Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ロング・ロング・アゴー』

2014-07-31 23:18:11 | 読書。
読書。
『ロング・ロング・アゴー』 重松清
を読んだ。

再会をテーマにした、6篇収録の短編集です。
重松さんらしく、子どもや子ども時代のことを深く見つめたその成果で
作られた物語という感じがします。

子どもの頃にわかっていたことが、大人になってわからないから、
子どもの力になってあげられないことがしばしばだったりするし、
その顕著な例は子どものいじめがなくならないということにもあるのかもしれない。
いや、集団ができた時点でいじめというものを発生させてしまうのが、
人類の習性でもあるようだというニュース記事を読んだこともあるので、
一概にはそう言い切れない。
だけれど、子どもの気持ちを、自分が子どもだった時くらいの確かさでわかってあげられたら、
きっと、子どものなかの余計な孤独感は減じるのだとは思う。

逆に、子どものころにはよくわからなかったことが、
大人になってわかるようになったりもする。
大人の論理で考えてみれば、無駄ないじめはなくなったかもしれない、
というケースだってありそう。

だから、「大は小を兼ねる」というけれども、
子どもの部分を、大人は兼ねることはできないことがあるので、
子どもを甘く見たり、大人の論理でいいくるめたりはしないほうがいいし、
そうかといって、すべてを子どもにゆだねてしまってアドバイスもできないようでは、
子どもの苦しみを減らしてあげることはできない。
大人、親、教師は、みんなそういうところで苦労するんだと思う。
年の近い兄弟がいれば、年長のほうでも年下のほうでも、
わかってあげられるような、二人三脚ではないけれど、
お互いがお互いの力になってあげることや、
本当に近くで寄り添ってあげることってできるでしょう。
一人っ子の僕には、そういうところがうらやましく感じられる部分です。

割り算の余りがどんどんたまっていくのが人生だ、
というような言葉が本書の中にありました。
わりきれないことが、大人になって増えていく。
それをどんどん抱えていくものだ、ということ。
別の短編では、心の大きさのことが挙げられていた。
子どものころの小さな心では抱えきれなかったことが、
大人の大きくなった心では抱えられるし、
それについて考えることもできるようになった、と。

子どもが成長するのは、自分の世界に順位をつけるようになること。
たとえば、あの子は僕よりも下だとか、公立より私立だとか。
そう重松さんは書いている。
順位をつけていく人生が、都会的というか真っ当なものだとされて、
そこからこぼれおちる人々は残念な人々とされてしまう。
そういう価値基準がこの国を覆っていて、それは強固だったりする。
だから子どもはまず、そういう価値観の中で育てられるのがスタンダードなんだと思う。
十把一絡げに、「教育」だとしてそういう価値観に、
「個別に個性を考えて」などはなしに投げ込まれるわけだから、
子どもって大変な子にしてみればすごく大変で。
その大変さが一生続いたりもするし、顔色の悪い大人とか暗い顔の大人とかは、
そういう大変さのなかから抜け出せないで成長した人々なのかもしれない。

つまり、社会的排除ってものは、そういう最初期からありますっていうことになる。
順位や比較がもっと希薄になって、人と人が認めあうような、
それでいて強すぎない連帯感がある社会がもしもできたら、
そこは社会的に人々を包摂する世の中だと思うんですが。
子どもが成長していくことなかでの順位や比較がそもそもの社会的排除のはじまりなんですよね。
そういうのって、生物学的な、人間というものが社会的動物だということに原因のある
事象なんだろうかって、考えましたが、なかなか答えは出ませんね。

重松さんは、そういう社会的排除すら包みこんでいるような深い心持ちで、
でも精一杯生きていこうとするべきなんだと言っているかのよう。
だから、ほろ苦いんだよねえ。

あぁ、ほろ苦ぇ、ほろ苦ぇ。
人が生きていくうえで味わうほろ苦さって、
でも、それがないと生きている気がしないものでもある。

本書を「妹」だとして、「兄」にあたる短編集が『せんせい。』という作品だそうです。
こちらも気になりますね。

面白かったです。



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