ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

内へ、内へ

2021-05-29 16:45:41 | 日記

朝、起きてリビングへ入った時に真っ先に目に飛び込んでくる風景。

 

見るのは室内の木に止まっているおもちゃの「ぴ~ちゃん」(探してください~笑)、じゃなくて外の木々たち。

今朝は雨が降っていたせいでよりいっそう緑が濃く見えて、しばらく見入っていた。

ついこの間まで幹と枝だけの茶色の風景だったのに、いつの間にこんなに緑が濃くなったのだろうか。

最近、こうして静かに森の景色を眺めていることがなかったような気がする。

一体どこを見ていたのか。

積極的には見たくはないと思っていても、コロナのことやワクチンのことが目や耳から入ってくる。

怖さもあるけど、それよりも怒りが湧いてくるのが抑えられなかった。

また、それらに関しては身近な人とも分かり合えない悲しい気持ちもあって木々を見る余裕さえなかった。

そのうちに気がつけば、自分の内面に入るようになった。

肉体としての自分はいつものように笑って会話をしている一方で、もう一人の自分は答えを探すかのように自分の中へ中へと入って行く。

今思うと、おもしろい体験だった。

あ、そうか・・・とふと思うことがあったり、探していた答えを他の方が書かれた文章の中に見つけたりと、自分なりに気づきがあった。

内面への旅?はまだ始まったばかりだけど、コロナやワクチンに関する事にネガティブな気持ちになることは少なくなったように思う。

また、ここ数日何かが変わってきたような気がしているのは私だけだろうか。

これもみんな良くなるための出来事なのだと、今は思えている自分がいる。

 

 


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擬似旅行

2021-05-27 14:50:42 | 日記

スーパーの駐車場に停まっていた道外ナンバーをつけた車。

「転勤で来ました。ずっとこちらに住んでいます」というステッカーを車体に貼っていた。

他県のナンバーをつけていると、身の危険を感じるのだろうか。

コロナ感染者がずば抜けて多かった札幌では、他県から来たと聞いても(私は)何も思わないけど、、、

その反対に、私はそのナンバーの県へ行ってみたいと思う。

行ってみたいが、緊急事態宣言が出されていては、なんとなく旅行もしずらい雰囲気の昨今。

旅行へ行くなんて言ったら、周囲からも身内からも避難の嵐が巻き起こるのは間違いない。

それにしてもそろそろ、、、と言うか、とっくに近所の散歩にも飽きた。

そこで以前もやったことのある「市内で行ったことのない地区の散歩」というのをまたやってきた。

生まれてこのかた60年あまり札幌に住んでいるが、まだ行ったことがない所がたくさんあるし、行ったことがある場所でも年と共に変わっていくので、まるで初めて来た様に思えることもある。

今回は自然に囲まれた自宅周辺とはがらりと違って、商店街が多く並ぶ地区を散歩してきた。

自宅からは車で行き、途中の大型スーパーに車を置いて散歩することにした。

ところで今回の散歩の一番の目的は、ランチを食べることと決めていた。

行きたいのは、ネットで見つけたパスタのお店。

ホームページに「コロナで定休日以外も休んでいる事がありますので、事前に電話で確認してください」と書かれていた。

なるほど、、、せっかく行って休みではがっかりだと、早速電話をすると幸いなことにお店は開いていた。

本当はお店がやっているかどうかだけ知りたかったのだが、名前や到着時刻を聞かれて、気がつけば予約をしてしまったようだ。

予約をしないと入れないくらい混んでいるのだろうかと、いつか予約無しで行って入れなかった激混みのレストランを思い出して、期待と不安が高まった。

思っていたより早く到着して、お店に着いたのが12時半だった。

予約は1時だったので待つことも覚悟して入ったら、店内は2人連れのお客さんが1組だけ。お昼時とは思えないくらい店内は寂しく、拍子抜けしてしまった。

ネットの評判は高いお店なのだが、今の状況ではお客さんがあまり入らないのだろうか。本当に気の毒だと思う。

お店ではおすすめの海老のパスタセットを注文して、残さず全部を美味しく頂いてきた。

さてお腹も心も満たされて、いよいよ散歩。

自宅周辺の自然の中を歩くのはとても気持ちが良いけど、たまには知らない商店街の中を歩くのも楽しくて良い。

人出が少な過ぎて、お店の売り上げは大丈夫なのかと心配になったが、お菓子屋さんを覗いたり住宅街の路地を歩いたりして散歩を楽しんできた。

そして家に帰って来たら、あら不思議。

なんとなく旅行へ行ってきた気分になっていた。

本格的な旅行はまだ行けないが、そのかわりに自宅からちょっと離れた行ったことのない場所を散歩してみるのも、旅行へ行った気分が味わえていいものだと思った。

 


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開墾

2021-05-21 16:01:55 | 日記

ちょっと息抜きにドライブをしてきた。

途中で一面黄色に染まった畑を発見した。

車を停めてよく見たら菜の花だった。

周囲には他にも菜の花畑があって、とにかく美しいの一言に尽きた。

歩いている人は誰もおらず、車もたまにしか通らない。この美しい景色を独り占めするにはもったいないくらいだった。

またこの辺りは水田も多いのだが、まだ苗を植えていない水田がほとんどで、水がはられた田んぼが静かに田植えの時を待っていた。

秋には、この場所でとれたおいしい米がお店に並ぶのだろう。

ほかほかのご飯を想像しただけでヨダレがでる。

ところで近くの道路案内の標識に「岐阜」と書かれているのを発見した。

正確には「栗沢町岐阜」という町名だったが、このことからわかるのは、この辺りは岐阜県から来た開拓者が住んだ場所だということで、このように道内には本州の県の名をつけた町が多い。

例えば山口県の山口がついた町、熊本、鳥取、広島がついた町など。

奈良県の十津川村からの開拓者たちが入った場所は、新十津川という町になっており、二つの町は今でも災害の時は助け合うなど交流が続いているそうだ。

開拓者たちは、もう二度と帰ることは無いかもしれない故郷を想い、新しい土地に故郷の地名をつけたのだろう。切ないなあ、、、

北海道はもともと先住民のアイヌの人々が住んでいたとはいえ、そのほとんどが原生林であり、厳しい寒さの中で開拓するというのは想像を絶するほどの大変さだったと思う。

よく北海道の女性は強い?と言われるらしいが、開拓当時は女性も男性と同じ力仕事をしなければいけなかったので、強くなったのは、その名残りだとも聞く。

ところで北海道の女である私も、以前庭の植木が大きくなり過ぎたので、ひとりで根を掘り起こして抜いた事がある。

最初は簡単に抜けるだろうと思っていたが、これがとんでもなく大変で、根が地面の下で大きく張っていて中々抜けず、数日にわけて地道に掘り起こしてやっとのことで抜いた。

その時はスコップとノコギリと枝打ち鋏を駆使したが、手のひらに豆はできるし、さほど大きくない木を一本でも抜くのは本当に大変だと思った。

(あとで調べたら、自分で抜くのは危険なため業者さんに頼むことが多いとか)

でも開拓者たちは、もっと大きな木を何本も何本も抜いて、根を掘り起こして農地を作ったのだ。

馬を持っていればまだマシだが、それも無い人たちは手作業で開拓していったと思うと、よくぞがんばりましたね、、、と深く頭が下がる想いがする。

この美しい菜の花畑も、おいしいお米が採れる水田も、みんなご先祖たちが苦労して開拓したのだと思ったら、ありがたくてありがたくてたまらない気持ちになった。

 


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原因は自分だった

2021-05-19 22:12:57 | 日記

最近、家族がテレビを観ている事が多くて、つい一緒に観ているのだが、なんだかどんどん自分の気持ちが落ち込むと言うのかネガティブになっていた。

これは明るさが見えない状況の報道ばかりを、ずっと観ていたせいなのかと思った。

そのうちにテレビにも新聞にも、そしてネットにも、また身近な人に対しても、コロナ関係以外の事であっても、自分が正しいと思い込んでいることとは違ったことに対して、否定的なジャッジをするようになっていた。

それに気づいたのは、自分の気持ちがますます苦しくなっていくことを感じたから。

このような苦しい気持ちをなんとかしたいと思いながら、それでもまだストレスが溜まる一方のコロナがなんとかなれば、少しはこの気持ちもマシになるのでは、、、と思い込んでいた。

つまり原因は自分にあるのではなくて、すべてとまでは言わないものの大部分の根悪はコロナであり、テレビその他の報道であり、他人にあると思っていた。

今になってみると、まったく恥ずかしい事だった。

多少テレビのネガティブなニュースを観ての影響はあったかもしれないが、原因はすべて自分だった。

私は昔から自分が正しいと思ったことは、他人にもそう思って欲しいと思うようなところがあり、考え方の違う相手と意見を交わしている時に最初はなんとか相手にわかってもらいたいという想いでいたのが、いつの間か言い負かしてやろうに変わっている事があった。

もともと口がうまく無いので、結局言い負かされて悔しい想いをする事が多かったが、元来気性が激しい所が有ると思う。

そうやって何度も痛い想いをして、自分でも自覚できるようになって、そのような態度は極力出さない様に気をつけているつもりだったが、やはり三つ子の魂百までも、、だった。

それがわかった時(ついさっきですが)、まるで霧が晴れたかの様に明るい気持ちになれた。

敵という表現は使いたく無いが、あえて使うなら、敵は外にあるものではなく自分の中にあると言うことを、今しみじみと身に沁みている。

 

 


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温泉の入り納め?

2021-05-14 16:06:03 | 日記

人生の楽しみのひとつ、温泉に行くことが難しくなってきた。

家族から「うつるかもしれないから行かない方がいい」と言われた。

お風呂でコロナに感染することってあるかなぁ、、、

とある温泉施設には「黙浴」と書かれた紙が目立つ場所に貼ってあったが、お喋りをしなければうつる事はないと思うのだけど、狭いサウナなどでは危ないのかしら、、、

市内の施設はどこも混んでいることが多いが、市外へ出ると割と空いている。

そこで今まで行っていた施設ではなくて、少し離れた場所にある温泉に行ってきた。

と言っても行ったのは一週間以上前のことだが、緊急事態宣言が出されることになったので、ここもまたしばらく行けないだろう。

とりあえず良い温泉だったので紹介したいと思います。

札幌からほど近い新篠津村にある温泉「たっぷの湯

源泉掛け流しで、泉質は黒っぽい色をしたモール泉。

かすかに石油の香りがするが、それがまた身体に効きそうな気がしてくる。

温泉はどこでもそうだが、とにかく体の芯から温まるので温泉に入った日はとてもよく眠れる。

ここは小さいがサウナと水風呂もあるので、温冷浴はもちろん行うが、それもまた楽しみ。

ところで先日、初めて血管年齢を測ってもらったら、実年齢より20歳若い40歳と出てびっくりした。

今まで測ったことがないのでなんとも言えないが、もしもこの結果が正しいとしたら、それは温冷浴のお陰じゃないかと思う。医学的根拠はないのかもしれないが。

以前、ブログ記事「若々しい人」で書いたが、70代の時に血管年齢が20代と出た方が、やはり温冷浴をしているからかもしれないとおっしゃっていた。

その方には遠く及ばないが、40歳でも十分過ぎるくらい嬉しかった。

しかし今はなんとなく温泉も行きにくい雰囲気で、道内であっても「札幌市民お断り」という場所もあり、しばらくは自宅のお風呂になりそうだ。

ところで今はコロナで大騒ぎだが、その代わりインフルエンザなどは少なかったとか。

インフルエンザは何年か前に罹ったことがあるが、5日くらい高熱が下がらず、眠れないほどの関節の痛みや下痢に吐き気、味覚の異常などで酷い目にあった。

その頃、インフルエンザで同じ症状だった方がたくさんいたのではないかと思うが、例年のことなのでさしてニュースで大騒ぎする事もなく、マスクをしている方は今よりずっと少なかったと思う。

つまりそれだけウイルスに感染する人が多かったということかもしれない。

それがコロナだけ目の敵にして、そんなに恐ろしい病気なのかと思ってしまう。

とはいえ、インフルエンザに罹った時以上の酷い症状に襲われるのは嫌だし、、、

それにしてもワクチンの接種でコロナが仮に収まったとして、コロナ前の様にマスクをせず経済も元通りの世界に戻るのだろうか。

そうはならないのでは?と、懐疑的な目で見てしまう今日この頃だ。

 

 

 

 


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遺産相続

2021-05-11 07:41:17 | 日記

一人暮らしをされていた知人のお母さんがお亡くなりになった。

知人にはお姉さんがいるが、お姉さんは遠方に住んでいるので、近くに住む知人がずっとお母さんの身の回りの世話をしていた。

お母さんの最期の方は、もう毎日のようにお母さんの元へ通ってお世話をしていたそうだ。

葬儀は知人とご主人が中心となって執り行ったが、やっと葬儀が終わったあとにお姉さんから電話が来たそうだ。

その電話というのは「お母さんがいなくなって、空き家になった実家の家どうする?」というものだった。

このお姉さんの言葉に、知人は一瞬「えっ?」と思ったそうだ。

これまでお母さんの世話をずっとしてきたのは自分。

お姉さんは、今まで何一つお母さんの世話をしてこなかった。

だから、当然実家は自分のものになると思っていたが、お姉さんからの電話で「お姉さんは半分欲しいんだ、だからどうすると聞いてきたんだ」とわかったそうだ。

結局知人は実家を売って現金に替えて、それを姉妹で半分ずつ分けたのだが、「お母さんから家をあげると言われていた訳でもなく、まして遺言書があった訳でもないから、法律上遺産は姉妹で半分ずつ分けなければならない事はわかったけど、なんだか釈然としないの。ずっとお母さんの世話をしてきて大変だった私と、何ひとつしていないお姉さんがなぜ同額なの?って思う」と言っていた。

その後、知人はお姉さんと交流することをやめたそうだ。

なんだか切ない話だった。

知人の気持ちはもちろんわかるが、お姉さんの気持ちもわかる。

同じ親から生まれた者として親の世話をしたか、していないかに関わらず遺産をもらう権利はある。

ただお姉さんが「ずっとお世話をしてくれたのだから、自分は少なくていい」と言ってくれたら、知人の気持ちも違ったと思う。

ところで昔に比べて、今は相続のトラブルが増えているのだとか。

昔は家督相続が一般的で、長男が全ての遺産を相続する事になっていた。

そのかわり長男は、老親の面倒を見るという暗黙の了解があったのかもしれない。

ところが民法が改正されて親の遺産は子ども達に平等に分配される事になった。

老親の面倒を見ようが見まいが、遺言が無い限り平等に分けなければならない。

ただ世話をしてきた者が多く貰っていいよということが、兄弟間で話し合われていればこの限りではない。

現在の遺産相続のトラブルのほとんどは遺産の分配についてで、知人のように遺産相続がきっかけで兄弟の付き合いが無くなってしまうことも多いそうだ。

私自身も父が亡くなった時に、僅かばかりだが遺産の相続を受けた。

私は三人きょうだいの長女だが、父のそばに住んで父の世話を一番多くしていた妹が一番多く遺産の相続をした。

これは父の意向でもあり、私も弟も異論はなかった。近くに住んで一番世話をした妹が多くもらうのは当然だと納得していた。

次に多く貰ったのは長男である弟だった。

弟は就職後ずっと地元を離れて暮らしていたが、「家(苗字)を継ぐのは長男だから、長男にはできるだけ相続させたい」という、これも父の意向だった。

そして結局、一番もらいが少なかったのが私だった。

これは、父がまだ生きている間に取り決めがされた事だったが、これを最初からすんなり受け入れられたかと言うと、そうではなかった。

父と妹の住む家に一時間近くかけて車で通ったこと、妹は父が使ったトイレの掃除を嫌がってしなかったので、父が施設に入るまで、恐ろしいほど汚れた父のトイレを掃除をするために行っていたことなどなど、私だってやったのに何故こんなに二人と差があるのかと釈然としない想いがあった。

しかし、どんどん弱っていく父の介護をするうちに、まあいいかと思えるようになった。

この世のお金の代わりに、目には見えないお金を天に貯金させてもらっていると思うようにしているうち、本当に遺産の不公平感はどうでもよくなり、生きている父の介護を後悔しないようにやろうと思えるようになった。

ありがたいことに、夫の収入だけで生活できていることもよかったと思う。

とはいえ遺産があって相続人が複数いる場合は、なかなか難しいなと思う。

法律通り平等に分けると、知人のように自分だけが世話をしていたのにと思うだろうし、親の意向であってもあまりに差がある場合、それはそれで不満を残す。

それを考えると一番良いのは、(お金のある方は)残さず使い切って死ぬことだろうか(笑)

 


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ためになった話

2021-05-07 21:06:53 | 日記

先日、梅を見に行った公園で聞いた「いい話」の続き。

公園の入り口付近に、一生懸命に何か植物を採っているお二人の女性がいた。

正確に言うと、植物を採っているのは二人のうち年配の女性で、その娘さんらしき50代くらいの女性は、採った植物を入れる袋を持って立っていた。

公園に入る為、一旦お二人の横を通り過ぎたのだけど、何を採っているのだろうかと気になって仕方がない。

採っている場所を見ても、特に珍しい植物があるわけでもなく、どこにでもあるような日当たりの良い原っぱだ。

大げさだけど、これを聞かなければ後悔すると思い、通り過ぎた道をまた戻った。

そして、袋を持って立っていた女性に思い切って聞いてみた。

「何が採れるんですか?」

すると「ふきのとうですよ」と気安く教えてくれた。

見ると、地面から20〜30センチくらい伸びたふきのとうが沢山生えている。

女性は「私も知らなかったんですが、伸びたふきのとうの茎って食べられるそうなんですよ」と言って、袋を広げて見せてくれた。

袋の中には、花の部分を取って茎だけになったふきのとうが沢山入っていた。

ふきのとうは、咲き始めの小さなものを天ぷらやふきのとう味噌で食べたことがあるが、こんなに大きくなってからも食べられるのかと驚きだった。

それを言うと、教えてくれた女性も同じだったようで「そうですよね~私も茎は食べたことないんですけど」とおっしゃった。

そこへふきのとうの茎を持って、年配の女性が戻ってきた。

そこで「こんなに大きくなったふきのとうも食べられるんですね」と言ったら、「これはきんぴらにすると美味しいんだよ。蕗より美味しいかもしれないね。子どもの頃はよく食べたから、なんだかまた食べたくなってね」と教えてくれた。

女性曰く、蕗と違ってふきのとうの茎は下ごしらえが楽なのだとか。

下茹でした後に長く水に浸けてアクを抜く必要もなく皮もむかなくてよいそうだ。

「ふきのとうを見るたびに母が採りたいというから、今日は採りに来たんです」と娘さんがおっしゃった。

そうだったのか。そんなに美味しくて下ごしらえが楽なら、私もふきのとうの茎を採りたい、、、

というわけで、行ってきました。

行ったのは、お二人が採っていた公園の入り口ではなくて、毎年蕗を採りに行ってる場所がある。

そこは道路から離れているし、かといって人目のつかない山奥でもない。

最近、山菜採りで山に入り熊と遭遇するというニュースを聞くので、山には入らないようにしている。

被害にあった方も気の毒だが、駆除される熊もかわいそうだ。

蕗がたくさん生える場所なので、きっとふきのとうもあるだろうと思って行ったら、やっぱりたくさん生えていた。

成長したふきのとうは、根元から切りとり花の部分と葉を取り除いて、茎だけになったものを食べる。

熱湯で3分くらい茹でると、あっという間に柔らかくなった。

ちょっと茹で過ぎたかなと思うくらいだったので、もうすこし茹で時間は短かめでもいいのかもしれない・・・

それを適当な大きさに切って、にんじんとさつま揚げ、赤とうがらしと共に油で炒めて甘辛く味をつけて、最後に白ごまをまぶしてできあがり。

味は蕗と変わらないが、蕗より柔らかく筋がないので食べやすかった。

ちなみに今日の夕飯のおかずは、ふきのとうのきんぴらと農産物直売所で買った山菜・行者ニンニクの酢味噌和え。

まるで精進料理みたいだが、歳を取ると、こんな料理が美味しく感じられる。

またひとつ、食べられる山菜を知ることができてよかった。いい話を聞けた。

 


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梅の花

2021-05-04 22:19:30 | 日記

連休中で久しぶりに暖かくなった今日は、家の近所を散歩する人が多かった。

近所では普段なら滅多に人間を見ないのに、今日は100メートルに一人の割合ですれ違った。

いつもは一人で黙々と歩く寂しい散歩も、こんなに賑わっていると嬉しいものだが、いつもいつも同じコースを散歩するのもそろそろ飽きてきた。

というわけで、少し遠出をして梅の花を見に行ってきた。

市内で梅の花が有名なのは、平岡公園の梅林。

梅が咲く時期は、駐車場に入る車が列をなしているのだけど、今日はまだ梅の花には早かったせいか車も人も少なかった。

白梅は五分咲き、紅梅の開花はまだ、、、と公園の入り口に書かれていたが、梅は十分に美しく目を楽しませてもらった。

また平岡公園の中には川が流れ湿地があるため、水芭蕉も見ることができた。

ところで梅林名物のひとつが梅のソフトクリームなのだけど、ピンク色のソフトクリームが美味しそうでさっそく買った。

さて何処で食べようかと周囲を見回したが、テーブルや椅子はない。

皆さん、その場で立ち食いか花壇の縁石に腰掛けて食べていらっしゃる。

しかし、すこし離れた場所にベンチがあった。

なぜか誰も座っていないので行ってみることにした。

なんと侵入禁止のテープが張られていた。多分コロナの感染対策?

それにしても日本人は真面目だなぁと思う。

すぐそばに誰も座っていないベンチがあるのに、誰一人座ろうとせずに立ち食いするか、地べたに近い石に座っているなんて。

とか言ってる私も座る勇気がないので、すごすごと引き返してきて花壇の縁石に座り、ベンチを眺めながらソフトクリームを食べてきた。

ところで平岡公園でたまたま出会った方から、いい話を聞いた。

私にはとても興味のある話だったので、さっそくやってみようと思っている。

その話はまた今度書きたいと思う。

 


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正しさとは

2021-05-02 13:17:10 | 日記

保険の営業をやっている知人に会って話をした時のこと。

知人に「コロナについてどう思うか?」と聞かれた。

千人を超す顧客を持つ営業マンの知人。

昨年コロナが騒がれ始めた時「コロナに罹ると支給される保険金の申請が、これから増えるだろう」と思ったそうだ。

ところが実際にあった申請は、コロナ騒動から一年以上過ぎてもまだ一名だけ。

「これだけテレビでコロナ感染者が増えたと騒いでいるのに、千人以上のお客様の中でたった一人しか罹っていないんですよ。どう思います?」と言った。

確かに千人も顧客がいれば、複数の申請がありそうだが、もしや罹ったことを内緒にしたいから申請しないのでは、、、と言うと、知人はおかしいなと言うように首を傾げて「コロナに罹ると、必ず連絡がくることになっているのですがね」と言った。

保険のことはよくわからないが、知人は明らかに今のコロナ騒動はおかしいと思っているようだ。

ところで、昔は情報はテレビや新聞から得ることしか出来なかったが、今はネットで色々な情報を知ることができる。

それは、自分で興味のあることを調べて行くことができるという意味でも素晴らしいことだと思う。

ただ今回の米国の大統領選挙で知ったことは、ネット情報というのは真実もデマも混在しているということ。だから、そういった情報を全て鵜呑みにしてはいけない事を学んだ。

とは言え、今のコロナ騒動がすべて真実なのか、それとも真実じゃないこともたくさんあるのかと聞かれれば後者だと思っている。

ただそれを声高く言うことは、コロナを非常に恐れている人たちがいる以上、たとえ家族であっても難しい。

一番難しいのはワクチン。

ワクチンさえ打てば安心という人たちがいる一方で、ワクチンは危険だという人たちがいる。

ワクチンを早く打ちたいと思っている人に、ネットで仕入れたワクチンは危険という情報を伝えても、聞く耳を持たないどころか怒り出してしまう。

それじゃ自分でネットで調べてみたらいいのに、、、と思うが、そういう人たちはネットを使えない高齢者か、使えてもネットの情報よりテレビや新聞の情報が正しいと思い込んでいる場合が多いので、言っても無視されるか怒られるかだろう。

そして時には、ワクチンを打たない選択をする人たちに対して「身勝手だ。他人のことを考えていない。それで他人にうつしたらどうするんだ」と攻撃的になる場合もある。

だからネットで仕入れただけの情報を武器に、ワクチン接種をやめさせようと戦うことは、こちらもそれ相当の傷を負う覚悟が必要になる。

ましてや、戦う相手が家族であれば一家離散もあるかもしれない。

とは言え、果たして本当にワクチンが危険かどうかは、自分もまだ体験したことが無いのでわからない。

わからないから、どうしても打ちたいんだーと言ってる人を止める事はできない。すべてはその人の選択したことだ。

それにしても今回のコロナもしかり、そして米国の大統領選挙もそうだったが、どうも最近、世の中が二つに分かれる事が多い。

どっちが正しいのか、正しく無いのかなんて(私には)わからないが、みんな自分の信じている事が正しいと思っている。

100%正しいことなんてあるのかな、、、

「コロナが流行る前、風邪気味だったのでお客様の所にマスクをして行ったら、マスクをつけて来るとは失礼じゃないかと叱られたことがあったんです。ところが一年も経たず、今度はマスクをつけないと叱られるんですから、短期間で180度変わってしまった。世の中変わる時はあっという間ですね」と知人が言った。

 


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