究極の打撃理論 高岡英夫、松井 浩 著
☆週刊誌の新刊紹介欄でタイトルが目に付いて本屋に探しに行った。正直な話、野球の本は洋物、歴史物、外国物、技術論、小説殆ど読んでいるが、大変、申し訳ないが、著者の名前も知らなかった。タイトルが目に付いたのは僕自身小学校から野球をやっきて、バッティングでは、インコースの高目を狙い玉にしてきたからだ。まあ、著者の年代と隔世の感がある訳だが、僕の「インコース論」を書いて見たい。
☆僕は小学5年時代、桐生へ疎開して其処で「空中ベース」を始めてやって驚いた。それまでは芝、御成門の歩道で、「ゴロベース」ばかりだった。中学成蹊に入り野球部に入ったが、旧制高校の付属で高校生の硬式練習を手伝わされたり、旧制高校流の扇形キャッチボールを遣らされたりしたものである。偶々1年上級生に大正時代立教の名外野手二神さんの息子さんが居て、彼は足の具合が悪かったが、良くキャッチャーを遣ってあげた。当時、「モンテイー・ストラットン物語(甦る熱球」」と言う義足の投手の映画が上映されたりしていた時代である。ある日「親父にバッティングを教われよ...」と自宅に誘われて、スイングをさせられた。其処で、ポイントの一番前は「インコースの高め」それから、「真ん中」「アウトコース」と体の前に来る。
☆ボールに遅れない様にするには「インコースの高め」の「素振りをしろ」と教わった。
☆まあ、昔流のバッティングである。この中学のチームには早稲田の伊丹安広さんの息子さんもいたが、右投げ、左打ちで僕と、もう一人3人の右投げ左打ちが居て60年前の当時とすれば割合と強かったが、キザなチームだった。
☆さて、慶応高校から大学に入ると、甲子園出が沢山居て、全然僕らの出番は無い。練習すら満足にやらせて貰えない。当時は六大学全盛時代、プロの黎明期と言えるか?
☆僕らの同期の中から、衆樹、中田、日野の3人がプロ入りしている。1961年秋、当時は、水原、宇野、別当、飯島の慶応OBが衆樹を見に日吉の練習を見に来た。一番印象的で今でも瞼に鮮明に浮かぶのはこの時の別当さんである。背広、普通の靴、ネクタイを締めたまま、上着だけ脱ぎ、しばし、レギュラーのバッティングを見ていた後、「インコースはこうやって打つんや」と言って打席に立ち「おい!インコースを投げろ」と言って脇を締めて右中間やレフトのネットの上段に軽々と打ち込んだ。正に、「グリップエンドをボールの内側に向かって打つ」のである。今までの僕らが持っていた「イメージ」とは全然違う、「インコースを右中間に飛ばす」プロの技術には本当に驚いた。あの時のバッティングピッチャーは左の浜部君だった。
☆その後、僕は1962年自動車ディラーに就職した。丁度、ショールームで車を磨いていた時に、別当さんがご夫婦で入ってきた。僕は勿論直ぐ解ったので、「いらっしゃいませ。僕は後輩です」と言ってあの時のバッティングの感想を話したら、それから、すっかり打ち解けて可愛がって貰い、僕の結婚式にも主賓として来ていただいた。ゴルフを教わったり、クラブを何本か貰ったり、雨で試合の流れた日などは、4時半頃会社に来て「おい!マス公,飯くいに行こう」「未だ、時間中です」「いやないか、後30分だろう...チョット上の人に言って来い」上の人が「ノウ」と言うわけが無い。当時のトップスターしかもお客様だ。良く銀座、赤坂へお供をさせられた。衆樹と同級なのは勿論ご存知だったが、「毎日」時代延べ10回はお供をさせられたが、選手と一緒だった事は小野投手と一度だけである。お店は大体二軒だけで、帰りは早かった。「孤高の紳士」と言われていたが、僕も晩年監督の立場が解るようになった。私情に溺れない為に「選手を引き連れて遊びに行かない」...のちのちとても参考に成った。
☆野球も、体力、用具、練習選手の数等随分と変わって凄い進歩である。山内一弘さんとも2~3年前に「アフリカ野球友の会」の練習で、話す機会はあったが、この疑問については話していない。次の機会には、僕は「インコース打ちは青田さんに聞いた」のか「別当さんに習ったのか?」聞いて見たい。いずれにしても、著者の時代とは遥かに離れている事は事実である。今や、ボールを引き付けて早く、強く、遠くへ飛ばす事がベストの時代の様だし、多くのプロ野球の選手がインコース打ちをマスターしているのを先輩はどんな目で見ているのだろう。
☆こんな事を書いていると別当さんとゴルフの事を書きたくなった。色んな思い出があるが次の機会のしよう。
☆別当 薫 生年月日 1920年 プロ入団 1948年 毎日監督兼任 1952年(36歳)
☆青田 昇 生年月日 1924年 プロ入団 1942年(18歳)
☆山内一弘 生年月日 1932年 プロ入団 1952年(20歳)
☆週刊誌の新刊紹介欄でタイトルが目に付いて本屋に探しに行った。正直な話、野球の本は洋物、歴史物、外国物、技術論、小説殆ど読んでいるが、大変、申し訳ないが、著者の名前も知らなかった。タイトルが目に付いたのは僕自身小学校から野球をやっきて、バッティングでは、インコースの高目を狙い玉にしてきたからだ。まあ、著者の年代と隔世の感がある訳だが、僕の「インコース論」を書いて見たい。
☆僕は小学5年時代、桐生へ疎開して其処で「空中ベース」を始めてやって驚いた。それまでは芝、御成門の歩道で、「ゴロベース」ばかりだった。中学成蹊に入り野球部に入ったが、旧制高校の付属で高校生の硬式練習を手伝わされたり、旧制高校流の扇形キャッチボールを遣らされたりしたものである。偶々1年上級生に大正時代立教の名外野手二神さんの息子さんが居て、彼は足の具合が悪かったが、良くキャッチャーを遣ってあげた。当時、「モンテイー・ストラットン物語(甦る熱球」」と言う義足の投手の映画が上映されたりしていた時代である。ある日「親父にバッティングを教われよ...」と自宅に誘われて、スイングをさせられた。其処で、ポイントの一番前は「インコースの高め」それから、「真ん中」「アウトコース」と体の前に来る。
☆ボールに遅れない様にするには「インコースの高め」の「素振りをしろ」と教わった。
☆まあ、昔流のバッティングである。この中学のチームには早稲田の伊丹安広さんの息子さんもいたが、右投げ、左打ちで僕と、もう一人3人の右投げ左打ちが居て60年前の当時とすれば割合と強かったが、キザなチームだった。
☆さて、慶応高校から大学に入ると、甲子園出が沢山居て、全然僕らの出番は無い。練習すら満足にやらせて貰えない。当時は六大学全盛時代、プロの黎明期と言えるか?
☆僕らの同期の中から、衆樹、中田、日野の3人がプロ入りしている。1961年秋、当時は、水原、宇野、別当、飯島の慶応OBが衆樹を見に日吉の練習を見に来た。一番印象的で今でも瞼に鮮明に浮かぶのはこの時の別当さんである。背広、普通の靴、ネクタイを締めたまま、上着だけ脱ぎ、しばし、レギュラーのバッティングを見ていた後、「インコースはこうやって打つんや」と言って打席に立ち「おい!インコースを投げろ」と言って脇を締めて右中間やレフトのネットの上段に軽々と打ち込んだ。正に、「グリップエンドをボールの内側に向かって打つ」のである。今までの僕らが持っていた「イメージ」とは全然違う、「インコースを右中間に飛ばす」プロの技術には本当に驚いた。あの時のバッティングピッチャーは左の浜部君だった。
☆その後、僕は1962年自動車ディラーに就職した。丁度、ショールームで車を磨いていた時に、別当さんがご夫婦で入ってきた。僕は勿論直ぐ解ったので、「いらっしゃいませ。僕は後輩です」と言ってあの時のバッティングの感想を話したら、それから、すっかり打ち解けて可愛がって貰い、僕の結婚式にも主賓として来ていただいた。ゴルフを教わったり、クラブを何本か貰ったり、雨で試合の流れた日などは、4時半頃会社に来て「おい!マス公,飯くいに行こう」「未だ、時間中です」「いやないか、後30分だろう...チョット上の人に言って来い」上の人が「ノウ」と言うわけが無い。当時のトップスターしかもお客様だ。良く銀座、赤坂へお供をさせられた。衆樹と同級なのは勿論ご存知だったが、「毎日」時代延べ10回はお供をさせられたが、選手と一緒だった事は小野投手と一度だけである。お店は大体二軒だけで、帰りは早かった。「孤高の紳士」と言われていたが、僕も晩年監督の立場が解るようになった。私情に溺れない為に「選手を引き連れて遊びに行かない」...のちのちとても参考に成った。
☆野球も、体力、用具、練習選手の数等随分と変わって凄い進歩である。山内一弘さんとも2~3年前に「アフリカ野球友の会」の練習で、話す機会はあったが、この疑問については話していない。次の機会には、僕は「インコース打ちは青田さんに聞いた」のか「別当さんに習ったのか?」聞いて見たい。いずれにしても、著者の時代とは遥かに離れている事は事実である。今や、ボールを引き付けて早く、強く、遠くへ飛ばす事がベストの時代の様だし、多くのプロ野球の選手がインコース打ちをマスターしているのを先輩はどんな目で見ているのだろう。
☆こんな事を書いていると別当さんとゴルフの事を書きたくなった。色んな思い出があるが次の機会のしよう。
☆別当 薫 生年月日 1920年 プロ入団 1948年 毎日監督兼任 1952年(36歳)
☆青田 昇 生年月日 1924年 プロ入団 1942年(18歳)
☆山内一弘 生年月日 1932年 プロ入団 1952年(20歳)