新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月7日 その3 吉村洋文大阪府知事対西村康稔大臣の争い

2020-05-07 16:56:05 | コラム
初めて西村康稔大臣が専門家会議に諮らずに発言した:

西村康稔大臣は吉村大阪府知事が独自に緊急解除からの出口基準を発表したことが余程腹に据えかねたと見えて、彼が初めて厳しい表情で自らの考えていることを公開したのを聞いた。彼があれほどの表情で「勘違いをしておられる」とあからさまに吉村大阪府知事を責めたのは、本気で怒って見せたのだと解釈した。何故怒ったかと言えば、思うに吉村大阪府知事が「国が具体的な基準を言ってくれないので」と言ったことにカチンときたのだと、私は読んでいる。

西村大臣は「その基準は各都道府県の知事が定めることになっている。そこを勘違いされては」と言って、これまでの責任逃げ回り発言を忘れて、私から見れば「感情的ではないのか」と思わせられたほどの勢いだった。彼を低評価している私は「こんな事でそこまで勢い良く争う姿勢を見せるほどやる気があるのだったならば、偶には『専門家に聞いて』などと言うな。自分のリスクでこの国難の時期にあっては思いきった発言と行動をしてくれ」と言いたくなってしまった。私はもしも勝敗を判定しろと言われれば、「感情的になった大臣の負け」とする。冷静さを欠いてどうする。

吉村大阪府知事は結果的には謝罪した形になったが、一府知事としてはあの場ではそうしないと大臣の顔を潰すとでも判断されのかと考えている。基準を数値で示すことが確かに知事の職責であろうが、西村大臣も安倍総理も言われてきたことが具体性を欠いていたのは間違いないと思う。だが、具体的な数値を挙げたのを責めるのならば、大臣の先手を打って言いたい放題に近く彼を差し置いて100万円出すの50万円給付すると言ってしまう小池都知事は「勘違い」と言って責めないのは何故かと伺いたい。

なお、バイキングだったかでは鈴木哲夫が「あのような言い争いはオンライン会議が当たり前のように実行されている現在では、そこを活用して直接語り合うべきでは」と指摘していたが、大臣足るお方が、それにはお気付きではなかったのかな。

5月7日 その2 連休明けの大久保通りに出てみれば

2020-05-07 14:11:59 | コラム
相変わらず数多くの異邦人が闊歩していたしマスクが売られていた:

私の生活にとっては何の有難味のないゴールデンウィーク・ハラデイズが終わったし、本日は好天にも恵まれたので、本当に久しぶりに大久保通りまで出ていかないと買えない物を入手すべく出掛けて見た。通りには予想通りに老若男女のアジア系の者どもが我が物顔で歩き回っていた。彼等からは全く新型コロナウイルスに対する警戒心の如き態度が感じられなかった。そういう意味では、矢張り危険を感じずにはいられなかった。本日の特長はといえば、23日までラマダンだというせいか、イスラム横町でもそれほど彼等を見かけなかったし、路上駐車も無かった。

昨日も採り上げたマスクの販売だが、ほぼ同じ店と同じ場所で従来通りに山の如くに積み上げて売られていた。だが、私が歩いた僅かな距離の間でも、イスラム横町に入っても、ひやかしの日本人はいても、誰1人として買ってはいなかった。価格も噂の通りで、最低は50枚1箱で何と¥1,900というものまであり、全般的に¥3,000が中心になっていたほど値下げされていた。ネットのニュースを見ても、大阪などでも横流し品は値崩れしているとなっていたが、あのままでは未だ値下がりは続くだろうと思わせられた。

念の為に「密」を恐れてドンキホーテも覗いてみれば、流石に箱入りは出ていなかったが、高級品だったかと銘打って1枚で¥398であるとか、5枚で¥2,000近いなどというものが並んでいたし、手を消毒するアルコールを吹き付ける製品などは、金さえ出せば幾らでも買える状況だった。私はここにあれほど出品されていることは、取りも直さず供給過剰の状態に入りつつあると言うことかと思って退出した。彼等闇商人どもはウイルスの制圧が遅れることでも祈っていないと、間もなく過剰な在庫を抱えて投げ売りに追い込まれるのではないか。

実は、伝聞だが中国系の若い女性がこの辺りで中国製が売られているという話を聞いて「そんな物は買わない方が良いのでは。多分彼等は使用済みのマスクを回収・洗濯してアイロン掛けして恰も新品のように見せて売りに出しているかも知れないのだから」と言われたそうだ。実際に極端に品薄の際には、中国ではそういう動きがあると報じていたニュースを見た記憶はある。やれやれ。


「専門家」とは

2020-05-07 09:22:32 | コラム
「専門家」って何だろう:

広辞苑を見れば「ある学問分野や事柄などを専門に研究担当し、それに精通している人」とある。私は「ある学問分野」となっているところを「ある特定の学問分野」としたいとすら考えている。この度の新型コロナウイルスの感染がここまで蔓延する事態となって、安倍内閣とその閣僚がその専門家とやらを集めた「専門家会議への依存度」が高過ぎるのではないかと、私は見ている。依存されることそのものがおかしいとか、過剰であるとまで言う気はないが、総理を始めとする西村と加藤の両大臣の専門家会議の使い方はどう考えても納得がいかないのだ。

今回のアメリかでは“China virus”か“Wuhan virus”とまで呼んでいるウイルスについては、安倍総理以下閣僚でも誰一人として何らの予備知識がなかったのは至極当然であると思う。だからこそ、感染症や疫病の専門の権威あるお医者様(だけ)を集めた、専門家会議と諮問委員会を設けられたのだろう。私はそこまでには何ら異存もないし、異議を申し立てるものではない。だが、今となっては、どう考えてもその専門のお医者様たちが「新型コロナウイルスとは如何なる性質のものか」や「それを制圧するには如何なる対策を講ずべきか」に精通しておられるとは思えないのだ。

確かに、尾身茂氏は嘗てWHOの事務局長選にも推されたような権威者だったのだろう。脇田隆字氏は国立環境研究所の所長さんという偉い方だ。お二方とも「ある特定分野を専門に研究され精通しておられるのだから、安倍総理を以下の閣僚にその精通しておられる分野に関して、必要にして十分な進講が出来る」のだろう。内閣が依存されるだけの価値があるだろう。ここまでは良かったが、ここから先の依存の仕方には大いに疑問があるのだ。簡単に言ってしまえば「専門家会議からの解説と提言等を受け、対応策の政治的決断をするのが政治家の役目ではなかったか」なのだ。

もうここでも西村康稔大臣の「専門家会議」かまたは「専門家のご意見を伺って」という一聴尤ものようだが、良く聞けば体の悪い責任回避の常套手段的な台詞を批判しても始まらないとは思う。だが、諮問機関に過ぎない専門家会議の進言乃至は考えを聴取して、国家と国民の為の政治決断をするのが選挙で選ばれた政治家の仕事なのだ。何度でも言うが、私は専門家会議のお医者様たちに一票を投じて何かを負託した覚えはない。国民は「西村君。我々は君を選んだのだ。決めるのは君の仕事だ」と言っておられると信じている。

それなのに、悲しいかな安倍総理以下は何かと言えば「専門家会議に諮って」とか「専門家の意見を入れて」などと、私から見れば逃げ口上を平気で言われるのは極めて遺憾だ。加藤厚労大臣が今頃になって変更すると言い出した、例の悪評高き「37.5度が4日が続き云々」という奇妙な仕組みを言い出したのは、専門家会議だというではないか。その為に自宅療養をしておられた結果で亡くなった方が複数出ても、専門家会議や大臣も含めて厚生労働省の責任が問われなかったのは何故だろう。勝手に想像を逞しゅうすれば「専門家会議」に対する遠慮でもしたのか。

やや長い導入部になってしまった嫌いはあるが、私がここでも言いたかったことは「権威あるお医者間様方の専門ではない政治の分野に入りそうな仕事を、平気でさせている安倍内閣の不見識を批判したいのだ。そこには専門家会議の人選を誤っているという初歩的な失態もあるので、尾身茂副座長はエコノミストを入れて欲しいと政府に進言したというではないか。私が何度も疑問を呈したように、陰の存在であるべき専門家たちを前面に押し出したのは政治の失態ではいのか。医学の専門家に政治に首を突っ込ませてどうするということ。俗に言う「無茶振り」ではないのか。

既に、採り上げた過日の尾身茂副座長が「プリゼンテーション」だと言われた説明会の出来は、私から見れば惨憺たるものだった。だが、それは寧ろ同情したくもなるような結末で、チャンとした「プリゼンテーションの技法」を心得ておられる人などは、これまでに見てきた限りでは片手で数えられるほどにもいないのだから。問題はそれだけではないと既に指摘したはずで、あのプリゼンテーションを専門家会議に依頼した内閣が間違っているのだ。

中尾彬が「何の専門家なんだい」と指摘したのは、私に言わせて貰えば大正解なのだ。感染症と疫病とその専門家の集団であって、国民に「新しい生活様式」などを説く為の研究などを追求してこられた訳では亡いと思っている。それこそ、総理でも西村大臣でも専門家たちの進言を聞いて「私たちから国民の皆様のお伝えしたい」と語りかけるべき事だったはずだ。安倍総理までが西村と加藤両大臣の責任回避術を採り入れられる必要など、毛頭ないのではないだろうか。

安倍総理以下に敢えて再度申し上げておきたいことは「専門家会議のお医者様たちを政治判断に巻き込むのは見当違いである。彼等が如何なる分野の専門家であるかと、もう一度考えて見るべきでは」なのだ。私のビジネスの世界の経験でも、「自分の担当とその関連の分野の事以外となると、素人以下の役にしか立たないもの」だったのだ。この国難とでも言いたいこの時期に総理が「俺こそがこの件のリーダーだ。おれが全責任を持つから、君等は思いきって事に当たってくれ、俺も自分の責任範囲は自分だけでやっていくぞ」というような固い決意を表明があっても良くないのか。

内閣総理大臣と閣僚と国会議員こそが政治の専門家であってくれなければ困るのだ。専門家会議はその補助機関に過ぎないのではないのか。