池田貴将/編訳 「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」読了
何かの本を探しているときに見つけた本でタイトルが面白そうだったので借りてみた。
「覚悟の磨き方」というタイトルだけを見ていたので、外国人が書いた本かと思ったら吉田松陰の言葉を今風に書き換えたものであった。
2013年に初版が出版されているが、借りた本がそうとうくたびれているのを見ると、かなり人気のあった本ように見える。
そもそも吉田松陰という人がどんな人であったかということも実はよく知らない。日本史という教科が大嫌いであったこと、人の名前を覚えるのが大の苦手であったこと、それに加えて、高校の日本史の授業というのは幕末から近代の頃になると学年末になっていて授業の進め方も適当になる。だからまったくこの人の偉業というものを知らない。この本を読んで初めて吉田松陰は安政の大獄の時に処刑されたということを知ったほどだ。
まずは吉田松陰という人はどんなひとであったかということを勉強してみた。
「吉田松陰は、1830年、長州藩の下級武士の家に生まれました。幼くして叔父の養子となるが、叔父が病死し。僅か5歳で吉田家の当主となる。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせた。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせ、日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅する。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになる。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書いた。
1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと懇願。しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになった。
江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』をこの時に書いた。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となった。その間松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残した。1859年、29歳のときに安政の大獄により、江戸で処刑された。処刑前日に書いたのが『留魂録』である。
松下村塾はたった2年10ヶ月しか開かれていなかった。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍することになるのである。」
本の内容に戻るが、「超訳」と書かれているように、本当に松陰が語ったり書いたりしたものというにはかかり怪しいように見える。各章の最初に書かれているのだけが本物で、それ以外は編者が残された書物を元に、松陰なら多分こんなことを言うんじゃないかという想像のみで書いたものではないだろうか。ひとつひとつは100文字前後でまとめられていて、日めくり名言集のような構成だ。例えば、こんな感じである。
『人である意味
人は「なんのために生きているか」で決まるのです。
心に決めた目標のない人間は、もはや「人間」とは呼びません。
もし思い出せないなら、今すぐ思い出す時間を作るべきです。』
もう、どれも前向きな言葉ばかりである。吉田松陰の覚悟とは、国家のためにもしくは他人のためにどう生きるか、どう働くのかということと、その自分の意志を後世に伝えねばならないのだという二つのことに集約されているのだと思う。
自分のことだけしか考えず、とにかく人生をどうやって逃げ切るかということ、そして人知れずこの世からフェードアウトしようとしか思っていない僕にとってはあまりにも眩しすぎる。眩しすぎて何も見えないのである。
吉田松陰はもともと処刑されるはずではなかったという。松陰は老中の間部詮勝の暗殺を企図した自分を投獄して外界との接触を断った長州藩に失望しており、自らの死と引き換えに幕府要路に訴えて姦人を排除しようと、幕府の詮議の際に自ら進んで自白したことが原因となったという説が有力であるそうだ。
それが門下生たちの発奮と決起を促し明治維新につながっていったというのである。
自分の命と引き換えに自分の意志を貫くという行為はまさしく「覚悟」の極みといえる。その覚悟のすさまじさのとおりに明治維新という革命を起こしそれが現代までずっと続き、総理大臣経験者のなかで山口県出身者が多いのはこの人の存在があったというほどの影響力を及ぼしているというのはさらにすごいことである。
やっぱりこの本は眩しすぎるのである・・。
何かの本を探しているときに見つけた本でタイトルが面白そうだったので借りてみた。
「覚悟の磨き方」というタイトルだけを見ていたので、外国人が書いた本かと思ったら吉田松陰の言葉を今風に書き換えたものであった。
2013年に初版が出版されているが、借りた本がそうとうくたびれているのを見ると、かなり人気のあった本ように見える。
そもそも吉田松陰という人がどんな人であったかということも実はよく知らない。日本史という教科が大嫌いであったこと、人の名前を覚えるのが大の苦手であったこと、それに加えて、高校の日本史の授業というのは幕末から近代の頃になると学年末になっていて授業の進め方も適当になる。だからまったくこの人の偉業というものを知らない。この本を読んで初めて吉田松陰は安政の大獄の時に処刑されたということを知ったほどだ。
まずは吉田松陰という人はどんなひとであったかということを勉強してみた。
「吉田松陰は、1830年、長州藩の下級武士の家に生まれました。幼くして叔父の養子となるが、叔父が病死し。僅か5歳で吉田家の当主となる。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせた。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせ、日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅する。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになる。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書いた。
1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと懇願。しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになった。
江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』をこの時に書いた。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となった。その間松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残した。1859年、29歳のときに安政の大獄により、江戸で処刑された。処刑前日に書いたのが『留魂録』である。
松下村塾はたった2年10ヶ月しか開かれていなかった。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍することになるのである。」
本の内容に戻るが、「超訳」と書かれているように、本当に松陰が語ったり書いたりしたものというにはかかり怪しいように見える。各章の最初に書かれているのだけが本物で、それ以外は編者が残された書物を元に、松陰なら多分こんなことを言うんじゃないかという想像のみで書いたものではないだろうか。ひとつひとつは100文字前後でまとめられていて、日めくり名言集のような構成だ。例えば、こんな感じである。
『人である意味
人は「なんのために生きているか」で決まるのです。
心に決めた目標のない人間は、もはや「人間」とは呼びません。
もし思い出せないなら、今すぐ思い出す時間を作るべきです。』
もう、どれも前向きな言葉ばかりである。吉田松陰の覚悟とは、国家のためにもしくは他人のためにどう生きるか、どう働くのかということと、その自分の意志を後世に伝えねばならないのだという二つのことに集約されているのだと思う。
自分のことだけしか考えず、とにかく人生をどうやって逃げ切るかということ、そして人知れずこの世からフェードアウトしようとしか思っていない僕にとってはあまりにも眩しすぎる。眩しすぎて何も見えないのである。
吉田松陰はもともと処刑されるはずではなかったという。松陰は老中の間部詮勝の暗殺を企図した自分を投獄して外界との接触を断った長州藩に失望しており、自らの死と引き換えに幕府要路に訴えて姦人を排除しようと、幕府の詮議の際に自ら進んで自白したことが原因となったという説が有力であるそうだ。
それが門下生たちの発奮と決起を促し明治維新につながっていったというのである。
自分の命と引き換えに自分の意志を貫くという行為はまさしく「覚悟」の極みといえる。その覚悟のすさまじさのとおりに明治維新という革命を起こしそれが現代までずっと続き、総理大臣経験者のなかで山口県出身者が多いのはこの人の存在があったというほどの影響力を及ぼしているというのはさらにすごいことである。
やっぱりこの本は眩しすぎるのである・・。
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