イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

この1年を振り返る

2024年12月31日 | Weblog
今年も残りあとわずか。この1年を振り返る。
年末には「今年の漢字」というのが発表されるが、僕もそれに倣ってみると、きっと、「負」という漢字がふさわしいだろう。
意味はいろいろある。まあ、釣りは負けばかりだし、値上げの波はお金の“負”担につながってしまう。定年退職してその後はゆったりした生活が送れるのかと思いきや何の変化もなく、将来の不安に対してもなんの改善もなく、魚釣りだけでなく人生でも負けている。
加太の海はこれまでもそうだったが、いろいろな場面で禁止、禁止という声が聞こえてくる。これには何をやっても勝てるわけがない。
新たな楽しみとなった住金一文字も立ち入り禁止の沙汰が下ってしまった。



だから「負」なのだ。自業自得というのもあるが、外部環境が勝手に変わってしまって負けにつながっていく。もう、どうしようもない。耐えるしかない。でも耐えられない。
お金の問題はまだまだ続きそうだ。来年3月で軽油の免税措置がなくなってしまう。これは最も痛い仕打ちだし、年末に注文したスパンカーの価格は前回購入した時の倍以上の値段になっていた。通常のメンテナンスに使う消耗品や機材の値段もどんどん上がっている。なんでもいいから逃げ切れればよいと考えていたけれどもそんなことは甘かった。

さて、今年の釣りを振り返ってみると、今年も釣れるはずの魚が釣れなくなってしまった。チョクリのマルアジとゴマサバはとうとう1匹も釣れなかった。



キスもまったく振るわなかったしタチウオも絶好調というには程遠かった。頼みのコウイカもほぼ壊滅状態だ。

 

暑い1年であったということが大きいのだろうが、もうこれがスタンダードになっていくのではないかと思うと恐ろしくなる。「年年歳歳花相変わらず」というのが自然界の基本形だと信じ込んでいたがそんなものは10年もしないうちに崩れていってしまうのだということを今、実感している。
釣れなくなった魚の影でなぜか釣れている魚もあった。アマダイはもうだめなんじゃないかと思っていたら以外にも今年は6回も釣行していた。



禁断の魚は突然現れて突然去っていった。これなんかは高水温の賜物だったのだろう。しかし、禁断の魚は持って帰って食べてはいけない魚だ。そういうのが釣れても困るのである。

なんとか一矢報いたのは12月に入ってからの真鯛だろうか。新しく導入したシルバーのビニールが威力を発揮した。



大晦日の最後の釣行はコウイカが1匹だけであったが、去年の大晦日はボウズであった。魚釣りの世界ではボウズと1匹では天と地の差がある。これが幸運なのかたった1匹なのかはわからないが、少しでも希望をつないだということにしておこう。

今年も最後は形ばかりだが手作りの松飾りを取り付けてすべての行事の終了とした。

 
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「枕草子」読了

2024年12月31日 | 2024読書
清少納言/著 佐々木和歌子/口語訳 「枕草子」読了

以前に、ダイジェスト版のような枕草子を詠んだことがあったけれども、これは完全版ともいえる枕草子だ。特に、佐々木和歌子というひとが口語訳をしたこの本は人気があるらしい。
学者ではなく、京都市内の広告会社で働く会社員で、仕事と家事の合間に訳者として古典文学の現代語訳をやっているという人だそうだ。

よくよく思い出しても、枕草子というと清少納言が仮名文字で書いた日本初の女流エッセイというくらいしか知識がない。清少納言は“セイ・ショウナゴン”であって“セイショウ・ナゴン”ではないというのも、「光る君へ」の番宣ではじめて知ったほどだ。
この本にはそんな知識のない僕にとって解説の部分が貴重であった。
まず、このエッセイが書かれたきっかけであるが、枕草子本体の最後に書かれているということを知った。清少納言は当時の一条天皇の中宮である定子に仕えた女房であるが、その中宮定子が兄である藤原伊周から献上された和紙を使って何をしようかと考えていた時、側近中の側近となっていた清少納言が「枕」を書きましょうと提案したことが始まりだったそうだ。
“枕”を集めた草子だから枕草子ということになるのだが、その“枕”というのは何を指しているかということは今もいろいろな説があり定まっていないそうだ。当たり前すぎて疑問にもならないように思うがそこからして謎に包まれているのである。
残された文章から分かるのは、この草子は不特定多数の人たちに読ませるのではなく、ごく私的な記録として始まったようで、だからそこ相当赤裸々な宮廷の生活が書き残されている。たまたま清少納言の元を訪れた源経房が差し出された敷物の上に乗っていた書付を持ち出したことによって世に出たというのである。(かなりわざとらしいが・・)そういうことが書かれているということは、少なくとも2回は漏れ出るということがあったということだ。
清少納言は現代の人たちがSNSで呟いているのと変わらない視線と感性で書いているように見える。よいものはよい、悪いものは悪い。私の好きなものはこれだ。気に入らないものは気に入らないとはっきり書いている。これは訳者の力というのもあるのだろうが、その表現が小気味よい。1000年前のひとが書いたとは思えないのである。というか、きっと1000年前の人も今の人も基本的な物事の考え方というのは何ら変わっていないということなのかもしれない。それを紙の上に書くかキーボードに打ち込むかの違いに過ぎないように思う。

枕草子の原本はすでに残っておらず、何系統化の写本が残されているのみである。もともとバラバラに漏出したようなものだったので順序だてて綴られているものもなかったようなのである。
枕草子は、その構成が3種類に分類されている。
「類聚的章段」 “~は”、“~もの”で始まる物事の列挙。歌語便覧タイプ 
『随想的章段』 一つのテーマを主観的に掘り下げた文章
「日記(回想)的章段」 定子サロンの日々やちょっとした出来事を記録、回想した文章
これらの章段がごちゃまぜに編まれているものと、形式ごとに整理されているものが現代に伝わっていて、前者を雑纂形態、後者を類纂形式と呼ぶ。だから、章段の区切りは数字で示されず、章段冒頭の言葉を章段名に使うというのが一般的となっている。
この本は、「三巻本系統」といわれる雑纂形態を基本にした小学館の「新編日本古典文学全集」に収録されているものを口語訳しているとのことである。

そして、解説の中で僕が最も興味を持ったのは紫式部との関係だった。紫式部も一条天皇の中宮である彰子に仕えた女房である。
歴史上に残っている記録では紫式部は清少納言に対してライバル心とも嫉妬心とも言える感情を持っていたというのは確からしい。自分なりに年譜を作ってみたのだが、それを眺めてみるとなかなか興味深い。
清少納言は紫式部よりも15年ほど早く中宮に入っている。「源氏物語」は紫式部が中宮に上がる前から書き始められている。
のちに摂政となる藤原道長の娘である彰子は12歳で定子に遅れること10年後に中宮となった。元々摂政の家系は道長の兄である道隆・道兼が受け継ぎ、その子供である伊周が引き継ぐはずであったが伊周との政争に勝利した道長が彰子を無理やり中宮に立てた。定子の不運はこれに始まるのだが、年譜を眺めてみると枕草子が書かれ始めたのは伊周が破れ、定子が中宮として力を失ってゆく頃からなのである。所どころには昔の栄華を懐かしむような記述があるのはそういった理由があるからでありそういった哀愁が枕草子に深みを与えているようにも思える。
それでも定子サロンは宮廷の中では新しい文化を発信してゆく場を維持しており、対して彰子は浮ついたやり取りを軽蔑した上に、道長が娘のサロンに高貴な家の姫君ばかりを女房に取り立てたため、相当保守的なものとなり公卿方からも人気がなかったらしい。
紫式部としてはもっとトレンドに乗っかったサロンのなかで自分の実力を発揮したかったのかもしれないがそれが叶えられず、それが嫉妬の根源となったのではないかと僕は思った。
いつかは清少納言を追い越してやろうと思っても、源氏物語を書き始める前に清少納言は中宮を辞し、どうだまいったかと言いたくても、追い越す前に目の前からいなくなってしまうのである。
「光る君へ」はそういった紫式部の嫉妬心と満たされない優越感をどんなに表現しているのか、僕は本編を観ていなかったが、この本を読みながら俄然「光る君へ」の興味が湧いてきて総集編を録画してしまった。明らかに紫式部のほうが後手に回ってしまっている感じであるがそこをどうやって主役らしく演出しているのだろうか・・。
そして、枕草子全編に渡って感じたことは、色彩が豊富ということだ。自然界の彩もしかりだが、衣服、建物、調度、すべてがカラフルだ。1000年以上前に今よりももっとカラフルな世界があったのだというのは全編を詠まねばわからないことであった。それもドラマの楽しみである。

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水軒沖釣行

2024年12月31日 | 2024釣り

場所:水軒沖
条件:大潮7:17満潮
釣果:コウイカ 1匹

今年も最後の釣行は大晦日になった。風があれば諦めるところだが、朝のひと時だけ凪ぐらしい。小船に乗ったのはひと月前になってしまっていたので今日は小船でコウイカ狙い。

なるべく早い目に港に戻って形だけの松飾りを作らねばならないのでいきなり本命ポイントへ直行した。



それがよかったかどうか、仕掛けを入れて数秒でアタリがあった。まずまずの型だ。おお、今日はひょっとして爆釣なのかと思いきや、その後はまったくアタリ無し・・。
新々波止の端から端まで移動してみたがかすりもしなかった。

家に帰って捌いたイカはすでに卵が大きくなっていた。コウイカのシーズンももう終わりなのに現時点で釣ったコウイカは2匹だけだ。イカはいなくなってしまったのか、それとも別の場所に移ったのか、それとも新しく買ったスッテの色が悪いのか・・。

コウイカが釣れなくて寂しい今年最後の釣行であった・・。

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加太沖釣行

2024年12月21日 | 2024釣り
場所:加太沖
条件:中潮3:52干潮 10:43満潮
潮流:7:17転流 11:21上り2.9ノット最強
釣果:真鯛 2匹

今月は週末ごとに天気が悪い。こういうローテーションに入ると必ず土日の天気が悪くなるのだがこういう現象を見ていると、1週間は7日間という設定はよくできているなと思う。
今日の天気も当初はお昼過ぎから雨が降るという予報だった。これは回避できたけれどももともとそういう予報だったので雲が多い。今日は冬至だけれども6:30ごろにはそれなりに明るくなっているだろうと午前6時に出港したけれども一向に明るくなって来ない。



今日も田倉崎まで2000回転以下の安全速度で航行した。

今日は朝一が転流時刻だ。潮が流れ始めるまでは四国ポイントをサビキで探ってみて頃合いを見てテッパンポイント付近に移動しようと考えていた。



しかし、仕掛けを下ろしてみると潮はすでに上りに変わっていた。これならテッパンポイントでも釣れるかもしれなと考えてすぐに移動。



最初は仕掛けを変えずにサビキを下ろしてみるとすぐにアタリがあった。鉤には乗らなかったが魚はいるようだ。
このまましばらくサビキを続けておけばよかったのではないかというのが今日の反省点だ。アタリがでた場面が仕掛けを巻き上げて誘っているときだったのでこれは高仕掛けでもよかろうと思ったのが間違った判断だったのかもしれない。高仕掛けに変更してからは全然アタリがなくなってしまった。きっとサビキのフワフワした動きのほうがよかったのだろう。潮の動きが落ち着くまでにも何かの獲物を得ることができていたかもしれない。

高仕掛けに変更してからは道糸にまとわりついてくるスラッジが目立ちはじめた。こんな日はよくない。魚にしても、エサを食べようと思ったらホコリも一緒に吸い込んだとなればいい気がしないだろう。魚たちの気持ちもよくわかる。

潮はどんどん速くなって仕掛けが上手く立たなくなってきた。なんとか船の姿勢を制御していると午前9時ごろアタリが出た。貴重なアタリなので慎重に引き上げる。なんとかタモに入れることができたが、鉤は唇の皮1枚に引っ掛かっているという状態であった。アタリの少ない日は喰い込みも悪い。
次のアタリは2時間後くらいであったか、オモリが着底してすぐに喰ってきた。1匹目よりも少し大きい。
潮流の加速度が弱くなってきていい感じの潮の流れになってきたのか、3度目のアタリは間もなくやってきた。これもじっくり引き付けようかと思ったがすぐに放されてしまった。あ~、もっと慎重に仕掛けを巻き取っていけばよかったと思ったがあとの祭り。しかし、もう一度すぐに仕掛けを下ろしてみると魚が乗ってきた。一度放したビニールをもう一度追いかけていったということだろうか。しかし、突然のイレギュラーなアタリで焦ってしまい合わせが早すぎた。残念ながらしばらくしてバレてしまった。

これが潮時ともう帰ろうと思ったが、よく考えたら、アタリが出てくるのはお昼を過ぎた頃のはずである。
“はずだ”というのは、今日は自作の潮流表ではなく来年から使わなければならないグラフを見ていたのでうまく時間を読めなかったのである。



このグラフ、慣れていないからなのだろうが、ものすごく見づらい。一見、潮汐表のようなデザインなのでグラフの頂点が転流するタイミングのように見える。しかし、転流時刻はグラフの中心線付近なのであり、頂点部分は潮流が最強の時刻を示している。
だから、一般的なタイドグラフとは逆のような気がするのである。今日の場合だと、11時過ぎに上り潮が最強になりその後も上りの潮流が続いていたのである。自作の潮流表と見比べていれば普通に分かることであった。だから、潮流の最強時刻を超えたお昼過ぎくらいが最もアタリの確率が高いとなるのである。

来年からはテキストデータを抽出できないのでこれを使うほかはないのであるが、こんな凝ったグラフを作ってもらわなくてもいいのである。
日々の潮流時刻が一覧で眺められてあれこれ妄想するというのがいいのである。

ということで、珍しくお昼過ぎまで粘ってみたが3匹目は来なかった。

今日の魚は処理が上手かったのか、身はプリプリでいい味だった。これはきっと氷の当て方なのだろう。氷が少ないと臭いが出てくるが当てすぎると身が白くなる。今日はクーラーの中に魚が2匹だけだったので何も考えなくてもいい冷やし加減になっていたのだと考える。
これもまた大きな課題になっていきそうだ。

釣った魚の1匹は叔父さんの家に。バイクに乗っている叔母さんに途中で出会い、危機一髪で野菜と大きな柚子をもらうことができた。今日は冬至なので準備をしてくれていたらしい。



あそこで出会わなければ用意してくれていた柚子も手にできなかった。冬至の神様は僕を見捨ててはいなかったようだ・・。
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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読了

2024年12月19日 | 2024読書
三宅香帆 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読了

よく読まれている本らしい。自分が本を読まないことに対する言い訳を見つけるために読もうというのだろうか・・。でもそのおかげで1冊読めたというのであればそれはそれでいいのではないかという、いい意味でちょっと矛盾している本である。

この本の論点とは逆で、僕の読書タイムは通勤電車の中がほとんどなので連休などをしていると逆に本を読まなくなってしまう。しかし、著者の経験では、仕事が忙しくなるとゆっくり本を読めるような精神状態ではなくなりそれが読書量の減衰につながったというのである。著者自身も就職をしてみたものの本が読めなくなり会社を辞めてしまったそうである。そんな経験からこの本を書いたそうだ。

この本で語られる“本が読めなくなる人”というのは一般的なサラリーマン(労働者)のことである。僕なんかは単純に、サラリーマンが本を読まなくなったのはスマホが原因だろうと思うのだが日本のサラリーマンの読書習慣の変遷を覗いてみるとどうもそうではないらしいということがわかってくる。確かに、活字離れ(この本では「読書離れ」と表現されているが・・)はスマホが普及するもっと前、この本によるとすでに1980年代から言われていたらしい。加えて、仕事が忙しいというのは今に限ったわけではなく、明治維新以降、日本のサラリーマンの労働時間は例えば1937年(要は戦前の頃)ですでに1日当たりの残業時間は平均2時間、休日も日曜日だけというはるかに長時間の労働時間であった。そんな中でも昔は本は読まれていた。それが現代になって人はどうして本が読めなくなったのか・・。
そのキーワードは「ノイズ」だという。
読書から情報を得ようとすると、必ず目的以外の情報も入ってくる。これを著者は「ノイズ」呼ぶ。1980年以降、それをムダと考えた出版社は今でいうともっとタイパがよい、おそらく読者が欲している情報はこれだけだと思えるようなことだけが書かれている本を量産しはじめた。社会的地位を得るために必要なものは教養ではなく知識になったのである。
読者もそれに乗って自己啓発本というものがベストセラーとなってゆく。
それ以前、読書から得られる「ノイズ」をひっくるめた情報を著者は「教養」と定義している。
その後インターネットが普及してくるとそれを自分でできるようになってくる。自分が欲している情報はブラウザのアルゴリズムが自動的に提供してくれるようになったのである。
だから本を読む必要が無くなったというのがこの本の途中まで書かれている主張である。
本のタイトルに沿えば、この結論でよかったのかもしれないが、著者はさらに「ノイズ」をムダと感じるようにさせたのは何かということに切り込んでゆく。
「読書離れ」を加速させたのは、バブル崩壊以降、規制緩和が進められたことによるというのである。この本では「新自由主義」と書かれているが、企業間の競争が高まり、それは個人間でも競争が高まるということであった。
一方では会社での社員教育の機会は減り自己啓発は自分でという流れが生まれ、限られた時間の中で効率よく知識を得なければならなくなる。さらにノイズが邪魔になってくるのである。それは、教養では賃金は上がらず、知識のみが世間の荒波を乗りこなすことができる手段と考えられるようになったからでもある。

しかし、自分に必要なもの以外はすべて排除するという考え方は、『他者の文脈をシャットアウトする』ことでもある。著者は、『仕事のノイズになるようなことをあえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを受け入れること。それこそが私たちが働きながら本を読む第一歩なのではないだろうか。』と提案する。
そのためには『半身で働く』ことが必要であると著者は考える。逆説的なようにも見えるが、全身全霊で働くということは何も考えなくていいから楽だと著者はいう。頑張ったという疲労すら称賛されやすい。しかし、それは自分の文脈でのみ生きることと同じだという。
だから「半身」で働くことが大事なのだというのである。
『仕事や家事や趣味や――さまざまな場所に居場所を作る。さまざまな文脈のなかで生きている自分を自覚する。他者の文脈を手に入れる余裕をつくる。その末に、読書という、ノイズ込みの文脈を頭に入れる作業を楽しむことができるはずだ。』
著者は、これが本当の人間らしい生き方なのだと言っているのだと思う。著者も、このノイズを受け入れる余裕を失くしてしまった。そんな生き方ができない現代をどこかで方向転換しなければならないというのが著者の結論だ。
タイトルを見ていると読書論のように見えるが、本当は、日本人に対して、労働というものの価値観とは何であるかを問う内容の本であった。

著者は、「ノイズ」の重要さを「花束みたいな恋をした」という映画を例えに使っている。僕も以前にこの映画を観たけれども、労働に対する価値観をフィルターとして観てはいなかった。ストーリーはほとんど思い出せなかったけれども、言われてみれば、主人公同士のすれ違いを生んでいくのはこの本でいう「ノイズ」であったように思う。「ノイズ」をムダと思うようになった男と、「ノイズ」こそが生きてゆく上で必要なものであると考える女は離れてゆくしかなかったのである・・。

この本に倣うと、僕は「半身」で働いてきた人のように見える。う~ん、確かにその通りだったかもしれない。ファッションビジネスなどには興味を持つことができず、全身全霊で仕事に打ち込んできたなどとはお世辞にも言えなかった。しかし、リストラもされず定年まで会社に残れたというのはよほどチョロい会社であったということかもしれない。まあ、最後の1年半はリストラされたも同然の状態であったが・・。
“休まない”ということが昇進の必要条件で人事考課も情意考課のウエイトが大半を占めているような会社で働いていたということを考えるとその1年半は妥当な仕打ちであったのだ。それでもちゃんと給料は支払ってくれていたのだから、やっぱりチョロい会社であった。
しかし、そうやって昇進したであろう人たちは自分を棚に上げてのことだが、確かにまったく教養がないように見えた。月に1回なり、数十名の社員を集めて講話のようなことをやっていた人たちは、自分自身が恥ずかしくないのかと思うほど教養のかけらもなく、とりあえずどこかでこの話題を拾ってきましたというような薄っぺらい話をする人ばかりであった。よほどノイズが嫌いであったのだろう。そして、ずっと感じていた会社に対する違和感のひとつはこれであったかと思い至った。
この社会が変わる前に「半身」で生きたいと思っている人にはぜひあの会社に勤めることをお勧めしたい。

最後に、明治以降、日本のサラリーマンが何を読んできたのかということを書き残しておきたいと思う。
日本の近代の歴史の中では、読書は自己啓発を目的として始まった。自分磨きのための情報収集のために本を読み始めたのである。それを踏まえて時代別の読書の変遷を追ってみたいと思う。

明治時代:立身出世を目指す時代。
日本の近代の歴史の中では、読書は自己啓発を目的として始まった。自分磨きのための情報収集のために本を読み始めたのである。職業の自由を得た労働者は、「修養」を必要とした。「修養」とは、“人格を磨くこと”を意味するが、この言葉を初めて用いたのは、「西国立志編」という雑誌であった。その後、修養を説く雑誌、「実業之日本」「成功」が創刊される。「実業之日本」を創刊した出版社はいまでも存在しているらしい。
この時代は黙読をする習慣が誕生した時代でもあった。それは句読点が導入され、朗読が主体的であった江戸時代から本を個人で読むことができる時代になった時代でもあった。
加えて、活版印刷の技術が導入され、大量の書籍が市場に出回るようになった。図書館も各地で作られ、学生主体であったが好きな本を好きなだけ読むことができる環境が整ってきた時代でもあった。

大正時代:「教養」が隔てたサラリーマンと労働者階級
「中央公論」が創刊された時代。この雑誌はいわゆるエリート層に読まれた雑誌である。生まれながらに「修養」を身に付けていたエリート層はさらにその上をいく「教養」を身につけたいと考えた時代であった。そして、労働者階級では、「修養」が自分の価値を上げるための自己啓発の思想として浸透していった。
一方では、日露戦争が終わり、巨額の外債を抱え、戦後恐慌による不景気が社会を襲い、社会主義、宗教的な書籍がベストセラーとなった。
「出家とその弟子」「地上」「死線を超えて」というような書籍である。
その不景気の中で、サラリーマンは物価高や失業に苦しんだ。そんな疲れたサラリーマンに読まれたのは谷崎潤一郎の「痴人の愛」であった。叶えられない妄想を読書の世界で叶えたいと思う読者に支持された。

昭和戦前、戦中:「円本」の時代
1923年の関東大震災は出版の世界にも打撃を与えた。紙の値段も上がり本の価格も上がり出版界はどん底にあったが、改造社が創刊した「現代日本文学全集」が革命を起こした。1冊1円なので「円本」と呼ばれた(現代の価格にすると2000円くらいになるらしい。当時の単行本はその倍以上の2円~2円50銭というのが一般的であった。)。全集で揃えて応接にインテリアとして飾っておくという文化が生まれた。昭和初期、本を読んでいるということは、教育を受け学歴がある。すなわち、社会的階層が高いことの象徴であった。そして、円本は古書として出回り、農村部にまで読書の習慣を育んでゆく。
教養の象徴としての読書の反動として大衆向けの週刊誌の創刊もこの頃であった。「キング」「平凡」が「中央公論」のアンチテーゼとして存在し、連載されていた小説は「大衆小説」「エンタメ小説」として「純文学」とは一線を画すジャンルに成長してゆく。

昭和戦後1950年~1960年代
1950年代、ブルーカラー層とホワイトカラー層が共通に読んでいたのは雑誌であった。大正時代から戦前、教養はエリートのためのものであったが、この時代、中学卒業の労働者にも教養を身につけたいという需要があった。定時制高校に通いながら読んだのは「葦」、「人生手帳」などの「人生雑誌」と呼ばれるような雑誌であった。
同時に娯楽小説というジャンルも人気を博してきた。いわゆるサラリーマン小説というもので、その筆頭は「源氏鶏太」であった。
1960年代に入ると、新書が相次いで創刊される。書籍が「教養」から「知識」志向に転向してゆく形がはっきりしてくる。その最たるものが「カッパ・ブックス」であった。今でも古本屋に行くとたくさんのタイトルが売られていて、確かにタイトルにはそそられるがあまりにも胡散臭くて読む気にはならないというのが僕のカッパ・ブックスに対する印象である。

1970年代
この時代の人気作家は司馬遼太郎であった。ビジネスマンに偏って読まれていたそうだ。歴史という教養を学ぶことで、ビジネスマンとしても人間としても、優れた存在にのし上がることができる。」という感覚の帰結であったと考えられている。
同時に、テレビがベストセラーを生むという現象も生まれてくる。大河ドラマの原作、欽ドンのコント本。テレビとは違うが、僕の思い出として残っている、「鶴光のオールナイトニッポン」の本をギラギラしながら読んでいたのも1970年代の終わりごろであったと思う。

1980年代
この頃から、「読書離れ」ということが言われ始める。しかし、ミリオンセラーとなる書籍も生まれていた。「サラダ記念日」「窓際のトットちゃん」「TUGUMI」「ノルウェイの森」などだ。
著者の分析によると、当時のベストセラーはすべて1人称、すなわち、自分視点で書かれていたということが特徴であった。この時代、コミュニケーションの問題が最も重要視され、他人とうまくつながることができないという密かなコンプレックスが1人称視点の物語を欲し、それはまた、労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになったということを意味していたのではないかという。

1990年代
この本でいう、自己啓発は自分でという流れの時代である。同時にバブル崩壊後の不安な時代でもあり、スピリチュアルな一面を持った作品がベストセラーとなる。さくらももこの作品群、「パラサイト・イヴ」「脳内革命」・・。あまり共通点はなさそうだが、いずれも、自分の内側の在り方というものがテーマとなっていた。そこから自己啓発へ仕向けてゆくという流れであった。

2000年代
「自己実現」という言葉がクローズアップされてきた時代である。そういえば僕も会社でそういうことをよく言われていた。ここには僕が自己実現できる場所はないとずっと思っていたが・・。
その象徴が、「13歳のハローワーク」であったという。自己実現はなにも仕事を通してでなくてもよいのだが、やはり仕事の存在抜きにしては語れないというところが大きい。
もうひとつの特徴は、インターネットがベストセラーを生むという現象だ。1970年代はテレビがその主役であったが、「電車男」はインターネットが生んだ小説の代表であった。

2010年代
この時代も、この本でいう「ノイズ」が排除された書籍が人気を博していた。僕はすでにこのころには「ノイズ」がないと読めなかったのか、「人生の勝算」「多動力」「めんどくさがる自分を動かす技術」などというタイトルの本はこの本を読むまで知りもしなかった。

1970年以降のベストセラーを眺めてみると、確かに僕もそれは読んだという本がいくつかある。途中までは僕も時代の流れの中で自己啓発でもやってみようかと思っていたようである。「ノイズ」を払しょくできない僕が自己啓発から脱落したのが2010年代であったというのは、確かにそのとおりである。きっと著者の分析は正しいというのは僕の読書歴からも覗えそうだ。
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「ナカスイ!海なし県の水産列車 」読了

2024年12月10日 | 2024読書
村崎なぎこ 「ナカスイ!海なし県の水産列車 」読了

こういうタイプの小説はライトノベルと言われるそうである。ネットで調べてみると、『小説の分類の一つ。SFやホラー、ミステリー、ファンタジー、恋愛などの要素を、軽い文体でわかりやすく書いた若者向けの娯楽小説をいうが、明確な定義はない。英語のlight(軽い)とnovel(小説)を組み合わせた和製英語であるが、「軽い」という訳については異論もある。略してラノベともいう。文庫版や新書版の判型をとった比較的安価な本が多いことが特徴の一つで、アニメのような絵が表紙や挿絵にふんだんに使われていることが多い。』
と説明されている。
要するに、僕のような年齢の人間が読む本ではないのである。表紙を見た時、そんな予感はしていた・・。
しかし、小説の舞台が水産高校というので読んでみることにした。海のない栃木県に水産高校ではないが水産科がある高校というのは本当にあるらしく、著者はここでたくさんの取材をしてプロットを作ったらしい。

ライトノベルというくらいのライトさの故か、老人界に片足を突っ込んでいる人間には何の感動もなかった。クライマックスくらいには少しくらい涙するかと思ったがそれもなかった。
代わりに、自らの高校時代のことを思い出していた。近眼、肥満、頭悪いという三重苦のなか、どうしたことか県内トップの進学校に合格してしまったことで僕の青春時代は劣等感の塊であった。だから満喫どころではなかった。ダラダラと過ごした三年後、迎えた共通一次試験は得点率が50%程度。ギリギリ地元の国立大学に行けるかどうか、それも二次試験で高得点を取らねばならないという条件付きであった。自分の得点で合格できそうな大学はあるのだろうかと調べてみると三重大学の農学部水産学科というところがあった。理系だし、この本の扉に書かれていたマークトゥエインの名言『今から20年後 君は「やったこと」よりも「やらなかったこと」に後悔するだろう 舫を解き放ち 安穏な港から旅立とう 航路への風を君の帆でつかんで 探し求め 夢を見て そして見つけ出すのだ』というような心持はみじんもなく、地元を離れる勇気はまったくなかった。

今思えば、釣りが好きならこんな選択肢もあったのかもしれなかった。しかし、その先、何をしたいということがなにもなければそんな選択をしても意味がなかったであろう。
主人公のように夢を持つためにはどんなきっかけが必要なのか、今もってそれがわからない。

この小説の最後にはサムエル・ウルマンの「青春」という詩が出てくる。
 『青春とは人生のある期間ではなく、
 心の持ちかたを言う。
 薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
 たくましい意思、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
 青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは臆病さを退ける勇気、
 安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには、20歳の成年より60歳の人に青春がある。
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。』
僕はすでにあの時から老いていた・・。

きっとライトノベルに感動できないのは、年齢のためではなくそのきっかけを見つけられなかったのが原因であるに違いない・・。





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「タネまく動物:体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで」読了

2024年12月07日 | 2024読書
小池伸介、北村俊平/著, 編 きのした ちひろ/イラスト「タネまく動物:体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで」読了

「タネをまく」ではなく、「タネまく」動物というタイトルだったので読んでみようと思った。そこにはなんとなく意図のない自然への愛おしさが漂っている気がしたのである。

動物は意図してタネを撒いているわけではないがいろいろな方法で植物の種を運ぶことで植物の分布を広げることに貢献している。

動物が植物の種を散布するから動物散布と言われる種撒きであるが、細かく分けると被食散布、貯食散布、付着散布に分けられる。文字通りの散布方法である。

種が地面に落ちるだけではダメなのかと思ったのだが、確かにそれでは次の世代もそこに留まるだけだから勢力を広げることができない。風に乗せて運ぶ手法を持たない植物は誰かに運んでもらうしかなく、動物に食べてもらったり引っ付いたり体毛や羽毛に潜りこんだりしながら数メートルから数百メートル、時には数百キロメートルも離れたところに着地するのである。
植物の種はそのために、あるものは果実を膨らませ、あるものは棘や粘液を纏う。またあるものはエライオソームという栄養物質を装備した。

しかし、こういうことを専門的に研究しているひとがいるというのにも驚かされる。対象の動物が何時間でどれだけの範囲を行動するのかとか、食べてから排泄されるまでどれくらいの時間がかかるかとかを調べて、種が運ばれる距離を推算してゆくのである。

果実や種は動物にとっては食料である。動物にとってはただそれだけであるが、植物にとっては結果として勢力拡大の手段となっている。自然の巧妙なシステムがそこにあったということである。
そこには“を”という文字はないということだ。
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「青い絵本」読了

2024年12月06日 | 2024読書
桜木紫乃 「青い絵本」読了

タイトルが面白そうな小説だったので借りてみた。著者は直木賞作家だそうだ。
5編の短編が収録されていて、すべての物語のキーアイテムとして絵本が出てくる。主人公は50歳を少し越えたくらいの女性たちと共通している。人生の中で苦悩しながらも一区切りがつき、新たな道に出てゆくきっかけを絵本に求めたり絵本が作り出す。

卒婚旅行
定年退職を迎えた夫。それを機に卒婚しようと考えていた妻は絵本セラピストの資格を取っていた。夫が抽選で当てた七つ星の豪華旅行の途中、卒婚を切り出す妻。夫は驚くかと思いきや、以前からの少しの予感からそれもありうるかと諦めと安堵にも似た返答が帰ってくる。
夫は妻に1冊の絵本を読んでほしいと差し出す。その本は妻が絵本セラピストになろうと思うきっかけになった絵本であった。
どうして夫はこの本を選んだのか・・・。確かめる時間はまだある。と妻は考えるようになる。

なにもない一日
水産会社を経営する夫。妻は夫の道楽として引き継いだ地元FM局でパーソナリティを務める番組を持っている。その番組のひとつに本の朗読番組がある。FM局の引き継ぎに反対した病気療養中の姑は今ではそのラジオ番組を楽しみにしている。
夫と妻の間には子供ができなかったが、夫は外に婚外子がいる。先がなさそうな姑はうすうすそのことに感づいていて、子供ができなかった妻は少しの後ろめたさから、それなら会わせてあげたほうがよいと夫に提案する。
妻は日記帳にその日のことを書き留めながら1冊の絵本を手に取る。絵本は読者に、大好きな場所、大好きなもの、大好きな人は何かと問いかける。妻はそこで姑が亡くなったところで夫と別れようと決断する。
妻の育った環境は母のいない環境で父も祖父母からもそれほど熱い愛情を注いでもらうことはなかった。
妻は次に朗読しようと考えている本を読み始める。そのタイトルは「なにもない一日」。ここにも複雑な家庭の親子が登場する。そしてここにも1冊の絵本が取り上げられ、朗読の中の主人公に大好きなものはなに?と問いかける。物語の主人公はなにも起きない一日と答える。
離婚後の生活を贅沢な日々だと思いを馳せる主人公の裡には凪いだ海が広がっていた。

鍵 Key
主人公は札幌駅ビルの小さな書店のパート社員。夫が亡くなって以来15年この書店に勤めていた。夫は新進気鋭の小説家であったがデビューから5年の後、執筆への重圧と焦りからか自殺をしていた。
その書店は今日、50年の歴史に幕を下ろす。最後の日に買った絵本のタイトルは「鍵 Key」。最後の日の出がけに配達されたのは夫の最後の編集者が差出人であった。自宅で読む気にはなれないと考えた主人公は評判のよいホテルのスパに向かう。その手紙には編集者の当時の後悔と苦悩が書かれていた。
翌日、ふと思い立ち、遠く離れて暮らす息子のところを尋ねてみることにした。立派に育ち、自分の苦しみを受け止めてくれる息子。彼もまた苦しい時を過ごしてきたはずである。息子に向かって声にならない問いを差し出す。「ねえ、お前が過ごした一五年を、ゆっくり聞かせて--」
絵本に出てくる鍵は、喜びの部屋の鍵、いかりの部屋の鍵、かなしかったこと、たのしかったことの部屋の鍵へと続き、最後は、「あの扉を開ける鍵です。開けたいときに、どうぞ ずっと開けなくてもいいのです 開けたいときに、どうぞ」と括られていた。

いつもどおり
主人公は人気に少し陰りが見え始めた小説家。その小説家をデビューさせた編集者が五年ぶりに会いたいと求めてきた。編集者は病でそう長くはないと悟っていて、小説家に一冊の絵本の執筆を依頼する。その絵本のタイトルは「今際」。すべての絵は、限りなくリアルな絵を描くので時間がかかり、新聞や週刊誌の連載は任せられないと言われる気難しいイラストレーターが描いた、人の今際の際が描かれたものであった。
小説家は言葉を絞り今際の際に立った人はどんなことを思うのだろうかと考える。そしてたどり着いたその答えは、「いつもどおり」。編集者がかつて語った、「フィクションで現実を透視するのです」という言葉を頼りに言葉を紡いでゆく。
編集者が描かれているというその絵の最後の絵に付けた言葉は、「なにも こわくない」であった。「こわくない」、なのか、「こわくはない」なのか、一週間かけて一文字削った。
それが、編集者が語った、「フィクションで現実を透視するのです」という意味であると主人公は思い至ったのであった。

青い絵本
本のタイトルにもなっている短編である。
主人公は無名のイラストレーター。生い立ちは複雑で、父は北海道で演劇集団を主宰する独裁者。
そんな独裁者のような父を嫌いまったく縁を切っていたが三番目の母となった女性とは手紙のやりとりからメールのやりとりへと縁は続いてきた。その女性は描き溜めていた絵本が認められ、それに嫉妬した夫から妻の座を追われていた。
久しぶりに送られてきたメールは贅沢なホテルへの誘いと一緒に絵本を作りたいというものであった。病に侵されていた人気の絵本作家には文章は書けても絵を描く力は残されていなかった。その代わりとして作画を主人公に依頼をしてきたのであった。その絵本のタイトルは「あお」。
残された時間は三ヶ月。主人公は何もかもを忘れて作画に没頭する。
三番目の母の最期に間に合った絵本の最後のページには、「あなたは しっている こころと こころの まじりあう こうふくな しゅんかんを」と書かれていた。


主人公がすべて女性なのでなかなか共感ができないけれども、ただ、すべての主人公はそれまでも頑張っていきてきたうえでさらにその先に新しい道を見つけようとする。自分の人生をまるで他人事であるように生きてきた僕にとって、新しい道を見つけるなどという資格はないのだと言われているようであった。
「いつもどおり」というタイトルの一編があるが、僕にとっては「これまでどおり」でしか生きていゆく方法を見つけられない。ただ、「これまでどおり」でも意外と面白そうであると思っている事実もある。まあ、50歳と60歳ではこれから先の自由度の幅もかなり違うのだからすでに遅し、この辺で手打ちにしておくしかないというのも事実である。

主人公たちとまったく同じ節目を迎えているウチの奥さんが読んだらどんな感想を抱くだろうか。いっそのこと、卒婚でもなんでもやってくれたら僕はもっと自由になれるのにと思ったりもしてしまうのである・・。僕はこれまでどおり以上に自由になりたいと思っている・・。

この本は、著者の本来の作風とは少し違っているそうだ。実家がラブホテルの経営をしていたという経験から、「新官能派」というキャッチコピーでデビューしたとおり、あまり過激ではない官能小説というのがこの作家の特徴であるらしい。
本来がどんな文体かは知らないが、この小説には官能という雰囲気はまったく感じられない。むしろ、官能とは真逆の、諦観にも似た趣がある。
読んでいても、何の高揚感も湧いてこないけれども、かといって退屈というのでもない。絵本に書かれるような単純だが純粋な文章が所々に使われているからかもしれないが、人生の区切りなり境目という時には多くの人がそんな感じを抱くのかもしれないと思える1冊であった。
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水軒沖釣行

2024年12月02日 | 2024釣り

場所:水軒沖
条件:大潮7:17満潮
釣果:コウイカ1匹 足の長いタコ1匹

今日から紙の健康保険証の新規の発行が停止される。そんな日を選んだわけではないが、母を病院へ連れていかねばならなかった。当然受付ではとりあえずマイカードを出せというのだが、このカードを健康保険証として使用するためには顔認証か暗証番号が必要らしい。顔認証をしようにも母はボ~っとベンチに座ったままだし、暗証番号を聞いてもおそらくそんなことを記憶していないだろう。仕方がないので母の誕生日を入力してみたらそれはそれで当たったのはいいものの、今度は健康保険証として登録が必要だと言ってくる。カードを作るときに申請しているはずだが機械に文句を言っても仕方がない。申請ボタンを押して待つこと2分。やっと受付を終えることができて診察の順番待ちに並ぶことができた。



その前の2時間ほど釣りをする時間がある。遅れているとはいえ、すでにコウイカシーズンに突入しているはずなので1、2匹釣れれば昨日の真鯛とハマチ、少し前に作ったイクラの醤油漬けを加えて海鮮丼を作ることができると午前6時に出港した。
今朝は昨日よりもさらに寒くなっている。防寒着に加えてネックウオーマーを装備しての出港である。



少しでも釣りをする時間を稼ぐため、一番遠くから釣りを始める。



港に近づきつつ帰投時間を節約しようという考えだ。
スタートは新々波止の赤灯台の前。アタリはない。少し戻って最初の元の切れ目の前。ここもアタリ無し。もうひとつ手前の元の切れ目の前。ここもアタリなし。速いテンポでここまできたので少し時間ができた。この海域ではダメかと思い一気に新々波止の北側へ行ってみることにした。波止の前は深いけれどもちょうどフェリーが入港してきたのでそれを避けるため青岸の西、紀ノ川河口に差し掛かるところで仕掛けを降ろしたが水深は10メートルほどしかない。すぐに見切って再び新々波止の南側の東の端へ移動。ここがダメならすぐに帰るつもりだ。

平日なのでバッチ網の船がたくさん出てきている。すぐ横を通り抜けてゆくが邪魔だからどけろとは言われない。



この人たちはいつも優しい。帝国軍とは全然違う。
そんなときにやっとアタリが出た。出たというよりもアタリらしいアタリもなく、https://blog.goo.ne.jp/matufusa/e/e13196f179f3271245a0e4e34367ceafで掛けたという感じであった。
普通なら放流しようか迷ってしまうサイズだが今日は海鮮丼の具になってもらわねばならない。恨むならタダで海鮮丼のタレを配っていた「わかやま〇しぇ」を恨んでくれ。
その後、小さくて足の長いタコが掛かってきた。このタコ、去年SNSにアップしたら食べられるとのことで持ち帰り、同じく海鮮丼の具になってもらったがあまり美味しいとはいえなかった。今度は海に帰ってもらおう。連続でアタリがあったのでこれからかと思ったけれども病院へ行く時間が迫っているので午前8時15分に終了。

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加太沖釣行

2024年12月01日 | 2024釣り

場所:加太沖
条件:大潮6:40満潮
潮流:7:24上り3.4ノット最強 11:26転流
釣果:真鯛7匹 ハマチ2匹

「カムカムエブリバディ」の再放送が始まった。



そしてこのドラマを観ていると前半はおはぎを後半は大判焼きを食べたくなってくるというのはこのドラマを観ているすべての人の想いなのではないだろうか。だから今日はいつものスーパーから別のスーパーに迂回してわざわざおはぎを買い求めた。



この朝ドラは確かに素晴らしかった。ネット記事では、2000年以降の朝ドラ史上No.1の呼び声高いこのドラマを「おむすび」の放送期間にわざわざ当ててきたというのは橋本環奈を見限ったのではないかと書かれていた。確かに「おむすび」は秀作とは程遠いし、毎回登場する今後の注目株の俳優もいまだ現れない。唯一は磯村アメリだけれども、いかんせんまだ8歳。彼女がビールのコマーシャルに登場する頃には僕はすでにこの世にはいないと思うと観るたびに虚しさのほうが募ってくる。とはいっても、決して駄作ではないと思う。まあ、凡作という程度だろうし、「カムカムエブリバディ」が再放送されたのは来年が放送事業が始まって100年という節目であるからにすぎないはずである。
そして、2000年以降の朝ドラ史上、いや、すべての朝ドラ史上No.1は紛れもなく「あまちゃん」なのであるからそれを超えられることは決してないのだから制作しているひとたちはそこまで悲観することはない。ただ、おはぎが食べたくなるだけなのである。
それよりも僕はこの再放送を見ながらものすごいことを発見してしまった。それは、このドラマには、英語のほかにもうひとつのキーアイテムとして映画が出てくる。どうして映画なのか、それは、英語の“英”と映画の“映”を掛け合わせているのだということだった。(あくまでも私見の域を出ないのであるが・・)そういうことに気がついて、ひとりほくそ笑んでいたのである。

そして今日、そのおはぎの神様が僕に好釣果をもたらしてくれたのであった。せっかく買ったおはぎをバイクのカゴに置き忘れて船を出してしまい、それを取りに戻るため15分ほどの時間をロスしてしまった。
それがポイント選択に大きな影響をもたらしたのである。

まったく話は変わるが、夜明け前の寒さに耐えられなくなった。日が昇ると暑くて仕方がなくなると思いながらも防寒着を着ずにはいられない。




当初、潮流が最強速度を迎えまでは四国ポイントでサビキをやってみるつもりであったが時間をロスした焦りからここをやり過ごし少し先の船団の中から高仕掛けを始めることにした。



ここでは魚探の反応もアタリもなくどうしてここにたくさんの船が集まっているのかわからないが、もう少し待つと魚が回遊してくるかもしれないと思いつつもやはり最初の時間のロスの焦りと、今日は二枚潮ではないというところからここを見切って第二テッパンポイントへ移動したということが奏功したのである。



ここではアタリがすぐにあり立て続けに2匹釣り上げた。その後もこのポイントにあるふたつのシモリの間を通すとアタリが出続ける。魚も正直なもので、シモリを離れるとアタリが少なくなる。先々週にも出会ったこの船のオーナーもここがお気に入りらしいがこの人の操船技術は僕のかなり上をいっている。



このポイントをほとんど動かず釣りを続けている。こういうことができればもっと釣果が上がるのだろうがどうも僕には無理なようだ。
最初は僕とこの船の2隻だけだったが僕たちが竿を曲げているのを見られてしまったか、こんなに接近するほど船が集まってきた。



困ったものだ。それでもアタリは続き、時にはドラグが止まらないほどの魚がやってきたこともあった。この魚たちには水深以上の道糸を引き出されてしまい根掛かりの後、仕掛けと引き換えにハマチ1匹であったが、ひょっとしたらメジロクラスが引っ掛かっていたのかもしれない。

最初のアタリから2時間半あまり、今日は本当によくアタリがあったし、型はどれもまずまずであった。しかし、潮が緩んでくるとアタリがあっても鉤に乗らないことが多くなった。これを克服することができればもっと釣果があがるかもしれないと思うが、これ以上釣っても魚の処理に苦労するだけだからこのくらいでちょうどよいのかもしれないとも思うのである。
アタリも少なくなり、これだけ釣ったら十分なので午前10時に終了。

今日の恩人はもうひとりいる。その人は菊新丸さんだ。昨日、仕掛け用のパッケージを買いに行く途中、和歌山城のお堀の向こうに客待ちをしている菊新丸さんの後姿をみつけた(客待ちをしているからといって決して怪しい商売をしているわけではないというのを断っておく)。立ち話をしながら、明日行きます。カワハギと真鯛狙いですと言うと、カワハギは全然釣れていないと教えてくれた。潮は真鯛狙いに最適なのもあって、高仕掛けメインで計画を立て直したのであった。
シルバーのビニールといい、今日の釣行へのアドバイスといい、今年の秋のラウンドは菊さんに助けられている。昨日は同時に新たなテクニックも教えてくれた。今回はその必要もないほどアタリがあったが、このテクニックもいつかは役に立ってくれると思う。
僕ももう少し進化できそうである。

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