ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

一如

2018-05-28 13:15:42 | 日記
父の一周忌法要がお寺で行われた。

もう一年経ったのかという想いと、まだ一年しか経っていないのかという想いの両方がある。

とは言え、まずは一区切りがついたというホッとしたような安堵感があることだけは確か。

ところで、一周忌法要のお経が終わってから、若い女性の住職さんがとても良いお話をされた。

「浄土真宗では、この宇宙は絶対的な真実のひとつのものが存在すると言われています。
それを一如(いちにょ)と言います。
私たちは常に他人と自分を比べて、悩んだり、落ち込んだり、また優越感を持ったりしていますが、本当はひとつのものだったということです。

生まれたての赤ん坊は、自分と他人を比較することなくありのままに生きていますが、大きくなるにしたがって自我というものが芽生え、他人と自分を区別し始めます。
親も我が子には、他者より優れることを望んで止みません。

このような機会に、全てをこの世に置いて帰られた故人を思い出すとき、ぜひ皆さんにも一如を思い出していただきたいと思います。
本当はすべてのものは、ひとつ、上も下もない、すべては一つだったということを思い出して頂きたいと思います」

絶対的なひとつの真実、言い方を変えれば「神」ともいうのだろう。

一如・・・初めて聞いた言葉だが、良い言葉だと思った。

ところで、数日前に気になる夢を見た。

父と母がそれぞれ出てくる夢を、続けて二つ見た。

まず父と向かい合って話している夢。周囲はとても暗くて、今は夜なのだなと思っていた。
父は何かとても怒っていて、私に対して文句を言っていた。
内容は忘れてしまったが、私自身も暗い気持ちで目が覚めた。

それからまたすぐに(たぶん秒速で)寝てしまったのだが、今度は母と向かい合って話している夢をみた。
父の出てきた夢とは対照的に周囲はとても明るく、まるで朝の日差しの中にいるようだった。
母はとてもにこやかで、やはり話した内容は忘れてしまったが、起きてからも楽しい気持ちが続くような夢だった。

気になったのは父の夢で、それから数日後に妹と会った時、何気なくその話を妹にした。

すると、妹は「あっ!」と声をあげると慌てながら、まるでパントマイムのように口をパクパクして「私も見た」というジェスチャーをした。

ちょうど夢を見た時期も同じで、夢の中に父が出てくると言うのも同じだった。

妹の夢の中で、父は「どうして家の中のものを全部捨てたんだ」と怒っていたそうだ。
父の機嫌が悪いと言うのも同じだ・・・

「やっぱりお父さん、家の中を空っぽにされるのはまだ嫌だったのかな?」と妹。

「う~ん、そうかもしれないし、もしかしたら私たちの気持ちの中に、家を整理して父に申し訳ないという気持ちが少しあったのかもしれない。だからあんな夢を見たのかも・・・」

妹「そうだね~」

ということで妹と話をしたのだったが、すべてを置いて帰ったはずの父が、もしかしたらまだ家に執着しているのかもしれないと思うと、やや暗い気持ちにもなる。

一如・・・すべては一つ。
大きな家も高価な家具も、短い人生の中では取るに足らないもの。
期間限定で所有させてもらっているものにすぎない。

そんなことをご住職のお話を聞きながら思い出していた。









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物を手放す練習

2018-05-21 14:14:45 | 日記
業者さんにお願いしていた実家の片づけが、やっと先週終わった。

運び出しの作業は、荷物の量が思っていたより多くて、二日間に分けて行われた。

大型トラックが一台と大きめのワゴン車一台、そして作業員が3名だったが、出しても出しても家の奥からは次々と荷物が出てきた。

そして、あっという間にトラックとワゴンに荷物でいっぱいになった。

特に大変だったのは物が大量に詰め込まれた物置小屋で、ここは私たち家族も何があるのか分からない場所だった。

一つずつ運び出していくと、私たちが子供の頃に使っていた学習机や絵の具や習字カバン、テニスラケットやスケート靴、漬物用バケツに漬物石と、まあとにかく出てくる、出てくる・・・なぜこんなものまで?と思うようなものが出てきたが、一番びっくりしたのは母のセーラー服が出てきたことだった。

母はもう30年ほど前に亡くなり、今生きていれば81歳になるが、それにしても母は一体何をするつもりで自分のセーラー服を嫁入り道具の中に入れて持ってきたのか?謎だわ。。

母が自分のセーラー服まで取ってあるくらいなので、当然わたしたち子どもの学生服も残っていて、それらは取って置こうなどとはみじんも思わず、迷わず廃棄した。

さて、屈強そうな男性作業員さんが「荷物、けっこうありますね・・・」と言いながら、息も絶え絶えに運んでくれて、どうにかやっと家の中が空っぽになった。

空っぽになった家の中をあらためて見て歩くと、物入れが非常に多い家だったのだなぁと思った。
大げさではなくて、私の家の6~7倍の広さの収納がある。

このたくさんの物入れの中にぎっしりと荷物が詰め込まれていたのだ・・・(大変だったはずだわ)

実家はけっこう大きな家なのだが、その大きな家の中にたっぷりと収納が付いているのは、家を建てる時に亡き母の願いだった。

母が何でも捨てずに取っておくという習性があることと、父の仕事関係で頂き物が多い家だったので、母はそれらをしまっておく収納が欲しかったのだろう。

しかし年月は流れ、父母が他界した後に片付けに入ってみると、そのほとんどはゴミとして捨てられる運命となって、母が大切に仕舞っておいたモノたちは、大きなゴミの袋の中にどんどん投げ込まれていった。

こうしてずっと実家の片づけをやってきて思ったのは、歳を取ってきたらモノは少なくしていくべきだということ。

どんなに大切にしていた品物だって、金銭だって、亡くなる時は何一つ持って行くことはできない。

究極を言えば、残しておいていいのは、売ったら値のつくものと現金くらいではないだろうか。

あとは自分が元気なうちに処分するか、欲しいという人にあげるとかして、できるだけ身軽になって、残された人に迷惑をかけないようにしたい。

実家の片づけを終えて、「よし!また自分の家で要らない物を整理するぞ~」と決意も新たにして家に帰ったら、休日で家にいた夫が義母を叱っている声が聞こえてきた。

どうしたのかと行って見ると、義母が習字の練習で書いたお経の作品を、掛け軸にしてもらうよう知人に頼んだと言う。

夫「掛け軸にしたって家には飾っておく場所がないじゃないか」

義母「私が死んだ後もこれが残る、大切に持っていてほしいから掛け軸に頼んだ」

夫「だれがこんな間違った字の掛け軸を大切に持っていると思う?俺だって持たないし、姉さんたちだって、みんな要らないと言うぞ」

義母「・・・」

しょんぼりとしている義母がかわいそうになったが、この掛け軸騒動は一年に数回繰り返される。

数年前、私と一緒に書道を習っていた義母が、先生が書いてくれた見本の上にからなぞってお経の文を大きな半紙に書いたことがあった。

義母が先生の素晴らしい字の上からなぞって書いたものだが、ぱっと見は、それなりの形になっていた。

ただ、残念なことに字を間違えた部分があって、先生が「もう一度書き直しましょう」とおっしゃってくれたのだが、義母は「これでいいです」と言って書き直すことなく、それを大切に持っていた。

そして家に来る人、来る人にそれを見せて、皆さんから「上手ですね~」というお褒めの言葉をもらってご満悦だった。

のだが・・・いつからか、これを軸にして残したいという気持ちが芽生えたようで、ご近所さんから来客まで、会えば「掛け軸を作る所にこれを持って行ってほしい」と頼んでいたようだった。

そして、この度の騒動・・・

今回は頼んでいた人が、掛け軸の事を忘れてくれていたのでよかったが、また忘れた頃に「これで掛け軸を作って欲しいんだけど」と、どなたかに頼むのだろうと思う。

義母は自分が死んだあとにも、自分の作品や持ち物を残したいという気持ちが強い。

第三者から見れば、名のある芸術家や有名人が描かれたものならいざ知らず、ただの老女が書いた書道の作品など(しかも字が間違っている)残しておかれても、子どもたちでさえゴミとして捨てるしかないのだが、それでも義母がこれを残したいと言う強い気持ちは一体どこからくるのだろう。

自分がこの世にいたという証を残したいからなのか?

それなら子孫がいるじゃないのと私なら思う。。
「おばあちゃん死んじゃったけど、優しかったよね」と、孫にあとから言ってもらえれば、私ならそれで大満足だ。

仮に子孫がいなくても、自分がこの世にいた証はべつに残さなくてもよいとさえ思っている。

子孫がいようがいまいが、あと100年もすれば、今生きている人々は、その時代の人たちの記憶からは、ほとんど消えているのではあるまいか・・・

誰かの記憶に残らなくても、今を一生懸命生きれば、死んでからはこの世にあまり未練などなくなるのではないかと思う。

だから、別に自分の生きた証など残していく必要もないと思っているのだが・・・

そして今ハッキリとわかったことは、生きている間に、物に執着しない練習と、手放す練習をすることなのだということ。

死ぬときは、何も持って行くことはできない、身体さえ置いていくしかない。

だから、可愛い我が子であっても子には執着しない、時が来たら社会に送り出すという練習もする。

私もまだまだ練習中の身ではありますが、多くの反面教師がいてくれたお陰で、気が付けば家の整理などして身軽さを心がけている。










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友人との会話・・・続き

2018-05-14 16:03:14 | 日記
友人は何でも興味を持ったことにチャレンジをしていく積極派タイプで、私はどちらかと言うと一つのことを長く続ける保守派タイプと書いたが、それは今でもずっと変わっていない。

彼女も私と同時期に結婚したが、彼女は結婚してからも、理解のあるご主人と子どもさんに支えられて自分のやりたいことにチャレンジし続けている。(今も継続中かな?)

そして金銭的にはまったく困っておらず、むしろ余裕あるセレブな暮らしだが、彼女は自分の夢の為に学校へ通い資格を取って、今はそれを仕事に生かして働いている。

そんな彼女からは生きがいを持って仕事に向かい合っていることが感じられて、彼女の仕事の話を聞いていると、私も心が弾んでくるような気がした。

自分のやりがいを外に求める彼女と内に求める私。やっぱり今でも正反対なことが可笑しい。

彼女と話していた時、ふと彼女が言った。

「ミーロちゃんは、家庭の中でたくさんの学びをしているんだね。私はそれを外でしているような気がする」

彼女が「家庭の中で学んでいるんだね」と言ったのは、お姑さんの介護や長女の障害、そして私が他にもやらなければいけない諸々のことについてだが、彼女は私のようなことは無いかわりに、外の世界で色々な苦労があると言いたかったのだろう。

どちらの人生でも楽しいこともあれば、つらいこともある。

みんな表面上だけではわからない苦労がある。

だから、他人と比べて羨ましがる必要はまったく無い。

いや、ちょっとは羨ましがってもいいかな(笑)

だけど、妬むほど羨ましがってはいけない。
いけないというと、無理にそう思わなければと思ってしまうけど、自分がやりたいことをやっていると、妬むほど羨ましいという気持ちがなくなるんだ。

生きることは、この人生で多くのことを体験することなんだって。

ホントにそうだなぁって思うよ。

色々なことを体験しに来たってことが、心の底からわかる。

できれば体験したくない感情や出来事っていうのも数多くあるけど。
でも、やっぱりこれが本当に自分が体験したかった事なんだね。

この人生を終えた時に、はっきりとそれが分かるのかもしれないよ。

だから、お互いに精一杯生きようね。

そして、たくさんの経験をしようね。

以上、友人との会話でした。

彼女とは、こういう話ができることが嬉しい。

だから、正反対でも心地よい関係が続いているのかもしれない。








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友人との会話

2018-05-10 16:59:40 | 日記
懐かしい友人からメールをもらった。

「久しぶりに電話で話さない?」と書かれたメールを読んで、すぐ「いいね」と返事を送った。

それからお互いに都合の良い日時を選んで、連休が終わった翌日の午後に話すことになった。

約束の時間になって、電話から聞こえてきたのは懐かしい声。
高校時代とまったく変わっていない。

彼女とは高校2年生の時に同じクラスになり、また部活が同じだったことが縁で友達になった。

彼女は興味を持ったことは何でも積極的にチャレンジをするタイプで、私はどちらかと言うと慎重派で一つの事を長く続ける保守的なタイプ。

全然似ていない者同士なのに、なぜか気が合った。

一緒だったのは高校2年生から卒業までの2年間だけだったが、それからもずっと友だちとして続いているのは、こまめに連絡してくれる彼女のおかげだったと思う。

「昔の10代から20代にかけて、交換し合った手紙が出てきたんだけどね。それを読んでいたら、急に声が聴きたくなっちゃって」と彼女は言ってくれた。

そういえば彼女は筆まめな人で、よく手紙を書いて送ってくれた。

だから、その返事として、私もまた彼女へ手紙を出していたような気がする。

「私の送った手紙、まだ持ってる?」と聞かれてどきりとした。

(無い。たぶん、いやかなりの確率で持っていない・・・)
そう思ったが、口には出せない。
手紙はもらった時に読んだら、後から取り出して何度も繰り返し読むということをしない私が、何十年も前の手紙を持ち続けていることはあり得なかった。

彼女はさすが大人なので、それには深くは触れず言った。

「手紙を読んでいたら、あの頃のことがよみがえって来たわ。ところで当時は思っていなかったけど、あなたって実は内面は男っぽかったのね。手紙を読み返してわかったわ」

彼女に男っぽかったと言われて、今なら「そうそう、そうなのだ~」と言える。

この歳になって、やっと自分自身のことが理解できるようになった。

私が子供の頃から女同士のべたべたとしたつき合いが苦手だったのも、井戸端会議(特に他人の噂話)が苦手だったのも、瞬間湯沸かし器(すぐにムカッとなる)だったのも、男性的な部分を多く持っていたからなのだと思う。

しかし、どんな人もみんな「男性的な部分」と「女性的な部分」というのを持ち合わせていると思う。

どちらの性がより強く出るかによって、内面が男性っぽかったり女性っぽかったりするのかもしれない。

男っぽいと友人に言われた私だが、今は女性に生まれてきてよかったと思っている。

人それぞれ色々な生き方があるが、私は女性として、結婚して家庭の中で家族の成長を見守ったり、手助けしたりすることがやりたかった。

このことが分かったのは、もう7~8年前のことだが、もしも過去生と言うものがあるのなら、これが今まで経験した多くの人生の中でやってこなかったことだったのではないかと思っている。

だから、今は自分のやりたいことをやることができて幸せ。

「主婦が天職です。これがやりたかったことです」と言ったら笑われるかもしれない。

でも、本心・・・

次回は書けたら、この続きを書いてみたいと思う。







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十勝の旅

2018-05-08 14:03:21 | 旅行
久しぶりに泊りがけで道東旅行へ行ってきた。

ちょうど桜が満開の時期を迎えていて、道沿いの桜がとても美しかった。


上川郡清水町にある清水公園の桜です。

ここは、何年も前に道東の義父母たちの家へ遊びに行く時、途中で必ず休みをとっていた公園で、道東までの長いドライブでクルマに飽きてきた子どもたちをここで遊ばせていた。

トイレはもちろんのこと、広々とした芝生があるので、お弁当を食べたり寝転んだりして休むことができる。

また、遊具や池にボートもあって、小さな子供連れにはぴったりの公園であり、長いドライブの休憩にはもってこいの場所です。

さて、公園をあとにして向かったのは帯広。

長男が帯広でどうしても食べたいというものがあった。

えっ豚丼かって?(⇜農業と酪農が盛んな十勝では、名物の一つに豚丼がある)

実は豚丼ではなくて、カレーライスでした。

それはインデアンカレーというお店のカレーで、帯広でしか食べられないカレーライスであり、帯広市民のソウルフードとまで言われているらしい。

長男曰く、値段はとてもリーズナブルだが、一度食べるとまた食べたくなる味なのだとか。

私もこれまで何度も帯広でインデアンカレーを食べてきたが、ふつうに美味しいカレーであり、これを食べると「はーるばる来たぜ、おびひろ~」と歌い出したくなるほど、私の中でも「帯広の味」になっている。

さて、長男の食べたかったカレーを食べて、次に向かったのは、夫と私が行きたかった中札内美術村。

こちらはお菓子の六花亭が経営しているのだが、広大な自然庭園の中に小さな美術館が点在している。




周囲は落ち葉だらけ。まるで秋のような風景です・・・奥に見えるのが「小泉淳作美術館」


小泉淳作氏が東大寺に奉納した襖絵を始め、建仁寺の天井画「双龍図」など見ごたえのある絵が展示されている。


相原求一郎美術館

埼玉県在住だった相原氏が北海道の風景や山を描いた作品が展示されている。
札幌軟石を使った元銭湯だったという建物が素敵です。


真野正美美術館

どこか懐かしさを憶える絵が飾られている。

他にもまだ美術館があり、一通りゆっくり見て歩くと、あっという間に時間が過ぎていて、気が付けば園内は私たち家族だけになっていた。

まるで美術館を貸り切っているような、そんな贅沢な時間だった。

ちなみに中札内美術村は六花亭創業85周年の為、2018年は無料開放しているそう。

近くにはモール泉が豊富に湧き出している十勝川温泉があり、美術館巡りのあとは温泉に入ると、旅の疲れが癒される。

というわけで、久しぶりの旅行を満喫してきた。

皆さまもぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。(注・関係者ではありません・・・)





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町内会役員

2018-05-01 13:20:03 | 日記
先日、町内会役員になってから初めての会議があった。

いよいよ新役員による町内会活動がスタートする。

今年の1月に役員を決めるための「くじ引き」が行われた。

あの時、くじ引きをした会場には「当たりたくないー!」という住民の念がビュンビュンと飛び交っていた。

とりあえず、全員なにかしらの役員にならなければいけなかったのだが、今回最初の役員会議に出てきた役員さんは、みなさん特に当たりたくないと思われる責任の重たい役職に決まった人たちだった。(くじで当たってしまった人)

ちなみに私は日頃のくじ運の悪さが幸いして、責任の軽い方の役員になったのだが、今回の会議は出席できなかった方の代わりに出ることにした。

さて、最初の町内会会議は、初顔合わせということで自己紹介と今後一年間の町内会活動についてだったが、出席した役員は、皆くじ引きで仕方なく役員になった方々ばかりのはずだが、いざ会議が始まり自己紹介が行われると、「より良い町内にしたい」と口々に述べられた。

そして、町内会活動についても積極的な意見が飛び交っていた。

会長さんを含め、集まった方々は30代40代のお若い方ばかりで、仕事が終わって駆けつけたスーツ姿の男性も多かった。

働き盛りの年代であり、共働きの世帯がほとんどで、みなさん本当にお忙しいのに、「やると決まったら責任は果たします」という感じで、真剣に町内会活動に向き合っている方が多いことには非常に頼もしさを感じた。

さらには、ご意見番とも言える存在感のある高齢男性が、「私は仕事を持っていないので、平日の昼間にやらなければいけない仕事はやりますよ」とおっしゃってくれた。

こちらの男性には、市と各町内会代表で行われる会議に出て頂くことになった。

みんなそれぞれの仕事を分担してやっていくことになったが、この町内会なら、何か災害が起きても大丈夫だと思えた。

大きな災害はいつ起こるかわからない。

そんな時、頼りになるのは遠くの親戚より近くの他人だと思う。

たかが町内会活動でも、真面目に一生懸命にやろうとする人たちが住んでいる町なら大丈夫だと思えた。

十数年前、この町内に引っ越してきた時、以前住んでいた地域の住民がみなさん仲が良かったせいか、なんだか冷たくよそよそしい町のような気がしていた。

今はまったく気にしていないが、こちらから挨拶をしても苦虫をかみつぶしたような顔のまま無言で通り過ぎていく人もいる。
まだ中学生だった長男が「この町内は、大人のくせに挨拶できない人が多い」と怒っていたことを思い出す。

しかし長く住んで分かったのは、挨拶を返してくれない人は数名の決まった人で、ほとんどの方は挨拶をしてくれるということ。

また共働きが多いので、みなさん忙しくて、以前の町内のように親しくなるほど顔を合わせないということもある。

今は、仲良くならなければと思う必要は全くなくて、逆にこれくらい距離間のあるご近所つきあいの方が良いとさえ思う。

そして、いざと言う時には助け合えればいい。

だから、たかが町内会役員ではあるが、他の新役員さん達のように真摯に責任は全うしようと思う。












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