皆さん地図にラインを引きました??
この図がそのラインです。
新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へ向かう赤いラインの先には鎌倉が有るのです。
この事から考えられるのは、
東山道武蔵路は新田郡衙より、、ダイレクトに鎌倉に向けて道を造り始めた!
古代の鎌倉には貴重な価値が有った! っと想像できる。
東山道より分岐したは武蔵路は平面的な土地で直線的に道路を作れていたが、多摩川を目前にして、、考えた!
何処で何を考えたか??
多摩川右岸の丘陵(川崎側)は、この周辺で一番高く見通しが利く場所です。
この高みで鎌倉方面を見ると山の連続!、、もっと楽に道を作るに他のコースは無いか? そう考えた。
この高みは、北は八国山遺構辺りが見通し範囲で、南は鎌倉の山や江ノ島まで見通しが利き、コースを選択できる場所です。
ダイレクトに鎌倉へ道を造るのは、山が多く困難で、江ノ島を目指した方が、平坦な場所が多いのです。
初期の方針を変えても、目指すところは鎌倉で有ったと考えられる。
その様に方針変更した道路際に「武蔵国衙」は造られたとすれば、、、
「国衙の場所なんて、道路に際に造れば良い!」程度の考えと思うのです。
「武蔵国衙の為に東山道武蔵路は造られた!」っと語る根拠は何処に有るのでしょうか? その様な文献は知りません。
『続日本紀』宝亀2年(771年)
[太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。祗供難堪。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。事畢去日。又取同道。向下野國。今東海道者。從相模國夷參驛。達下総國。其間四驛。往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量。改東山道。属東海道。]
上記の武藏國は東山道より東海道に転属した記事が基であろうと、想像するのですが、、、
【武蔵国衙の為に東山道武蔵路は造られた】とは書いてない!
東山道や東海道を作る計画書が残っている等、、考えられない。
この文を基に【武蔵国衙の為に東山道武蔵路は造られた】としたら、根拠の無い憶測です。
【東山道の支道が武蔵国衙まで有った。】と書かれるべき話です。
古代を語る文献は、初めから僅少です。
文書が無いなら憶測で話さずに、、、遺構に語らせれば良い!それが、このブログのポリシーです。
他の根拠をご存知の方! 是非、、、情報を教えてください。
若しくは反論をして欲しく思います。
「武蔵国衙」より経済的に、場合によっては政治的な価値が有るのは鎌倉だ!と「ぼ輔」は考えるのです。
古代道路は、何が何でも直線である!っと言う考えも、程度の問題である。
そう考えています。
画像は、地図ソフト「カシミール3D」を使用。