Fish On The Boat

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本性は利己、でいいの?

2014-07-06 00:24:30 | 考えの切れ端
フェアな態度、他人をリスペクトする態度は表面的な「建前」にすぎないものだとして、
本性は利己的でいいのだとゆるぎない自信を持って、
でもその本性はなるべく隠して生きている人たちっているんです。
あるいは、みんなそうだろうと勘違いして、
自分も同調するよという具合に利己者を装う。
あの人がそうだ、だとか、自分がそうかも、
なんて思い当たるふしってあるでしょう?

でも、利己的がいいのか悪いのかを突き詰めて考えると難しくもあるのです。
たとえば、経済学の論理では、みんなが利己的にモノを買ったり売ったりすること、
つまり自己利益の追求という利己的な行動によって、健全な社会経済が保たれるとされる。
僕はそういう経済学の考え方が、現代の人間性をゆがませている部分ってあると思っています。

何を隠そう、僕は大学で経済学を専攻。
そのくせ、まるで勉強せずに(音楽作りとチャットとバイトが生活の中心でした)、
2回生のころには、「経済学って自分に合わねぇわ」とこぼしていたくらいです。
そんな僕ですから、「そんな人のいうことはあてには…」と思う方もいらっしゃるでしょうし、
「それはいい感覚を持っているね、その直感は正しい」と逆に評価してくれる人もいるでしょう。

話を戻しますが、
経済学の論理に従って、じゃあ利己的に生きよう、
と利己に比重をどかっとかけて生きている人がいるとします。
そういうのがトレンドだったかしらないですが、
僕が学生だった頃の同世代にはそういう感じの、
自分の利益が一番という感覚を利己的なスタイルで表現・実践している感じの人って
けっこういたように思います。
そういう人たち同士のつながりってどうでしょうか。
お互いの利益になることにかけては結びつくでしょう。
しかし、利益にならないことに関しては、まったく見向きもしないのではないか。

これは交渉術においてもそうでしょう。
相手の利益になることと引き換えに、こちらの利益となることを飲ませる。
そういった、他人の人格までを考えて強く結びつこうとすることをしない「繋がり」
が主流なんですよね。

なのに、どうして、人は(というか日本人しかわかりませんが)、
建前では利他的な人間であるかのように演じがちなのでしょう、というか、
そういう人がいるのでしょう。
「わたしは、他人のことを思いやれる利他的な行動ができます」
そして、利他、利己とはちょっと違うけれども、自分勝手ではないという意味で、
「わたしは、他人を公平な目で見て、接することができます」
ということを表面的には体現したりします。
それはそれが美徳であるという感覚があるから、
建前でそう形作り演じるということになったりします。
要は、そういう建前を作った方が、受けがいいし、
日本古来からのムラ社会的性質が残るなかで村八分になりにくい。

東日本大震災の後、「絆」というキーワードがホットになりました。
ここでいう「絆」とは、利己的な「繋がり」のことをいうのではなかったと思います。
前述の、他人の人格までを考えて強く結びつこうとしない「繋がり」とは、
向いている方向を異にしていて、「絆」とは、
他人のことをちゃんと考えての強い「繋がり」のことを言うでしょう。
そういう意味からして、震災前までの、利己的な本性で生きるというスタンスと
相反するものだった、「絆」は。
だからこそ、「絆」と聞いて、
利己的なスタンスにあまり疑いを持たずに生きてきた多くの利己的な人にとってみれば、
薄ら寒いような言葉、綺麗ごとの言葉に聴こえた。
そういう人は多かったと思いますし、たしかに押しつけがましくもあった。

だからといって、じゃあ利己的な生き方を堂々と送るべきなのか、といえば、
僕は、違う、といいたい。

そういうのって、やっぱり未成熟に思えるのです。
さらに、そんな未成熟の青いまま成熟してしまうっていう、
甘味のないまま出荷時期を迎えた桃みたいな人って、いるでしょう。
食えない人だね、っていう。やっぱりちゃんと太陽に当たらないとそうなるんです。

と、比喩をはさみながらですが、
つまるところ、利他の精神を大いに持てというのでもなくて。
この間読んだマルセル・モースの解説本によると、モースの主張として、
利他の過剰さはいけない、とあります。
それは施す者にとっても施される者にとっても、きっとあまりよくない影響をもたらすから。
僕は一つの答えとして、自助を基本としての利他ってものを考えています。

自助と、自助を他者が見守る気持ちと、ウルトラマンゾフィーのように、
ウルトラマンに対してゼットンが出てきたときのようなどうしようもないときには
手を貸す気持ちが大事なのではないかと。基本は自助です。

前にも書いたことがあるのですが、
「個人主義の誤訳が利己主義で、意訳は自助だ」と僕は考えているところがあります。
自助って、自分が生きていくために自らが努力したりして
自分自身を助けていこうとする態度。
自助には、利己も利他もないようですが、そこに少しの利他を付与してみると、
世の中ってずいぶん生きやすくなるのではないかなぁと思えてきます。
そんな社会では、「絆」という言葉に対しても、狂信的な感覚は感じないはずだし、
もちろん、忌み嫌う気ような気持ちも減じるのではないか。

心のどこかで、「利他って良いことだ」とする気持ちってありそうに思います。
しかし、良いだの悪いだので判断するがゆえにあまり好ましくない行動をしてしまう
というのがあるのではないか。
以前読んだ本に書いてあった、モラル・ライセンシング効果がそうです。
これは、良いことをした後に、良いことをしたからちょっとくらい悪いことをしてもいいだろう、
となってしまう心理作用だそうです。
お金を拾って交番に届けたという良いことをしたから、
ダイエット中なんだけれど、ご褒美に夜食をもりもり食べてしまう、
みたいな例があげられるでしょうか。
そういう心理効果って、言葉になる以前の感覚的な部分で、みんなわかっていたりもする。
だからこそ、良いことと考えがちな利他ってものがなかなか行動されないんじゃないでしょうか。

繰り返しますが、僕は、自助と利他を推奨します。
これからの社会、つまり、高齢化率が高くなって、経済成長も頭打ちになるであろう社会では、
今以上に連帯感が求められると考えているんです。
連帯感って、利己では作られません。
そうはいいいながら、連帯感による今以上のしがらみがあればそれは厄介なので、
そうはならないような連帯感を考えなければいけない。
これについては、まだ考えがまとまっていない部分もありますし、書いても長くなるので、
そのうちにまた書くかもしれないです。

以上ですが、この感覚は気持ちの持ちようの問題。
マインドをシフトすることができるかにかかっていますが、
急にそうなれってわけじゃなくて、だんだんそうなっていこうとすることは
できるんじゃないかなぁ。
もっとみんなが、いそいそ、じゃなしに、いきいきと、
そして生きやすくできたら、という意識から生まれた考えです。

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