今日は婦人科検診があり、近所の産婦人科へ行った。
産婦人科なんて行くのは久しぶりで、20年近く前の出産以来かしれない。
産婦人科だけあって患者さんは妊婦さんが多く、幼い子供連れの方もたくさんいた。
目を奪われたのは、その小さな子どもたちで、ほんとに可愛いという言葉しか出ない。
赤ちゃんと目が合い、そして無邪気ににっこり笑ってくれると、私のほうも思わず笑みがこぼれる。
まるで天使やの~
そして「あ~こんな時代もあったなぁ」
若いお母さんたちが子どもを遊ばせながら待っている姿を見て、自分の子育て中のことを思い出していた。
しかし我に返ってみると、実際の自分は娘の出産に付き添ってきた祖母と言ってもおかしくない歳になってしまっているわけだが。
まったく光陰矢の如し。
待合室にいる子どもの様に幼かった我が子たちは、今ではもうすっかり大きくなって、それぞれの道を歩き始めている。
長男パインと次女ピーチは、徐々に親から離れて独り立ちする準備をし始めており、私はカラスの親の様に離れた木の枝から子ガラスを見守っている心境になっている。
しかし、まだまだ一人で飛び立っていけない子が巣の中に残っている。
それは障がいのある長女チェリーだが、二人の兄妹がそれぞれの道を歩き始めているのをうらやましそうに見ながら「いいな~私も一人暮らしをしてみたい」と言うのを聞くと、かわいそうにも思う。
いつかはチェリーもそれなりの施設かグループホームなどに入り、自立していかなければいけないのだが、今は家でじっくり力をつけていこうねと話している。
必要最低限の家事ができるようになることや、恥ずかしがらずパニックにならず一人で買い物ができるようになることなど、生きて行くための力をつけさせることが、今はチェリーを世に出すためにしなければならない親のつとめだと思っている。
ただ友だちと出かけたり遊んだりすることができないチェリーにとって、障がいのない兄妹よりもそのような楽しみが少ないのは、やはり可哀相だなと思ったりもする。
そんなチェリーに絵画の先生から嬉しい要請がきた。
「秋に展覧会をするので、チェリーちゃんも作品を出してください」とのことだった。
出来上がった展覧会のパンフレットには一般のアーティストに混ざって、チェリーの名前も載っていた。
そして、チェリーは嬉しそうに自分の名前を見つめていたのだが・・・
もうそろそろ秋の展覧会に間に合うように作品の制作に取り掛からなければいけないのだが、チェリーはなかなか腰が上がらない。
「もう描き始めないと間に合わないよ」とやきもきして言ってしまうのだが、ここは手を出さずにカラスになってじっと見守るしかない。
子どもは神さまからの預かりもの。
それは障害があってもなくても同じで、大切な大切な預かりもの。
自分自身も周囲の人も大切にできる人に、そして「生まれて来てよかった」と思える人生を送れる人になるように、時にはじっと見守り、社会にお返しすることが子どもを神様から預かった者の役目だと思う。
昔は自分が生んだ子は自分の持ち物、所有物のように思っていたのだけど、それが間違っていたと分かったのは、ずいぶん子どもが大きくなってからだった。
もう少し早くそれがわかっていたら、もっと違う子育てができたのかもしれない。
なんてね。
産婦人科なんて行くのは久しぶりで、20年近く前の出産以来かしれない。
産婦人科だけあって患者さんは妊婦さんが多く、幼い子供連れの方もたくさんいた。
目を奪われたのは、その小さな子どもたちで、ほんとに可愛いという言葉しか出ない。
赤ちゃんと目が合い、そして無邪気ににっこり笑ってくれると、私のほうも思わず笑みがこぼれる。
まるで天使やの~
そして「あ~こんな時代もあったなぁ」
若いお母さんたちが子どもを遊ばせながら待っている姿を見て、自分の子育て中のことを思い出していた。
しかし我に返ってみると、実際の自分は娘の出産に付き添ってきた祖母と言ってもおかしくない歳になってしまっているわけだが。
まったく光陰矢の如し。
待合室にいる子どもの様に幼かった我が子たちは、今ではもうすっかり大きくなって、それぞれの道を歩き始めている。
長男パインと次女ピーチは、徐々に親から離れて独り立ちする準備をし始めており、私はカラスの親の様に離れた木の枝から子ガラスを見守っている心境になっている。
しかし、まだまだ一人で飛び立っていけない子が巣の中に残っている。
それは障がいのある長女チェリーだが、二人の兄妹がそれぞれの道を歩き始めているのをうらやましそうに見ながら「いいな~私も一人暮らしをしてみたい」と言うのを聞くと、かわいそうにも思う。
いつかはチェリーもそれなりの施設かグループホームなどに入り、自立していかなければいけないのだが、今は家でじっくり力をつけていこうねと話している。
必要最低限の家事ができるようになることや、恥ずかしがらずパニックにならず一人で買い物ができるようになることなど、生きて行くための力をつけさせることが、今はチェリーを世に出すためにしなければならない親のつとめだと思っている。
ただ友だちと出かけたり遊んだりすることができないチェリーにとって、障がいのない兄妹よりもそのような楽しみが少ないのは、やはり可哀相だなと思ったりもする。
そんなチェリーに絵画の先生から嬉しい要請がきた。
「秋に展覧会をするので、チェリーちゃんも作品を出してください」とのことだった。
出来上がった展覧会のパンフレットには一般のアーティストに混ざって、チェリーの名前も載っていた。
そして、チェリーは嬉しそうに自分の名前を見つめていたのだが・・・
もうそろそろ秋の展覧会に間に合うように作品の制作に取り掛からなければいけないのだが、チェリーはなかなか腰が上がらない。
「もう描き始めないと間に合わないよ」とやきもきして言ってしまうのだが、ここは手を出さずにカラスになってじっと見守るしかない。
子どもは神さまからの預かりもの。
それは障害があってもなくても同じで、大切な大切な預かりもの。
自分自身も周囲の人も大切にできる人に、そして「生まれて来てよかった」と思える人生を送れる人になるように、時にはじっと見守り、社会にお返しすることが子どもを神様から預かった者の役目だと思う。
昔は自分が生んだ子は自分の持ち物、所有物のように思っていたのだけど、それが間違っていたと分かったのは、ずいぶん子どもが大きくなってからだった。
もう少し早くそれがわかっていたら、もっと違う子育てができたのかもしれない。
なんてね。