新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

It's me.はどうかな?

2019-09-17 07:19:10 | コラム
英語の言葉遣い:

文法的に誤りでは:

9月16日の渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」誌上で私宛で下記のような質問を頂戴した。

“先日、「Me too.」という表現がmeは目的格だから文法としておかしいこと、米英の上流階級では決してそういう表現をしないことをご教示頂きありがとうございました。とはいえ、今、売り出している会話翻訳機ポケトークでは、「私もそう。」を翻訳すると「Me too.」と下等な表現をするのでいささか困っています。

それはさておき、米国映画を観ていると「It's me.」という表現がよく出てきます。このmeも目的格だから文法的におかしいと思うのですが、ならば主格の 「I」を使って「It's I」とはどうも言わないようです。

ではどういう表現をすべきなのか、文法の解説も含めてご教示頂けたら幸いです。“

という内容だった。

私からは即答は避けて、アメリカでも知識階級に属する嘗ての上司や同僚に尋ねてみた上で正式にお答えしようと,次のように「お時間を頂戴したい」とお願いした。

“アメリかでは屡々このような文法を無視したような表現に出会うものです。特に、私が言う支配階層に属さない人たちの間では、そういう言い方が頻繁に使われていたと思います。“It's me.”も聞いたことはありますが、特に気にしたことはありませんでした。

我が社の管理職の技術者でも“Don't say nothing."などと言うのを聞きました。二重否定ですが,これでも「黙っていろ」という意味です。お尋ねの“It's me.”をどのような人物が何処で言ったかにもよりますが、私は非知識階級に分類される者が使ったのではと思いました。

しかし、ここでは外国人である私が断定するのを避けて、インテリ層にある昔の上司(MBAで引退後に大学院大学の教授)と同僚(技術者)にこの文法的に誤りである表現が、一般的に認められているか否かを問い合わせましたので、暫時お待ち下さい。“


そこで,改めてお断りしておきたいことは「私は外国人として英語を学び、学校教育ではそれなりに文法も追いかけていたので、ある程度以上の知識はある。だが、もしも外国人に「日本語の文法を解説せよ」と依頼されたら即刻謝っていると思う。この点はアメリカ人たちが意外に思うほど英文法など知らないのと同じ現象だと思う。であるから、私はアメリカ人に「君は学者(scholarという言葉だった)だから、これが文法的に正しいかどうか解るだろう」と質問されたことすらあった。

確かに、私はアメリカ人たちよりも英文法を知っていた。だが、彼らと共に、やや誇張した表現を使えば、1年365日英語しか通用しない世界で過ごしていると、時には「これで文法的に正しいのかどうか」などと考えている余裕も暇もない場合があったのだった。勿論、会社内では文法的に誤りがある報告書を提出するなどは以ての外だったし、何度も述べてきたようにswearwordなどを使うのは許される訳もないのだった。

しかも、アメリカ人の中に入って過ごしてみれば「現実にビジネスの世界で使われている表現や日常の話し言葉等は,それまでに習い覚えてきた範囲内には収まり切れていなかった」のだった。我が国の学校教育の範囲外の英語を覚えていたつもりの私から見れば、native speakerたちは別世界の人たちの如きだと感じさせられたのだった。

私にとっては如何に何とか彼らを真似た英語が使いこなせるようにはなっていても、所詮は「獲得形質」であってnative speakerたち並みの感覚で使えるようにはなれないのだった。だからこそ、上記のような言い訳を並べた上で、お時間を頂戴するお願いをしたのだった。



9月16日 その2 英会話に見る文化比較論

2019-09-16 14:18:58 | コラム
何故アメリカ人は質問攻めをしてくるのか:

昨15日にナンシー坂本さんの名著“Polite Fictions”という金星堂が刊行した本を、一部のメル友の方々に紹介した。この本の副題は何と“Why Japanese and Americans are rude to each other?”となっていて、我が国とアメリカとの間に存在する文化(言語・風俗・習慣・思考体系を言う)の相違点を非常に解りやすい英文で表している。私もその存在を在職中に知ってから随分と勉強させて貰ったものだった。因みに、坂本さんは日本人と結婚されたアメリカの女性である。

その坂本さんが挙げられた幾つかの相違点の中で「なるほど、その通りでした」と痛感させられた具体的な例を紹介しておこうと思い立った。それは「ただ単に英語が話せるだけでは認識し難い文化と物事の考え方の相違があるものだ」という経験だった。いや、承知していても迂闊にも失念していた相違点だった。

それは、我が社の工場から来た技術者たちと某大印刷会社の関西支社を訪問した時のことだった。話し合いが終わってから購買部長さんが折角ここまで見えたのだからと「製品展示室」に案内して下さった。そこには「この会社ではこういう素晴らしい包装容器を作っているのか」と感嘆させられる製品が数多く展示されていた。そこで、一行の一人が「この斬新なパッケージはどのような素材で構成されているのですか」と質問した。部長さんは即答出来ずにその場を去られたが、間もなく恐縮しきった表情で戻られて「本日は営業担当者が不在で正確にお答え出来ませんので、後刻お知らせします」と言われた。

その後に小声で私に「ところで、ご一行は今夜は何処のホテルにお泊まりですか」と尋ねられたので、迂闊にも「妙な質問だな」と思いつつもホテル名をお知らせした。その後は特に何ら部長さんを困らせる質問も出ずに見学を終え、お礼を申し上げて退出した。ところがである、その晩の9時頃にその部長さんから私の部屋に電話があり「質問にお答えするのが遅くなって申し訳なかった。漸く営業担当者が帰社しましたのでパッケージの材料の組み合わせをお知らせします」と丁寧に知らせて下さったのだった。正直に言って、私ですらそういう質問があったことなど忘れていた。勿論、私が答えを伝達した質問者も「そんなこと尋ねたかな」という状態だった。

この件の問題点は“Polite Fictions“にも坂本さんが採り上げておられた文化の相違点の一つだったのだ。それは、「アメリカ人たちは何か第三者か誰かに好意か善意を示された場合に(この印刷会社の場合には多忙な部長さんが製品展示室にご案内頂いたことだが)何らかの感謝の意を表すべく軽い質問をする性質がある」ということなのである。私もこの手の質問をする意味が解るまでは「何故、彼らはそれほど好奇心の塊なのか」と、私自身が答えに窮する場合が多かった。特に古都・京都を案内した時などは、ほとんど答えられない質問攻めに遭って辟易となっていた。

ナンシー坂本さんは“Polite Fictions”の中でこの質問攻めの件を採り上げておられたので、私はその他の相違点の解説とともに大いに学ぶところ大であったということ。具体的にいえば、質問をする意図が解るまでは京都に彼らと共に行くのは非常に気が重かったのだった。実は、我が社は京都にも得意先の工場があったのだった。それまでは京都の観光案内などを持参して、例えば「清水寺」は築後何千年などという事実を懸命に覚えようとしていた。

ここで強調しておきたいことは「英語が思うように話せるまで上達しても、このような文化と思考体系の相違点までを把握しておかないと、夜の夜中に電話で起こされることになってしまうものである」という点だ。特にこの際言っておきたいことは、学校教育では英語だけを教えるのではなく、このような違いにまで配慮すべきではないかという文化の相違点なのである。


文在寅大統領の韓国に思う

2019-09-16 09:36:50 | コラム
文在寅大統領はは左傾した新たな国の建設を目指している:

私なりに大統領就任以来の文在寅氏が強硬に推し進めてきた反日と抗日の数々の厭がらせと言いがかりは、彼が理想として目指してきた故盧武鉉大統領の遺志を継承した現在までの民主主義国家である大韓民国(Republic of Korea)を捨てて、DPRKと合体した仮に高麗連邦共和国とでも言う左傾した国の建設に向かってまっしぐらであると思えば解りやすいと見るようにしている。そう思えば、遂にここまでやるかと思わせられた、我が国の企業283社だかの製品に「戦犯企業」のステイッカー(「ステッカー」はカタカナ語だ)を貼ろうとなどというのは、未だ穏やかな方だと思っている。

文大統領は既に「積弊精算」だの「親日排除」などという無理無体で極端の排日作戦も実行段階に入っていったが、これらは皆来たるべき来年4月の総選挙に勝って過半数の議席を確保して,彼が目指す左傾した新国家を作る為の足がかりにする手段であり、その為には「日本叩き」と「日本を貶めること」は彼とその支持者に受けると見込んでの強硬姿勢だと、私は受け止めている。彼の「選挙での勝利」を目指した作戦はトランプ大統領のそれと似た点がなきにしもあらずだが、文大統領の大統領の場合には日本叩きの一点に集中している点が異なっていると思う。

私は既に文大統領の場合は選挙で過半数を確保すれば憲法を改正し、大統領の多選乃至は再選を妨げないという方向にまで進むと危惧して見せた。日本叩きと貶めることが人気取りの作戦だとすれば、そこに生ずる疑問は「では、文在寅大統領は究極的に何がしたいのか」ではないか。それでは韓国民の全体が民主主義と資本主義の大韓民国を捨ててまで文大統領政権を支持しているのかという疑問が生じる。私は多くの専門家の方々と報道で,文在寅大統領は職権で閣僚、国会、大法院等に腹心を配置し、残すは検察だけだったのでその上に最側近の曽国氏を任命したとのことだと理解している。

ここまでの言わば鉄壁の態勢を固めて「日本貶め作戦」を敢行してきている文大統領政権に対して、今後我が安倍改造内閣がどのように対応してどのように反論して行かれるかが最大の課題だと思う。いえ、黙って「静かな無視」では済まない状況に来ているのではないかと思っている。河野新防衛大臣はブルームバーグに投稿されたそうだが、これなどは無法な文在寅政権に対する反抗の小さな一歩に過ぎないと思う。私は文大統領があそこまで回りを固めた状態では、仮に安倍総理が首脳会談を敢行されても文大統領はそう簡単には姿勢を変えないと危惧している。

まさか、直ちに韓国に乗り込んで真っ向から論戦を挑むか、または全世界に打って出て韓国と文政権の虚言と虚報振りを知らしめるかという手段もある。だが、外交ルートを通じての茂木新外務大臣の抜群の交渉力を活かして貰うか、安倍総理のトランプ大統領との強力な外交関係を以て、一刻も早くDPRKのことしか脳裏にない文在寅大統領を洗脳して頂きたいと絶大な期待を寄せている。


英語に見る文化比較論

2019-09-15 14:55:58 | コラム
英語の発音について思うこと:

私は英語の発音については「綺麗であり正確であり元の英語に近いのに越したことはない」とずっと主張して来た。しかしながら,一般論として我が国では発音がカタカナ語式であったりローマ字的である人が圧倒的に多いのは否定出来ない事実だと経験上も考えている。そうなってしまった理由として先ず考えられることは「そもそもそのような発音しか出来ない先生方に育てられた英語の先生方が多いからだ」と推定している。もしも、我々日本人がnative speakerに近いような発音まで出来るようにしようと思えば、現在の先生方の奮起を促すしかないと思うのだ。

ではあっても、20年以上の対日交渉を経験する間には、キチンとした英語力とある程度以上綺麗で正確な発音になっている方々にも出会ってきたものだった。その中には帰国子女もおられたが、私のように旧制中学1年次に幸運に恵まれた例もあるが、先生方の発音の指導法次第では正確な発音が出来るようになるものだと信じている。発音の指導の目的でnative speakerを活用するのは中学校(現在では小学校も入るか)初期においては有効かとも思う。

だが、外国人を採用する際には、出自がハッキリしていて正確で品位がある英語を話す人物を選択せねばならない。私は遺憾ながらそういう者が日本まで職を求めてくる例は極めて少ないと危惧するものだ。良家のご子息たちでハーバートでMBAを取得したような前途有為な青年が日本で英語を教えようとしてやってくるかどうかは、深く考えなくても解りそうなことではないか。

また発音の内容だが、我が国では何故か最も重要な同盟国であるアメリカ式も発音よりも世界的には、英連邦の存在を考えてもその人口がアメリカよりも少ないとしか思えない英連合王国(UK)のQueen’s Englishを有り難がる風潮があ。私は戦後間もなくから自然にアメリカとUK式の中間が最も発音がしやすいと考えて、その方向を目指してきた。具体的にはアメリカの“r”の前に母音が来る発音は避けるようにして、後はアメリカ西海岸のアクセントを真似たと言うこと。

この私の中間方式の発音はUK系であるカナダ、オーストラリア(ニュージーランドは訪れる機会がなかった)では“beautiful English”と言われたのだった。理由は「アメリカン・イングリッシュではないから」だった。このことをアメリカの同僚に語って見れば「何処がQueen’s Englishか。君はアメリカン・イングリッシュそのものの発音だ」と大笑いされた。この挿話は双方で嫌い合っているという実体を表していると思った次第だ。

色々と論じてきたが、私は発音には固執しない。何と言っても肝腎なことは「英語の質であり、論旨の構成能力であり、説得力の有無」であるからだ。彼らに負けない交渉力を身につける為には、英語式三段論法的な議論を展開出来るようにdebate力を備えておく必要がある。そこに求められる要素は「慣れと度胸」であり「論争と対立を恐れない強さ」と「感情的にならない」という3点だと思っている。

最後に言っておきたいことは、アメリカ人たちは厳しい論争をした後でも「今日は良い討論が出来て良かった。ここまでにして食事でもするか」と言って握手をして場所を変える。そこで、私が何度か経験したことを挙げておこう。それは得意先と激しいクレーム補償等の交渉をした後で、我々の方から「本日はこれにて終了として、デイナーでも如何ですか」と提案した時のことだった。先方は寧ろ激怒されたかの表情で「こんな不愉快な議論をさせられた人たちと飯を食う気分にはなれない。断って下さい」と感情的になって拒否されたのだった。

私はこういう結果になるのは、我が国とアメリカの文化の違いと国民性の相違の表れだと思って受け止めていた。だが、苦心して通訳をして何とか交渉を妥結させた者としては、ドッと疲れが出たのだった。


私の英語論とその思い出

2019-09-14 14:04:50 | コラム
私の英語論:

「語学」という表現はおかしい:

私は事英語の学習については、そもそも「語学」という表現はおかしいと信じている。その理由は簡単なことで「日常の意志の表現と伝達の道具である言葉が学問であるはずがない」と考えているのだ。しかしながら,我が国の学校教育では英語を「科学」(=Science of English)の如くに扱っているだけではなく、恰も数学のように教えているので「学問」だと思い込んでいるか、思い込まされた人が多いのだろうと思う次第だ。

昭和20年の終戦直後には私が住んでいた神奈川県藤沢市でも、当時普及していた言葉だったGIを数多く見かけたし、県の内部の厚木等には基地も多く置かれていたので付近に住む方々は、英語が解らないことに対する恐怖感の如きものがあったのだろうと、子供心でも認識していた。その終戦直後には藤沢市でも回覧で英語が解らない多くの人たちの為に、進駐軍の兵士に何か問いかけられた際に言うべき文章を指示されていたのだった。その文章は未だに鮮明に覚えているので紹介してみよう。

“I am sorry I cannot speak English. Please wait a while. I will bring a man who can speak English.”

だった。文法的にも誤りはなく十分に役に立つ英語ではあるが、今となっては訂正したい衝動に駆られてしまう。それは、私が屡々指摘して来たことで“I cannot speak English.”では英語を既に話しているのであり、ここでは“speak”ではなくせめて“understand”としておく方が現実に近いだろうと屁理屈の一つも言ってみたくなる。

この英文の興味がある点は、この頃から既に「謝る表現」が教えられていたことで、この表現が意味するところまでに英語という言語を理解していなかったか、誰も相互に文化に違いがあるだろうなどと考えが及ぶ訳がなかったのだと思っている。もしも、訂正せよと言われれば “Sorry but I cannot understand English.”辺りになるかと思う。だが、私はこの点を責めるべきではないと思う。それは、当時はほんの数ヶ月前まで敵国であったアメリカの言葉は敵性語して広く教えられていなかったし、占領しにやって来た進駐軍の兵士に対して恐怖感があったのは当然だろうと思う訳だ。より具体的にいえば、彼らはつい先頃までは「鬼畜米英」だったのだ。

私はこの英文が示すことは「英語が話せるということは恰も特殊技能のように受け止められていた」のだろうと思っていた。その英語が話せることを特殊技能と看做す風潮は未だに残っているのではないかと疑いたくなる時すらある。私は旧制中学に入って「敵性語」だった英語の授業があるとはほとんど予想していなかった。ましてや、その先生が何処から見ても白人であり、現在でいう「ハーフ」だったのも本当に意外だった。

私がアメリカの会社に在職中に接してきた我が国の上場企業の精鋭の方々の英語は、多くの場合に我が国独特の「科学として英語」を教えられて育ってこられた為に「話し言葉」と「文語乃至は文学的な表現が混在」する我が国独特の言葉になっている例が多かったのだった。そのような英語であっても、アメリカ人たちに理解されていたのも事実だと言える。だが、矢張り余りにも生真面目で堅苦しい感は免れなかった。

このような文学的というか、アメリカ人たちが“wordy”(=using too many words, especially formal onesとOxfordにある)と形容する英語になっている理由は、私が何度か採り上げて説明していた。その中で最も特徴的であるのは、同僚の一人が我が国の高校3年の英語の教科書を見て叫んだことである。それは「日本では高校の頃から英文学者でも育てようとしているのか。アメリかではこのような難解の文学作品を教科書に採用することはない」だった。私は文科省の意図を善意に解釈して「我が国では英語を通じて生徒たちの教養を高めようとしているのだ」と真面目に考えている。

問題はこの教え方が良いか否かではなく、「我が国では英語教育に対して実用性に乏しいというか、外国人との意思の疎通を図ろうとする為に学校で英語を教えていないので、実際には役に立たないという点を非難する声が上がっている点」が問題なのではないかと思っている。確かに、学校教育では実用性を等閑にした「科学としての英語」の教え方をしていると思う。だが、英語を教える目的が実用性というか「会話」の能力を高める点にはないと断言された高校の英語教師がおられた以上、話せるようにしてくれとの要求は「木に登って魚を求める」ようなことだろうと言える。だが、どうやら現在までの英語教育の在り方を再検討する時期が来ているのではないかと考えてもいる。

そう考える根拠には、私は近頃来日する外国人たちがあれほど正確に日本語で自己表現が出来ていることの背景に何があるかを本気で追求するべきだと思っていることがある。これも何度が採り上げた実例で「オレゴン大学(州立大学だ)で2年間だけ日本語を勉強しただけのアメリカの青年が、明治大学に留学して日本語での講義に何の不自由もなくついて行けている」という事実をどう考えるかというのもある。更には国家的プロジェクトで英語教育をしているという韓国に及ばない例をアメリカで数多く見たというのも残念な事実だ。それにも拘わらず,未だに英語の試験の成績ばかりを重視して、大学入試にTOEIC等の点数を用いようなどと言っているのでは救いがないと思っている。


英語の発音:
ここでは話題を変えて、英語の発音を考えて見よう。私の見方では英語が「綺麗だ」と感じさせる為には「発音が(native speakerたちに近くて)正確で美しいこと」を第一に挙げたくなる。その先にある英語での表現乃至は説明の内容の質までを判定することは別な次元のことになるので、ここでは詳細に論じることはないと思う。

私は我が国の英語教育における問題点の一つには「発音」があると指摘して来た。後難を恐れずにその原因と思うことを挙げれば「そもそも英語の先生方の発音がローマ字的且つカタカナ語的な点にあるという点だ。私は幸運にも最初にアメリカ人そのものの先生に教えられたが、そうでなかった場合には、そうは行かないのだろうと思っている。私はだからと言って「何処の馬の骨」かも解らないようなnative speakerに教えて貰うのはもっと危険だと言いたい。

それは、あの広いアメリカには南部訛りもあれば東海岸独特の早口もあるのだ。更に、アメリカの女性に家庭教師を依頼した家庭で、その女性が“cow”を「キャウ」、“counter”を「キャウンター」と発音したのを聞いて即座に契約解除したという例もある。だが、London cockneyやオーストラリアやニュージーランドの訛りはそんな程度ではないのだと認識しておくべきだ。

私は我々にとって英語の発音を困難にさせるその最大の理由の一つには「英語には日本語にはない音や顔の筋肉の使い方があるし、“th“だの“l”だの“r”のように舌の使い方が難しい発音もあれば、“f”と“v”のような下唇を噛む音もあという独特の発音」という点だと認識している。これらの他にアクセントだのイントネーションや連結音があるのだから、なお一層面倒になるのだ。

畏友・佐藤隆一氏によると綺麗な発音が出来る者が多い韓国でも「あのハングルの文字では表現に限度があり、ハンバーガーという表示は出来ないので、ヘンボゴになっている」のだそうだ。私も実際にソウルで経験したことは「メックスウエルのコピー」というのに出会ったが、それはMaxwell のCoffeeのことだった。言うなれば、これ即ち韓国訛りの英語なのだろう。

我が国では上述の英語独特の発音を克服出来ていない先生方が最初に教えておられるのだから、学んでいる方がそれ以上にnative speakerに近い発音になる訳がないのだと言えるだろう。だが、繰り返して強調するが「問われるべきは発言の内容」なのである。良い例を挙げれば、1994年7月に故宮沢喜一元総理が大いに語られたパネルディスカッションでの発言をその場で聞いたことがあった。宮沢元総理の発音はカタカナ語的だっただが、内容の質は誠に高く恐れ入って聞いていたものだった。

確かに発音は良いに越したことはないのだが、その壁を越えた英語力を備えた方には仕事の場以外でも何人かにお目にかかっていた。でも、私は「発音が綺麗なことは七難隠す」と言って指導してきた。発音を綺麗で正確にする為には、最初に英語を教えられた先生が何処まで正確で綺麗な発音が出来ているかに懸かっていると言えると思う。私の場合の幸運は、その最初の先生がアメリカ人のハーフで完璧なアメリカ発音を聞かせて下さったことだった。英語にはWell begun is half done.と言う諺がある。