然性があって『外出を控えてください。命を守りましょう』という標語というか都民への要請を、英語にしなければならないのか」という率直な疑問を呈したいのだ。都知事はもしかして、多くの都民が「小池さんは素晴らしい。英語を使って我々に要請されたのだから、極力従おう」とでも思ってくれると自己過信しているのではないか。我が国の至らざる英語教育を以てしても、全部の都民が英語の標語を理解するとでも錯覚を起こしているのではないか。私は誤りであると断じる。何でも英語にすれば良いのではない。

新型コロナウイルスの感染が激しくなって以来、専門家の先生方もマスコミも何故か一斉に「英語擬き」の使用を始めたのだった。私は「集団感染」を「クラスター」と呼ぶのを見れば、果たして英語の“cluster”本来の意味をご承知かと言いたくなる。「フリップ・チャート」を「フリップ」と呼んでいるのと同じ言葉の誤用だ。「コロナ」(=“corona”)も既に指摘したが、「新型コロナウイルス」という意味はない。だが、それでも「コロナ」だけで通じてしまうのが実体である。私はせめて「コロナウイルス」くらいは言って欲しかった。

以上で何を言いたかったのかをあらためて述べてみれば「日本語を大事にしよう。日本語に単語や熟語で英語擬きと同じ意味となる表現があれば、躊躇わずにそちらを使うべきではないのか」と小池都知事のような方と、軽佻浮薄にカタカナ語を有り難がるマスメディアを厳しく非難したいのだ。「ここは日本国であって、アメリカ合衆国でも英連邦でもないのだ。如何にも自分が英語を弁えた国際派であると言いたいような軽々しく英語擬きを使うのは、長らく英語の世界に暮らしてきた私から見れば似非英語通に過ぎない」のである。

問題は事が似非英語通だけに止まっていれば未だ良いが、私が以前から指摘しているように英語擬きとカタカナ語の乱用は一見格好が良いかの如きだが、よく考えなくても解ることで「表意文字の文化である日本語に、意味不明な言葉の誤用までして表音文字の文化を強引に移植しようとしている行為に他ならない」のだ。テレビなどに登場される専門家の方々がどれほどの数のカタカナ語を使って語られるか、アナウンサーやキャスターたちがどれほど多くのインチキな発音の英語擬きをシナリオ通りに使っているかを見る時に「我が国の将来は暗いな」と嘆いている。

今回はその種のテレビ用語を批判する為の一文ではないのだが、注意して聞いていて貰えれば世間にはカタカナ語の羅列が多過ぎると解る。私はそれよりも罪が深いと思うのが、必然性がない「英語の文章」をこれ見よがしに使う社会的な身分が高い方々だ。アメリカでの表現を見ていたら、小池都知事が“Save life”とされたところは“Save lives”と複数になっていた。こちらの方が筋が通っていると思う。因みに、Irish Timesには“Stay-at-home”となっていた。文科省は国語の教育を優先し、その後で英語は正しく正確に教えるようにしたら如何ですか。日本語を大事にしよう。