ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

記事の訂正

2024-03-31 18:28:28 | 健康

昨日書いた記事の訂正です。

食品添加物の使用量が日本は世界一と書きましたが、その後調べたところ間違いだとわかりました。

実際には、海外諸国と日本では食生活や制度の違いなどによって、添加物の定義や対照食品の範囲、使用可能な量などが異なっていて、単純に比較することは難しいそうです。

ちなみに品目数だけを比較してみると、日本の食品添加物よりアメリカの食品添加物の方が二倍近く多くなっています。

ただし、アメリカの食品添加物の中には、果汁やお茶など日本ではカウントされない品目が含まれていたり、日本では1品目となるものがアメリカでは物質ごとに指定され計数十品目となるものがあったりと、国によって基準がさまざまな為、一概にどちらの国が多い、少ないと言いにくいのが現状とのことです。

また国によって「ビタミン」や「アミノ酸」は添加物に含まないとしていたり、複数の添加物を一括名で表示するなど、やはり単純に国別に比較することは難しいようです。

ただアメリカより日本の方が少ないんだと安心することはできません。

海外では使用禁止になっていたり使用制限がかけられている添加物が、日本では許可されているからです。

アメリカを始めとして、海外では禁止や使用制限がされているトランス脂肪酸は、日本では使用制限がありません。

同じく海外では禁止されている着色料のクチナシ赤色も日本では使われています。

クチナシはアレルギー反応を起こす恐れがあり、過剰摂取によって頭痛や吐き気、また動物実験では癌を引き起こすことがわかっています。

またインスタントラーメンやスープの素などでよく見る添加物に「たんぱく加水分解物」というものがありますが、これも発がん性の懸念があるということで、海外では規制がかけられています。

普通に暮らしていて、添加物をまったく避けるということは不可能だと思いますが、できるだけ添加物の少ない食品を選んだ方が良さそうです。

以上、間違った情報を載せてしまったことを訂正してお詫びいたします。

 


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大丈夫かと思うこと

2024-03-30 15:23:27 | 日記

今、公務員の退職者が増えているのだとか。

と言っても娘が所属する職場のことなので他はわからないが、仕事のハードさや仕事に見合わない給料の低さなどなど、娘から話を聞くと、転職はどうなのかなと思っていた私でさえ「それはもう辞めた方がいい」と思う。

仕事より命の方がずっと大事。

身体や精神を壊してまで仕事をすることはない。

なんだか最近の国内の状況を見ていると、もうこの国はダメかもしれないと思う。

人格を疑うような人らが、国を動かす仕事(本当は動かされているのかもしれないが、、)をしていて、一体この国をどうしようとしているのだろうか。

もしかして潰したいと思ってるのかと疑いたくなる。

それでも一部の心ある人たちが、一生懸命に声を上げていることに救われるが、なかなか目に見えて変わっていかないことに苛立ちを覚える。

最近、周りでは体調を崩している人が多い。

脳の病気で半身不随になった方もいれば、帯状疱疹や癌も多い。

みんな30〜60代くらいの比較的若い人ばかりで、昔はこんなに身近でこのような年齢で病気に罹っている人はあまりいなかったのにと思う。

私などは注射の副作用じゃないかと思うが、驚くことに大部分の人はそうは思っていない。

「流行っているから」とか「年だから」とかいう。

もちろん原因はそれだけではないのかもしれない。

日本が世界一と言われているほど、食品添加物が多い食品を食べていることもあるだろうし、、書けないがまだ他にも思い当たることはある。

ただこのようなことを言ったところで、陰謀論好きの変な人で終わってしまう。

実際にこのようなことを伝えたことがあるが、明らかに引かれてしまったのでもう伝えてはいない。

でも入ったものをできるだけ身体の外に排出する物を摂ったりするなど、やれることはまだたくさんあると思うが、多くの人はそれをせずにただ病院でもらった薬だけ飲み続けている。

確かに正解はわからない。これは私の余計な思い込みなのかもしれない。

病院の薬が効いて健康体になれば、それはとても喜ばしいことだが、なんの疑いも持たず言われたことを素直に受け止めている人々をみると、先に書いた人格を疑うような、悪魔に魂を売り渡したような人たちの言いなりになっていて大丈夫かと思う。

長男夫婦が遊びに来た時に言っていた。

一歳の孫が大きくなった時、日本がダメだと思ったら躊躇なく外国へ行かせると。

長男のような若い世代は、そう思っている人が多いのだろう。

将来本当にそうなっていたら、それは長男夫婦と孫の決めることなので何の反対意見もないが、果たして外国でそんな良い国があるのだろうかとも思う、、、

食品添加物は世界一多いけど、とりあえず日本では飢えて死ぬことはないし、犯罪だって海外に比べれば少ない。

それだけでも恵まれた良い国なのだろう。

何の力もないおばさんだと夫には言われるが、それでもこの国の進む方向を今後もしっかりと注目していこうと思う。

 


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料理は苦痛か

2024-03-24 22:05:17 | 日記

料理は嫌いではないが好きではない。

前は好きだったけど、今の気分は、嫌いではないが好きでもない、、だ。

それは事情があって、最近料理することが続いていたからで、連日追い立てられるように料理を作っていたら、しばらく料理は作りたくない気分になってしまった。

つくづく私には定食屋はできないと思う。

ところで「料理が苦痛だ」という本を読んだ。

図書館のレシピ本コーナーに並んでいたので、てっきりレシピ本かと思ったらエッセイだった。

著者はカフェのオーナーで料理教室もやっている本多理恵子さん。

料理を生業とする方でも料理が苦痛になることが有るのかと本を開くと、「そうそう、わかるわかる」ということばかりでとても面白かった。

わかる!と思ったことが、料理にまつわる呪縛というもので、幾つか挙げられているので抜き出してみたいと思う。

1 主婦(主夫)なら時間があるんだから、ちゃんと作って当然という呪縛。

2 家族の健康のためにという呪縛

3毎日違うものを食べるという呪縛

4 インスタ映えという呪縛

5 誰からも評価されていないという呪縛

6 自分はちゃんとできていないという呪縛

インスタ以外は、どれも思い当たることばかりだった。

他にも「30品目食べなければいけないという呪縛」とか「八宝菜はちゃんと八種類の具材を揃えなければいけないという呪縛」など、笑ってはいけないが、つい笑ってしまうような呪縛があって、料理の呪縛は人それぞれなのだなぁと思った。

しかし、これらの呪縛の数々をよくよく見れば、どれも全て自分が自分にかけている呪縛だったということに気付かされる。

本の中でも書かれているが、果たして家族(食べる人)は、それを望んでいるのかということを、もう一度考えてみるべきだと思う。

ちなみに私が自分で自分にかけている呪縛は、2と3が強めかもしれない。

これらの解決法として著者は、勇気をもって料理を一旦やめてみることを提案している。

料理の苦痛を減らすための手順が書かれているので、ご興味のある方は読んでみてください、、、

ところで心に響いた?部分をもう一つ。

例えば良く聞く「カレーとかの簡単なものでいいよ」発言。

コレを言われた女性はだいたい同じことを思う。

「そのカレーがめんどくさいんだよ!」と。

切って、炒めて、煮て。結構な手間のフルコースだ。

ちなみに簡単なものとは、「白米に塩をかけて食べる」。

これくらいのレベルを指すということを「カレー発言」をしがちな方は心に刻んでおいてほしい。

その昔「カレー発言」をよくされて、まさしく同じことを思っていた。

しかし心に響いたのは、この部分ではなくて「白米に塩をかけて食べる」という部分。

白米に(うちは白米のお粥だったが)塩をかけて食べるという部分から、子どもの頃に食べたのを思い出してしまった。

子どもの頃は、おかずがあまりなかったから、母は卵を入れた味噌をよく作ってくれて、それでご飯とかお粥を食べていた。

ところがある日、卵味噌もなくて塩をかけて食べたら、これがめちゃくちゃ美味しかったという思い出がある。

たしか五歳くらいだったと思うが、あの時のお粥に塩だけの美味しさが今も蘇ってくるほどで書いているうちに唾が出てくるー。

というわけで、ここまで料理が嫌になったことなどを書いてきたが、一方で料理できる食材が、何不自由なく手に入ることは、なんて幸せなんだろうと思う。

たまに料理が苦痛になったら休んでもいいと思う。

でも色々な食材が手に入って、それらを料理して食べることができることに感謝の気持ちが湧いてくる。

少し休んだら、また自分の楽しみのために料理をしようと思う。

 


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母の命日

2024-03-18 20:08:52 | 日記

人は亡くなると、自分が生きていた時に一番好きだった場所にいるのだという。

そのお話しをあるお坊さんから伺って、それは本当のことだろうと思った。

亡くなった母と夢の中で会う時は、必ず昔住んでいた家だった。その場所以外では会ったことがない。

ところでその家で母と一番最初に会ったのは、母が亡くなって間もない頃、確かひと月くらい経ってからだった。

夢の中で、私はとうの昔に引っ越した筈のその家に居て、なぜか鏡を見ていた。

すると鏡の中に母が現れた。

亡くなった母に会えて嬉しかったが、そんな気持ちとは裏腹に口から出てきた言葉は「なぜ死んでしまったの?まだ生きるって言ったのに!」というひどい言葉だった。

今思うと、なんてことを言ってしまったのかと悔やまれるが、その時はまだ母が亡くなった現実を受け止められなかったから、ついそんな言葉が出てしまった。

すると鏡の中の母は、これまで見たことがないくらい悲しそうな顔をして、それと同時に周囲に白い霧のようなものが立ち込め始めた。

そして母は、白い霧にかき消されるように消えて行ってしまった。

本当は母は何か言いたいことがあったのかもしれない。

ところが私がまだ受け止められていないことを知って、これは何を言っても無駄だと、何も言わず悲しい顔をして消えて行ったのではないかと思う。

本当に後悔しかなかった。

それ以来、仏前でも夢でも、母には決してそんな言葉を口にしないようにしようと決めた。

こちらのことは心配せずに早く上の世界へ行ってほしいことを伝えている。

やはり亡くなった方にはいつまでも悲しい気持ちを向けず、こっちは大丈夫だから安心してねと言ってあげるほうがいいのだと思う。

それから何度も昔住んでいた古い家で母と会っているが、いつも朝の様な明るい日差しの入る家で、穏やかな雰囲気で一緒に食卓を囲んだりして過ごしていた。

話はしないが、気持ちは通じ合っているという感じがある。

ところがここ1〜2年、夢で母に会うことは無くなってしまい、昔の家の夢も見なくなってしまった。

母が別の世界へ行ってしまったのか、それとも私の方の事情なのか。

たぶん母がもっと上の世界へ行ったのだろうと思う。

それならとても嬉しい。

三月二十日、もうすぐ36回目の母の命日がくる。

明後日はスペシャルなお線香をあげてお祝いしようと思う。

 


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やっぱり本が好き

2024-03-13 13:51:11 | 日記

クジラは海の中で声を出して、仲間とコミュニケーションをとっているそうだ。

普通のクジラの声の高さは10〜39Hz。

ところが中には52Hzという高音のクジラがいる。

このクジラの声はあまりにも高音のため、他のクジラたちには聴こえないのだそうだ。

だから52Hzで歌うクジラは、世界一孤独なクジラと言われている。

声を上げ続けても受けとめてくれる仲間がいないから。

52ヘルツのクジラたち」を読んだ。

本より先に映画を知ったが、虐待という重たいテーマが観たいという気持ちにどうしてもならなかった。

ところが本を読んだ夫から「すごく面白かった」と感想を聞いて「どれどれ」と手に取ったら、読みやすさと面白さで一気に本の世界へ引き込まれてしまった。

ここではあらすじは書かないが、虐待という重たいテーマではあるが、その中にも微かな希望や暖かさがある物語で良かった。

次は映画を観ようかなと思っている。

それにしても児童虐待の報道が増えている昨今、この物語のように周りに寄り添ってくれる人がいるとは限らず、むしろ誰にも知られず虐待に苦しんでいる人が多いのだろうと思うととても辛い。

また虐待ではなくとも、52Hzで歌うクジラのように声を上げても誰一人受けとめてくれる人もなく、孤独を感じている人も多いのかもしれない。

あまりにも大きなテーマなので、なかなか解決策は見つからないが、重たいテーマのものは見たくないと私のように目を逸らさず、本当は一人一人が目を開いて現実を見なければ、解決につながっていかないのだろうなと思う。

ところで本といえば、子どもの頃は漫画本にも夢中になっていたのだが、当時よく読んでいた二人の漫画家さんの展覧会へ行ってきた。

お二人とも北海道出身で同い年だそう。

漫画家デビューする前の高校時代から交流があったということで、今回の展覧会が実現したそうだ。

少女漫画の巨匠とも言われる大和和紀さんと山岸凉子さんの二人展はお二人の代表作、あさきゆめみし(大和和紀さん)と日出処の天子(山岸凉子さん)の原画が多数展示されていた。

「あさきゆめみし」が平安時代の源氏物語がテーマで、「日出処の天子」が飛鳥時代で聖徳太子をモデルに描いているが、物語がとても面白い。

そして、とにかく両方とも絵がうっとりするほど美しい。

細かな部分まで美しく描かれていて、一枚一枚じっくりと見たかったが、会場は人が多くて、後ろにも待っている方がいたのであまりゆっくりできなかったのが少し残念だったかも、、、

こんなに混んでいるとは思っていなかったので、会場の入り口は平日にも関わらず長い列ができていて驚いた。

初日のトークショーを始め、展覧会には全国からファンが駆けつけているようだ。

見に来ている方々は同世代の女性ばかりだったが、同じ時代に同じ少女漫画に夢中になっていたのだなぁと思ったら、なんだかとても親近感を感じた。

そして久しぶりにまた漫画が読みたくなってしまった。

やっぱり本はいいな〜

 


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冬の散歩とキタキツネ

2024-03-05 17:47:50 | 日記

気温はまだ低く雪も積もっているが、三月になって日差しが暖かく感じられるようになってきた。

そこで冬の間しばらくサボっていた散歩へ最近また行くようになった。

昨年よく見かけた鹿に会えるだろうかと楽しみにしているが、今はまったく見かけず、そのかわり見るのがキタキツネ。

今日はゴミ捨て場のネットの上で寝ていた子ギツネを見た。

とても痩せていて、毛並みが悪くて、一瞬死んでいるのかと思ったほど動かない。

近づいたら上半身を起こしたので「生きていた」とほっとした。

天気が良かったので、もしかしたら日向ぼっこをしていただけなのかもしれないが、それにしても痩せているのは餌が足りていないのだろうと思う。

野生動物にとって冬を生き延びることは大変なことなのだろう。

ところでキツネは散歩に行かなくても家の窓から見ることができる。

昨日は狩りの最中のキタキツネを見た。

あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりするキタキツネを見て、最初は何をしているのかわからなかったが、キタキツネの顔の先に黒くて小さな生き物が動き回っているのが見えた。

よーく目を凝らして見ると、黒くて小さな生き物はネズミ。

一匹のネズミが逃げまわっているのだが、弱っているのか動きが鈍い。

キタキツネはネズミを追いかけて、くわえては放し、追いかけてはくわえるという動作を繰り返し、まるで遊んでいるかのようだった。

途中からおこぼれに預かろうとカラスもやって来た。

最後に動かなくなったネズミをくわえて、キタキツネが庭へ入って来たのでびっくり。

お願いだから庭に置いていかないで、、と思ったが、そんな心配は無用で、獲物をくわえたキタキツネは、庭を通り過ぎて山の中へ消えていった。

こちらのキツネは、今日見た子ギツネに比べて毛並みがとても良かった。

狩りができるキツネは生き延びていけるのだろう。

というわけで、毎日飽きずに野鳥や動物を見て過ごしているが、東京に住む同世代の女性のブログをたまに読むと、散歩する場所が素敵で、もう梅や桜が咲いていたりしてうらやましくなる。

無いものねだりなのだなぁ。

いつか行って散歩したいと思いながら、また明日も、今いる場所を滑らない靴を履いて雪の中を散歩して来よう。。。

明日も子ギツネに会えるかな。

 


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理解不能なこと、、続き

2024-03-01 22:51:00 | 日記

まさか先日書いた記事の「理解不能なこと」の続編を書くことになるとは思ってもいなかったが、あまりにも理解不能な出来事があったので備忘録として書いておこうと思う。

先日書いた「理解不能なこと」をもう一度簡単に書くと、チーンという金属音が2回、鳴るはずのない部屋の中で鳴ったということ。

1回目は私たちの座る椅子の背後で、2回目は前方で鳴ったのだが、どちらの音も空間で鳴った(ような気がした)

空間というのが文章で伝わるかどうかわからないが、つまり何も物質がない空中から聴こえてきたという感じだった。

その音は私だけではなく一緒にいた夫も聴いたので、決して幻聴や耳鳴りではない。

ブログでも書いたが、私自身は音が聞こえたことは、ほとんど気にしていなかった。そんな事もあるだろうと思っていた。

だから忘れかけていたのだが、それを鮮明に思い出すことが起こった。

それは入浴中に起こった。

ひとり自宅の湯船に浸かり、目を閉じてゆっくりしていた時のこと。

湯加減も丁度良くて、とても気持ちがよかったのだが、この様な時によく行っていることがある。

それはゆったりとした呼吸をしながら、頭の中を空っぽにして、何も考えない時間を過ごすこと。

もしかするとこれを瞑想というのかもしれないが、その時もそのようにして入浴していた。

すると「チーン」という微かな音が聴こえた。

「家族が外に行ったのだろうか?それとも誰か来たのかな」と思った。

そう思ったのは、実はお風呂場は玄関のそばにあり、玄関ドアにはベルがついていて、ドアを開けるとチャリンチャリンという金属音が浴室に居ても聞こえることがある。

そのまま呼吸を続けていると、さらに同じ金属音が断続的に聞こえてきた。

それはだんだん大きくなってきて、はっきりと聞こえる様になった時にわかった。

玄関のベルの音ではない。

部屋の中で聴いたあの音だとわかった時には、頭の中は「なぜ?なぜ?」というクエッションマークしか浮かんでこなかった。

そのまま呼吸を続けると、息を吸った時に聴こえる事もあれば、息を吐いた時に聴こえる事もあって、特に音が鳴るタイミングに決まりはないようだった。

ではどこから聞こえてくるのかと思ったら、それは頭の左側のやや後方のようでもあり、頭の中で鳴っているようでもあった。

しかし、前とまったく同じ音が鳴っているという不思議。

前回と違うのは、音が私の頭か身体の中で鳴っているので、他の人が一緒にいても自分にしか聴こえないのだろうということ。

でも部屋の中で夫と一緒に聞いた音が、なぜ私の中から聞こえてくるのかが、あまりにも理解不能だった。

とても気になったので調べてみると、私と同じような音を聴いた方がいて、その方が金属音の動画を紹介されていた。

そちらを聴いてみたらほぼ同じ音だった。➡︎こちら

やはりよくないものではなかったと思いほっとしたが、これは私の経験した不思議な出来事の中で、最下位からいきなり上位に躍り出た理解不能な出来事になった。

 


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