矢部万紀子 「朝ドラには働く女子の本音が詰まってる」読了
タイトルに、「朝ドラ」と入っていると読まないわけにはいかない。
ただ、書かれている内容はあくまでも著者の個人的な感想ばかりで、時代や世相の移り変わりがどのようにドラマに影響を与えたかみたいな文化的、社会的な側面はほぼ皆無。著者も書いているが、友人との飲み会での会話のようだ。松本人志の「遺書」や「松本」の編集者だそうだが、個人的な感想で本を1冊出版してしまうというのはなんとも大胆に思える。タイトルは、「働く女子の本音が詰まってる」だが、これでは著者の本音しか詰まっていないような気がする。
その感想を読んでいくとなんとなくこの人の好みがわかってくる。どうも好きなのはヒロ、インが結婚や恋愛で苦悩する場面と、イケメンの脇役たちだ。だから、「カーネーション」と五代様と嘉納様の評価が高い。逆にヒロインがたくさんの幸運に恵まれて幸せになってゆくストーリーには手厳しい。きっと著者の人生は山あり谷ありだったのだと想像する。
まあ、ドラマなんて自分勝手に解釈して観ればいいし、それをとやかく言うつもりもないのでこれはこれでよしとしよう。
著者の分析では、ドラマの脚本家が言いたいことというのは、それぞれの脇役のセリフに現れているという。たしかに、朝ドラのヒロインは「明るく、元気に、さわやかに。」がほぼ絶対条件で動かしがたいものがある。となると、いかに脇役にそれを言わせるかということが脚本家の腕の見せ所ということになる。実在の人物の立志伝では流れが決まっていてヒロインの意思の強さや力強さで押し切ることもできるのだろうが、完全オリジナルの物語ではやはりそこが大切である。「ひよっこ」では宗男叔父さんがそういう役回りであったし、あまちゃんではやっぱり夏さんであろう、あの、たぶん大失敗であった「まれ」でも紺谷弥太郎の、「漆は嘘をつくげ。輪島塗は特に何遍も何遍も漆をっちゃ塗り重ねていくがや本物やけど、手抜きしてとりあえず上からきれいに塗ってしもうたら、ぱっと見はわからん。騙す思うたら騙せるけん。ほやからこそ、騙したらダメねん。見えんでも嘘をっちゃついたらダメや。」というセリフにはうなされる。「ごちそうさん」にはそんなにすごい脇役がいたという印象はないけれども、テーマが、「食べることは生きること」なのだからだれも文句をいうことができまい。
いま放送中の、「なつぞら」ではその役割を泰樹さんと天陽君が担っているような気がする。放送開始からの2週間の泰樹さんのセリフの数々は歴史に残ると言っても過言ではないのだろうか。しかしその後の泰樹さんの扱いはなんだか狂言回しのようで少し悲しい。これからの挽回を期待したい。
天陽君はやはりなつとの別れの時のセリフだろう。
「俺にとっての広い世界は、ベニヤ板だ。そこが俺のキャンバスだ。 何もなく広すぎて、自分の無力を感じるけれど、そこで生きる自分の価値は、他のどんな価値にも流されない。」
加えて今週、展覧会で入賞した時のスピーチだ。「僕の絵だけは何も変わらないつもり、社会の価値観とは関係ない、ただの絵を描いていきたい。」これはまさに人はこう生きるべきだという脚本家の主張だろう。
しかし、出演者みんなが美男美女だからどうも現実感に乏しい。いくら北海道が広いといってもあれだけいっぺんに集まっているわけはなかろう。天陽君のかぶっている防寒用の帽子の柄はデザインかと思ったけれども、貧乏な家庭の設定を思うとあれはきっとツギ当てなのだ。しかしながら、天陽君があまりにもハンサムだからそうは見えないのだ。富士子さんも、それは酪農家の奥さんにも美人はいるだろうけれども、そういう奥さんにかぎって、「私は酪農なんて嫌いよ、絶対に家業のお手伝いなんかやらないわ。」というスタンスのはずなのだ。家族と一緒に乳搾りはやらないのだ・・。
まあ、そんなことはどうでもいい。著者は最後に、そのヒロインたちにも必ず共通して示しているものがあるという。それは、「堂々とせよ。」であるという。ヒロインたちはすべてが人生のなかで成功をおさめているわけではないけれども、必ず「堂々と」生きている。それは世間の目を気にすることなく、自分の価値観を貫いているということだ。これは天陽君のセリフにもつながるところであり、なつが東京で派手な洋服を着続けているところもそんな一端を示しているのかもしれない。もっとも、なつのあの服装は、「それでも都会の絵の具には染まっていないのよ。」という逆説的な意味を持たせている側面のほうが強いような気もするのであるが・・。その証拠に、咲太郎が寝起きでリーゼントの前髪が普通に垂れていたのも、いきがってはいるけれども、内面はそうではないのだという表現なのだと思う。
そして、「朝ドラの話にのれる男子は女子のお友だち。」であるという法則が展開される。その、「堂々とせよ。」に共感できる男性であるかどうかということが、女子と仲良くなれるかどうかのリトマス試験紙だと著者は言うのだが、どうもそれには共感ができるようなできないような・・・。
やっぱり最終的には、著者の本音しか詰まっていないような気がするのであった。
タイトルに、「朝ドラ」と入っていると読まないわけにはいかない。
ただ、書かれている内容はあくまでも著者の個人的な感想ばかりで、時代や世相の移り変わりがどのようにドラマに影響を与えたかみたいな文化的、社会的な側面はほぼ皆無。著者も書いているが、友人との飲み会での会話のようだ。松本人志の「遺書」や「松本」の編集者だそうだが、個人的な感想で本を1冊出版してしまうというのはなんとも大胆に思える。タイトルは、「働く女子の本音が詰まってる」だが、これでは著者の本音しか詰まっていないような気がする。
その感想を読んでいくとなんとなくこの人の好みがわかってくる。どうも好きなのはヒロ、インが結婚や恋愛で苦悩する場面と、イケメンの脇役たちだ。だから、「カーネーション」と五代様と嘉納様の評価が高い。逆にヒロインがたくさんの幸運に恵まれて幸せになってゆくストーリーには手厳しい。きっと著者の人生は山あり谷ありだったのだと想像する。
まあ、ドラマなんて自分勝手に解釈して観ればいいし、それをとやかく言うつもりもないのでこれはこれでよしとしよう。
著者の分析では、ドラマの脚本家が言いたいことというのは、それぞれの脇役のセリフに現れているという。たしかに、朝ドラのヒロインは「明るく、元気に、さわやかに。」がほぼ絶対条件で動かしがたいものがある。となると、いかに脇役にそれを言わせるかということが脚本家の腕の見せ所ということになる。実在の人物の立志伝では流れが決まっていてヒロインの意思の強さや力強さで押し切ることもできるのだろうが、完全オリジナルの物語ではやはりそこが大切である。「ひよっこ」では宗男叔父さんがそういう役回りであったし、あまちゃんではやっぱり夏さんであろう、あの、たぶん大失敗であった「まれ」でも紺谷弥太郎の、「漆は嘘をつくげ。輪島塗は特に何遍も何遍も漆をっちゃ塗り重ねていくがや本物やけど、手抜きしてとりあえず上からきれいに塗ってしもうたら、ぱっと見はわからん。騙す思うたら騙せるけん。ほやからこそ、騙したらダメねん。見えんでも嘘をっちゃついたらダメや。」というセリフにはうなされる。「ごちそうさん」にはそんなにすごい脇役がいたという印象はないけれども、テーマが、「食べることは生きること」なのだからだれも文句をいうことができまい。
いま放送中の、「なつぞら」ではその役割を泰樹さんと天陽君が担っているような気がする。放送開始からの2週間の泰樹さんのセリフの数々は歴史に残ると言っても過言ではないのだろうか。しかしその後の泰樹さんの扱いはなんだか狂言回しのようで少し悲しい。これからの挽回を期待したい。
天陽君はやはりなつとの別れの時のセリフだろう。
「俺にとっての広い世界は、ベニヤ板だ。そこが俺のキャンバスだ。 何もなく広すぎて、自分の無力を感じるけれど、そこで生きる自分の価値は、他のどんな価値にも流されない。」
加えて今週、展覧会で入賞した時のスピーチだ。「僕の絵だけは何も変わらないつもり、社会の価値観とは関係ない、ただの絵を描いていきたい。」これはまさに人はこう生きるべきだという脚本家の主張だろう。
しかし、出演者みんなが美男美女だからどうも現実感に乏しい。いくら北海道が広いといってもあれだけいっぺんに集まっているわけはなかろう。天陽君のかぶっている防寒用の帽子の柄はデザインかと思ったけれども、貧乏な家庭の設定を思うとあれはきっとツギ当てなのだ。しかしながら、天陽君があまりにもハンサムだからそうは見えないのだ。富士子さんも、それは酪農家の奥さんにも美人はいるだろうけれども、そういう奥さんにかぎって、「私は酪農なんて嫌いよ、絶対に家業のお手伝いなんかやらないわ。」というスタンスのはずなのだ。家族と一緒に乳搾りはやらないのだ・・。
まあ、そんなことはどうでもいい。著者は最後に、そのヒロインたちにも必ず共通して示しているものがあるという。それは、「堂々とせよ。」であるという。ヒロインたちはすべてが人生のなかで成功をおさめているわけではないけれども、必ず「堂々と」生きている。それは世間の目を気にすることなく、自分の価値観を貫いているということだ。これは天陽君のセリフにもつながるところであり、なつが東京で派手な洋服を着続けているところもそんな一端を示しているのかもしれない。もっとも、なつのあの服装は、「それでも都会の絵の具には染まっていないのよ。」という逆説的な意味を持たせている側面のほうが強いような気もするのであるが・・。その証拠に、咲太郎が寝起きでリーゼントの前髪が普通に垂れていたのも、いきがってはいるけれども、内面はそうではないのだという表現なのだと思う。
そして、「朝ドラの話にのれる男子は女子のお友だち。」であるという法則が展開される。その、「堂々とせよ。」に共感できる男性であるかどうかということが、女子と仲良くなれるかどうかのリトマス試験紙だと著者は言うのだが、どうもそれには共感ができるようなできないような・・・。
やっぱり最終的には、著者の本音しか詰まっていないような気がするのであった。