ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

美しい風景

2022-05-26 16:15:56 | 日記

旅行でレンタカーを借りて、岐阜や石川の山の中を走っていた時、初めてのはずなのに、前にも一度見たことがあるような既視感が湧き上がってきた時があった。

同じ山でも、北海道の山の景色とは違う。

真っ直ぐ上に伸びた針葉樹林は、エゾ松やトド松が自生した北海道の山の姿とは違っていた。

ああ、この辺りの山だったのかと思った。

今から十数年前、まだ長女の障害が受け入れられず、有りとあらゆることを試していた頃に出会った、とある会に所属していたことがある。

ある日、その会で数名が円になって座り、ある言葉を唱えながら、一種の瞑想のようなことを経験した。

それまで瞑想など一度もした事は無かったが、その日初めてやった瞑想で、不思議なことに目をつぶっているのに突然、目の前に大自然が現れた。

真っ直ぐに伸びた針葉樹林のある雄大な山脈。

その山並みを、上空からまるで鳥のように見ていた。

まるで実際の目で見ているかの様にハッキリとした映像だった。

その風景は今でも思い出せるほど美しく、瞑想が終わった途端、「山が見えた!きれい、きれい」と叫んで、周りの人を驚かせてしまったほどで、言葉では言い表せないほど美しく感動的な風景だった。

その山脈が、見慣れた北海道の山では無いことは分かった。また見たことは無いが、外国の山で無いこともわかった。

日本のどこかにある山なのだろうと言う確信だけで、それがどこなのか長い間わからなかったが、その答えがやっと見つかったような気がした。

そして、その瞑想会のあと、間もなくして私は会をやめた。

小さな違和感がだんだん大きくなったことが、やめたきっかけだったが、それは正解だったと思う。

あのまま会に居続けていたら、私は「他人になんとかしてもらいたい」という他人依存の考えから抜け出ることが出来なかった。

その後、やめてから先祖供養や神祀りを始めたが、一人で毎日、続けるうちに、迷える先祖霊をなんとか助けたいと思うようになっていった。

少し前まで「自分が助けてほしい」と思っていたのに、いつの間にか「自分が助けたい」に変わっていたのは、我ながら驚きだった。

ところで、会の瞑想で見た素晴らしい山の景色が忘れられず、その後も家で静かな時間を持って目を閉じていたら、何度かまた山並みを見ることができた。

ただ、その風景もある時からぴったりと見なくなった。

その代わりに見えて来たのは、恐ろしい災害後の風景ばかりになってしまった。

いつも見えてくるのは、濁った水に飲み込まれた街の様子。

高い街路樹の上の部分の葉が、水の上に点々と出ていて、それはまるで海に浮かぶ島のようだと思った。

この十数年の間に大変な水害が幾つかあったので、そんな影響もあったのかも知れない。

今なら、どんな映像が見えてくるのだろうとも思うが、もうあえて見ようと思って目を瞑ることはない。

見ようと思って見ていたあの頃は、自分の興味本位からだけだった。

初めて見た山の風景のように、見ようとする意識なく自然に見えてきたら、それは何か意味があってのことなのかも知れないが、意識して見ることに時間を費やすことに、今はまったく興味が持てなくなってしまった。

それよりも自分の肉体の目と、できれば心の目でも、美しい風景や自然を見たいなあと思う。

旅行へ行かなくても、身近にもそんな自然がたくさんある。

今は、畑に植えた野菜や花の苗から目が離せない。ちゃんと生きてるんだと思ったら、愛おしくてたまらなくなる。

 

 


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