ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

たい肥を作る

2016-05-30 15:52:58 | 日記
先日、庭のつるバラの剪定をした。

もうずいぶんと新しい葉が出ているが、その中でも葉をつけていない枝は切り落としていった。

ところで昨年、このつるバラの枝の一部が手前に勢いよく伸びてきて、とても困ったことがあった。

枝には鋭い刺があり、うっかりすると怪我をするのだが、伸びてきたつるバラの枝は物干し台まで来てしまった。

物干し台をすこし移動したり、枝を向こう側へ誘引してみたのだが、あまり効果はなく、枝は元気良くどんどん伸びて、そしてたくさんの美しい花を咲かせた。

「洗濯物を干す時に危ないし邪魔だから、この枝を切れば?」

昨年、つるバラの前で伸びた枝を見ながら夫が言ったのだが、「こんなにたくさん花を咲かせているのに可哀相だから切れないよ」と私が言ったのだった。

それで昨年は、つるバラが伸びてきている部分の物干し竿に洗濯物を干すことができなかった。

ところで、そんなことがあった昨年のことなどすっかり忘れていたのだが、先日つるバラを見ていたら、昨年伸びて来て困った枝が、今年はまったく葉をつけていないことに気づいた。

近くづいてよ~く見てみると、枝は茶色くなり、全く新しい芽が出ていない。
どうやら枯れてしまったみたいだった。

枯れたのならば仕方がない・・・のこぎりを持ってきて物干し台まで伸びた枝を切り落としたのだが、枝がなくなると、物干し台はとても洗濯物が干しやすくなった。

それにしても古い枝が枯れるのならわかるが、昨年伸びた新しい枝が枯れるなんてどうしたのだろう?

他の枝はみんな元気なのに・・・

もしかして、夫との会話をつるバラは聞いていたのだろうか?

「この枝、邪魔だし危ないから切れば?」

そう言う夫の言葉を聞いていたつるバラは、邪魔になる枝を自ら枯らしたのだろうか?

植物は人の言葉を聞いているというのを何かの本で読んだことがあるので、もしかしたらそうなのかもしれない。

そうだとしたら、なんと健気なつるバラだろう(涙)

というわけで、バラを剪定をした後はたっぷりと肥料を入れてあげた。

そうそう、肥料と言えば、今年は久しぶりに段ボール箱で作るたい肥作りに挑戦してみようと思っている。



これは札幌市がごみの削減を目的に段ボール箱で作るたい肥作りを数年前から推奨していて、講習会などを各地で開いている。

北海道は冬期間は凍結してしまうため外でのコンポストが使えない。

そこで室内でも使うことができるコンポストということで、段ボール箱のコンポストが広まりつつある。

さて、段ボールを使ったコンポストですが、段ボール箱は水漏れしないように段ボールと牛乳パックで底を補強し、その中へ土壌改良材の「ピートくん」を入れ、水少々をいれてから、生ごみをどんどん投入していく。

すると、ゴミが自然に溶けて、とても良いたい肥になる。

私は以前も作ったことがあるが、ごみの量が減って、さらに黒々とした良いたい肥ができて一石二鳥だった。

唯一、コバエが発生するトラブルがあったが、その時は油や甘いものを入れると温度が上がって虫の卵が死滅する。

今日は5月30日で「ごみゼロの日」だそうだ。

5(ご)月3(み)0(ゼロ)日という語呂合わせ・・・

日本ではまだ食べられる物を捨てている「食品ロス」は年間600万トンを超すのだそうだ。

世界では飢えに苦しむ人がたくさんいるというのに、なんともったいないことをしているのだろうか。

そんな人々がたくさんいることを思い、食べられる分だけを買い、それを食べきることを心がけようと思う。

コンポストに入れるものは、もしかしてそんなに多くはないかもしれない・・・









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花の季節

2016-05-24 17:16:15 | 日記
東北地方の大学院に通う長男パインが就活のために帰省している。

帰省する前日は東京で企業説明会に出て、それが終わってから道内企業の面接と説明会に出るために最終便の飛行機で帰って来た。

ほとんどの企業の採用試験は6月からだそうだが、早い企業ではもう内定が出されていたり最終面接に入っているのだとか。

パインは・・・と言えばまだ内定を頂くまで至っておらず、南へ北へと就活に走り回っている。

さてパインの就活が珍しく無かった昨日、暑いほどの良いお天気になったので、夫と長女チェリーが休暇を取り、遊びに出掛けることにした。

向かった先は「滝野すずらん丘陵公園」

道内唯一の国営公園で、その広さは395.7 ヘクタールなのだとか・・・と言っても数字だけではよく分かりませんが、徒歩で園内を回るには一日かかりそうなほど広く、豊かな自然をそのままの状態で残している場所、草木を植栽して美しく整備された場所、子どもが身体を使って思い切り遊べる場所、オートキャンプ場や釣り堀などが揃っていて一日いても楽しめる公園です。

ここは子どもたちが小さかった頃にはよく遊びに来ていたが、最近は来ることも無くなっていたので、本当に久しぶり。

さすがに子供たちはもう遊具で遊ぶ年齢ではないので、今回はパインの要望で自転車を借りて園内をサイクリングすることにした。

ところで園内には自然のままの滝がいくつかある。

まず向かったのは「アシリベツの滝」日本の滝100選にも選ばれています。



途中で大きな木の幹に絡みつくように生えた植物に小さな花を見つけた。



なんという名の植物なのだろうか。

他にも自然の中には美しい野の花や葉がいっぱいで、私は自転車を降りてゆっくり見ていたかったのだが、
なんせ他の家族の移動が速い。。。

「ちょ、ちょっと~、自転車のロードレースじゃないんだから、もう少しゆっくり走っても(いいんじゃない?)・・・」

最後まで私の話を聞く間もなく、夫を先頭にパイン、チェリーと続く3人のチャリンコ集団は風のごとく疾走して、あっという間に見えなくなる。

平日ということで人気はまばらにしかいなかったため、自転車のスピードを出しても危険はなかったが、これが休日ともなれば子ども連れの家族で賑わうので、けっしてスピードは出さず歩行者に注意して安全運転を心掛けなければいけません・・・

とかなんとか言いつつも、ほとほと自分の体力の無さを実感してしまった。

園内はアップダウンが多く、私は上り坂では自転車を押して歩かなければならないほどヘトヘトになったが、ほかの家族三人は自転車に乗ったまま登って行く。

まだ若いパインとチェリーは分かるとしても、日ごろ私より運動不足のはずの夫も上り坂を自転車のままスイスイ登って行くのには驚いた。

「まだまだ体力あるぞ~」と夫は鼻高々。

それを聞いて、私は「スクワットがんばろっと」と心の中で誓う。

さて次の滝に向かうために、途中で自転車を置いて山道を歩いた。

道の横には滝からの清流が水しぶきをあげて流れている。

周囲に茂る木々の香りの中、流れる川の水音と鳥たちの鳴き声、そして虫の羽音が聴こえるだけで、ほかには何の音もしない。

美しい自然の中にいると、自然に感謝の言葉が心の中に浮かんできた。

感謝の言葉を心の中で思いながら歩いていると、長男パインが突然「まるで夢の中にいるようだ」と言った。

「昨日、東京の真ん中で大きなビルに囲まれた場所にいたのに、今こうして大きな木に囲まれた自然の中にいるなんて夢のようだ。
たった数時間前にはたくさんの人がいて、虫も飛んでいないビル群の中にいたはずなのに、今こんなに違った環境に身を置いていることがなんだかとても不思議だ」

パインはそう言いながら山道を歩いて行った。

(飛行機だとあっという間ですもんね)


さて、最後に向かったのは滝野すずらん公園内の有料エリアです。



今はチューリップが見ごろを迎えている。

季節ごとに花が変わり、花のない雪の季節には、ここはスキー場になる。

ふたたび雪の季節がやって来るまでの北国の短い夏は今まさに百花繚乱、花の季節を迎えている。









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こだわり

2016-05-18 17:50:21 | 介護
「お母さん、チョット、チョット」

お姑さんの部屋の前を通りかかった時、ドアを開けて顔を出したお姑さんがそう言って手招きした。

部屋の中に入ってみると、テーブルの上にはたくさんの仏具とお線香が燃えた後の灰があった。

「お母さんに教えておこうと思って。仏具を磨く時は、こうして灰を使って磨くのよ」

そう言いながらお姑さんは古布に灰をつけて、灰で指先を白くしながら金属の仏具を磨いて見せてくれた。

「私が死んだらもう教えられないから、今のうちにお母さん(私のこと)に教えておこうと思って。こうやって磨いて頂だいね」

「はいはい。分かりました。灰で磨くんですね」と答えると、お姑さんは「お願いね」と言ってにっこり笑う。

この会話、前もしたような・・・というか灰で仏具を磨くということをお姑さんが教えてくれたのは、もう数えきれない。

お姑さんは香炉の灰が増えてきた時に仏壇にある仏具を磨いているのだが、ほとんどその度ごとに私か孫の誰かを呼んで先と同じ会話をする。

認知症で少し前のことを忘れてしまうことが多いのだが、同じことを繰り返すのは、それがお姑さんにとってこだわっている部分だったり気になっていたりすることなのだ。

だから信心深いお姑さんにとって仏具を磨くことは、非常に大切なことなのだと思う。

それにしても灰で手を白くしながら仏具を磨かなくても、今は良い金属クリーナーが売っているのだが、お姑さんは頑として灰で磨くことにこだわっている。

子どもの頃からお寺のお手伝いをして育ったお姑さんだが、仏具を灰で磨くのはその時に習ったのだそうだ。

そして90に手が届きそうな年になっても、それを守り続けている。

たしかに細かい粒子の灰は金属に傷をつけることなく磨けるのだろうと思うのだが、私はできれば市販のクリーナーを使いたい。

新聞紙を広げ、いちいち灰をつけて磨くのは後始末が大変そうだから・・・なんてことはお姑さんには決して言えないので、いつも「はい、分かりましたよ」と返事をしている。

ところでお姑さんの部屋から戻ると、私もそろそろMy香炉の掃除をしなければいけなかったことを思い出した。

毎日お線香を焚いていると中に燃え残りが溜まってくるので、定期的に灰の中に残った小さなお線香の燃えかすを取り除いている。

実は私はこの作業がとても好きなのだ。

割り箸を使い、灰の中から小さなお線香の残りをつまみ出していく。

割り箸で一つずつつまみ出さなくても、網目になっていて一度に沢山の燃えかすを取ることのできる道具があるのは知っているのだが、私はあくまでも割り箸を使うことにこだわっている。

箸で灰の中を探ると、こつんと箸先に当たる感触がする。

「あった、あった」

灰をかき分けながら割り箸で小さなお線香をつまみ出す。

「もう無いかな」と最後に香炉の中をお箸でぐるっとかき混ぜる。

そして、無いと思っていたのに隠れていた最後の一本を見つけた時の嬉しさ。

やはり箸に勝るものはない・・・

まぁ暇だからこのようなことをやっているのですが、ひとり静かにじっくりとお線香の残りを取り出している時間がこの上なく好きなのです。

その時に何を考えているのかと言うと、数を数えているので何も考えていないです。

「ひと~つ、ふた~つ・・・」と頭の中で取り出したお線香の数を数えている。

だから「便利なものがあるよ」と誰かが教えてくれたとしても、今のところ私は割り箸を使うことにこだわっている。

あっ、これって灰を使うことにこだわっているお姑さんと同じかもしれない。

長く一緒に住んでいるとお姑さんとも似てくるのかな~








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身体が欲しがるものを食べる

2016-05-16 15:37:30 | 日記
乳酸菌作りから始まって味噌や塩麹、醤油麹、そして黒ニンニクと作ってきたのだが、最近よく作っているのが「酢たまねぎ」です。
(冷蔵庫から出したてなので容器の周りに霜がついてますが・・・)



たまねぎには血圧を下げる効果があるとか血管が若返るとかで、作っていらっしゃる方も多いのではないかと思うが、これが作り置きしておくととても便利。料理にちょこちょこと加えている。

酢たまねぎをよく使うのはサラダを作る時だが、ほかにもワカメなどの海藻類と和えて酢の物にしたり、今日は揚げたワカサギを酢たまねぎに漬けてマリネを作った。

調べるとレシピがたくさん出てくるので、ここで記載することはしませんが、基本的な調味料は酢、塩、砂糖かハチミツで、私はこれ以外に昆布茶と醤油も入れている。

作り方は簡単でスライスしたたまねぎを水にさらさず調味料に漬け込むだけ。

いつも大きなたまねぎ2個を使ってたっぷりめに作っておくのですが、一週間くらいで使い切ってしまいます。

ところで、実はもう一つ最近こっている食材がありまして、それがこちらです↓



そう、生姜です。

生姜は漢方薬として使われるほど様々な薬効があるそうで、血行をよくして身体を温め新陳代謝を高めるほか、抗酸化作用により老化を防ぐ作用もあるのだとか。

たしかに生姜を食べた後は身体の中からじわ~っと温かくなってくるのがわかる。

というわけで、なかなか沢山は食べられない生姜だが、できれば毎日少しずつでも取り入れたいと、作ってみたのが「生姜ジャム」と「生姜酒」



生姜ジャムは写真を撮るのを忘れてしまいましたが、細かく刻んだ生姜にハチミツを加えて煮詰めたもので、パンに塗っても紅茶に入れても美味しかった。

そして上の写真の生姜酒ですが、焼酎に氷砂糖と一緒に生姜のスライスを漬けこんでみました。

こちらは飲めるようになるまで3か月から半年かかるので、まだ試飲はしていませんが、なんでもお湯で割るとたまご酒の様に風邪のひきはじめに効果があるのだそうだ。

若い頃は子どもたちが幼かったせいもあり、また自分も食べたかったので、お菓子作りにハマってよく作っていたのだが、思えば最近はすっかりお菓子を作らなくなった。

長女チェリーしかいないので作ってもなかなか無くならないというのが、お菓子を作らなくなった一番の理由なのだが、それ以上に身体に良いものを食べたいという欲求が年齢とともにますます強くなってきたせいだと思う。

また身体が欲するものを食べようとすると、自然にこのようなものになっていく。

さてと・・・
今日の晩御飯はワカサギのマリネができているので、あとは簡単にひじきと大豆の煮ものでも作りましょうか。







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続・父を病院へ連れて行く

2016-05-13 17:22:48 | 介護
昨日の記事で身体の不自由な父を車に乗せることに苦労して、今度は介護タクシーを使ってみようと書いたばかりなのだが、今日さっそく介護タクシーを使うことになってしまった。

昨日の夕方、このブログを書き終えてすぐに、父の住む高齢者住宅の看護師さんから再び電話をもらった。

大便の詰まりが改善されれば排尿しますという話だったのだが、まだ尿が出ないと言う。

看護師さんが処置をして下さり、すっかりお腹の中が綺麗になったはずなのに、水分もたっぷり飲んでいるはずなのに、一向に排尿がなく、再びカテーテルを使って尿を出しているとのことだった。

看護師さんは「明日の朝、まだ排尿がなければ、もう一度泌尿器科に連れて行ってください」とおっしゃった。

そして今朝、やはり排尿がないとのことで再び病院へ連れて行くために、父の元へ行った。

「今日はぜったいに介護タクシーを使おう」と決めていたのだが、高齢者住宅の職員さんが私が父を車に乗せるのに苦労していたことを知って、介護タクシーを予約してくれていた。

結論から書くと、介護タクシーを使って大正解だった。

介護タクシーは父を車椅子のまま車に乗せてくれて、私は助手席に座ったまま何もすることなく病院まで連れて行ってくれた。

そして料金も思っていたほど高額ではなく、これなら最初から介護タクシーにすればよかったと思うほどだった。

ただし、ほかの地域はどうなのか知らないが、介護タクシーは個人でやっているため車数が少なく、呼べばすぐに来てくれるとは限らないので事前に予約をした方が良いそうだ。

ということで、先日の苦労はなんだったのかと思うほど、楽に病院へ連れて行ってもらったのだが、肝心の父の病状は少しショックなものだった。

「今後、自力で排尿することはできないかもしれない」と医師からは言われた。

排尿ができないことによって一時的に膀胱が大きく広がり、高齢者の場合、広がった膀胱内部の筋が切れて元に戻らなくなってしまうことがあるそうだ。

父の膀胱もその可能性があるということ、つまり排尿する機能が失われてしまった可能性があるということだった。

そうなると残された道は、看護師さんに定期的に尿を取ってもらうか、排尿バルーンカテーテルというものを四六時中つけているかの選択になるそうだ。

しかしバルーンカテーテルは感染することも多いため、できれば定期的に尿を取ってもらう方が良いそうで、父の高齢者住宅の看護師さんが「一日に二回なら取れます」とおっしゃってくれたので、しばらくは看護師さんにお願いすることになった。

それにしても、父の身体はすべての機能が衰えてきているのだと思う。

この1~2年で認知症も身体の機能も急激に悪くなった。

最近では声を出すこともなくなり、目もうつろになって、元気だった頃の父の面影は薄れてしまっていた。

ところが、今日は介護タクシーに乗った父の様子に変化があった。

介護タクシーが快適だったせいなのか、父はめずらしく外の景色を眺めていた。

そして、なんと珍しく父がしゃべった。

「この辺りはよく来たなぁ。ホームセンターもあるはずだが。思い出せないなぁ」

父の話す言葉、久しぶりに長い言葉を聞いてびっくりした。

道沿いの家々の庭に咲く花や遅咲きの桜を見て、昔来たことのある場所と記憶が重なったのだろう。

自力での排尿ができないと聞いて、すこし暗い気持ちになっていたのだが、父の声を聴いて明るい気持ちになれた。

今度は介護タクシーに乗って、住み慣れた実家に父を連れて行ってあげようかなと思っている。







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父、病院へ連れて行く

2016-05-12 15:51:27 | 介護
朝食の片づけを終えて、さて掃除に取り掛かろうかと思っていたら電話が鳴った。

電話に出ると、父がお世話になっている高齢者住宅の看護師さんからだった。

「朝早くすみません。お父さんのことなんですが・・・」

このフレーズから始まる看護師さんの電話にはいつも緊張が走る。

看護師さんのお話の続きを待ちながら「父に何かあった?今度はどうした?」そんな思いが頭に浮かぶ。

「お父さんのおしっこが出なくなってしまったんです。腹部が腫れて本人も痛がっているため、カテーテルを使って尿を取ったのですが一度に1400CCも取れました。その後も出ていないので、また溜まっていると思います。
先生(父の主治医)に診てもらい血液検査もしたところ一部に異常もあったので、ご家族に来ていただいて、すぐに泌尿器科を受診してほしいのですが」と看護師さんがおっしゃった。

父の高齢者住宅には内科の先生が定期的に往診してくれるのだが、病院に行かなければいけなくなった時は家族が連れて行かなければならない。

内科であれば高齢者住宅の隣にあるので、自力で動くことができない父を車椅子に乗せたまま連れていけるのだが、今回連れて行くのは泌尿器科。

泌尿器科はすこし遠いので車を使わなければならない。

身体が不自由で、また身体が大きい父をはたして車椅子から車に乗り移らせることができるだろうか・・・
一瞬不安になったが、そうは言っても一刻も早く病院に連れて行かなければいけない。

急いで車を走らせ高齢者住宅に父を迎えに行くと、父は元気なく車いすに座っていた。

「お父さん、やっぱりおしっこがまったく出ないんです」と看護師さんが教えてくれた。

父は二年ほど前に前立腺肥大で手術を受けている。

その時もおしっこの出が悪くなったので、もしかしたらまた前立腺が悪いのかもしれない。

さっそく父に上着を着せ、車椅子のまま駐車場に止めている車まで連れて行った。

さて、車に乗り移らせることはできるのだろうか。

まず父に大声で車に乗って病院へ行くことを知らせた。

「お父さん、病院へ行くよ。だから車に乗ってねー!頑張って自分で足をあげて乗ってねー!」

父に少しでも協力してもらわなければ、身体の大きな父をひとりで抱えて車に乗せることなどできない。

「まず一人で立ってみて」「そうそう、ここにつかまって」「お尻を車に向けて」

父も自分で身体を動かそうと必死に努力しているのが伝わってくるのだが、すべての機能が落ちているため、立つこともつかまることも、座ることも、ほんの少し足を上げることも介助が必要で、少しでも介助の手をゆるめると倒れてしまいそうだった。

外はあいにくの雨。

徐々に雨足が強くなってきたのだが、傘をさしたくても両手がふさがっていてさせない。

濡れないように父に帽子をかぶせるのが精いっぱいで、もう雨を気にしている余裕はなかったが、父の身体を支えながら、なんとか父を車に乗せることができた。

やっと父を車に乗せると急いで泌尿器科のある病院へ向かった。

カーナビを使ったので、初めてでも難なく病院へ着くことができた。

ところが車を止めて、はたと気づいた。
今度は父を車から降ろして車椅子に乗せるという、先ほどの逆バージョンをしなければいけないのだったわ。

そこは駐車場が狭く、しかも混んでいたため、一台だけ空いていた駐車スペースに入ろうと思ったのだが、入ってしまうと父を車から降ろすことができなくなる。

他に父を降ろせる場所はないかと周囲を見渡したが、交通量の多い道路沿いなので難しい。

そこで仕方なく駐車場が空くまで、しばらく待つことにした。

車の後部座席でぐったりとして目をつぶっている父の様子が気になった。
これだけでも父の負担は大きいのだろう。

それからまもなく何台かの車が駐車場を出て行ったので、また悪戦苦闘しながら父を車椅子に移し、やっと病院へ入った。

・・・のだが、病院は非常に混み合っていて受付から一時間以上を待ち、やっとCTを撮ってもらうことになった。

CTを撮ってからさらに待たされ、やっと診察室に入ったら、お医者さんが難しい顔をして何枚も並んでいる父のCTの写真を眺めていた。

そして私たちが椅子に座ると、静かに語り始めた。

「これはですねぇ、便ですね。ここ、見てください。ここに大便が詰まっているんですよ」

父のCT写真には腸に詰まっていると思われる黒い塊が写っていた。

「溜まった大便が膀胱を圧迫して尿が出なくなっているんです。前立腺に問題はありませんから、便を取り除けば尿が出ます」とのことだった。

「もしかして、また入院するのかも」と思っていたので、便が詰まって尿が出にくくなっているだけと聞いてホッとした。

便を取るのはいつも診て頂いている看護師さんがやって下さることになったので、薬が出ることもなくそのまま高齢者住宅へ戻ることができた。

父を車に乗せたり降ろしたり、また長い待ち時間などでずいぶんと時間がかかり、私も疲れたが父も疲れたと思う。

そこで、今度は「福祉タクシー」というものを利用してみよう。

なんでも車いすのまま車に乗ることができるのだとか。

車の移動が楽にできたら、病院へ連れて行くのも苦労はない。

ホントにいろいろと勉強になります。。。






 

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泣くこと

2016-05-06 17:08:29 | 介護
月に一度程度だが、メールでお互いの安否確認?をしている友だちがいる。

中学1年の時からの付き合いだから、かれこれ40年以上の付き合いになるだろうか。

高校から離ればなれになったが、それでも細々と付き合いは続いて今日まで来た。

彼女は20代前半で結婚して本州に行ってしまったのだが、たまに帰省した時には会い、そして電話でも年に何度かは話をしていた。

話題はお互いの子どものことや自分自身の近況などだったが、いつしか年月が経つにつれ親の介護の話題が多くなった。

私も実の父やお姑さんの介護があり、彼女は一人娘だったので、数年前に近くに呼び寄せたご両親の介護をしていた。

友人のご両親はまだお元気で、二人だけで生活をしていると聞いていたのだが、一か月ほど前、友人からのメールでお父さんが亡くなったとの知らせを受けた。

なぜ亡くなったのか、その理由は書いていなかったが、ただ淡々と亡くなったとの知らせが書かれていた。

お悔やみの返事を出し、きっと彼女も忙しいだろうと思い、しばらく連絡は控えていたのだが、数日前に友人から「電話で話せる日時を教えて」とメールがあった。

「今でもいいよ」と返信をしたら、すぐに電話が来た。

思ったより元気な声で、お父さんのこれまでの病状などを教えてくれた。

友人の話によると、ある時から急にお父さんにふらつきが見られるようになったそうだ。

受診した病院で調べてもらっても脳や身体に異常は見つからず、「もう高齢だから仕方がない」と言われたそうだ。

友人のお父さんは90歳を過ぎていて、そのように言われるとそうなのかしらと友人も思っていたそうだが、そのうちに顔面の麻痺や手足のしびれなどが現れ、病状はあっという間に悪くなっていったのだとか。

そして「これはおかしい」と再び検査をしてもらったところ、脳の中にかなり大きくなった腫瘍が見つかったそうだ。

腫瘍は短い期間に大きく育ったらしく、年齢もあって手術はできず、手の施しようがない状態だったという。

お父さんはそれからどんどん衰弱していかれ、ほぼ寝たきりで食事が口から取れなくなったが、意識ははっきりとしていたので「口からごはんが食べたいなぁ」としきりにおっしゃっていたと、友人は涙声で教えてくれた。

実は友人のお父さんと同じように高齢者で「腫瘍が急に大きくなった」という話は、友人の話を聞く数日前に久しぶりに訪ねて来た親戚からも同じような話を偶然にも聞いていた。

親戚の女性は80代だが、足の付け根にできた出来物が短期間に急に大きくなり、慌てて病院に行ったところ悪性の腫瘍であったそうだ。

幸い親戚は手術で取り除くことができたが、歩くのもやっとといった状態でつらそうだった。

「なぜもっと早く病院に行かなかったの?」と聞いたところ、本当に短い時間で急に大きくなってしまったそうだ。

高齢になると腫瘍などの進行は遅くなると思っていたが、実はそうでもなかったということを知った。

さて友人との電話だが、残り少ない命になったお父さんの介護を精一杯しようと毎日病院へ通って一生懸命にお世話をしたそうだが、やはり亡くなってみると、どんなに介護をしたつもりでも後悔の気持ちばかりが出てくると言っていた。

「もっとこうしたほうが良かったのではないか?ほかにやってあげられることがあったのではないだろうか?」

そんなことばかり考えると言って友人は泣いた。

電話口でしゃくりあげながら泣く友人に、そばに居たら背中を撫ぜてあげたかったが、電話ではそれもできないので、ただひたすら友人の想いを受け止める気持ちで友人の声に耳を澄ませていた。

いくら長生きだったと言われても、親の死はいくつになっても悲しいものだ。

ましてや友人は、子どもの頃からお父さんが大好きだったのだそうだ。

ひとしきり泣いたあと、友人の声は心なしか元気になっていた。

「これからしなければいけないことが山のようにあるから頑張るわ!」と言って、最後は明るく電話を切った。

「泣く」と言うことはけっして悪いことではない。

実は泣くというのは笑うことと同じ効果があるのだとか。

泣くことで副交感神経が優位になり、血管が拡張して血圧が下がる。

泣くとホッとして心が和らぎ、爽快感が得られると言う。

だからいっぱい泣いて、友人もすこし元気になったのでしょう。

たまには子どものように思いっきり泣いてみるのもいいのかもしれないと思う。









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身体の中心を通るものは

2016-05-02 13:58:29 | 日記
ゴールデンウイークは特に遠くへ出かけるということはせず、近場をドライブしたり温泉に行ったり、また父の所へ行ったりして過ごしている。

しかし家族が休みだとやはり一人の時と同じとはいかず、なにかと普段通りのことができない。

そのひとつがずっと続けている天と地への感謝。

もちろん神棚のお祀りと先祖供養はよほどのことがない限り行っているが、天地への感謝は一人静かな場所でなければやりにくくて仕方がないため、家族のいる休日はなかなかすることができなかった。

しかし、今日は連休の中にできた平日。
さっそく家族が出かけた後に天地への感謝をした。

天地への感謝というのはいつから始めたのだっただろうか。
いつもする大自然への感謝のあとに行っている。

まず自分の胸に感謝を貯めて、それを光の玉にするようなイメージで、地へ(地球へ)向かってその球を送る。

続いて、同じく感謝の光の玉を自分の頭上から天へ(太陽へ)向かって飛ばす。

何度かその動作を繰り返すのだが、そのうちに天と地から自分が送った以上に光が返ってくる。

これはたとえ曇りや雨の日であっても、瞼の裏にあたたかな光を感じることができる。

しばらくそのままで、まるで春の陽だまりにいるような光を身体全体に感じていると、とても穏やかな気持ちになることができる。

ところでこの天地への感謝はずっと前からやっていたのだが、昨年秋くらいから、それまで見えなかったものが見え始めた。

それは自分の身体の中心を貫く、まるでパイプのようなもの。

直径3センチほどのパイプ(のようなもの)が、私の身体の中心を貫いているのがはっきりと分かった。

これは何かの本で読んだことがある。もしかして、これが気が通る道なのだろうか。

とにかくそれまで漠然とやっていた感謝を送ることが、今度ははっきりとそのパイプの中を通して、天と地に送れるようになった。

地へはできるだけ深くパイプを伸ばし、地球の内部深くまで感謝を送る。

天へはできるだけ高く、大気圏を越え宇宙まで伸ばしたパイプから感謝を送る。

さらに天と地から返ってくる光もパイプを通って身体の中に入って来た。

上と下から入ってきた光は、胸のところで出会い、まるで花びらが開くように身体全体に広がっていく。

深い呼吸をして光を胸に取り入れ、そして天地へ光を流し続ける。

深い呼吸、つまり腹式呼吸はとてもリラックスできる呼吸法なのですね。

一日に一回でも腹式呼吸をする時間を持つと、ストレスの緩和に役立つような気がする。

そして、こうして天地への感謝をしていると、やはり地球も太陽も生きていて意識を持っているのではないだろうかという想いが強くなる。

特に地球にはそう感じる。

これまで地球は大きな爆弾を落とされたり、緑をむしり取られたり、毒を撒き散らされたりして、さんざんな目に遭ってきましたね。

本当にごめんなさいね。

一人の力はほんの小さなものだけど、ほんの少しでもいいから地球を癒してあげたいと思う。

これがもっともっと多くの人がそう思って癒しを届けたら、再び美しく元気な地球に戻るだろう。

絶対にそうなるはずだと思う。







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