新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月24日 その2 経済をどのように回すのか

2020-05-24 14:38:57 | コラム
世界的な危機ではないのかと痛感した:

リーマンショック以上の危機か:
昨23日には“「経済を回す」と言うが”と題して論じたが、先ほどフランスの経済相が「このままではルノーの存続が・・・」と述べたという記事を見て、事態は評論家やエコノミストたちが警告している以上に深刻なのではないかと痛感させられた。アメリかではレンタカーの“Hertz” が Chapter 11(連邦破産法第11条)による保護を請願したとの報道に接して、ロックダウンをすればこういう結果になるのかと、妙に納得していた。アメリカ国内を移動した経験をお持ちの方はお解りだろうが、出張先などではレンタカーは必須だが、移動する人がいなければ需要は激減したのだろう。


アメリかではその前に我が国で言う大規模小売業者である歴史も名もあるデパートのメイシーやニーマンマーカスやJCペニー等が矢張りChapter 11となっていたようだ。アマゾンのような通販があれほど猛威を振るっては、デパートが不振に陥るのは不可避かも知れない。だが、これほど続々と倒れていくのには「これから先が思いやられる」と思っていた。その矢先にレンタカー会社も駄目になったというのは仕方がないのかも知れないが、これほど早い時期にとは考えてもいなかった。

他国ではタイ航空が既に参っているし、何社かのLCCも破綻し始めている。我が国でもANAもJALも数千億円の緊急融資を願い出ている。自粛の結果だと思う。方々の会社で人員整理も始まっていれば、大手銀行の支店閉鎖も始まっている。テレウワーキングを実行している中では大手企業の比率は未だ低いが、既に事務所の規模を縮小して家賃負担の軽減を開始した会社があるとの報道もあった。テレウワーキングとやらが広まっていけば、経営側から見れば「これだけの社員の数でも会社が回るのか」と悟っての人員削減も出てくるかも知れない。

新型コロナウイルス制圧に成功した後には:
私のように永年アメリカの会社で「職務内容記述書」に従って、同じ事業部内の誰とも担当する業務の内容が重複しない組織の中で、ただひたすら自分の為と職の安全の為に動いてきた経験から見れば、我が国の会社組織でもアメリカ式の少数精鋭主義か「精鋭を集めれば少数ででもやっていける」というような形態に変わっていくようになる時期が、意外に早く到来するかも知れないのではとも考えている。

兎に角、アメリカ式では、記録しておくかどうかは別にして、前日に翌日乃至はその先の“To do list”を作っておき、それに従って「自分で自分に命令を発して動く」ようにすれば、秘書と2人だけで日本市場の営業を担当する仕事が何とかこなせていたのだ。ワシントン州の本部にはオックスフォード大学のMBAの営業担当マネージャーがいて、彼はアメリカ国内市場と日本以外の海外の市場を担当だった。時間的か物理的には過剰な負担で大変かと訊かれれば「大変だ」と答えるが“That’s what I’m paid for.”であり、そこまでやれるという前提で採用されたのだから、やる以外に「職の安全」はない世界だ。

私が何を言いたいのかと言えば、テレウワーキングなどを導入して会社を動かしてみた結果で、乃至は新型コロナウイルス制圧に成功した後には、このような安倍内閣が導入した「働き方改革」とは異質な改革というか、合理化の時代になって行くかも知れないのではとも考えている。「ハンコを捺す為の出社」というのか今話題になっているが、捺印をしないで済ませるとか、サイン一つで事が済んでしまうような方式の仕事と事務の合理化も現実のものになって行くことも、十分に予測できると思う。但し、私にはAIの導入については意見を言えるほどの知識は全くない。

ここまでで考えてきたことは、新型コロナウイルス制圧の成功後に来るものは「少人数で、何も広い事務所を使わずとも、事務の流れを合理化して、社員が毎日毎朝定刻に出勤せずとも、与えられた仕事の内容乃至は課題(例えば“job description”)をこなしていれば、それで十分だ」という方向に360万もある会社(尤も大企業は1万1千社程度だと言うが)の中から何パーセントかが合理化に舵を切るように思えるのだ。それが、我が国では低いと貶されている生産効率を高めてしまえば、そういう流れは止めようななくなりはしないか。

何のことはない、それで経済が新型コロナウイルス蔓延の前よりも円滑に回っていってしまえば、ウイルスの襲来には効果があったことになってしまうのではないか。


首都圏の緊急事態解除の宣言が迫る

2020-05-24 09:51:32 | コラム
結構なことだが不安は残る:

報道によれば、25日には東京都を中心にした神奈川、埼玉、千葉の積み残された首都圏の各県に解除が発表されるようだ。悲観論者の私には朗報ではあるが、正直なところ諸手を挙げて「良かったな」という気にはなれない。「良かったな」と言えない思いは、何も首都圏だけに限らずに、我が国全体に当て嵌まるのではないかとすら、独り密かに恐れている。それは一言にすれば「このウイルスの問題は如何に我が国が全土で国民が挙って自粛したからと言っても、そう簡単に収束するような簡単なことなのか」と思っているからだ。

我が国の国土の面積はアメリカを例に取れば「カリフォルニア州よりも狭いのにも拘わらず、その中に一都二府一道四十三県が存在している」という問題があるのだ。首都圏とは言ったが、一都三県はそのまま東京都神奈川群なり埼玉群などと呼んでも良いと思わせるほど、言わば「グレイター・トウキョウ」を形成しているのだ。その中にあって県境を越えた移動はしないようにと言うのには、無理があると思っている。かく申す私は大学の4年間、会社員としては30年以上も神奈川県から東京に通勤していたし、神奈川県に対する愛着は極めて薄かった。

我が国に道州制を導入しようと主張したのが橋下徹氏だったかと思うが、今回のチャイナウイルスの蔓延とその対策を見る時に、緊急事態宣言を県単位で適用していくのはどうなのかなと思わざるを得なかった。昭和37年から40年末までの大阪支店勤務の頃は、豊中は兎も角芦屋から通勤していたので、県単位という仕組みに余り意味がないように思えた。何が言いたいのかと言えば、解除しようとしまいと、通勤者等々の移動が県境をまたぐのは、我が国の国土の面積と公共交通機関の発達を考えれば当然であって、県毎の解除にどれほどの意味があるかと言うこと。

しかも、テレビの報道を見ている限りでは、解除された県内で大勢が「待ってました」とばかりに盛り場に出掛けている状態とあっては、西村康稔大臣でなくとも「気の緩み」に対する警告をしたくなってしまう。ましてや、未だ解除の見込みに過ぎない都内でも自粛の制限時間を破っている飲み屋が出現しているのだ。店を開けないと潰れるという言い訳は解らないでもないが、その為に二次感染の切っ掛けを作ったとしたどうなるかという考えはないようだ。矢張り、橋下徹氏が再三怒って見せたように、自粛しない場合には罰則は必要だったとしか思えない。

「家飲み」などという面白い方法も普及しているかのようだが、酒飲みの方々がそこまでして飲みたいという気持ちは少しだけ解る。だが、「外飲み」で後ろめたさを感じているのだろことまでして飲みたいのだろと思う。だが、無理解だと言われることを承知で言えば「手前勝手だ」となる。テレビ局も相変わらずの感情論で飲み屋に同情してみせるが、私に言わせて貰えば「自分たちも外飲みしたいから、あれほどしつこく取りあげるのかな」と疑っている。甲子園野球の中止されて高校生が可哀想だと同じ感情論だ。野球部は気の毒でも、サッカー等の部は可哀想ではないとでも言う気か。

話が横道に逸れてしまったかも知れないが、私の主張は「緊急事態の解除宣言は誠に結構なことで、国民の努力と忍耐の賜物だと思っている。我慢されたのだからストレスではなく蓄積された「フラストレーション」を解消しようと、ドッと外に出ていくのを自粛せよとか、政府も各知事も阻止せよとまでは言うまい。だが、「気の緩み」等と失礼な物の言い方をせずに「折角ここまで自粛して解除まで持ってこられたのだから、その緊張感を忘れずに第二波などが来ることがないように、緊張感をお忘れなく行動をされることを期待します」とでも言ってほしいのだ。誰にかって、西村大臣にだ。