読書。
『置かれた場所で咲きなさい』 渡辺和子
を読んだ。
10年くらい前に100万部超えのベストセラーになったキリスト教的なやわらかな人生訓エッセイ。著者は、若くしてノートルダム清心学園の理事長となり、本書刊行時には85歳のシスターです。
<時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください。> p13
「んなこといわれてもなあ……なかなか納得がいくものではないんだよなあ」と思いつつ、そのほかのエッセイも読み進めていきました。著者なりの固有の人生で積み重ねられた体験や経験、学んだ教義や聖書を読み解いて得たもの、好みの詩など、そのようなバックグラウンドから発せられる柔らかくて筋の通った言葉たちと、まず出だしのインプレッションでかみ合わなくとも、読み手としては冷笑的にならずに向かい合うのがフェアだと思ってそうするわけですから、著者の言い分と自分の考えや感じ方との落としどころを考えながらの箇所が数多くでてきます。咀嚼しつつ、自分なりの解釈をしていく。この言葉のこうこうこういう部分だけならわかる、だとか、自分もできそう、だとかいうように。まあそれでも、読み進めるうちに著者との距離感がわかってきますから、そうするとすんなり「そうかぁ」と読むところも多くでてきます。
<‟あなたが大切だ”、と誰かにいってもらえるだけで、生きて行ける。>(存在を認められるだけで人はもっと強くなれる)p71
この言葉は、承認されることで自分のいのちを大切にすることができるし、承認することで他者のいのちを大切にすることができる、と言い換えることができます。昨今、人には承認欲求があるなんて言われますけれども、それを否定的にとらえて、承認欲求なんてくだらないだとか、そんなものを求めてくるな、だとかネット世界ではよく言われているのを目のあたりにしたりします。本書の言葉を嚙みしめるならば、いかにネット世界に冷淡なふるまいが多いか、というのが無情にもわかってくると思います。(僕もそれとは別の意味では、きっと冷淡だ、とされる行為をしているとは思うので、そこも反省点なのですが)
<時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。>(待つことで、心にゆとりができると気づいた時、生きている現在は、より充実したものになる)p79
これは、時間はいのちと同じようなものなのだから、大事に節約したり無駄にしないようにしたりしなさい、というのではないんです。実はその真逆で、生き急がないで待つことを覚えましょう、というのでした。「待つ」ことができることこそ、待てないことよりも、いのちの使い方としてまっとうだと述べられています。豊かさ、とはおそらく「待てるほう」なのでしょう。
<信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。>(この世に完璧な人間などいない。心に2%のゆとりがあれば、相手の間違いを許すことができる。>p139
相手を信じることこそ尊く、他者への全面的な信頼はクリスチャンの基本のようにすら思えるのですが、著者は人生経験を積んで98%がちょうどいい、と考えています。なぜなら、信頼していて、言葉が悪いですが裏切られるときもあります。意図せず失敗したりなどもありますから。そんなときに、100%信じていたら許せなくなってしまう。2%のゆとりこそ、相手を許せる心持ちを生むということでした。
<「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練さえも、両手でいただくこと。>(すすんで人のために自我を殺すことが、平和といのちを生み出す)p157
これは自己犠牲の領域の話です。実は僕はこういうことの多い生活を送っています。それは介護などをしている影響がありますが、それ以上になんとなく自らの性質として平和を生み出そうとする気持ちを持っているっぽいとも思えるのです。でも、そこを指摘しくれたりわかってもらえたりしたことはないですが、まあ、好きでやってるんだよ、といった気持ちでいることがほとんどです。たまに嫌になりますが、そこがたとえばクリスチャンの方々からすれば、まだまだ修養が足りません! となるのかもしれないです。
というような人生訓が、50項ある本です。ゆったり読むと、安らぎを感じられますね。この時期、あたたかな部屋で、あるいは毛布にくるまるなどあたたかくして本書のページを開くと、心のほうにも遠赤外線のようなぽかぽかさが自然と宿ってくるかもしれません。
『置かれた場所で咲きなさい』 渡辺和子
を読んだ。
10年くらい前に100万部超えのベストセラーになったキリスト教的なやわらかな人生訓エッセイ。著者は、若くしてノートルダム清心学園の理事長となり、本書刊行時には85歳のシスターです。
<時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください。> p13
「んなこといわれてもなあ……なかなか納得がいくものではないんだよなあ」と思いつつ、そのほかのエッセイも読み進めていきました。著者なりの固有の人生で積み重ねられた体験や経験、学んだ教義や聖書を読み解いて得たもの、好みの詩など、そのようなバックグラウンドから発せられる柔らかくて筋の通った言葉たちと、まず出だしのインプレッションでかみ合わなくとも、読み手としては冷笑的にならずに向かい合うのがフェアだと思ってそうするわけですから、著者の言い分と自分の考えや感じ方との落としどころを考えながらの箇所が数多くでてきます。咀嚼しつつ、自分なりの解釈をしていく。この言葉のこうこうこういう部分だけならわかる、だとか、自分もできそう、だとかいうように。まあそれでも、読み進めるうちに著者との距離感がわかってきますから、そうするとすんなり「そうかぁ」と読むところも多くでてきます。
<‟あなたが大切だ”、と誰かにいってもらえるだけで、生きて行ける。>(存在を認められるだけで人はもっと強くなれる)p71
この言葉は、承認されることで自分のいのちを大切にすることができるし、承認することで他者のいのちを大切にすることができる、と言い換えることができます。昨今、人には承認欲求があるなんて言われますけれども、それを否定的にとらえて、承認欲求なんてくだらないだとか、そんなものを求めてくるな、だとかネット世界ではよく言われているのを目のあたりにしたりします。本書の言葉を嚙みしめるならば、いかにネット世界に冷淡なふるまいが多いか、というのが無情にもわかってくると思います。(僕もそれとは別の意味では、きっと冷淡だ、とされる行為をしているとは思うので、そこも反省点なのですが)
<時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。>(待つことで、心にゆとりができると気づいた時、生きている現在は、より充実したものになる)p79
これは、時間はいのちと同じようなものなのだから、大事に節約したり無駄にしないようにしたりしなさい、というのではないんです。実はその真逆で、生き急がないで待つことを覚えましょう、というのでした。「待つ」ことができることこそ、待てないことよりも、いのちの使い方としてまっとうだと述べられています。豊かさ、とはおそらく「待てるほう」なのでしょう。
<信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。>(この世に完璧な人間などいない。心に2%のゆとりがあれば、相手の間違いを許すことができる。>p139
相手を信じることこそ尊く、他者への全面的な信頼はクリスチャンの基本のようにすら思えるのですが、著者は人生経験を積んで98%がちょうどいい、と考えています。なぜなら、信頼していて、言葉が悪いですが裏切られるときもあります。意図せず失敗したりなどもありますから。そんなときに、100%信じていたら許せなくなってしまう。2%のゆとりこそ、相手を許せる心持ちを生むということでした。
<「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練さえも、両手でいただくこと。>(すすんで人のために自我を殺すことが、平和といのちを生み出す)p157
これは自己犠牲の領域の話です。実は僕はこういうことの多い生活を送っています。それは介護などをしている影響がありますが、それ以上になんとなく自らの性質として平和を生み出そうとする気持ちを持っているっぽいとも思えるのです。でも、そこを指摘しくれたりわかってもらえたりしたことはないですが、まあ、好きでやってるんだよ、といった気持ちでいることがほとんどです。たまに嫌になりますが、そこがたとえばクリスチャンの方々からすれば、まだまだ修養が足りません! となるのかもしれないです。
というような人生訓が、50項ある本です。ゆったり読むと、安らぎを感じられますね。この時期、あたたかな部屋で、あるいは毛布にくるまるなどあたたかくして本書のページを開くと、心のほうにも遠赤外線のようなぽかぽかさが自然と宿ってくるかもしれません。