イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「藍を継ぐ海」読了

2025年03月19日 | 2025読書
伊与原新 「藍を継ぐ海」読了

今年の上半期の直木賞受賞作だ。こんな人気の本を受賞直後に読むことができているというのは、貸し出し予約を去年の11月にやっていたからだ。著者は元々ベストセラー作家だそうで、作品の中にはドラマ化されている物もあるそうだが、情報に疎い僕がどうしてそんな作品を一足早く知ったのかというと、海南市の図書館で読んだBE-PALの、「焚火の前で読みたい本」というような企画の中で紹介されていたからである。

著者は、地球物理学を学び、富山大学で助教をしながら小説を書き始めたそうだ。この本の書評にも、科学的知見から創り出されるストーリーが素晴らしいと書かれていたものがあったが、収録されている5編の物語はそれに加えて、過去の人が残した思いを、現代の人たちが科学的な知識を駆使して現代に蘇らせるというストーリーになっているところが面白い。そして、その思いを知った主人公たちがその思いを引き継いでいこうと決意するという結末で終わるというところが共通している。
過去の作品を読んだことはないのだが、この短編集が直木賞を受賞したというのはそういうストーリーが評価されたというのがその要因だったのかもしれない。

それぞれの物語のあらすじをまとめてみる。
第1話「夢化けの島」は、山口県萩市の離島、見島が舞台になる。もともと火山島だった見島の地質を研究する地質学者が、萩焼の土を探す奇妙な青年と出会う物語だ。主人公も青年もそれぞれ悩みを抱えているが、見島の特異な地質に触れるうちに、それぞれのめざす場所を見つける。
第2話「狼犬(おおかみけん)ダイアリー」は、都会から逃げるようにして奈良県の東吉野村に移住したウェブデザイナーが、「混狼」というニホンオオカミと猟犬の混血に出会い、その孤高の姿から自らの立ち位置と生き方をもう一度見直すという物語だ。
第3話「祈りの破片」は、長崎県の長与町役場で働く青年が、空き家に灯りが見えるという訴えを聞いて調査に赴く物語。そこで彼が見たものは原爆によって表面が溶けたり焦げたりした岩石やコンクリート片、金属片などの膨大なコレクションだった。32歳の若さで原爆症が原因で亡くなった男性は自分の命を削りながらもなぜこれらを集めたか。また、この取集に協力した浦上天主堂の神父のなかでただひとり生き残ってしまった男性の想いを想像するその孫。それぞれがこのふたりの想いを受け継ぎ動き出す。
第4話「星隕つ駅逓」は、火球が落ちた北海道の遠軽町が舞台。野知内郵便局という簡易郵便局は局長の定年退職を持って閉局となる予定だ。妻を亡くしたのち、ひとり暮らしとなった局長は定年を前に生きる気力を失くしつつあるように見える。それを心配した娘は偶然見つけた隕石の発見場所を偽って野知内という地名だけでも残そうと考える。それをすることで再び父親が生きる気力を取りもどすことができると考えたのだが・・。
第5話、表題となる「藍を継ぐ海」は、条例で禁止されているはずのウミガメの卵の採卵と孵化を試みる中学生。その理由は4年前にさかのぼる。母親がすでに亡くなり種違いの姉も田舎暮らしを嫌いその時に家を出た。その寂しさを知っていたのか、監視員をしている老婆は少女と一緒にその子ガメを密かに育てることにする。
10ヶ月後に放流したその時の子ガメが4年後の今、カナダ西岸で見つかった。その知らせを聞いた同時期、中学生になった少女は再びウミガメを孵化させようとしていた。
「今度は自分が育てるのだ。」その言葉に秘められた思いとは・・。

それぞれの物語は小さな事実を元にして著者が想像を膨らませたものだけれども、どんな人にも自分よりはるか昔にそこで生きた人たちに思いを馳せることがあるに違いない。
Nさんにしても、トンガの鼻の草刈りをするのはかつてそこで何かをしていた人たちの足跡を蘇らせたいからなのかもしれない。はるか昔ではなくても、父親がやっていたことの物まねをしている僕も同じ気持ちなのかもしれない。どんな人でも心の奥に持っているそんな郷愁にも似た思いをくすぐるようなストーリーである。

受け継ぐこと、引き継ぐこと、その大切さを思い起こさせる1冊であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「面白くて眠れなくなる物理」読了

2025年03月14日 | 2025読書
左巻健男 「面白くて眠れなくなる物理」読了

今日、3月14日というのは円周率の日だそうだ。そして、アインシュタインの誕生日でもある。そんな日だからこの本を選んだわけではないが、数学に続いて物理の本を読んでいた。まあ、どちらも一般向けの本なので簡単本なのである。

自慢ではないが、と言いながら何度もこのブログに書いているので自慢話にほかならいのであるが、物理と化学はけっこう得意な科目であった。2回目の共通一次試験での両科目はほぼ満点という実績であった。なにしろ、アインシュタインとは誕生日が3日しか違わないのであるから不得意なわけがない・・。
もっと数学がよくできて、冷静沈着で思慮深く論理的で半径15㎞を超える生活をいとわない性格でなければ今とはまったく違う人生を歩めたのではないかと思っている。まあ、これだけ違うと僕は僕ではないということになってしまうのだが・・。

読み始めて、これはかなり易しい内容で、取り上げられているトピックスならすでに知っているぞと少し退屈な感が出てきたのだが、それも著者の罠だったのか、途中のセクションから出てきたクイズ形式の形に変わってくるとほとんど何も知らなかったじゃないかとなってきた。半分くらいしか解答できないのである。知っているつもりが実はただのうろ覚えでしかなかったのである。この本に取り上げられている題材は主に中学校で学習する理科からだそうなのでことさら悲しくなる。

解答できなかった問題のいくつかはこんなものである。
〇空が青い理由と海の水が青い理由は同じか?
〇1827年植物学者ロバートブラウンが発見したブラウン運動は何を顕微鏡下で観察してブラウン運動を発見したか?
〇糸をつけたヘリウムガス入りの風船を持って自動車に乗って、自動車を急発進させると風船はどうなるか?(これは解説を読んでもさっぱりわからなかった・・。)
〇廊下の床の上にある箱を摩擦力より大きな一定の力で引っぱり続けたら、引っぱっている間、箱はどんな運動をするか?
〇1本のニンジンを糸で巻いて、水平になるような位置(重心)で切断して重量を計ると、根元の方と葉に近いほうではどちらが重くなるか?
〇1.5ボルトの乾電池を三つ、二つを直列に、一つを逆向きにして豆電球をつなぐとどうなるか?
〇机の上の一円玉にネオジウム磁石を置いて素早く磁石を持ち上げるとどうなるか?

学生時代にもっとキチンと勉強していれば難なく解ける問題であったはずなので、やはり「リカケイノヒト」はなれないのだなとうなだれるしかないのである・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カレー記念日」読了

2025年03月11日 | 2025読書
中央公論新社/編 「カレー記念日」読了

カレーをテーマにしたエッセイを集めたアンソロジーだ。収録されている作家のほとんどは僕よりも年上だというのが嬉しい。こういうアンソロジーに収録される作家というのはやはりある程度の貫禄と実績が必要だ。言ってみれば仮面ライダーV3に時々登場する1号、2号ライダーのようなものだ。安心して読めるのだ。そういった人たちの文章は構成がロジカルで安心して読めると思うのは僕の偏見だろうか・・。

冒頭のエッセイには、『なぜかカレーが嫌いで仕方がない、という人に出会ったことがない。』書かれているが、確かにその通りだ。カレーが嫌いだという人に僕も出会ったことがない。
もちろん僕自身も子供の頃からカレーは大好きであった。母がカレーを作ってくれる日は夕食が楽しみで仕方がなかった。最後の仕上げに入れる水溶き片栗粉を入れる姿を確認するといよいよカレーを食べることができる。ワクワクしてくるひと時であった。
それからすでに50年あまり。今でもカレーは大好きな料理である。作り手が母から奥さんに変わっても同じである。
しかし、この料理を外で食べたいと思ったことはほとんどない。まあ、外食自体ほとんどすることがないのだからカレーも外食することもないのであるが、カレー専門店に行きたいと思ったこともないし、たまに入るレストランでメニューにカレーがあったとしてもまず注文することはない。ホテルのバイキングにカレーが含まれていても同じで、わざわざ食べたいとは思わない。これも偏見なのかもしれないが、カレーは家で作っても外で食べてもそんなに味が変わるものではないと思っているのである。特にレトルトカレーとなるとこれはほぼ専門店の味じゃないのかと思うのでわざわざ家以外で食べなくていいと思うのである。
そうなってくると、カレーが好きと言いながらそれが本当なのかと怪しくはなってくる。
カレー記念日に参加する資格は僕にはないのかもしれない・・。

カレーにはひとつ悔いている思い出がある。サバカレーというと今では少し日常を離れたおしゃれなイメージ(30年くらい前にはそんなドラマもあったけれども、こういうイメージも遠い昔のことか・・。)があるが、小学生のころ、祖母がそんなのを作ってくれたことがあった。「今日は何が食べたい?」と聞かれたので、「カレー」というと、おそらくその日はあいにく祖母の家に豚肉がなかったのだろう、肉の代わりにサバが入ったカレーが出てきた。当時から癇癪持ちであった僕は、そんなもの食べられないと駄々をこねてひと匙も口にせず寝てしまった。今ではサバカレーを作るためにわざわざサバの水煮を作るくらいなのだが・・。作ってくれた祖母はおそらく悲しんだに違いない。申し訳ないことをした・・。
祖母との思い出というのは相当遠い彼方に行ってしまっていて何も思い出すものはないのだが、なぜだかこの思い出は消えることなく残っている。やはりきっとこの思い出はそれがカレーだったから残っているのだろう。これがサバピラフだったらとうの昔に記憶の彼方に消えてしまっていたはずだ。
やはりカレーは偉大であり、「ピラフ記念日」では本になっていなかったのだろう・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「時間移民 劉慈欣短篇集Ⅱ」読了

2025年03月10日 | 2025読書
劉慈欣/著 大森望、光吉さくら、 ワン・チャイ/訳 「時間移民 劉慈欣短篇集Ⅱ」読了

SFというとこの人の著作しか読まないというのはかなり偏っているとは思うのだが、ほかにこういうジャンルの作家を知らないのだから仕方がない。「三体」以来、まずまず面白い作品が多いので僕にとってのSFはこの人で十分な気もする。
相当大雑把でおそらくは相当曲解した物理学をベースにして書かれているストーリーは、そんなこともあるのかと思いながらいやいやそんなことにはならないだろうと思える微妙な設定のもとに書かれているというのが著者の作話の上手さなのであろう。

クォオークをさらに分割するという実験というのを題材にした一編「ミクロの果て」があるのだが、現在の物理学では分割できない最小単位がこの粒子であるとされている。小説の中ではクォークが分割された瞬間、宇宙全体が写真フィルムのポジとネガのように色が反転してしまうというストーリーで、さすがに宇宙の片隅の小さな星の上でおこなわれる実験の影響が全宇宙に影響を及ぼすなどというのは無理があると思っていたら、この本を読んでいた時に観ていた「オッペンハイマー」では、マンハッタン計画の最初の核実験の際にこの実験の影響で地球上の大気すべてに引火して世界中が燃えてしまうかもしれないという予想があったということを知った。世界の最先端を行っていた科学者たちもそういう可能性を考えていたのである。計算に使うパラメータの値を少し変えるだけでこんな結果が導き出されることがあるらしいが、著者もこんなエピソードを知っていて物語の中に盛り込んだのかもしれない。

ほとんどの物語は2018年以前に書かれたものらしいが、ある一編「鏡」では、登場人物にこんなセリフを言わせている。『人間社会の進化と活力は、さまざまな道徳的規範から外れようとする衝動と欲望がベースになっている。水清ければ魚棲まずと言うだろう。道徳的な過ちが絶対に起こらない社会など、実際は死んでいるも同然だ。』
主人公が入手した「超弦コンピューター」は宇宙のビッグバンから現在まで、原子レベルで宇宙のすべてをシミュレートできるほどの性能を持っているコンピューターだ。歴史上の人物の行動だけでなく、すべての個人の生まれてから現在までの行動もシミュレートできる。その人の悪行も善行もすべて人目にさらされてしまうということだ。このセリフは自分の悪行を覗かれた地方政府のものだが、現代中国の監視社会を皮肉りながら、少し意味が違うかもしれないが、コンプライアンスという考え方が強化され、SNSがそれに拍車をかけている現代に対して、度が過ぎると自分たちの生存を脅かしかねないぞと警告を発しているようにも思える。

SFとはいえ、そこには歴史や時代を映しているのである。そういう微妙な部分がきっと面白いと思える部分なのである。

ひとつひとつのストーリーのあらすじを書くのは大変なので、アマゾンの書籍紹介に書かれていた解説と収録されている作品のタイトルだけ以下に残しておこうと思う。

『環境悪化と人口増加のため、政府はやむなく“時間移民”を決断。全世界に建設された200棟の冷凍倉庫に眠る合計8000万人の移民を率いて、大使は未来へと旅立つ……。表題作「時間移民」のほか、宇宙からやってきた“音楽家”が国連本部前のコンサートに飛び入り参加して太陽を奏でる「歓喜の歌」、『三体』でも活躍した天才物理学者・丁儀がクォーク分割に挑む「ミクロの果て」、すべてを見通しているかのような男に警察が翻弄される銀河賞受賞作「鏡」、太陽系の果てへとひとり漂流する少女を全人類がネット経由で見守る「フィールズ・オブ・ゴールド」など全13篇を収録する、劉慈欣の傑作短篇集。』
【収録作品】
「時間移民」「思索者」「夢の海」「歓喜の歌」「ミクロの果て」「宇宙収縮」「朝(あした)に道を聞かば」「共存できない二つの祝日」「全帯域電波妨害」「天使時代」「運命」「鏡」「フィールズ・オブ・ゴールド」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワカメ採り

2025年03月08日 | 2025weblog
なかなか行けていなかったワカメ採りに行ってきた。とはいえこの先の天気が心配だ。今日は曇りで火曜日は本降り。月曜日までに8割がた乾いてくれればいいのだが・・。

小潮の今日の午前中はほとんど潮が引かない。そして思ったよりも風が残っている。昨日までは平日の3連休を取ったが何も身動きできないほどの風であった。その名残が消えない。
しかし、火曜日が雨なら明日を待つことはできないのでとりあえず海に出てみる。

一文字の切れ目を抜けてみるとなんとか磯に近づけそうな雰囲気である。これならいける。
いつもの磯に向かって碇を打つ。しかし、なんとかいけそうという程度なので船は一気に流される。こんなに碇のロープが張られた状態でワカメを採るというのは初めての体験ではないだろうか。
しかし、水面下にはかなりのワカメがユラユラしているようだ。“ようだ”というのは波で水面下がまったく見えないからである。
目くらめっぽうカネを突っ込むくらいでもいくらでもワカメが採れる。例年になくたくさん生えているようだ。家に帰ってみると全長が長いものが多い。生育状況は完璧なようである。そして、ワレカラも例年の数倍というくらいくっ付いている。



製品としては問題ありかもしれないが、自家消費なのだから何も気にしない。むしろ、海のコンディションがいいのだとうれしくなる。

1時間余りで物干し竿5本分を収穫して帰途についた。



港への帰り道、エンジンがものすごい煙を吐いた。出力が突然弱くなる時が度々あって、そんな中で煙を吐いた。エンジンは止まらなかったがそのごはスローで港まで戻ったのだが、どこかのガスケットが破れたのかもしれない。ああ、また修理代が・・。
なにかと高くつくワカメである・・。
せめてきれいに干しあがってくれ・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加太沖釣行

2025年03月01日 | 2025釣り
場所:加太沖
条件:大潮7:23満潮
潮流:4:47転流 8:23上り2.5ノット最強 11:45転流
釣果:ハマチ2匹 マアジ5匹

先週の3連休は寒くて風が強くてという週末だったが、今週の週末は釣りに行けそうだ。
当初は、前回仕掛けも下ろさずに終わったアマダイに行くつもりであったがSNSで流れてくる情報では加太でまたハマチが釣れているらしい。
今月で軽油の免税措置が終わるのだからそれまではできるだけ遠くへというのもありだと急遽行き先を変更した。

かなり暖かくなるという予報ではあったのだが、それが原因かどうか、朝刊を取りにでた外の景色は幻想的であった。



ものすごい霧だ。港への道中もすごい霧である。



10年前にもそんなときがあったが、これは加太まで行くのに苦労が伴いそうだ。

港の前の橋をくぐり抜けた直後からすでに方向感覚を失っている。鉄鋼団地の護岸かと思って見ていた護岸は雑賀崎漁協の避難港の堤防であった・・。



一文字の切れ目を抜けることはできたが何も見えない。新々波止の赤灯台の灯りくらいは見えるだろうと思っていたがまったく見えない。途中で見つけた電気ウキをサルベージしていたら沖がどの向きかさえもわからなくなってしまった。



しかし、文明の利器の威力はすごい。最初の目標である四国ポイントへはGPSしか頼るものがないのだが、魚探のメモリーに記録された航跡を右に左によろけながらも辿ってゆくときちんとポイントにたどり着くことができた。
霧が発生しているということは風がないということなので釣りはしやすい。
しかし、この霧で新和歌浦の釣り船は乗合船を除いてみんな出港をあきらめたと菊新丸さんが言っていたように、船は少ない。



今日もサビキでスタートして潮流が最強を迎えたころに高仕掛けに変更するつもりだ。

四国ポイントの漁礁の上を通しているとアタリが出た。かなり引くがその引きからするとアジの予感である。上がってきたのは40センチを超える立派な鬼アジだ。仕掛けを下ろし始めてそれほど時間が経たずにアタリが出たのでもっと釣れるのではないかと期待をしたがその後はアタリが1度あっただけであった。その貴重なアタリも残念ながら魚を得ることはなかった。
ここで留まっていても無駄だろうと霧のなかテッパンポイントに向かう。沖はさらに
霧が濃く沖ノ島の影もまったく見えない。ここでも頼みの綱はGPSだけだ。
魚探の反応はこっちのほうがよく出ている。もう少しサビキを続けようとそのまま仕掛けを下ろすと、しばらくしてアタリが出た。大きくはないがマアジだ。これで叔父さんの家に持っていく分も確保できた。続いて今度はかなり大きなアタリ。間違いなくハマチだ。かなり引くのでメジロサイズか複数の魚が掛かっているようである。道糸は出ていくばかりだが水深と同じ長さだけ出てしまうとこれ以上は出せない。少し強引に道糸を巻き取りクッションゴムまでもう少しというところで引きが軽くなってしまった。あらら、バラしてしまったかと思ったがまだ魚は付いている。取り込めたのはハマチが1匹。そして枝素が1本切れてしまっていた。こういう場合はもちろん大きいほうの魚が掛かった糸が切れるのだが、やはりナイロン5号では無理があるのか・・。かと言って6号の糸を使うとなると喰いが落ちてしまうそうな気がする。もどかしいものだ。

先のアジと切られた枝素にはブルーの荷造り紐を使っていた。ずっとマルアジとゴマサバを釣るときのチョクリ仕掛けに使っていたものだが、それをサビキ仕掛けに転用してみた。もっと試さねばならないが、ひょっとしてこれはイケルのではないだろうか。

そろそろ高仕掛けの時間が迫ってきた。今日はサビキ仕掛けを仕舞うのではなく、舳先に置き竿をセットして下ろしたままにしておこうと考えている。



今日くらいの潮の流れだと十分にやれるだろう。そしてこの仕掛けには2回のアタリがあった。1匹目はハマチを取り込めたが2回目は高仕掛けに絡んでしまいそれを解いている間に魚がバレてしまった。1回目が問題なったので2回目もと思ったが甘かった。ここは不精をせずに全部回収すべきだったのかもしれない。
一気に竿先が曲がるというアタリが出るので、これはこれで面白い。

高仕掛けのほうはマアジが1匹で終わってしまった。しかし、その1匹が喰ってきたビニールはシルバーだった。



菊新丸さんからもらったシートはもったいないので代用品として100均のエマージェンシーシートを切ったものを使った。言わば、秘仏である唐招提寺の鑑真和上像のお前立の仏像のような位置づけである。これもイケそうだ。
今日は太陽が出ていなくて海中も暗かったのでシルバーが目立ったのかもしれない。
まあ、これも1匹だけのことなのでもっと検証をする必要はあるだろう。

午前10時を回ると早くも潮が緩くなってきて船は北風に押されるようになってきたのでここを潮時と終了した。

この時点でもまったく霧は晴れることなく、帰り道もGPS頼みだ。テレビのドキュメンタリー番組では生物というのは細菌にまで進化した時点ですでに地磁気を感じとる「磁気感覚」というものを獲得していたという。今でも、魚や鳥などは地磁気を頼りに行動をしているというが、僕にはそれの欠けらもないようだ。今、自分がどの方向を向いているのかということがまったくわからない。GPSがなかったらあらぬ方向を目指して帰っていたのだと思うとぞっとする。
今日の天気予報ではかなり暖かくなるということであったが、釣りをしている間は霧が太陽光線を遮っていたからか、ほぼ真冬じゃないかと思えるほどの寒さであった。予報を信じず防寒着を持っていってよかったという感じであった。帰途について新々波止の赤灯台の前を通るころには逆に異常に暑くなってきた。なんだかよくわからない天気であった。

早めに釣りを終えて港に戻ってきたのには理由がある。ワカメの調査をやっておきたかったのだ。しかし、にわかに吹き始めた強い北風に阻まれて磯に近づくことさえもできなかった。この寒さとはいえ、すでにシーズンたけなわ。早く行かねばと焦るばかりである・・。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日常は数学に満ちている」読了

2025年02月27日 | 2025読書
三谷純 「日常は数学に満ちている」読了

確かに、「日常に満ちている」と書いてはいるが「易しい」数学とは書いていなかった。それでも多分、著者にしてみればかなり易しく一般人にも解るように書いてくれてはいるのだろうが、こっちは平均以下の頭脳しかないものだからさっぱりわからない。

最初からいきなり対数関数が出てくる。その時点僕の脳ミソはショートして白い煙を吐き出してしまう。
対数関数というのは、『任意の正の数 x に対し、x = 10a により定められる実数 a を、10 を底 (base) とする x の常用対数 (common logarithm) といい、記号 log10 x で表す。』というのだが、確かに高校時代に習ったはずなのに何の記憶も残っていない。この時点で

しかし、この関数を使うと、自治体なんかが出している統計に出てくる数字のなかで頻度の多い数字がわかるという。う~ん、さっぱりわからない。これをベンフォードの法則と言うらしいが、答えは「1」となるらしい。
う~ん、なぜだかわからないがそうらしい。数学とはやっぱりわからない。
そして、数学のわかる人は数式を見るとそこに図形や立体が浮かび上がってくるらしい。ミスドのポンデリングも数式で出来ているらしい。関数とはそういうものらしい。関数からグラフという図形が書けるが、これもそのひとつだ。その延長線上には、自然界にある形は大体が関数で表せるというものがある。有名なのはオウムガイの殻の螺旋だ。「対数螺旋」という関数から生まれる図形なのだそうだ。サザエの殻もきっと同じ関数なのだろうと僕は思っている。ここにも対数が現れてきた・・。



もうひとつ、この本には「ドラゴン曲線」という、部分的な構造と全体の構造が同じで、決して自分自身の一部と交差することがないというフラクタル図形の一種というものが紹介されているが、これなんかは細菌や細胞が増殖しているときの画像そっくりではないかと思えてくる。



もっと突き詰めていくと、人間の体の作りや営みは数式で表せるということになるのではないかということになる。
しかし、同じ人間なら同じ数式で生命の活動が営まれているはずにもかかわらず、ある人は数学が解るのに僕にはさっぱり解らない。そういう不公平はどこから生まれるのか・・?僕はそれを知りたい・・。
東大卒の著者とは体に使われている関数が明らかに違うということだろうか・・。

読んでも何も得るものはないというのは悲しいので、これを知っておくと話のタネになるではないかということをふたつ残しておこうと思う。
ひとつは紙のサイズについてだ。
コピー用紙のA版という規格は縦と横の比が1:√2になっているそうだ。この比率というのは、長辺で半分に割っても縦横の比率が保たれたまま面積が二分の一になる白銀比という比率になっている。だから、裁断をしていってもA版の形というのはすべて同じ形になっているのである。そして、裁断する元のA0版というのは面積が1㎡(実際は0.999949㎡)ときっちりとした数値で設定されている。
もうひとつは、これは著者の専門である折り紙の理論に近いものだが、こんな遊びがある。
紙のどこかに適当に点を打ち、この点を紙の一般が通るように折っていくと放物線が現れてくる。暇な仕事をしているのでその時間に試してみることができる遊びである。



まあ、日常的ではないが確かに身の回りには数学が満ちているようだ・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「能十番:新しい能の読み方」読了

2025年02月25日 | 2025読書
いとうせいこう、 ジェイ・ルービン 「能十番:新しい能の読み方」読了

能に関する本は1冊読んだことがある。「風姿花伝」という書物はあまりにも有名だが、こんな本を読もうと思ったきっかけは森に暮らすひまじんさんが能をお好きだと聞いたからだ。「秘すれば花」という言葉は何かというものが書かれていたはずだが世阿弥の考えの本質まではわからなかった。そこまでの教養がなかったということである。
能の舞台の様子はテレビで流れているものを横目で見ていたこともあるが何を言っているのかということはさっぱりわからなかったけれども、650年ものあいだ形を変えずに続いてきた芸術であるのは間違いがなく、時の権力者にうまく取り入りながらであったのかもしれないが、きっとそこには何か時代を超えた不変の魅力があるのかもしれない。

僕でも読めそうな本はないだろうかと日ごろから思っていたところ、こんな本を見つけた。何しろ著者のひとりはいとうせいこうなのだからきっと教養に限界がある僕にも読めるかもしれない。しかし、この人、どこまで多才なのだろうかと感心してしまう。仏像だけではなく、能にも造詣が深いようだし、この本によると小唄の師範の資格も持っているそうだ。

蔵書目録だけを見て予約したのだが、カウンターの奥から出てきた本はかなり分厚い。さすが能の本だと思ったら和綴じ風の製本がされていた。



かなり凝った作りだと思ったら、光悦謡本(こうえつうたいほん)というものを模して装丁をされたものだかららしい。本来はケースに入っている本だそうで、ケースのデザインも光悦謡本をデザインの手本にしているそうだ。



なので、紙の量のわりには総ページ数は252ページというボリュームである。

能の蘊蓄が並んでいるのではなく、演目の現代語訳とその現代語訳を元にした英訳が計10編、各編に簡単なあらすじと、いとうせいこう、もうひとりの著者であるジェイ・ルービンの解説が付されている。ジェイ・ルービンというひとは日本文学の研究者で村上春樹の小説などの英訳もしている学者だそうだ。この本を読む限り、日本人より日本文学を理解しているのではないかという印象を与える人だ。
少しの蘊蓄も掲載されている。
能の伝統的な演じ方というのは1日に5本の演目を1セットとして演じられるそうだ。これを「五番立(ごばんだて)」というそうで、順番ごとにどんなテイストの演目が演じられるかということも決められている。具体的にはこうなる。
初番目物(しょばんめもの) 神の能
二番目物 修羅物
三番目物 鬘物
四番目物 狂乱物、敵討ち、斬り合いなど劇的な曲柄
五番目物 切能、一日の最後に演じられる
この本も10編をこの順番に掲載している。
ひとつの演目の時間は50~90分というので、最近では五番立で上演されるということはほとんどないらしい。
また、演者は基本、シテ(主役)、ワキ(相手役)に分かれているがそれぞれ専門の家系と流派があるらしく、シテの流派がワキを、ワキの流派がシテをすることはない。かなり縦割り社会のような気もするが、ワキといってもシテに劣るというものではなく、伝統と格式があるのである。シテの助役としてツレなどという役割もある。
その他、シテ、ワキ以外の役柄には笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方、狂言方というような役柄があり、これも家系ごとにやることが決まっているらしい。
狂言というと、演目の間に演じられる滑稽劇だと学校では習ったような気がするが、それだけではなく、演目の途中に解説を入れるストーリーテラーの役割も担っている。

本編の話に戻ると、現代語訳の部分は上段に文語体の脚本(これを謡曲または詞章という)があり、下段に現代語訳、その後ろのページに英語訳となっている。僕が読めるのは現代語訳のみなので全体の3分の1ほどしかない。それで10編の物語が収録されているのだからひとつひとつのストーリーはいたってシンプルだ。それが能の特徴でもある。しかし、この短い脚本で50分から1時間半も演じるというのはどんな演じ方をしているのだろうという疑問も湧いてくる。

収録されている演目というのは僕でも知っているようなものが取り上げられていて、初心者にはありがたい。
高砂(昔の結婚式でうたわれたやつ。阪神電車にもこの駅があった)、天女の羽衣(あの物語は能が出所とは知らなかった)邯鄲の夢(中国の故事でこういうのがあった)という物語はかなり有名なのではないだろうか。

すべての演目はシテが幽霊または精霊の役で、現世の人であるワキと交流することでこの世に思いを残した幽霊はその思いを遂げ、精霊は未来永劫続く時間の流れがあることを現世の人たちに伝える。650年前の世界は今よりもっと生と死の距離が近かったのは間違いがない。戦、病気などで思いを残していった人たちがたくさんいることを知っている人たちがそんな人のために代弁をすることでカタルシスに導いてあげるようとこのような物語を作ったのだろう。
脚本だけでもそんなことを思い巡らせることができるのなら、それにあの独特の唄いとお囃子が加わるとおそらくは自分が今いるところはこの世なのかあの世なのかわからなくなってしまうのではないだろうか。
ジャズと能には手を出してはいけないと思っていたというのがいとうせいこうらしい。そんな著者は能を理解するにはまず読むことだと考え、この本を書いたそうである。普通、能の舞台を見てもほぼすべての人は一体どんな劇が演じられているのかということは解っていないという。だからまずは謡曲を読むことをお勧めするというのである。僕も、日前宮で催されている薪能を見に行ったことがあるが、その内容はまったくわからなかった。わからないのが当たり前だったのである。
確かに、この本を読んでいると少しは能がわかったような気になってくる。それがこの本のサブタイトルに書かれている意味なのかもしれない。しかし、能のセリフというのはひとつひとつが長~く言うし、その間に唄いがたくさん入るらしいのでいったい今は謡曲のどの部分が演じられているのがわかりづらいのは明白なような気がする。できれば口語訳をモニターに映し出しながら演じるようなものがあればぜひ観覧してみたいと思うまあ、そこまでチャレンジングにならなくても、一度、YouTubeを検索して能の舞台がないかどうか探してみたいと思うのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界遺産第1号に行く

2025年02月22日 | 2025weblog
国宝姫路城に行ってきた。日本では法隆寺とここが世界遺産の第1号だそうだ。ここも、死ぬ前に行っておきたいところのひとつであった。半径15キロというのが僕の生活範囲なのでここくらいが死ぬ前に行きたいところの限界点である・・。
もう10年前になるそうだが、平成の大修理を終えて真っ白になった姿がニュースに取りあげられていた。そういう意味ではむちゃくちゃ遠い所でもないので死ぬまでに行ってみたいところのひとつに選定していた。
2週間前だっただろうか、プロジェクトXで姫路城が取り上げられていて、そのすぐ後に、拝観料が2.5倍に値上げされるというニュースも出てきて、これはもう、今行くしかないと決断した。3連休だしあいにくの強風で釣りにいくどころではないのでちょうど良いタイミングであった。

いつもの通り始発電車に乗ってまずは大阪駅まで。



そこからは阪神電車を使う。



JRを使うよりも時間がかかるが料金は若干安くなる。それに、おそらく僕の人生ではいまだ阪神電車に乗ったことがない。べつにタイガースファンでもないのでこんなときでないと阪神電車なんて乗る機会はないのでせっかくだから乗ってみることにした。終点の姫路駅へは山陽電鉄への乗り入れになっているそうだ。



線路は海沿いを走っているので景色がよい。偶然だが電車の中で読み終わった本の中の物語のひとつは途中にある高砂が舞台であった。

午前9時半過ぎ、姫路駅に到着。3時間半の道中は長いのか短いのか微妙である・・。

そこからは歩いて姫路城へ。しばらく歩くと姫路城の威容が見えてくる。



遠くから見ても相当大きい。駅も大きい。



そしてこの町も相当大きい。駅から姫路城まで大きな通りが通っていて両側に大きな建物が並んでいる。和歌山市も和歌山駅からお城まで大きな通りがあるけれども、こんなに大きな建物がない。帰り道で知ったのだが、並行して大きな商店街がある。ぶらくり町よりもはるかににぎわいがある。



姫路藩は最も石高が多いときで52万石であったそうだ。紀州藩は55万石だが、お城の規模といい、町の規模といい、負けているのはどうしてだろう・・。少し悔しい。

10分ほど歩くと大手門という大きな門が出てくるのだがここが入り口だ。



明日はマラソン大会が行われるらしく、この門は立ち入り禁止になるそうだ。今日来ておいてよかった。



お城の敷地も大きい。それに加えてものすごく手入れが行き届いている。昔見た東京駅の丸の内口から皇居のお堀までの道のような感じである。
1000円の拝観料を払って入城門を入ると当然だがここも手入れが行き届いているほど行き届いている。もう、日本庭園だ。植木の剪定はどのくらいの頻度でおこなわれているのだろう。それに下草もなく、ゴミも全然落ちていない。そして桜の木が多い。きっと桜が咲く頃にやってくるとものすごい景色を見ることができるのだろう。

西の丸という、千姫(名前は知っていたが、この人がこの城の住人だったというのはまったく知らなかった。)が住んでいたところを見学。回廊が250メートルもあるというところだけでもこの城の規模の大きさがわかるというものだ。



そしていよいよ大天守へ。
元々、西からの勢力に対抗するための防御の城なので入り口からして鉄壁の守りを施している。グルグル回るルートや途中にある門ごとに様々な防御の仕掛けがしてある。こういうところはすべてテレビからの受け売りで、テレビが言っていたとおりだったので妙に感動する。

        

テレビついでに、プロジェクトXで紹介されていたのはこの漆喰の塗り方だ。縁のところが少し盛り上がっている。

 

何という塗りかたかというのは忘れてしまったが修復工事を競り落とした会社にその技術がなく競り負けた会社の職人に教えを請いに行くというような内容であった。
見た目はなんだか、教えを請うほどのものかと思うのだが、まあ、そこには難しい技が隠されているのだろう。
まだ白い部分と、少し黒ずんだところがあるので、今でも継続的に修理は続けられているのだろう。

天守閣は地下1階、地上6階の7層になっているそうだ。内部のデザインもおそらく350年前のままになっているのだろう。何もないがらんどうだが当時は武器が満載されていたのかもしれない。壁のところにその名残があるし、急な階段にもなんだか歴史を感じる。

  



また、中にある説明板を見てみると、この城の主は六つの家が入れ替わったそうである。歴史にはまったく疎いのでこういうことも知らなかった。知らなかったというと、怪談の「皿屋敷」というのはここが舞台ここだったということだ。しかし、これはよくよく調べてみれば、各地に物語が存在するらしい。有名なのは「番町皿屋敷」姫路城は「播州皿屋敷」なのだそうである。



これだけ全く知らないことばかりが出てくるのは、半分発作的に姫路市を目指したからである。下調べゼロで来たので姫路城以外に見るべきところもわからない。帰りの道中もかなり時間がかかるのでお城だけ見て帰途についた。

しかし、この素晴らしさで拝観料が1000円というのは確かに安すぎる。とはいっても2500円になってしまうと尻込みしてしまう・・。1500円くらいで手を打ってくれればと思うが、それならオーバーツーリズムの軽減にもならないのだろう。
これも時代だと思ってあきらめよう。

最近のJRは遅れまくる。今日も神戸線も遅れ、阪和線も遅れていた。JRだと3時間で家に帰れるはずが半時間よけいにかかってしまった。


まあ、今日から3連休なので許してあげよう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「フードテック: 中小企業によるフード業界の変革」読了

2025年02月19日 | 2025読書
日本政策金融公庫総合研究所/編集 「フードテック: 中小企業によるフード業界の変革」読了

この本もほぼ1日で読んでしまった。昨日の病院の待ち時間も3時間であったが、今日の帰宅に要した時間は先週に引き続き発生した人身事故のせいで4時間もかかってしまったからである。もっと読みが深ければ3時間で家に帰れたが甘かった。しかし、JRの情報提供は再び劣化してきたようだ。当初の情報では列車に異音を検知したということであったが次の情報では人身事故で運転再開が18:30、その次の情報で事故がトンネルの中で起こっているので運転再開は20:00とどんどん変わっていった。



どこからどんな情報を集めていたのか、異音と人身事故とでは全く違うし、その現場がどこかなどいうのをわからずに第一報を流したというのではまったくバカじゃないのかとしか思えない。最初から20:00の運転再開ということが分かっていたら振替輸送のルートを選んでいた。大半の人がそう思っていたようで、和泉砂川の駅のホームでは落胆の声が響いていた。
しかし、電車に轢かれた人というのはどうして山間部のトンネルの中を歩いていたのだろう。自殺の場所としては奇妙だが、こんな場所で事故が起こったらニュースになって世間に一矢報いることができるとでも思ったのだろうか。しかし、結局、この人が何者でどんなに世間を恨んで死んでいったかなど誰も知ることはなかったはずなので犬死でしかない。それとも単にボケ老人が家に帰る道筋を忘れてしまって線路に紛れ混んでしまったのだろうか。
どちらにしてもこういう人の供養のためにも事故の詳細を公表してあげてほしいものだ。この時に迷惑を被った人たちもどうして自分たちがこんな目に遭わねばならなかったのかということを知る権利があると思う。少なくとも僕はそう思っている。

そんな状況の中で読んでいたのがこの本である。
食品作業の生産性というのは他の産業に比べるとかなり低いそうだ。2021年の数値では全産業のひとり当たりの労働生産性803万円に対して農林水産業の生産性は214万円。食品製造業では製造業全体の従業員ひとり当たりの労働生産性1184万円に対して食品製造業は644万円、飲食サービス業についても199万円で産業全体の893万円を大きく下回っている。
それを様々なテクノロジーを投入することで生産性を向上させ、SDGsにも貢献しようとしている中小企業を紹介しているのがこの本である。
この本を作ったシンクタンクの日本政策金融公庫総合研究所が所属する日本政策金融公庫という政府系の会社は中小企業支援のための組織であるらしいので、紹介されている企業はここから融資を受けている会社なのであろう。
食品アレルギーでの事故を未然に防ぐITサービス、外食産業で食材の仕入れや人員配置を予測するシステムを開発、TI技術で魚の養殖を効率化、フードロスを削減するシステム開発、ドローンを使った農機具の開発、新しい冷凍技術の開発、小規模の植物工場、人工肉、野菜の人工栽培と魚の養殖を組み合わせた産業、加水分解で新たな食材を開発するなど、IT技術やロボット、バイオ技術などを農林水産業、食品製造、サービス業に組み合わせ、創業者たちが経験した困りごとや問題点の解決策をビジネスチャンスと捉えて起業している。
ユニークというかよくこんなことを思いつくものだと思うが、それよりも、ここでまた、こういう人たちと自分はどこが違ったのだろうと本題のフードテックよりもそんなことを考えてしまう。
編者のひとりは、『困りごとを当たり前と思わない』ことがそのひとつであるというが、確かに、僕は困りごとはこちら側がそれに合わせて修正するかそれでもだめなら迂回して生きてきたように思う。解決策を考えようにもいつもどこでもそのためのスキルが無かったというのも確かだ。
人脈を広げようともしなかった。長く働いていた会社は新しい取引先を連れてきても既存の取引先の間に割って入っていかせることができるような環境ではなかった。それは自分の力の限界でもあったのだが、成果が出る前に上の方からこんなものダメと決めつけられてしまう世界であった。上の人たちは基本的に既存の取引先の既得権を守るために存在していたようなものであった。

ここ数冊読んだ本は全部そんなことを思うばかりの本であった。自分が空しくなるばかりである。老人たちが読む本というのは時代小説でそれも実在の人物ではなく架空の主人公が活躍する痛快時代劇が多いと聞いたことがあるが、それ以外の本を読むと自分の来し方を顧みて空しくなってしまうからだったのかと自分なりに納得してしまった。

この本に取りあげられているテクノロジーは今のところおそらくコストも高くて市場に出ていたとしても僕の口に入るものではないだろう。今は紙の上で味わうしかないようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする