ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

謎だ。。。

2023-02-27 21:28:50 | 日記

数年前に亡くなったある有名な方が「自分が死んだことをわかっていない人が多すぎる」と、あの世から伝えてきたのだとか。

それが本当かどうかはわからないけれど、成仏できずにまだこの世をうろうろしている人は確かに多いと感じる。

先日の夜、寝ようと布団に入った時のことだった。

布団に入ると、すぐに灯りを消して寝るということは無くて、いつも布団の中でしばらく本を読むことにしている。

この時も布団に入って本を広げたのだが、本を開いた瞬間、耳元で大きな声がした。

「出て行け」

あまりに大きな声だったので、驚いて思わず本から視線を外して顔を上げたら、部屋のドアのそばに黒い影がいて、部屋から出て行こうとするところだった。

早速、翌日からすぐに床供養を始めた。

招かざる客が家から出て行ってくれるように、成仏してくれるようにという思いで供養をする。

この方法を知ってから、家の中で見るモノに対しては恐怖心があまり無くなった。

(無理ですが)できれば子どもの頃に、、、いや10代後半から20代前半まででもよいから、これを知っていたらよかったのにと思う。

ところで結婚してからは、まったく霊的なものを見たりすることは無くなっていたのだが、何故かここ数年再び見るようになった。

あんなに怖い思いをしていたのが嘘のように無くなって安心していたのだけど。

ただ先にも書いたが、それを避ける術を学んだお陰で、恐怖心がずっと少なくなったのはとても助かっている。

結婚するまで住んでいた実家には、古くからずっと住んでいる見えない先客がいた。

当時は存在を感じても、ただなす術もなくひたすら怖かったという思い出しかない。

また亡き母も霊感が強い方で、母も家の中に何かが居ることはわかっていたのに、お盆やお彼岸などの特別な期間以外は、仏壇にお参りすることはあまりしなかった。

また父も私たち子どもも然りで、神棚も仏壇もあったのに家族の誰もお参りせず、それらはもったいないことに、ただのお飾りになっている状態だった。

これではご先祖も子孫を守りたくても力が出なかったのではないかと思う。

とはいえ、あの頃は家の中で、そのような見えないものの話をするのはタブーだったし、そんなことを話すのは恥ずかしいことだと思わされていた。

それは、もしかしたら世の中全体もそうだったかもしれない。

だから今の方が、見えない世界を信じている人が多くて、私としてはずいぶん生きやすくなったなあと思う。

そして何より肉体は無くなっても魂は生き続けるという事実(私はそう思っている)は、今後の生き方を考える上でとても大きな意味を持つことになった。

ずっと死なないのであれば、いつまでもこの世を彷徨わずに、さっさと次の段階へ行けるような生き方をしたいものだと思う。

ところで「出て行け」と耳元で叫んだのは誰だったのか。

これは驚いたのだけど、実は自分だった。

自分の声がはっきりと耳元で響いた。

まったく意図していなかった言葉で、なぜ叫ぶ自分の声が聴こえたのかは謎だ。。。

世の中にはまだまだ不思議なことがたくさんある。

今度はどんなことが起きるのか。

ちょっぴりわくわくしている自分がいる。

 


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何かが変わった、、、かもしれない

2023-02-21 21:35:43 | 日記

何かが変わった。

、、、と思っているのは私だけだろうか。

テレビをつければ、世の中は相変わらず災害や戦争、犯罪などの話題で賑わっている。

そんな悲惨な報道を目にする度に、巻き込まれてしまった方々を思うと気持ちが沈み、それと同時に訳のわからない不安や恐怖の感情が沸き上がり、しばらくはネガティブに引っ張られて、暗い気持ちから抜け出すのに時間がかかっていた。

しかし、それが最近一週間くらい前から変わってきた。

といっても、それは私の内面で起こっているだけなのかもしれない。

うまく表現できないのだけど、今日はそれをなんとか書いてみようと思う。

そのような多くの悲しい出来事が起きているのは紛れもない事実であると認識しているし、世界中で多くの善良な人々が苦しんでいるということももちろん理解している。

理解はしているのだけど、最近、自分が今いる世界と、苦しみの多いそれらの世界の間に、一枚の透明な板で隔たりがあるような気がするようになった。

ここ三年近く、お店などでよく見かけるようになった透明のアクリル板。

あのアクリル板のようなものが、自分のいる世界と多くの苦しみがある世界との間にある。

その板があるからなのか、以前のようにネガティブな感情に傾き過ぎることなく、平静で穏やかな気持ちを保っていることができる。

これまでネガティブな出来事を見て、丸ごと感情を飲み込まれていたのとは違って、それはまるでアクリル板を通して映画を観ているかのようで、平穏さを持って見ることができる。

かと言って、それらがまったく自分には関係のないことだとは決して思っているわけではない。

トルコの大地震は他人事ではない。いつ同じような大地震が起きないとは限らない。

ただ先にも書いたが、自分の感情がネガティブにならず穏やかな状態を保てるようになったことは、アクリル板のような見えない板が、間にあるからなのかと思う。

そして、もう一つ以前とは変わったことがある。

それは子どもの頃から今まで(かれこれ62年あまり)、すっかり忘れていた日常の一コマを、これもまるで映画のワンシーンを観ているかの様に見えてくることがある。

見えるのはいつも突然で、例えば買い物を終えて店を出る時だったり、歯を磨いている時だったりする。

それらの映像は、どれも皆んなとても幸せな気持ちにさせてくれて、まるで過去のその時点に戻ったような錯覚を覚える。

もう忘れていたような何気ない日常の出来事だったのに、こんなに幸せだったのだとあらためて驚いている。

というわけで、ちょっと訳のわからないことを書いてしまったかもしれません。。。

日本が平和でありますように。

世界が平和になりますように。

地球が元気になりますように。

毎朝、そのように願いながら神棚にむかって手を合わせている。


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借りたもの

2023-02-13 14:07:23 | 日記

知人の女性が、旅行へ行って来たと話してくれた。

女友だちと二人で行ったそうだ。

写真を見せてもらいながら「よかったね、楽しかったでしょう」と言うと、少し困った顔をして言った。

「うんまあ楽しかったことは楽しかったのだけど、友だちがちょっとお金にルーズで、、、」

彼女曰く、旅行中に食事などの支払いをする時、後ろに他のお客さんが並んでいると、個別に払っていては迷惑になると思い「まとめて払ってあとで精算しよう」と提案したそうだ。

まとめてお金を出すのはいつも彼女の方だったが、友だちはそのあと自分の分を出そうとしないそうだ。

何度かは催促して貰ったものの、あまりうるさく催促するのもケチだと思われるのが嫌で黙っていたら、結局返してもらうことなくそのままだったという。

「彼女に悪気はないと思うのだけど」とフォローしつつ、「今度彼女と一緒の時は、個別に払うことにする」と言っていた。

せっかくの楽しい旅行が、その一点で後味の悪さが残ってしまったのだとしたら残念なことだと思う。

でも彼女の話を聞いて「あ〜そういう人いるなあ」と思った。私も何度か似たような経験がある。

千円程度なら奢ってあげたと思って仕方ないかと思うけど、こういうことは金額に関係なく、出した方はちゃんと覚えているものだ。

これはお金に限らず、物に関しても言える。

借りた方はすっかり忘れているかもしれないが、貸した方はいつ返してくれるのかとずっと気になっているかもしれない。

この知人の話を聞いて思い出したことがある。

ある男性の話だが、一人暮らしの部屋でくつろいでいると背後に人の気配を頻繁に感じるようになったそうだ。

振り返っても誰もいない。でも誰かにずっと見られているという感覚は消えない。

最初は気のせいだと思っていたが、そのうちにだんだん気配を強く感じるようになり、また時を同じくして、なぜか仕事が上手くいかなくなっていき、次第に身体も心も病んで仕事を休みがちになってしまった。

会社に行かなければ、、という気持ちはあって、無理して出社するのだけど、あまりの体調の悪さに上司から「帰って休め」と言われる。

それならば自分の仕事を同僚に頼もうと、周囲に声をかけるのだが、誰一人引き受けてくれる人がいなかった。

そうこうしているうちに会社から退職勧告を受けて、体調が戻らないまま退職することになったそうだ。

それまで暮らしていた部屋も出て行くことになり、一人で引越しの準備をしていたら、これまで人から借りた数々の品が出てきたそうだ。

借りたことはすっかり忘れていたが、その中には会社の同僚たちから借りていた物があって、中には「いつ返してくれるのか」と再三言われていた物もあった。

「そのうちに返そう」と思いながら、まだ返していなかったと、その時やっと気づいたそうだ。

もし彼が借りた物をちゃんと返していたら、どうだっただろう。

同僚らは、具合の悪い彼のために仕事を引き受けてくれたのではないだろうか。

そしたら会社を辞めるまでは行かなかったかもしれない。

借りた方はすっかり忘れていても、貸した方はずっと覚えていることが多い。

一度そういうことがあると、「あの人はルーズな人だ」という悪いイメージが付いてしまい、いざという時に手を貸そうと思ってくれる人が居なくなる可能性がある。

その男性は、最後に借りた品々を返してから会社を辞めようと思い、返せる人たちには漫画本一冊であっても謝りながら返して歩いたそうだ。

そして新しい部屋に移った男性は、もう背後に人の気配を感じることがなくなり、体調も戻ったそうだ。

視える方によると、男性の部屋の人の気配というのは、部屋に憑いていた霊ではなくて生き霊なのだとか。

彼が謝って返したことで、体調が戻り気配も無くなったのだという。

信じるか信じないかはあなた次第。。。

でも生きている人の念は、凄まじく強いものだ。

これからも借りたものは、忘れずに(お礼を言って)返さねばと思う。

 


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過去は変えられる

2023-02-06 17:29:07 | 日記

最近の楽しみは、息子夫婦から週に何度か送られてくる孫の動画や写真を見ることと、それらにコメントを入れること。

生後三ヶ月も経つと、目に見えてできることがどんどん増えていく。

赤ちゃんの成長の早さってすごいなあと、いちいち感動しながら見ている。

自分が子育てをしていた頃は、ここまでじっくり観察したり感動したりする余裕はなかったけど、いざ孫となると育てるのは息子夫婦なので気楽に見ていられる。

でもお嫁さんの大変さもよくわかる。

先日送られてきた写真は、トイレの前でベビーベッドに寝かされている孫の写真。

写真に添えられたお嫁さんのコメントは「トイレまで付き添ってくれます」だった。

多分、お嫁さんの姿が見えないと泣くのだろう。

トイレくらい一人でゆっくり入らせてよ、、、と思っていた頃が懐かしい。

そこで私もコメントを書く。

「うんわかる。大変だね、、、」

その後にお嫁さんがクスッと笑ってくれたらいいなと思いながら、ジョークを入れたりするのだが、これがなかなか思いつかず、頭を使うのでよい脳活になっている。

育児をしていた頃は、昼夜を問わず自分の時間がなくて、たまには一人で気晴らししたいなんて思うこともあったが、今はそれもみんなよい思い出にかわってしまった。

最近よく思うのは、過去は変えられるのだということ。

子育てをしていた当時は、忙しさなどから不平不満もあったが、そんなことを忘れるくらい楽しくて幸せなことばかりの思い出に変わっている。

また人生最大の試練だと思った母の死も悲しかったことは思い出せるが、それ以上に生きていた頃の母との懐かしい思い出の方が鮮明に蘇ってきて、幸せな子ども時代を過ごさせてもらったなと感謝しかない。

ほかにも数えきれないくらい嫌だなと思ったことも、泣きたくなったことも、怒ったこともあったけど、それらがみんな不思議とよい思い出に変わっている。

これは高齢者の方が、苦労話を嬉々として話してくれることと同じかもしれない。

苦労したことは思い出に残りやすく、年齢とともによい思い出に変わる人が多いのだろう。

生きることは素晴らしい、な〜んて照れるような言葉が出てしまうほど、やはり人の一生とは、唯一無二の素晴らしい経験なのだと思う。

誰の人生であっても、その人にとっては、かけがえのない人生。

平凡な自分が送る平凡な日々であっても、いつか還る時には今のことを思い出してよい人生だったなと思うのだろう。

それを考えると、これからが楽しみで仕方がない。

 


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