鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代 1

2010年11月04日 | 鎌倉の古代
飛鳥や奈良時代の古代において、鎌倉の状況はどの様で有ったか?
幕府が無い時代なので、、田舎の地方都市であったのか?
取り敢えず郡衙がありました。 街の賑わいは?

鎌倉郡衙が御成小学校より発掘されています。
華麗な、染屋時忠伝説
そして、古代からある数箇所の社寺
この辺りが一般的と思います。
しかし、国衙ではないし、国分寺もありません。

染屋時忠は、藤原鎌足(かまたり)の4代目の子孫に当たり、僧良弁(りょうべん)の父親と言われています。
東大寺の開山僧良弁は、『東大寺要録』に「相模国人漆部氏」と記されているという。
染屋→漆部氏→由比の長者→長者久保 等など、同じ人物が色々な名を持ちます、、
何やら、古代の技術最先端の、漆、鉄、金等のお宝目当ての技術を扱う人物と想像するのですが、、、

ぼ輔の考える古代鎌倉は、
古代東海道の通過点である。
東山道武蔵路の終着地である。これが、問題なのです。
巨大な別系統の駅路が二本あるのです。
奈良の都以外に駅路が重なり合う処は鎌倉だけです。
不自然な武蔵国衙の存在と東山道武蔵路!
「武蔵国衙が先か? 鎌倉郡衙へ行く為の道が先か?」
その様な優先順位を考えるのです。
問題にする根拠は、道の成り立ちに在ります。
東山道武蔵路の方向は、足利より、鎌倉へに一直線に作られた。
っと思ったら、、
東の上遺構より曲げられて、特徴的地形の江ノ島を目印に一直線に作られた。
江ノ島の際には鎌倉が有ったのです。
古代道は目的地が優先! その途中に国衙が作られた!
鎌倉はソレホドに特異で重要な場所であったと考えるのです。
武蔵国衙の為に東山道武蔵路が作られた???
何処に武蔵国衙に向けて巨大道を作るメリットが有るのでしょうか??
状況は、鎌倉に向けて東山道武蔵路があります。

鎌倉には、、大和朝廷の欲しがるお宝が有ると考えるのですが、、、
それが、東山道武蔵路の最終着地であった理由です。

 写真は、三品さん提供のイタチ川上流の写真で、環状4号線バス停の八軒谷戸と長倉の間で、文教堂書店の裏です。
イタチ川の昇龍橋の脇で旧白山神社(鎌倉の相武トンネル上から円海山に抜ける白山道の由来)に掛かる橋の脇から湧き出る水です。
橋は小さくても雰囲気があり、横浜市歴史的建造物に認定されています。湧き水は、名水と言われていますが、、、この水に鉄分が含まれて居るのでは?と想像される赤さです。
ぼ輔が想像する事は、この周辺で製鉄され、金糞(精錬のカス)が捨てられた!その鉄分ではないか?
っと憶測です。
コメント
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