読書。
『一瞬のアジア』 菅洋志
を読んだ。
写真集です。
写真家である著者は昨年亡くなられて、
今作は彼の一周忌を機にしたベストショット編集のものだということです。
タイトルのとおり、中東を除くアジアの国々、
それはブータンであったりインドネシアであったり、
タイであったり、韓国であったり、さまざまです。
そこに何代にもわたってずっと生活してきたであろう人々の姿。
パキスタンだと、遠い昔にアレクサンダー大王が遠征してきてこの地を占領した際に、
そこに住む人々とマケドニアの兵士たちがともに生活し、血が混じり合った
その証とでもいうべき、青い眼や高い鼻といった顔つきの特徴がみられたりします。
昔の史実の痕跡というべきか、昔そうだったから今こうなんだ、という証がみられる。
のっぺりしたアジア人風の顔つきとはまた違っているアジア人でした。
アジアという風土の強い地力。
そこから発せられる、見えないけれど力強いエネルギーに、
ずっと身体すべてをさらされて代を重ねて生きてきた人々。
そういうのにたいしては、共生や共存という言葉があうんだろうけれど、
人間の存在の「ねばっこさ」っていうものをそこに感じずにはいられませんでした。
強靭、頑強、それでいて、うねり、うずまくアジアの環境。
嵐や干ばつなどの自然現象があり、それによって出来あがった地形があり、
そしてその地形や環境に適応した形で植物が茂り、動物たちがまたそれに適応した形で
住まっていて、そしてそれにねばっこく人間が生活している。
そのねばっこさは土着という言葉に置き換えてしかるべきなのかもしれないですが、
その、人々の生活と自然環境とのボーダーのあいまいな部分が美しかったりします。
民族衣装は本当にきれいだし、汚れたシャツを着ている少年たちなんかも、
その泥だか汗なんかでついた茶けた色などが、自然とのボーダーをあいまいにしていて、
そこがいいかもしれないと思ったりする。
伝染病とか風土病とか寄生虫だとか、衛生に気をつけないと怖いのですが、
そこで、欧米由来の衣服や装備や清潔さでアジアに臨んでしまうと、
もう見た感じからして、自然環境、いや、アジアとは馴染まなかったりする。
欧米由来のそういった感じは、「おれらは人間なんだ!」という、
人間と、その他のもの(自然環境、動植物など)を峻別して
きっちりボーダーを引いてしまうやり方なのではないかな。
きっちりボーダーを引いても、植物由来の酸素というものはしっかり吸っていたりもするんですが、
まぁ、意識に登る上では、自然を超えた存在としての人類、みたいなスタンスで、
日本人もそうですけど、先進国の心性ってそんな感じだったりする。
海に潜ったり、森林浴したり、そういう人たちもたくさんいるとは思いますし、
ヨーロッパの国々でも、中世の街並みを残していたりするところは多いでしょうし、
なんでしょうね、大量消費とかモータリゼーションとか都市化とか、
そういったものに代表されるスタイルが常態となった文化になれていると、
このアジアの風情にショックを受けて、考え始めることになるのかもしれないです。
あるいは、拒絶という方法をつかう人もいるでしょうし、少なからず拒絶の心理は
多くの人に働くと思います。
アメリカを追いかけて、高度資本主義の道を突っ走ってきたこの日本の人々の中には、
こういったアジア的な空気を嫌う人も多いと思いますが、
この写真集なんかで、ずっと見つめてみる、見続けてみると、
そこに息づく人々のことを否定しないのが本当なのではないか、と
きっと思えてくるんじゃないかな。
アジアは、僕が20代の頃なんか、ちょっと海外旅行にいくのに流行ってきた感じがありましたが、
僕なんかは、アジアで何を感じればいいのかわからなかったところがあります。
まぁ、食べ物くらいですよ、興味があるのは。
そういうのに、プラス違う興味を与えてくれるような、
気付きをもたらしてくれる写真集だと思います。
そして、それを突き詰めていくと、幸せとは何だろうという問いにぶつかっていくのでしょう。
『一瞬のアジア』 菅洋志
を読んだ。
写真集です。
写真家である著者は昨年亡くなられて、
今作は彼の一周忌を機にしたベストショット編集のものだということです。
タイトルのとおり、中東を除くアジアの国々、
それはブータンであったりインドネシアであったり、
タイであったり、韓国であったり、さまざまです。
そこに何代にもわたってずっと生活してきたであろう人々の姿。
パキスタンだと、遠い昔にアレクサンダー大王が遠征してきてこの地を占領した際に、
そこに住む人々とマケドニアの兵士たちがともに生活し、血が混じり合った
その証とでもいうべき、青い眼や高い鼻といった顔つきの特徴がみられたりします。
昔の史実の痕跡というべきか、昔そうだったから今こうなんだ、という証がみられる。
のっぺりしたアジア人風の顔つきとはまた違っているアジア人でした。
アジアという風土の強い地力。
そこから発せられる、見えないけれど力強いエネルギーに、
ずっと身体すべてをさらされて代を重ねて生きてきた人々。
そういうのにたいしては、共生や共存という言葉があうんだろうけれど、
人間の存在の「ねばっこさ」っていうものをそこに感じずにはいられませんでした。
強靭、頑強、それでいて、うねり、うずまくアジアの環境。
嵐や干ばつなどの自然現象があり、それによって出来あがった地形があり、
そしてその地形や環境に適応した形で植物が茂り、動物たちがまたそれに適応した形で
住まっていて、そしてそれにねばっこく人間が生活している。
そのねばっこさは土着という言葉に置き換えてしかるべきなのかもしれないですが、
その、人々の生活と自然環境とのボーダーのあいまいな部分が美しかったりします。
民族衣装は本当にきれいだし、汚れたシャツを着ている少年たちなんかも、
その泥だか汗なんかでついた茶けた色などが、自然とのボーダーをあいまいにしていて、
そこがいいかもしれないと思ったりする。
伝染病とか風土病とか寄生虫だとか、衛生に気をつけないと怖いのですが、
そこで、欧米由来の衣服や装備や清潔さでアジアに臨んでしまうと、
もう見た感じからして、自然環境、いや、アジアとは馴染まなかったりする。
欧米由来のそういった感じは、「おれらは人間なんだ!」という、
人間と、その他のもの(自然環境、動植物など)を峻別して
きっちりボーダーを引いてしまうやり方なのではないかな。
きっちりボーダーを引いても、植物由来の酸素というものはしっかり吸っていたりもするんですが、
まぁ、意識に登る上では、自然を超えた存在としての人類、みたいなスタンスで、
日本人もそうですけど、先進国の心性ってそんな感じだったりする。
海に潜ったり、森林浴したり、そういう人たちもたくさんいるとは思いますし、
ヨーロッパの国々でも、中世の街並みを残していたりするところは多いでしょうし、
なんでしょうね、大量消費とかモータリゼーションとか都市化とか、
そういったものに代表されるスタイルが常態となった文化になれていると、
このアジアの風情にショックを受けて、考え始めることになるのかもしれないです。
あるいは、拒絶という方法をつかう人もいるでしょうし、少なからず拒絶の心理は
多くの人に働くと思います。
アメリカを追いかけて、高度資本主義の道を突っ走ってきたこの日本の人々の中には、
こういったアジア的な空気を嫌う人も多いと思いますが、
この写真集なんかで、ずっと見つめてみる、見続けてみると、
そこに息づく人々のことを否定しないのが本当なのではないか、と
きっと思えてくるんじゃないかな。
アジアは、僕が20代の頃なんか、ちょっと海外旅行にいくのに流行ってきた感じがありましたが、
僕なんかは、アジアで何を感じればいいのかわからなかったところがあります。
まぁ、食べ物くらいですよ、興味があるのは。
そういうのに、プラス違う興味を与えてくれるような、
気付きをもたらしてくれる写真集だと思います。
そして、それを突き詰めていくと、幸せとは何だろうという問いにぶつかっていくのでしょう。