イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀ノ川河口釣行

2024年10月05日 | 2024釣り

場所:紀ノ川河口
条件:中潮6:56満潮
釣果:タチウオ8匹

夕べはなぜだか寝つくことができずほとんど一睡もできずに午前2時に布団から抜け出した。最近は時々そんなことがある。
とりあえず外に出てみるとかなり風が吹いている。予報でも風が強いとなっていたが雨が止む時間が早かったので風が弱まるのも早いだろうと思ったが甘かった。港まで行ってみて風が強ければ帰ればいいだけなのでとりあえず行ってみると、風向きは北東からなのでここだけ見れば十分行ける。
もう雨は降らないと思っていたが水軒川の堤防を走っていると雨が降ってきた。嫌だな~と思うがここまで来たら仕方がない。それに、雨が降っているときというのはえてして風が弱い時が多いのでそれはそれでいいじゃないかと寝不足のわりには前向きな考えだ。

少し寒いのでヤッケを着て出港は午前4時40分。



前向きなのはここだけで港内に出てみるとやっぱり吹いている。しかし、小船ではないので釣りができないほども流されない。青岸の灯台を越えて沖へ行けないかもしれないと思ったので港内のかなり手前から仕掛けを流し始める。
すると、仕掛けを下ろし終わる前にアタリがあった。この辺りのタチウオもそろそろ終盤かと思っていたのでこれは幸先がよい。しかし、合わせが悪くてこれは鉤に乗らなかった。港内でそこそこ数を稼げると思ったがその後はまったくアタリがない。
やっぱり沖かと考え行けるところまで行くことにした。青岸の灯台を越えたところで何度かアタリがあったがこれらも鉤には乗らない。やっと鉤に乗ったのは午前5時半を回った頃だった。型はまずまずだ。今日は沖の一文字の赤灯台の内側がいいようだ。もっとアタリがあるのかと思ったがかなり散発的だ。それでも午前5時に入港したフェリーが再び出ていく頃からアタリが多くなった。指4本を超えるようなまあ、ドラゴンと言っても差し支えなさそうなサイズもある。



空には雲が多いので明るくならないうちは期待が持てると思いきや、午前6時を待たずにエソの2連・・。これは打ち止めの合図だ。今日の地合いは20分ほどで終わってしまった。

数ではまったく満足はできないが、指4本サイズが2本あればまあまあ満足である。
しかし、型が大きくなってきたということは紀ノ川河口のタチウオシーズンも終盤というかほぼ終わりだ。
今年のタチウオは始まりが遅かったのでまったくの不発に終わってしまったのである。
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『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

2024年10月02日 | 2024読書

西林克彦  『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

「わかったつもり」、僕には痛い言葉だ。このブログに書いている感想文も「わかったつもり」の塊である。
『人は時として、必ずしも十分にわかっていなかったにもかかわらず、「わかったつもり」の状態にある。それは対象に関する追究がそこで止まってしまっている状態であり、「わかったつもり」というのはある種の安定状態であり、人はそこに留まっていることが可能なのである。そして、それ以上の情報収集や探索を止めてしまう。』そうだ。

この本は、人がどうやって文章を読み進め「わかる」のかというメカニズムとそこからどうして「わかったつもり」になるのかということを解明しようとしている。
著者は教育心理学の学者で、日本の国語教育のなかで「わかる」ことがどう扱われているかということに対して批判を加えている。実は、著者として最も訴えたかったというところはここなのかもしれないが、そこはさらっといきたいと思う。

人は文章を読むとき、どんなことをしているかというと、「スキーマ」と「文脈」というものをガイドとして使って読んでいる。「スキーマ」とは、『我々の頭の中にあるひとまとまりの知識が活性化されて外部情報を処理するのに使われる知識群』というもので、「文脈」とはスキーマとよく似ているが、『外部にそもそも存在していたり、示唆・説明されたり、対象をわかるために、その時点でわれわれが仮設的に構築したりするもの。』である。
スキーマは、文脈によってどのようなものを使用すべきかが明らかにされ、文脈のもとで、文脈から得られる知識と共同で働くのである。
文章の構成というのはどれも一から十まで優しく詳しく書かれているものではない。「わかる」ためのガイドを使ってその不足分を補い解釈を進める。少し違うかもしれないが、これは細胞の中でたんぱく質が作られる工程に似ているような気がする。細胞はRNAの情報とリポソームの働きでたんぱく質を作るが、RNAとリポソームのセットがスキーマや文脈であり、できあがったたんぱく質が「わかったもの」に当てはまるものであるような気がする。

文章を読み始めると、自分の持っている文脈(スキーマと文脈はよく似ているものなのでこれから先は「文脈」という言葉だけを使うことにする。)をあてがって理解しようと試みる。この文脈ではこの文章にうまく合わないとなると別の文脈に替えてまた理解を試みるということを繰り返している。
確かに自分でも、読み始めのペースは遅く、大体50ページほど読み進めるとだんだんと速くなっていく。よく読む作家の本ならばそういうことなく最初からペースは変わらないように思う。おそらく無意識に適切な文脈を探っているのだろう。
では、そういう読み方の中でなぜ「わかったつもり」が生まれるのか。簡単にいうと使う文脈が間違っていることになる。所どころはその文脈に当てはまるが全体を通してみると整合性がないということになってしまうのである。
部分的には「わかったこと」になっているのでそれで心地よくなり冒頭に書いた状態になるというのである。
逆に、「統一的な文脈」によって部分間に無矛盾に関連がつけば、それこそが「わかった」ということになるのである。
これはまさに僕の読書そのものだ。感想文を書いているとそれがよくわかる。最初の部分からまとめてゆくと途中でつじつまが合わなくなることが度々ある。そういう部分はきっと僕の文脈がその本に合っていなかったということであり適切なレベルの文脈を持ち合わせていないということでもあるのだろう。
これは文章だけでなく、映画やドラマを観ているときも同じで、途中でストーリーを追えなくなるときやこの作品は何を言いたいのかということがわからなかったりネットに上がっている映画評やドラマ評と自分の感想が違っているときなどは僕の文脈が間違っていたり評を書いた人と僕の文脈が異なっているということなのである。

これはなかなか面白い考え方であり、確かにその通りだよなと膝を打ってしまう内容であった。

このように、文章にはすべてのことが書かれていないので読み手は文脈を使い、少し違うかもしれないが“行間”を読んでわかろうとする。著者は国語教育の問題点がそこに生まれるという。
ある文章が問題文として取り上げられ、「著者のその時の気持ちを述べよ」と問われたとき、答えとしては本来は文章に書かれている内容からのみ類推されることが求められる姿だが、よりよく読ませて「統一的な文脈」を見つける指導がされていなかったり、教師によっては自分が感じたことを正解として押し付けようとすることもある。そういうことは教育としてどうなのかというのである。
確かに、客観的というか、公平というか、そういう読み方というのが正しいとされるのだろうけれども、なんだか味気ない気もする。論理的な読みものでないかぎり、想像することが文章を読む楽しみであるはずである。これはきっと国語教育の限界点なのだろうとも思うのである。最初に書いた通り、これは僕にはあまり関係のないことなのでサラッと通過して感想文を終わりたいと思うのである。
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