藤井弘章/編 「日本の食文化 4: 魚と肉」読了
日本の食の習慣や歴史をまとめたシリーズ本の1冊だ。
最初はやはり食材で気になる「魚」を取り上げているこの本を手に取ってみた。しかし、書かれている内容はそれほど目新しいものではなく、僕でも知っているような内容ばかりであった。
ただひとつ、これは面白い見解だと思えたのは寿司についてだ。
寿司のルーツは魚を塩漬けにしてご飯を仕込むことで乳酸発酵をさせ、魚の部分だけを食べる鮒ずしであるが、それが今の寿司の形になっていった原因が、“めんどうくさいから”であったと説明している。
米を乳酸発酵させるためには数日の日数が必要である。それが面倒くさい。その前に、米も食べたいという要望から、箱に米も入れて発酵させるなれずしが生まれた。しかし、今度は切るのが面倒くさいとなって一口ずつを植物の葉っぱで包む柿の葉寿司のようなものができた。ただ、日数を待たねばならい面倒くささが残っている。それを解消するために酢酸(=米酢)を使って米に酸味を与える寿司ができたというのである。
まあ、これが本当かどうかはわからないけれども、人が歴史を積み重ねれば積み重ねるほど多様な食の文化が生まれるとおうことであろう。
また、魚尻線、刺身限界線というのも興味が湧いた。
そして、もうひとつ、感心し、かつうれしいのは、和歌山の食材と食文化が多数紹介されているということだ。
最初の章では、「カケノイオ」という風習が紹介されていた。
和歌山市の漁港でおこなわれている風習で、神様を船に招き入れる神事だそうだ。お膳には必ず対になった鯛の干物を添えるそうである。具体的な港はどこであるということは書かれていなかったのでネットで調べてみたが、かなり局所的な風習なのか出てこない。わからないともっと知りたくなるのが性である。で、SNSにこの画像をアップして知っている人がいれば教えてもらえませんかとコメントを入れたら、雑賀崎に住んでいるひとから、「見たことがあります。」とコメントをいただいた。雑賀崎は旧正月を祝う風習が今でも残っているところだからきっとこういう風習もあるのだろうと納得した。
ただ、コメントをくれた人も「見たことがある。」という感じだから、多分、どんな意味合いがあってそれが行われているのかということはご存じないのだと思う。
ほかにも紀伊山地で食されるジビエの話やそれこそなれずしの話など、やっぱり和歌山というところは古くから人が住み、いろいろな食材を手に入れることができる素晴らしい場所であったということが証明される部分だ。というか、これほど食材が豊富だったので人々が古くから住みついたともいえるのだろう。きっと。
僕らみたいな根なし草のように生活をしている身では、古くから残っている伝統を持っているというだけでうらやましいと思う。なにか、拠って立つものを持っているというのは心強い気がするというのは自分に自信が持てないからの裏返しという気もするのであるけれども、こういう風習はぜひ残していってもらいたいと思うのである。
このシリーズは合計6冊あるのだが、最初に書いたとおり、それほど目新しいことが書かれているわけではない。ただ、ところどころには、おぉ!と目をみはることが書かれている。読みたい本が途切れる合間を縫ってすべて読んでみたいと思うのである。
日本の食の習慣や歴史をまとめたシリーズ本の1冊だ。
最初はやはり食材で気になる「魚」を取り上げているこの本を手に取ってみた。しかし、書かれている内容はそれほど目新しいものではなく、僕でも知っているような内容ばかりであった。
ただひとつ、これは面白い見解だと思えたのは寿司についてだ。
寿司のルーツは魚を塩漬けにしてご飯を仕込むことで乳酸発酵をさせ、魚の部分だけを食べる鮒ずしであるが、それが今の寿司の形になっていった原因が、“めんどうくさいから”であったと説明している。
米を乳酸発酵させるためには数日の日数が必要である。それが面倒くさい。その前に、米も食べたいという要望から、箱に米も入れて発酵させるなれずしが生まれた。しかし、今度は切るのが面倒くさいとなって一口ずつを植物の葉っぱで包む柿の葉寿司のようなものができた。ただ、日数を待たねばならい面倒くささが残っている。それを解消するために酢酸(=米酢)を使って米に酸味を与える寿司ができたというのである。
まあ、これが本当かどうかはわからないけれども、人が歴史を積み重ねれば積み重ねるほど多様な食の文化が生まれるとおうことであろう。
また、魚尻線、刺身限界線というのも興味が湧いた。
そして、もうひとつ、感心し、かつうれしいのは、和歌山の食材と食文化が多数紹介されているということだ。
最初の章では、「カケノイオ」という風習が紹介されていた。
和歌山市の漁港でおこなわれている風習で、神様を船に招き入れる神事だそうだ。お膳には必ず対になった鯛の干物を添えるそうである。具体的な港はどこであるということは書かれていなかったのでネットで調べてみたが、かなり局所的な風習なのか出てこない。わからないともっと知りたくなるのが性である。で、SNSにこの画像をアップして知っている人がいれば教えてもらえませんかとコメントを入れたら、雑賀崎に住んでいるひとから、「見たことがあります。」とコメントをいただいた。雑賀崎は旧正月を祝う風習が今でも残っているところだからきっとこういう風習もあるのだろうと納得した。
ただ、コメントをくれた人も「見たことがある。」という感じだから、多分、どんな意味合いがあってそれが行われているのかということはご存じないのだと思う。
ほかにも紀伊山地で食されるジビエの話やそれこそなれずしの話など、やっぱり和歌山というところは古くから人が住み、いろいろな食材を手に入れることができる素晴らしい場所であったということが証明される部分だ。というか、これほど食材が豊富だったので人々が古くから住みついたともいえるのだろう。きっと。
僕らみたいな根なし草のように生活をしている身では、古くから残っている伝統を持っているというだけでうらやましいと思う。なにか、拠って立つものを持っているというのは心強い気がするというのは自分に自信が持てないからの裏返しという気もするのであるけれども、こういう風習はぜひ残していってもらいたいと思うのである。
このシリーズは合計6冊あるのだが、最初に書いたとおり、それほど目新しいことが書かれているわけではない。ただ、ところどころには、おぉ!と目をみはることが書かれている。読みたい本が途切れる合間を縫ってすべて読んでみたいと思うのである。