読書。
『文鳥・夢十夜』 夏目漱石
を読んだ。
短編小説と随想のあいだくらいのものだったり、
日記調のものだったりする小さな作品を小品というそうですが、
夏目漱石のそんな小品を集めた本です。
もともと、昨年の三月に観たのですが、
Eテレ『100分de名著 夏目漱石スペシャル』にて扱われた『夢十夜』に、
理屈を超えたところで、なにか強く惹かれるものがあり、
これを目当てで本書を手に入れて、今回やっと、読んだのでした。
309ページの分量のなか『夢十夜』はたかだか30ページそこそこ。
読み終えてしまうと、
そのあとの200ページ超にまったく期待をしていなかったため、
すこし放っておいたくらいなのですが、
続きを読みだすとすごくおもしろい。
どんな小さな作品でも、夏目漱石をみくびるものではないな、と
恐れ入った次第です。
なんていうか、夏目漱石って人はエリートで文豪というイメージですから、
強い意志で文学をやり抜いた人で、明治ならではの頑固者でもあったのではないか、
なんて勝手に思ってしまうのですが、そうじゃないんですよね。
文学をやり抜いたことはすごいことですけども、
漱石自身もそうであるとしながら、
人間一般っていうものの柔弱な部分を見つめ、
愚かな部分を秘密にせず、露わにすることをよしとしている。
明治時代ならではだなあ、と現代人には受けとめられるような、
男尊女卑の浸透した生活の描写であっても、
出来うる限りのフラットさで女性を描いているふうであるので、
描かれている人間の差別意識だとか階級意識が透けて見えてくる。
「素直に、ストレートに」というような姿勢が
漱石のベースにはあるなあと読み受けました。
イギリス留学時のいっときについての小品もありますし、
猫(吾輩は猫であるのモデルですね)が死んだときの小品もあります。
その他、明治の頃の情緒、生活感などを感じることができます。
そんなところで驚くのが、
当時の思想や哲学に、現代に十分使えそうなものがあることでした。
漱石くらいのエリートですから、
洋書をたくさん読んでいます。
舶来品として、西洋で出版されてからそれほど長いタイムラグもなく
漱石たち文化人や学生たちは吸収していたのかもしれない。
……まあ、わかりませんが。
たとえば、こんなのがあります。
血を吐いて長く静養した43歳前後のころに書きとめた
『思い出す事など』という小品集での23章目にあたるところなんですが、
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余は好意の干からびた社会に存在する自分を甚だぎこちなく感じた。
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から始まっていく洞察であり思想であるところが、
僕にとっては非常に共感するものだったのです。
「義務」と「好意」についての話なんです。
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人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論有難い。
けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、
人間を相手に取った言葉でも何でもない。
従って義務の結果に浴する自分は、
有難いと思いながらも、
義務を果たした先方に向って、感謝の念を起し悪(にく)い
それが好意となると、
相手の所作が一挙一動悉く自分を目的にして働いてくるので、
活物(いきもの)の自分にその一挙一動が悉く応える。
其処に互を繋ぐ暖かい糸があって、
器械的な世を頼もしく思わせる。
電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、
人の脊に負われて浅瀬を越した方が情けが深い。
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このあとにも続いていくのですが、
仕事でもなんでも義務でやっていたら干からびてくる、
半分でも好意が混じっていたらあたたかい、と漱石は言うんです。
僕もこの事について同じように考えていたことがあって、
それはモース『贈与論』を解説する本に触発されたものでした。
そのあたりは、本ブログの記事としてもいくつか残っています。
『贈与論』は漱石の死後8,9年後の出版ですし、
その後いつ邦訳されたかはわからないですが、
「干からびた社会」という気付きに繋がる時代の空気みたいなものが、
たぶん1900年前後の何十年間かに世界的にあったのかもしれない。
日本では平成の終わり頃から、
同時多発的にこれが再発生してきているように、僕には見受けられる。
僕はたとえばトレーサビリティにも人の温かみ、
つまりその人の体温や影を受け手が感じるようになればいいのに、
と考えていたのだけれど、
実はそれって比較的近い年代である近代からの温故知新的なのですね。
この、「人を想う」的生活って、
コモディティ化(一般化)したらいいのにと思っています。
なんでそんな「人を想う」ようなライフスタイルがいいの? と問われれば、
そのほうがみんな生きやすくなるから、と答えます。
「一般」だとか、「ふつう」だとか、そういった人たちの生きやすさ。
なので基本的に、
抜き身の刀を手に世界に出て「えいやぁ!」と戦うような人のための思想ではありません。
また、27章目でも、おもしろい思想が出てきます。
オイッケンという学者の説を紹介しながら、漱石なりの解説をするところです。
そこで扱われるのが、精神生活という言葉であり概念です。
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(略)オイッケンの所謂自由な精神生活とは、こんなものではなかろうか。
―――我々は普通衣食の為に働いている。衣食のための仕事は消極的である。
換言すると、自分の好悪選択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。
そういう風に外から圧し付けられた仕事では精神生活とは名付けられない。
苟しくも精神的に生活しようと思うなら、
義務なき所に向かって自ら進む積極のものでなければならない。
束縛によらずして、己れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。
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これを漱石はこのあと、実際は、精神生活の割合は、6:4だとか7:3だとか、
そうやってみんな折り合いをつけているんじゃないのか、
と現実の所に着地させています。
先ほどと同じように、この思想に関しても、
僕は他律性、自律性という言葉から連想していろいろ思索し、
本ブログにもその形跡が多数、記事として残っていますし、
6:4だとか7:3のところは、
2000年くらいから流行った「自分探し」というものの
ひとつの形があるのではと考えていました。
つまり、自分探しとは、自分と社会の綱引きをやって、
「どうやら6:4のポジションが自分には一番ストレスがない」
と見つけることでもあったんじゃないか、というものです。
(そういう種類の自分探しもあったのでは、という話です。)
ともあれ、「いや~、漱石と同じことを考えていた」と驚くのですが、
僕の頭が明治のころの時代の思想にしっくりきているあたりがちょっと可笑しい……。
それも、僕の何年もかけた思索が、
この小品集『思い出す事など』のなかにすっぽりはいる程度だというのには
泣き笑いしてしまうなあという感じですね。
漱石はいろいろと作品を残したので、それらに点在しているならまだ好いですが、
ひとつところに収まっているのが、まあ、偶然の重なりみたいでもあって、
不思議な感じもします。
というように、
いつも通りですけども、
僕自身に寄せて読んで考えて、読後のその感想を書いてみました。
まだいろいろ感じる部分、考える部分はありましたが、
ちょっと絞って書いていくと、そこに頭が集中してしまって、
書かなかったことが雲のように散ってしまい残らないものです。
世間的にこの作品がどれくらいの評価なのかはわかりませんが、
僕にはとてもおもしろく、好きな作品でした。