福岡伸一 「動的平衡3 -チャンスは準備された心にのみ降り立つー」読了
動的平衡のシリーズも3作目になってきた。少しずつ“動的平衡”からはずれて話題の幅が広くなってきたのでさらに面白くなってきた。特に芸術に関連した話題はなにやら神秘的な雰囲気もまとっていて面白い。著者はフェルメールだけを展示している美術館の館長もやっているということなのでそちらのほうへの造詣はそうとう深いようだ。
芸術と生命に関するエッセイは連続性について書かれていた。何か連続的に並んでいるものというものには心引かれるものがある。自然世界では空に浮かぶウロコ雲の連続であったり、シダの葉のひとつひとつ、人工的なものでは神社仏閣の屋根瓦。そういうものを見たときに何かもっと先へ続いてゆく未来への命のつながりを連想するからだろうか。今回はそんな感覚についてエッシャーを取り上げている。
エッシャーの絵画の中には鳥の連続した絵がしだいに魚や畑に変化してゆくようなものや水の流れが上下して永遠に流れ続ける水路のようなものがあるけれども、エッシャーはそこに留まることのない時間や空間の連鎖の意味を込めているというのだ。
そしてリズムについて、これはストラディバリウスを取り上げているけれども、それは古い楽器が奏でる音が持っている長い歴史に思いをはせているのであるけれども、やはり人間はリズムで生きている。心臓の鼓動も創であるけれども、脳の中もある一定の電気的なリズムで動いているそうだ。だから音楽を聴くとそのリズムと自身のリズムがシンクロして心地よさを呼び覚ますのだと思う。そこにもずっと続くものを見ているような気がする。
もうひとつ、記憶は遺伝するのか。これにはマウスを使った実験で、ある臭いをかがせたあとで電気ショックを与えられたマウスの子供はそうされなかった親から生まれたマウスよりもその電気ショックに対する反応が敏感になるということがわかったそうだ。
DNAの配列で突然変異するのではなく、DNAの働き方を調整する情報が隠れたかたちでDNAに書き込まれているというのだ。著者は音符でたとえているが、フォルテやピアニシモという演奏記号のようなものが遺伝されたように見える。
歌舞伎者なんてずっと世襲で、どんな大根でも回りが褒めそやしているだけだろうと思っていたけれども、やっぱりそういうことってあるんだなと、海老蔵を見直した。
なんだか脈絡のないテーマが並んでいるようのも思えるのだが、そこにはやはり“動的平衡”というものが通奏低音のように流れている。生物学者は細胞を観察するとき、標本をスライスしその中身を顕微鏡を通してみるのだけれども、それはその細胞の一瞬の姿を垣間見ているだけである。生きている細胞を構成している分子は常に入れ替わっている。
生命は止まっているように見えるけれども、物質的には常に入れ替わりを繰り返している。それでも生物として、また人として記憶や本能が失われないのはそれが物質としてではなく、DNAの情報、すなわち分子の配列として保存されているからである。
となると、やはり僕たちの本質は体ではなくて情報ということになるのだろうか。遠い将来、やはり人間はコンピューターの中の情報として生きてゆくことが可能になったりするのだろうかと、この手の本を読むとうなってしまうのだ。
動的平衡のシリーズも3作目になってきた。少しずつ“動的平衡”からはずれて話題の幅が広くなってきたのでさらに面白くなってきた。特に芸術に関連した話題はなにやら神秘的な雰囲気もまとっていて面白い。著者はフェルメールだけを展示している美術館の館長もやっているということなのでそちらのほうへの造詣はそうとう深いようだ。
芸術と生命に関するエッセイは連続性について書かれていた。何か連続的に並んでいるものというものには心引かれるものがある。自然世界では空に浮かぶウロコ雲の連続であったり、シダの葉のひとつひとつ、人工的なものでは神社仏閣の屋根瓦。そういうものを見たときに何かもっと先へ続いてゆく未来への命のつながりを連想するからだろうか。今回はそんな感覚についてエッシャーを取り上げている。
エッシャーの絵画の中には鳥の連続した絵がしだいに魚や畑に変化してゆくようなものや水の流れが上下して永遠に流れ続ける水路のようなものがあるけれども、エッシャーはそこに留まることのない時間や空間の連鎖の意味を込めているというのだ。
そしてリズムについて、これはストラディバリウスを取り上げているけれども、それは古い楽器が奏でる音が持っている長い歴史に思いをはせているのであるけれども、やはり人間はリズムで生きている。心臓の鼓動も創であるけれども、脳の中もある一定の電気的なリズムで動いているそうだ。だから音楽を聴くとそのリズムと自身のリズムがシンクロして心地よさを呼び覚ますのだと思う。そこにもずっと続くものを見ているような気がする。
もうひとつ、記憶は遺伝するのか。これにはマウスを使った実験で、ある臭いをかがせたあとで電気ショックを与えられたマウスの子供はそうされなかった親から生まれたマウスよりもその電気ショックに対する反応が敏感になるということがわかったそうだ。
DNAの配列で突然変異するのではなく、DNAの働き方を調整する情報が隠れたかたちでDNAに書き込まれているというのだ。著者は音符でたとえているが、フォルテやピアニシモという演奏記号のようなものが遺伝されたように見える。
歌舞伎者なんてずっと世襲で、どんな大根でも回りが褒めそやしているだけだろうと思っていたけれども、やっぱりそういうことってあるんだなと、海老蔵を見直した。
なんだか脈絡のないテーマが並んでいるようのも思えるのだが、そこにはやはり“動的平衡”というものが通奏低音のように流れている。生物学者は細胞を観察するとき、標本をスライスしその中身を顕微鏡を通してみるのだけれども、それはその細胞の一瞬の姿を垣間見ているだけである。生きている細胞を構成している分子は常に入れ替わっている。
生命は止まっているように見えるけれども、物質的には常に入れ替わりを繰り返している。それでも生物として、また人として記憶や本能が失われないのはそれが物質としてではなく、DNAの情報、すなわち分子の配列として保存されているからである。
となると、やはり僕たちの本質は体ではなくて情報ということになるのだろうか。遠い将来、やはり人間はコンピューターの中の情報として生きてゆくことが可能になったりするのだろうかと、この手の本を読むとうなってしまうのだ。