イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

2024年11月27日 | 2024読書
松木寛 「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

蔦屋重三郎という人は、来年の大河ドラマの主人公だそうだ。大河ドラマや朝の連ドラの主人公に選ばれると、にわかにその人に関連した本が出版される。この本も、元本は1988年に発刊されたものを2回目の文庫化として発刊したものだそうだ。
大河ドラマで蔦屋重三郎役を演じるのは横浜流星だ。この俳優、初めて見たのはBSの「二度目のOO ちょっとディープな海外旅行」という番組であった。実際に海外旅行をする方の役柄で、結構イケメンの役者さんだけど、芝居の仕事がないんだな~などと思っていたら、あれよあれよという間に人気俳優にのし上がってきた。「春に散る」という映画はかなりよかった。そして、この人もやっぱり仮面ライダーと戦隊ヒーローの両方をやっていたそうだ。

蔦屋重三郎という名前を知っていたかどうかというとかなり怪しい。歴史の授業はまったく面白くなかったのでそこで知ることはなはずだし、何か、テレビか雑誌かですれ違っていたのかもしれないが、やはりTSUTAYAの存在だったのかもしれない。この会社と蔦屋重三郎とはまったく関係がないそうだが、もし記憶の片隅に残っていたとしたのなら、その名前から、江戸時代に蔦屋重三郎という今でいうメディア王がいたということを知ったのだろうと思う。
浮世絵で有名な喜多川歌麿や東洲斎写楽をプロデュースしたのがこの人なのである。

この本は、蔦屋重三郎は何をした人か、そして江戸時代の文化の中でどのような役割を果たしたかということを解説している。
活躍した時代は天明年間から寛政年間だそうだ。西暦でいうと1781年~1801年がこの元号の時代だ。
どんな時代であったかというのは、田沼意次の重商政策から松平定信の寛政の改革へ移行していった時代だというとよくわかる。全然関係ないが天明4年2月23日(1784年4月12日)には、金印(漢委奴国王印)が発見されている。
田沼意次の時代は、重商政策として株仲間や専売制を敷いたことで幕府と都市部の町人・商人には恩恵があったが、農村部では困窮が続き、加えて天明の大飢饉などの天災による社会不安が高まった。その反動で松平定信の寛政の改革では倹約、農村政策としての帰農政策、災害対策として米の備蓄と米価調整をやったという、まったく現在と似ている社会情勢と問題点を抱えた時代であった。
今はSNSを中心にした主力メディアの変化が総選挙や兵庫県知事選挙でも注目されていたが、蔦屋重三郎は、現代と同じようないびつな時代にメディア革命を起こした人として大河ドラマで取り上げられることになったのだろう。

簡単に書くと、蔦屋重三郎という人は江戸の吉原で育ち、大衆の文化をけん引した人ということになる。
出版物の版元として活躍した人であるが、当時の出版物というのは大きく分けて「物(もの)の本」と「地本」というものに分かれていた。「物(もの)の本」とは堅い内容で儒学書、仏教関係、歴史、医学書などであり、地本とは草双紙、絵双紙など、今でいう大衆週刊誌のようなものである。蔦屋重三郎は地本の書肆としてのし上がってゆく。
蔦屋重三郎が活躍した時代の前、元禄(1688年~1704年)のころまでは文化的には江戸という町は上方文化の植民地のようなもので版元である書物問屋も京都系資本が優勢を占めていたが、宝暦(1751年~1764年)の頃には江戸の出版物が上方を上回るようになってきた。蔦屋重三郎が活躍したのは、先に書いた通り、天明(1781年~1789年)~寛政(1789年~1801年)時代になるのであるが、その頃には「黄表紙」と呼ばれる挿絵入りの読み物である草双紙が人気を博していた。

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)江戸の吉原に生まれた。そして、安永2年(1773年)その吉原で鱗形屋という当時の有力版元が発行する吉原細見という吉原のガイドブックの卸と小売りを始めた。そして翌年の7月には版元として「一目千本」という遊女の評判記を発行、その翌年の安永4年には最初の吉原細見「籬(まがき)の花」を出版するに至った。このガイドブックを発刊することができれば一応、一人前の版元と認められたそうである。
その後安永10年には黄表紙本の有力版元としての一角を占めるようになる。しかし、黄表紙本というのはいまでいう週刊文春のようなものであり、封建制政治の世の中、それを当局が黙ってみているはずがない。幕府をおちょくりすぎて寛政3年3月、財産を半分没収されてしまう。
しかし、蔦屋重三郎はくじけなかった。今度は喜多川歌麿を擁して美人画の浮世絵へ進出する。これも相当当たったようで、喜多川歌麿は他の版元から引く手あまたとなりふたりの中は悪くなってゆく。
新たな流行を作るべく蔦屋重三郎は役者絵の出版へ針路をとる。この時、葛飾北斎(当時の名前は勝川春朗)にも目をつけたけれどもおめがねにはかなわず、東洲斎写楽を選ぶ。そして、寛政6年5月写楽の役者絵を出版することになる。意図的に美化しようとした概念的な画風を超えた表現力はその役者の生きざまさえも写し取り脚光をあびることになる。著者は写楽の研究者でもあるらしく、この辺のことは詳しく書いている。例えば、勝川春英という画家(この人も当代一流と言われた浮世絵画家だったそうだ)と写楽が描いた三世瀬川菊之丞という歌舞伎役者の絵を比べてみると、43歳の役者がそれまで経験した人生をそのまま写し取っているかのようである。

 

東洲斎写楽はひとりではなかったという説は有名であるが、著者の説では、歌麿同様人気が出た写楽はひとりでは仕事が回らなくなり、他人に描かせたものに自分の落款を押したり、観たこともない上方の役者の絵を想像で描いたりしてしまったことで写楽本来の画風ではないものが生まれることになったというのである。
様々な人気者を生み出した蔦屋重三郎であったが、財産を半分没収されたということは相当な痛手だったらしく、歌麿、写楽の投入でも版元としての財政状況は改善せず、過去の出版物の再販や版権の譲渡などでしのいでいた。
その間にも滝沢馬琴、十返舎一九などの新しい才能の発掘にも取り組んだけれどもその活躍を見ることなく寛政9年5月、48歳で没することになる。


作家や芸術家というのはおそらくひとりの力で大成するというひとはほとんどいない。そこには必ず編集者やパトロンという後ろ盾、もしくは仕掛け人がいる。編集者は、今売れるテーマは何か、受ける書き方は何かをつかんでそれを書かせる。パトロンはその芸術家が日の目を見るまで資金提供をしたり養ってやったりする。
蔦屋重三郎は編集者兼パトロンとして時代を読み新人を発掘してきた。それは、新参の版元であるがゆえに当代人気の作家や絵師を起用できないという理由もあったのだが、やはり時代を読む目が確かであったということが大きかったのだろう。
そして、その目は江戸の文化サロンの役目も果たしていた吉原で生まれ育ったことと、そこで培った人脈が大きかった。大田南畝、朋誠喜三二、山東京伝など、文化人、芸術家としてすでに有名であった戯作者たちから信用を勝ち得た人脈は歌麿、写楽へとつながってゆく。

蔦屋重三郎の版元として活躍した期間はわずか13年であった。今の時代になぞらえるとバブル崩壊前後の期間に似ていたのだろうか。いけいけどんどんの時代から一転して先の見えない不安が蔓延した時代をどう乗りこなしていったか。そういったことが大河ドラマでは描かれるのだろう。横浜流星がどんな演技を見せるのかということを観てみたい気持ちもあるが1年間見続ける根気はないだろう。しかし、この本を読んでいたら、年末に放送されるであろう総集編だけでも十分楽しめそうである。




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