松尾芭蕉/角川書店編 「おくのほそ道」読了
正式には、「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」だそうだ。学生時代の古典の授業でそんなことは習ったのだろうか。何も記憶がない。
毎月読んでいる雑誌に、「おくのほそ道」を自転車で踏破するという連載があり突然読んでみたくなったのだ。
教科書では冒頭の1章しか習わないからそれ以降を読むのは初めてだ。
もっと堅苦しいのかと思いきや、景色を愛でるのは当然ながら歩くのがしんどいとか虫がすごくて寝られないとか、毒を吐きながらの旅路でもあったようだ。
また、この旅は古の短歌に詠まれた名所を訪ねる旅でもあった。俳句というのは短歌を否定したところから発達したと思っていたが、そうではなかったようだ。むしろリスペクトしている。
古い歌の風景を訪ね、行く先々で旧知の人々の歓待を受ける・・・。“古人も多く旅に死せるあり。”というある意味決死の旅であったようだが、これぞ旅の醍醐味と思える。
半径3キロの生活に慣れきってしまっている僕のようなものでもこんな旅にあこがれる。
17年くらい前だろうか、1週間ほど山形県に滞在したことがある。“岩にしみいる蝉の声”の立石寺や“あつめて早し”最上川など、たくさんの俳句が読まれた場所があったのだが、その頃は「おくのほそ道」と山形県に何の関連も思い浮かばなかった。庄内竿を博物館に見に行っただけだった。今思えばもったいないことをしたものだ。そばと山菜は美味しかったが・・・。
食べるものといえば、「おくのほそ道」には食べ物に関する文章がないなと思ったが、1箇所だけしかないそうだ。芭蕉は食べることに興味がなかったのか、それとも禅宗を学んだ芭蕉にはすでに食欲というものは無駄なものとなっていたのだろうか。自然の中に在っても食べられるものかそうでないものかにすべてのものを振り分けてしまっているこの頭では、やはりこの心境には近づけそうもないようだ。
俳諧とはただ俳句を作るだけではなく、生き方そのものを指すのだと解説に書かれていた。それは禅宗につながる“乞食”の心である。俗欲を捨て去ったものだけが味わえる旅の心であったのだろう。
芭蕉が亡くなったのは51歳。今の僕と同じ歳だ。いつになったらそんな心境にたどり着けるのやら・・・。
今日は七夕。新潟県の糸魚川に到着した頃だ。旧暦とはいえこの旅と同じ季節にこの本を読めたということは僕にとってはうれしいことだ。
正式には、「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」だそうだ。学生時代の古典の授業でそんなことは習ったのだろうか。何も記憶がない。
毎月読んでいる雑誌に、「おくのほそ道」を自転車で踏破するという連載があり突然読んでみたくなったのだ。
教科書では冒頭の1章しか習わないからそれ以降を読むのは初めてだ。
もっと堅苦しいのかと思いきや、景色を愛でるのは当然ながら歩くのがしんどいとか虫がすごくて寝られないとか、毒を吐きながらの旅路でもあったようだ。
また、この旅は古の短歌に詠まれた名所を訪ねる旅でもあった。俳句というのは短歌を否定したところから発達したと思っていたが、そうではなかったようだ。むしろリスペクトしている。
古い歌の風景を訪ね、行く先々で旧知の人々の歓待を受ける・・・。“古人も多く旅に死せるあり。”というある意味決死の旅であったようだが、これぞ旅の醍醐味と思える。
半径3キロの生活に慣れきってしまっている僕のようなものでもこんな旅にあこがれる。
17年くらい前だろうか、1週間ほど山形県に滞在したことがある。“岩にしみいる蝉の声”の立石寺や“あつめて早し”最上川など、たくさんの俳句が読まれた場所があったのだが、その頃は「おくのほそ道」と山形県に何の関連も思い浮かばなかった。庄内竿を博物館に見に行っただけだった。今思えばもったいないことをしたものだ。そばと山菜は美味しかったが・・・。
食べるものといえば、「おくのほそ道」には食べ物に関する文章がないなと思ったが、1箇所だけしかないそうだ。芭蕉は食べることに興味がなかったのか、それとも禅宗を学んだ芭蕉にはすでに食欲というものは無駄なものとなっていたのだろうか。自然の中に在っても食べられるものかそうでないものかにすべてのものを振り分けてしまっているこの頭では、やはりこの心境には近づけそうもないようだ。
俳諧とはただ俳句を作るだけではなく、生き方そのものを指すのだと解説に書かれていた。それは禅宗につながる“乞食”の心である。俗欲を捨て去ったものだけが味わえる旅の心であったのだろう。
芭蕉が亡くなったのは51歳。今の僕と同じ歳だ。いつになったらそんな心境にたどり着けるのやら・・・。
今日は七夕。新潟県の糸魚川に到着した頃だ。旧暦とはいえこの旅と同じ季節にこの本を読めたということは僕にとってはうれしいことだ。