読書。
『新版 枕草子 上巻・下巻』 清少納言 石田穣二 訳注
の二冊を読んだ。
初めこそ原文と訳文を比べながら読みましたが、
ほぼ現代語訳で読んだのでした。
ユーモアやウイットをごく自然なふうに駆使しながら、
美しいものやおもしろいものや笑えるものなど、ポジティブな事柄を中心に綴っています。
ただ、ユーモアやウイットを自然なふうに駆使するのは作者の清少納言だけではなく、
登場する宮中の人物たちそれぞれもそうなのです。
当時は、落ちついた所作と態度で発する、余裕を持ったユーモアやウイットを
「優雅」と呼んだみたいですね。当時の優雅は知性とぴったりとくっついているようです。
また、書き手のやわらかでこまやかな心の動きや感性と、
時代や地位からくるであろう、うっすらとした無意識的な傲慢さとが、
文章の背後に残っていました。
こういうのは、ほんとうのところが知れて勉強になります。
読んでみてとくに心に残ったのは、犬が打たれる話、雪山の話など。
そして、たびたび中国からくる使者が難題をふっかけてきて、
中国と日本の宮中の間で知恵比べをする逸話にも、
へえー、と思いました。
自由恋愛の世界でもあって、夜な夜なあちこちで逢引が行われている話も多く、
平安の貴族たちは、思っていたよりもずっと眠らない世界に暮していたんだなあ、と知りました
(『源氏物語』について授業で話を聞いたときに
平安時代の眠らない貴族事情を知ったのがほんとうの初めてで、
それを思いだす感じでもありました)。
あとは、夏のかき氷はいいなあ、だとか(洞窟で作ってたはず)、
胸を悪くして寝ている若くきれいな女性(主君の中宮定子かな?)が、
吐くために身を起こすさまがいたいたしくて美しい、だとか、
清少納言のユニークで素直で感性のゆたかなところに触れることができます。
後者の「吐くために身を起こすのが美しい」というのは、
たぶんに嗜虐的にそういっているのではなく、
慈しみやエンパシーと絡んでの言葉だと解釈しました。
そして、読んでいるとその時代のかれらの世界にシンクロする気分になれるのがおもしろかった。
こうして、ちびちびとゆっくり『枕草子』を読んでみると、
僕自身の回復と充電がすすむような感じがしてきました。
おまけに自分にくっついていた雑多なあれこれが、
いつのまにか落ちていて身軽になっているような感じがしてくるし、
違う地平が見えてきた気さえしてくる。
……ということは、これはつまり、
現代の空気がいかに毒気を帯びているかを物語っているのではないのか。
まあ、そこのところは当時にしてみたって、
政争があり、きまりやしきたりが窮屈だったりもしたでしょう。
僕が「隣の芝生は青い」的な気分になったために、
現代より平安時代が輝いて見えたのかもしれない。
でも、平安貴族世界の息遣いを近くに感じられるこの作品を読んで、
そんなふうな、現代の毒気から遠のいた気分、つまり清浄な気分になれるのには、
もともと先入観としてある「現代人のほうが賢いし利口だ」という思いが、
作品内の貴族同士のやり取りから感じられる彼らの知性や、
背後にある成熟した文化的な空気感によって払拭されると同時に、
楽しめる作りになっているがためなのだと思いました。
『枕草子』という平安時代的洗練のなかには、
「河原で、陰陽師に人にかけられた呪いのお祓いをしてもらっているとき、胸がすっとするなあ。」
なんていうのがふつうにでてくる。
「もののけ調伏」なんていう言葉もふつうにでてくる。
清少納言が生きていたのはこういう世界なんですねえ。
また、しなやかで油っけのなさが、それこそ「和風」というように感じさせるし、
それゆえに読後感がどこか、ちょっぴりはかなげに感じていいのかなと思えるところがある。
当時の仏教の影響だってあるのかもしれないです。
『枕草子』は当時の帝のお妃である中宮定子のための随筆だと言われるところですが、
読んでみると随筆といったものの、作為的に書かれている感じのするところがあります。
巻末の解説を読むと、
解説者自身は「無条件に随筆であるとする立場にはない」とのことでした。
つまり、空想やフィクションが混じっているのでしょう。
このあたりを鑑みて、僕のごく個人的な評価にはなるんですが、
「『枕草子』は、私小説的エンタメ(随筆形式)。」とくくってみることにしました
(僕としてはフィットするんですが、どうでしょうね?)。
自分に悪い噂が立ち、
大切にしたい繋がりを持つ人に誤解されないためであっても、こちらから説明や弁明はしない、
なぜなら癪に障るから、というのがどうやら清少納言なので、
もしも当時マスメディアがあってインタビューすることができても、
彼女の創作の秘密は明かされないような気がします。
最近の『枕草子』評論には、紫式部の清少納言批判から考察して、
清少納言は、こんな美やおもしろさばかりを享受したり書いたりしていられる環境や境遇にはないはずで、
絶望さえみえている過酷な状況下にいたのに書いたとするものもあるそうです。
個人的には、これはなかなか納得がいく説じゃないだろうかと思いました。
「意地」というか、「それこそが創作」というか、
身辺のごたごたを超えて、そして感じさせず、ですから。
『枕草子』は仕えていた中宮定子の格を上げるためでもあったでしょうが、
生活が苦しくなるのに反比例してすごい作品をつくりだしていった
モーツァルト的な創作の精神もあったのではないかと推察できます。
つまりは、モノを作り出すタイプのひとつの型として珍しくはないわけです。
……しかし、そうはいっても、いまとなってはどうやったって真実はわかりませんけれども。
今回、日本の古典を読みましたが、僕としてはかなり珍しいことなのでした。
たぶん、日本の古典は学生時代以来に触れています。
古語をきちんと読めなくてもしっかりした現代語訳があるわけだし、
読んでみれば堅苦しくない内容だし、それどころか新世界が開けてしまう。
こうやって、少しずつ、自分の狭い了見が崩れていくのは喜ばしいです。
そのうちまた、日本の古典を手に取ろうという心づもりになりました。
『新版 枕草子 上巻・下巻』 清少納言 石田穣二 訳注
の二冊を読んだ。
初めこそ原文と訳文を比べながら読みましたが、
ほぼ現代語訳で読んだのでした。
ユーモアやウイットをごく自然なふうに駆使しながら、
美しいものやおもしろいものや笑えるものなど、ポジティブな事柄を中心に綴っています。
ただ、ユーモアやウイットを自然なふうに駆使するのは作者の清少納言だけではなく、
登場する宮中の人物たちそれぞれもそうなのです。
当時は、落ちついた所作と態度で発する、余裕を持ったユーモアやウイットを
「優雅」と呼んだみたいですね。当時の優雅は知性とぴったりとくっついているようです。
また、書き手のやわらかでこまやかな心の動きや感性と、
時代や地位からくるであろう、うっすらとした無意識的な傲慢さとが、
文章の背後に残っていました。
こういうのは、ほんとうのところが知れて勉強になります。
読んでみてとくに心に残ったのは、犬が打たれる話、雪山の話など。
そして、たびたび中国からくる使者が難題をふっかけてきて、
中国と日本の宮中の間で知恵比べをする逸話にも、
へえー、と思いました。
自由恋愛の世界でもあって、夜な夜なあちこちで逢引が行われている話も多く、
平安の貴族たちは、思っていたよりもずっと眠らない世界に暮していたんだなあ、と知りました
(『源氏物語』について授業で話を聞いたときに
平安時代の眠らない貴族事情を知ったのがほんとうの初めてで、
それを思いだす感じでもありました)。
あとは、夏のかき氷はいいなあ、だとか(洞窟で作ってたはず)、
胸を悪くして寝ている若くきれいな女性(主君の中宮定子かな?)が、
吐くために身を起こすさまがいたいたしくて美しい、だとか、
清少納言のユニークで素直で感性のゆたかなところに触れることができます。
後者の「吐くために身を起こすのが美しい」というのは、
たぶんに嗜虐的にそういっているのではなく、
慈しみやエンパシーと絡んでの言葉だと解釈しました。
そして、読んでいるとその時代のかれらの世界にシンクロする気分になれるのがおもしろかった。
こうして、ちびちびとゆっくり『枕草子』を読んでみると、
僕自身の回復と充電がすすむような感じがしてきました。
おまけに自分にくっついていた雑多なあれこれが、
いつのまにか落ちていて身軽になっているような感じがしてくるし、
違う地平が見えてきた気さえしてくる。
……ということは、これはつまり、
現代の空気がいかに毒気を帯びているかを物語っているのではないのか。
まあ、そこのところは当時にしてみたって、
政争があり、きまりやしきたりが窮屈だったりもしたでしょう。
僕が「隣の芝生は青い」的な気分になったために、
現代より平安時代が輝いて見えたのかもしれない。
でも、平安貴族世界の息遣いを近くに感じられるこの作品を読んで、
そんなふうな、現代の毒気から遠のいた気分、つまり清浄な気分になれるのには、
もともと先入観としてある「現代人のほうが賢いし利口だ」という思いが、
作品内の貴族同士のやり取りから感じられる彼らの知性や、
背後にある成熟した文化的な空気感によって払拭されると同時に、
楽しめる作りになっているがためなのだと思いました。
『枕草子』という平安時代的洗練のなかには、
「河原で、陰陽師に人にかけられた呪いのお祓いをしてもらっているとき、胸がすっとするなあ。」
なんていうのがふつうにでてくる。
「もののけ調伏」なんていう言葉もふつうにでてくる。
清少納言が生きていたのはこういう世界なんですねえ。
また、しなやかで油っけのなさが、それこそ「和風」というように感じさせるし、
それゆえに読後感がどこか、ちょっぴりはかなげに感じていいのかなと思えるところがある。
当時の仏教の影響だってあるのかもしれないです。
『枕草子』は当時の帝のお妃である中宮定子のための随筆だと言われるところですが、
読んでみると随筆といったものの、作為的に書かれている感じのするところがあります。
巻末の解説を読むと、
解説者自身は「無条件に随筆であるとする立場にはない」とのことでした。
つまり、空想やフィクションが混じっているのでしょう。
このあたりを鑑みて、僕のごく個人的な評価にはなるんですが、
「『枕草子』は、私小説的エンタメ(随筆形式)。」とくくってみることにしました
(僕としてはフィットするんですが、どうでしょうね?)。
自分に悪い噂が立ち、
大切にしたい繋がりを持つ人に誤解されないためであっても、こちらから説明や弁明はしない、
なぜなら癪に障るから、というのがどうやら清少納言なので、
もしも当時マスメディアがあってインタビューすることができても、
彼女の創作の秘密は明かされないような気がします。
最近の『枕草子』評論には、紫式部の清少納言批判から考察して、
清少納言は、こんな美やおもしろさばかりを享受したり書いたりしていられる環境や境遇にはないはずで、
絶望さえみえている過酷な状況下にいたのに書いたとするものもあるそうです。
個人的には、これはなかなか納得がいく説じゃないだろうかと思いました。
「意地」というか、「それこそが創作」というか、
身辺のごたごたを超えて、そして感じさせず、ですから。
『枕草子』は仕えていた中宮定子の格を上げるためでもあったでしょうが、
生活が苦しくなるのに反比例してすごい作品をつくりだしていった
モーツァルト的な創作の精神もあったのではないかと推察できます。
つまりは、モノを作り出すタイプのひとつの型として珍しくはないわけです。
……しかし、そうはいっても、いまとなってはどうやったって真実はわかりませんけれども。
今回、日本の古典を読みましたが、僕としてはかなり珍しいことなのでした。
たぶん、日本の古典は学生時代以来に触れています。
古語をきちんと読めなくてもしっかりした現代語訳があるわけだし、
読んでみれば堅苦しくない内容だし、それどころか新世界が開けてしまう。
こうやって、少しずつ、自分の狭い了見が崩れていくのは喜ばしいです。
そのうちまた、日本の古典を手に取ろうという心づもりになりました。