イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「能十番:新しい能の読み方」読了

2025年02月25日 | 2025読書
いとうせいこう、 ジェイ・ルービン 「能十番:新しい能の読み方」読了

能に関する本は1冊読んだことがある。「風姿花伝」という書物はあまりにも有名だが、こんな本を読もうと思ったきっかけは森に暮らすひまじんさんが能をお好きだと聞いたからだ。「秘すれば花」という言葉は何かというものが書かれていたはずだが世阿弥の考えの本質まではわからなかった。そこまでの教養がなかったということである。
能の舞台の様子はテレビで流れているものを横目で見ていたこともあるが何を言っているのかということはさっぱりわからなかったけれども、650年ものあいだ形を変えずに続いてきた芸術であるのは間違いがなく、時の権力者にうまく取り入りながらであったのかもしれないが、きっとそこには何か時代を超えた不変の魅力があるのかもしれない。

僕でも読めそうな本はないだろうかと日ごろから思っていたところ、こんな本を見つけた。何しろ著者のひとりはいとうせいこうなのだからきっと教養に限界がある僕にも読めるかもしれない。しかし、この人、どこまで多才なのだろうかと感心してしまう。仏像だけではなく、能にも造詣が深いようだし、この本によると小唄の師範の資格も持っているそうだ。

蔵書目録だけを見て予約したのだが、カウンターの奥から出てきた本はかなり分厚い。さすが能の本だと思ったら和綴じ風の製本がされていた。



かなり凝った作りだと思ったら、光悦謡本(こうえつうたいほん)というものを模して装丁をされたものだかららしい。本来はケースに入っている本だそうで、ケースのデザインも光悦謡本をデザインの手本にしているそうだ。



なので、紙の量のわりには総ページ数は252ページというボリュームである。

能の蘊蓄が並んでいるのではなく、演目の現代語訳とその現代語訳を元にした英訳が計10編、各編に簡単なあらすじと、いとうせいこう、もうひとりの著者であるジェイ・ルービンの解説が付されている。ジェイ・ルービンというひとは日本文学の研究者で村上春樹の小説などの英訳もしている学者だそうだ。この本を読む限り、日本人より日本文学を理解しているのではないかという印象を与える人だ。
少しの蘊蓄も掲載されている。
能の伝統的な演じ方というのは1日に5本の演目を1セットとして演じられるそうだ。これを「五番立(ごばんだて)」というそうで、順番ごとにどんなテイストの演目が演じられるかということも決められている。具体的にはこうなる。
初番目物(しょばんめもの) 神の能
二番目物 修羅物
三番目物 鬘物
四番目物 狂乱物、敵討ち、斬り合いなど劇的な曲柄
五番目物 切能、一日の最後に演じられる
この本も10編をこの順番に掲載している。
ひとつの演目の時間は50~90分というので、最近では五番立で上演されるということはほとんどないらしい。
また、演者は基本、シテ(主役)、ワキ(相手役)に分かれているがそれぞれ専門の家系と流派があるらしく、シテの流派がワキを、ワキの流派がシテをすることはない。かなり縦割り社会のような気もするが、ワキといってもシテに劣るというものではなく、伝統と格式があるのである。シテの助役としてツレなどという役割もある。
その他、シテ、ワキ以外の役柄には笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方、狂言方というような役柄があり、これも家系ごとにやることが決まっているらしい。
狂言というと、演目の間に演じられる滑稽劇だと学校では習ったような気がするが、それだけではなく、演目の途中に解説を入れるストーリーテラーの役割も担っている。

本編の話に戻ると、現代語訳の部分は上段に文語体の脚本(これを謡曲または詞章という)があり、下段に現代語訳、その後ろのページに英語訳となっている。僕が読めるのは現代語訳のみなので全体の3分の1ほどしかない。それで10編の物語が収録されているのだからひとつひとつのストーリーはいたってシンプルだ。それが能の特徴でもある。しかし、この短い脚本で50分から1時間半も演じるというのはどんな演じ方をしているのだろうという疑問も湧いてくる。

収録されている演目というのは僕でも知っているようなものが取り上げられていて、初心者にはありがたい。
高砂(昔の結婚式でうたわれたやつ。阪神電車にもこの駅があった)、天女の羽衣(あの物語は能が出所とは知らなかった)邯鄲の夢(中国の故事でこういうのがあった)という物語はかなり有名なのではないだろうか。

すべての演目はシテが幽霊または精霊の役で、現世の人であるワキと交流することでこの世に思いを残した幽霊はその思いを遂げ、精霊は未来永劫続く時間の流れがあることを現世の人たちに伝える。650年前の世界は今よりもっと生と死の距離が近かったのは間違いがない。戦、病気などで思いを残していった人たちがたくさんいることを知っている人たちがそんな人のために代弁をすることでカタルシスに導いてあげるようとこのような物語を作ったのだろう。
脚本だけでもそんなことを思い巡らせることができるのなら、それにあの独特の唄いとお囃子が加わるとおそらくは自分が今いるところはこの世なのかあの世なのかわからなくなってしまうのではないだろうか。
ジャズと能には手を出してはいけないと思っていたというのがいとうせいこうらしい。そんな著者は能を理解するにはまず読むことだと考え、この本を書いたそうである。普通、能の舞台を見てもほぼすべての人は一体どんな劇が演じられているのかということは解っていないという。だからまずは謡曲を読むことをお勧めするというのである。僕も、日前宮で催されている薪能を見に行ったことがあるが、その内容はまったくわからなかった。わからないのが当たり前だったのである。
確かに、この本を読んでいると少しは能がわかったような気になってくる。それがこの本のサブタイトルに書かれている意味なのかもしれない。しかし、能のセリフというのはひとつひとつが長~く言うし、その間に唄いがたくさん入るらしいのでいったい今は謡曲のどの部分が演じられているのがわかりづらいのは明白なような気がする。できれば口語訳をモニターに映し出しながら演じるようなものがあればぜひ観覧してみたいと思うまあ、そこまでチャレンジングにならなくても、一度、YouTubeを検索して能の舞台がないかどうか探してみたいと思うのである。



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