「午後の愉しみ―開高健対談集」読了
久々に存在を知らなかったの師の本をみつけた。状態がよいとはいえ、1974年出版、41年前の本だ。
釣りと食、文学、戦争の三つのテーマに分かれた対談集だが、さすがにすべての人が彼岸の先に行ってしまっている。しかしながら語られている内容は少しも古くないように思う。釣り師の心、文学が求めるもの、戦争が生み出す人の心の変化・・・。
40年前からは情報が豊富になりコミュニケーション手段も増え、問題や悩みを解決する選択肢は格段に増えているはずだが、それも効果がないのか41年後の現在も同じようなことどもが繰り返されている。
釣りと食のテーマはたわいもないこと。これは僕も今では40年以上の釣り歴だ、師の言っていることもなんとなくわかる気がする。ただ、「釣り師は好色だ。」という論理は果たして本当だろうか、それとも僕が好色でなさすぎるからいつまでもヘッポコなのだろうか・・。これは多分死ぬまでわからないだろう。
文学、これは正直どこまでも理解できない。もっと知りたいと思うが僕の頭脳と知識ではこの方々にはついてゆけない。ただ、あの闇の三部作の生い立ちはこうだったのかという思いもかけないエピソードを知ることができた。
戦争、それに打ちのめされる人、おっとどっこいとうっちゃる人、そこから創作をものにする人、様々だ。極限の世界からはすべてをそぎ落としたものが生まれて来るに違いない。生きるということの本当の意味が浮き出てくる世界なのであろう。
残念ながら人はそうやってしか生きることの意味を知ることができないものなのかもしれない。だから戦国時代の武将たちの生き方というのは現代の人々からも尊敬の念をもって受け入れられているのだろう。
この対談で交わされる会話はあらかじめテーマを決めて事前にネタを仕込んでいるのかもしれないが、言葉の往復のなかの知識の深さには驚かされる。いったいどこまで知っているのか。そして経験してきたのか。
師の言葉に、「知ることの苦しみ。」というものがあるが、この本を読み切るにはもっと“知”が必要だ。最近はちょっと貧血気味で血も足りないが脳みその“知”も足りない。
まだまだ知らなければならないことがいくらでもある。そして酒を酌み交わしながらこんな会話をすることができるようにいつかはなりたいものだ。
久々に存在を知らなかったの師の本をみつけた。状態がよいとはいえ、1974年出版、41年前の本だ。
釣りと食、文学、戦争の三つのテーマに分かれた対談集だが、さすがにすべての人が彼岸の先に行ってしまっている。しかしながら語られている内容は少しも古くないように思う。釣り師の心、文学が求めるもの、戦争が生み出す人の心の変化・・・。
40年前からは情報が豊富になりコミュニケーション手段も増え、問題や悩みを解決する選択肢は格段に増えているはずだが、それも効果がないのか41年後の現在も同じようなことどもが繰り返されている。
釣りと食のテーマはたわいもないこと。これは僕も今では40年以上の釣り歴だ、師の言っていることもなんとなくわかる気がする。ただ、「釣り師は好色だ。」という論理は果たして本当だろうか、それとも僕が好色でなさすぎるからいつまでもヘッポコなのだろうか・・。これは多分死ぬまでわからないだろう。
文学、これは正直どこまでも理解できない。もっと知りたいと思うが僕の頭脳と知識ではこの方々にはついてゆけない。ただ、あの闇の三部作の生い立ちはこうだったのかという思いもかけないエピソードを知ることができた。
戦争、それに打ちのめされる人、おっとどっこいとうっちゃる人、そこから創作をものにする人、様々だ。極限の世界からはすべてをそぎ落としたものが生まれて来るに違いない。生きるということの本当の意味が浮き出てくる世界なのであろう。
残念ながら人はそうやってしか生きることの意味を知ることができないものなのかもしれない。だから戦国時代の武将たちの生き方というのは現代の人々からも尊敬の念をもって受け入れられているのだろう。
この対談で交わされる会話はあらかじめテーマを決めて事前にネタを仕込んでいるのかもしれないが、言葉の往復のなかの知識の深さには驚かされる。いったいどこまで知っているのか。そして経験してきたのか。
師の言葉に、「知ることの苦しみ。」というものがあるが、この本を読み切るにはもっと“知”が必要だ。最近はちょっと貧血気味で血も足りないが脳みその“知”も足りない。
まだまだ知らなければならないことがいくらでもある。そして酒を酌み交わしながらこんな会話をすることができるようにいつかはなりたいものだ。