読書。
『ふしぎの国のアリス』 ルイス・キャロル 北村太郎訳
を再読した。
前回読んだのが3年前だったのですが、そのときよりも
断然面白く読めました。
初めて読んだときは、なんだこりゃ、とあまりなじめませんでした。
アリスは独り言が多いし、訳されかたもどこか軽すぎるように感じていました。
それが、時をおいて2回読むと変わるものです。
そして、まともじゃない、おかしすぎる世界が舞台なのですが、
そのおかしさを許容できる年齢に僕はなったのか、と、荒い鼻息がでてしまいました。
アリスはキテレツな世界に最初は戸惑い、翻弄されますが、
物語が進むにつれて、そんな世界に慣れてくるどころか、
自分らしさを発揮し出して、持ち前の利発さと素直さと、
これが大事だと思うのだけれど、まともさで、
「ふしぎの国」を力強くもすいすい泳ぐように進んでいきます。
そうなんです、おかしな世界でも、自分のまともさを失わず、
かといって「ふしぎの国」の狂気を拒絶せず、
アリスは絶妙な付き合い方をしているんですよねぇ。
だからこそ、物語がしらけないのかもしれない。
とはいえ、この作品は、読む人を選ぶっていうわけではないでしょうが、
読んで、面白く感じる人とそうではない人っていうのが出てくるのは
当然な感じがします。「鑑賞(解説その2)」に書かれていましたが、
物語のストーリーの魅力で読ませる作品ではないんですよ。
僕だって、最初に読んだときは、今回読んだ時よりも
面白味がわかっていなかったです。
面白いことは面白いのだけれど、丸ごと受け止めてはいなかったっていうんですかね。
人生経験を重ねることで、そういう、守備範囲が広がったり、読み方が
うまくなったりってするものなんだなぁと実感しました。
なんていうか、この作品はイメージの面白さなんですよね。
出てくるキャラクターや場面によって、喚起される読み手の感情、想像っていうものを
計算されて創られているのかなぁという気もしましたね。
ただ、ま、もともとがこの作品って、即興で語られたものらしいですから、
作者のルイス・キャロルの感性が、読み手に語りかけて化学反応を起こさせるという
種類のものなのではないかと思います。
というか、ルイス・キャロルが「これ、どうよ?」と提示する、自身の脳の状態を
相手の脳の状態へコピーさせようというものなのかもしれない、なんて、
ちょっと訳のわからない言い方ですが、考えたりしました。
つまり、文学作品でありながら、本質は言葉にあらずな姿勢が感じられるのです。
言葉というツールを使って、言語外のモノを伝えたり、自分の中にあるそういった
言語外の感情なりイメージなりを、言語をとりあえず使って、
読み手の脳の中に再現してもらいましょう、という色合いを強く感じます。
それも、「イメージ」とはいっても、具体的な、物とか人とかのイメージではなくて、
抽象的で感覚的なイメージであり、これを読むことで発見できる種類の
ものだったりもする。
僕は文系タイプの人間ですが、これを書いたキャロルは数学者です。
そんな理系の頭を、楽しく疑似体験できるのが
この『ふしぎの国のアリス』なのかもしれません。
もう一度そういう体験をしたい、などと、
また何年後かに読みなおしそうな作品です。
『ふしぎの国のアリス』 ルイス・キャロル 北村太郎訳
を再読した。
前回読んだのが3年前だったのですが、そのときよりも
断然面白く読めました。
初めて読んだときは、なんだこりゃ、とあまりなじめませんでした。
アリスは独り言が多いし、訳されかたもどこか軽すぎるように感じていました。
それが、時をおいて2回読むと変わるものです。
そして、まともじゃない、おかしすぎる世界が舞台なのですが、
そのおかしさを許容できる年齢に僕はなったのか、と、荒い鼻息がでてしまいました。
アリスはキテレツな世界に最初は戸惑い、翻弄されますが、
物語が進むにつれて、そんな世界に慣れてくるどころか、
自分らしさを発揮し出して、持ち前の利発さと素直さと、
これが大事だと思うのだけれど、まともさで、
「ふしぎの国」を力強くもすいすい泳ぐように進んでいきます。
そうなんです、おかしな世界でも、自分のまともさを失わず、
かといって「ふしぎの国」の狂気を拒絶せず、
アリスは絶妙な付き合い方をしているんですよねぇ。
だからこそ、物語がしらけないのかもしれない。
とはいえ、この作品は、読む人を選ぶっていうわけではないでしょうが、
読んで、面白く感じる人とそうではない人っていうのが出てくるのは
当然な感じがします。「鑑賞(解説その2)」に書かれていましたが、
物語のストーリーの魅力で読ませる作品ではないんですよ。
僕だって、最初に読んだときは、今回読んだ時よりも
面白味がわかっていなかったです。
面白いことは面白いのだけれど、丸ごと受け止めてはいなかったっていうんですかね。
人生経験を重ねることで、そういう、守備範囲が広がったり、読み方が
うまくなったりってするものなんだなぁと実感しました。
なんていうか、この作品はイメージの面白さなんですよね。
出てくるキャラクターや場面によって、喚起される読み手の感情、想像っていうものを
計算されて創られているのかなぁという気もしましたね。
ただ、ま、もともとがこの作品って、即興で語られたものらしいですから、
作者のルイス・キャロルの感性が、読み手に語りかけて化学反応を起こさせるという
種類のものなのではないかと思います。
というか、ルイス・キャロルが「これ、どうよ?」と提示する、自身の脳の状態を
相手の脳の状態へコピーさせようというものなのかもしれない、なんて、
ちょっと訳のわからない言い方ですが、考えたりしました。
つまり、文学作品でありながら、本質は言葉にあらずな姿勢が感じられるのです。
言葉というツールを使って、言語外のモノを伝えたり、自分の中にあるそういった
言語外の感情なりイメージなりを、言語をとりあえず使って、
読み手の脳の中に再現してもらいましょう、という色合いを強く感じます。
それも、「イメージ」とはいっても、具体的な、物とか人とかのイメージではなくて、
抽象的で感覚的なイメージであり、これを読むことで発見できる種類の
ものだったりもする。
僕は文系タイプの人間ですが、これを書いたキャロルは数学者です。
そんな理系の頭を、楽しく疑似体験できるのが
この『ふしぎの国のアリス』なのかもしれません。
もう一度そういう体験をしたい、などと、
また何年後かに読みなおしそうな作品です。