鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代 7

2010年11月29日 | 鎌倉の古代
「鎌倉の古代 4」は、如何でしたか?
ぼ輔の 定説崩しですが、、、
このブログの副題の真意をご理解していただけると思います。

でも、当初はココまで書けるとは思っていなかったのです。
書くだけの資料も無かったのです。
結構リアルタイムで、、記事は書かれているのです。
ですから、何処に話が行くのか??  見当が付かないのです。

創作の推理小説を遥かに越える歴史の面白さ!
勝手に筋書きを変えられない歴史の重み!
半端な推測や憶測は、否定される遺構の価値!

アカデミックな裏は、功績を焦る早すぎた結論!
その様な権威発の半端な定説と、現実の遺構が示す証拠の落差。


これは、
武蔵国衙より、鎌倉に向けた赤いラインの断面図と、
武蔵国衙より、江ノ島へ向けた断面図ですが、、、
その断面の差は、断然江ノ島向けの方が滑らかな状況を示しています。

武蔵国衙迄なら、赤ラインでも黄色ラインでも、同じだが、、、
其処から鎌倉には決定的なな差が有る。

これ等の事から、
最初から鎌倉行きを目標にした東山道支道の「東山道相模路」が造られた!
これが「ぼ輔」の想像した根拠です。


武蔵の国周囲の民からは、都へ行く道「上の道」と呼ばれ、鎌倉では「武蔵大路」と呼ばれた道と成った。
これも、正しい事(定説)とは別な「ぼ輔説」です。
コメント (11)
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