ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

生きる目標

2016-01-27 15:38:33 | 日記
毎週、父の顔を見に行ってる。

父は体調の良いときもあれば悪いときもあり、良い日は生き生きと饒舌にしゃべるのだが、悪い日は深いため息をつき、うなだれて今にも死んでしまいそうなくらいに見える。

そして最近の父は、調子がいまいちと言う日のほうが多く、先日訪ねた時も精気のない顔で座っていた。

「具合はどう?」と聞くと小さな声で「よくないな・・・」という返事が返ってきた。

父の元気がなくて、なかなか話も弾まなかったのだが、ある話題をきっかけに父は元気を取り戻した。

それは「お父さん、今度久しぶりに家に帰ってみようか」と言う妹の言葉だった。

歩けなくなってから、もうずいぶん父は家に帰っていない。

実家は階段があって、歩けない父を連れて帰るには難しいからだった。

「じゃあ、頑張ってもう少し歩く練習をしようね!」と言うと、明るい顔になった父は急に元気にしゃべり始め、その後もずっと生き生きとしていた。

「生きる目標」と言ったら大げさかもしれないが、生きる目標を持つことによって人は信じられないような奇跡を起こすことさえあるのかもしれないと思う。

ある本で東日本大震災での出来事を読んだ。

福島県のある小学校の話です。

あの日、2011年3月11日の三日前にも大きな地震があったそうだ。

いつも訓練をしていたように、6年生が1年生全員の手を引いて、学校の裏山に避難した。

裏山は二つあったのだが、片方は昔、津波に襲われたという言い伝えがあり、もう片方は安全な山と言われていたそうだ。

その日は、もちろん安全な山に避難して、何事もなく終わったそうだ。

そして、それから三日後。今までに経験したことがない揺れだった。

すぐに6年生は1年生の手を引き、避難を始めることになった。

先生は、6年生に「一人も欠けることなく、全員が助かること。全員が生き延びること。それが大事な目標です。先に行きなさい。先生はすべてを見回ってから追いつきます」と言って大急ぎで子どもたちを送り出した。

先生は残っている生徒がいないか校内を確認したあと、急ぎ飛び出し追いつこうと、子供たちが向かっているはずの山を見上げたところ、なんと子どもたちは、行ってはいけないほうの山に向かっていた。

「そっちじゃない!戻って、戻って」と叫んだが、必死に逃げている子どもたちにその声は届かず、先生はどちらへ行くべきか一瞬迷ったが、自分ひとり助かっても仕方ないと、子供たちのあとを必死で追いかけたそうだ。

「早く、上まで登って!」

そう言いながら後ろを振り返った瞬間、津波はもう足元まで来ていたそうだ。

(津波というのは音もなくやってくるそうだ)

そして、ようやく山の頂上に辿り着き、もう一方の山を見ると、なんと安全なはずだった山が津波に飲まれていたそうだ。

何が子供たちにこちらの山を選ばせたのか?

「全員が助かること」という生きる目標が、子供たちの潜在意識に働きかけ、火事場の馬鹿力的判断力を生んだのかもしれないと、本では結ばれている。

今、病気であっても、健康であっても、生きる目標を持つことによって、もしかしたら無意識から働きかける判断力や回復力が現れることがあるのかもしれない。

また、災害の場合にも備えて、できるだけ良い選択をするには、今どうすればよいのか、何をすればよいのかと日ごろから考えておくことも大切かもしれない。












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誕生日

2016-01-25 16:52:14 | 日記
「おめでとう」

朝一番に次女ピーチからメールがきた。

「よく気が付くわね~」と驚き思いながらも、そのメールが嬉しかった。

そう・・・今日は私の55回目の誕生日なのです。

私は早生まれなので、同級生たちのほとんどがすでに昨年のうちに55歳になっているのだが、54歳と55歳のたった1歳の違いが、今回はいつも以上に大きく感じる。

なんだかとても年を取ったような・・・

たぶん、これは四捨五入で切り上げか切り捨てかの違いかもしれない。

54歳は切り捨てできるが、55歳だと切り上げで60歳・・・な~んてね。(別に意味はないのですが)

誕生日と言っても、ときどき自分でも忘れているくらいなので、今までは特に感慨もなく過ごしていたのだが、今回はやや思うところがあった。

それはピーチからの「おめでとう」メールを見てだった。

お誕生日になぜ「おめでとう」と言うのだろうかと思ったとき、「よくここまで生きてきましたね」との意味を込めて「おめでとう」と言うのだろう。

たしかに55年間もの長きにわたり、事故にも遭わず大きな病気をすることもなく、よくここまで生きてこられたと我ながらに思う。

毎年ガンで30万人以上の方が亡くなり、何千人という方が交通事故で亡くなっていることを考えると、今ここに生きていられることは、本当に奇跡に近いのではないかと思う。

自分自身の身体の細胞のひとつひとつに感謝、そして何かはわかりませんが、守って下さっている存在のすべてに感謝したい気持ちになってくる。

人は輪廻転生を繰り返している・・・ということを前提に話すと、今世はいまのところ、とても満足のいく人生を送っていると思っている。

これは経済的に、家庭的に恵まれているから、ということではけっしてなくて、自分自身が納得する生き方ができるようになったことがそう思えるのだと思う。

自分自身の良心を納得させるように生きていると、人生に付随するもの・・・たとえば金銭面などの豊かさも自然についてくるのだと思う。

ただ豊かさと言っても人それぞれに感じ方は違っており、小さくても屋根のある家で温かい布団で寝られて、普通のごはんを食べられることが何よりも豊かだと思える人もいれば、大邸宅で豪華な暮らしをすることが豊かと思う人もいるかもしれない。

だが、これらはけっして自分が生まれてくるにあたっての大きな目的ではなく、まさに付録であり、本当はもっと違う目的があったはずだったことを、今になってやっとわかったような気がしている。

生まれてくる目的とは、自分自身が納得する生き方ができたかどうか。

つまりは自分の良心に沿う生き方ができたかどうかなのだと思う。

だから今世で経済的にも家庭的にも恵まれなくても、良心に沿った、自分が納得できる生き方ができたら、それは大成功なのだ。

ここからは信じて頂けないことを承知で書くが、私は48歳頃に自分の前世を見ることが多かった。

その時期は日中起きていても、ある映像がまるでテレビを観ているかのように眉間に映ることが起こり、一体これは何なのかと思っていると、日をあけて「あぁそうだった」と自分が前に生きた人生の断片を思い出した。

思い出すきっかけとなったのは、山道を歩きながら見た木漏れ日のさす森林だったり、草を踏む自分の足元だった。

そのようなことでいくつかの人生を経験してきたことがわかったが、共通するのは家族を持たずに一人で生きたことが多かったことを思い出した。

今の人生のひとつ前の人生では、家族がほしいと強く望んでいた。

だから、今世は三人姉弟に生まれ祖父母も一緒で、父母が自宅の部屋を貸していていたため他人の家族も一緒の大世帯くらしだった。

そして結婚してからも三人の子を持ち、義父母と一緒でにぎやかだった。

時には「あ~ひとりで暮らしたい」などと思ったこともあったが、私の心の奥底では、これこそが望んでいたことだった。

家族がいると煩わしさもあるし、何かと問題も起こるが、もしも途中で「大家族はもうやだ!」と言って逃げだしたとしたら、やっぱり私は後悔する。

そして、また再びここへ戻ってくるだろう。同じような大家族を持つことに挑戦するために・・・

もう絶対に失敗はしたくない。

しかし無理をしているわけではなく、とても幸せを感じている。

迷ったら、自分の良心に立ち返るようにする。

最初は自我が強くてうまくいかなかったが、すこしずつ慣れてくる。

さて・・・とりあえず、あとどれくらい生きるのかわからないが、こうして55回目の誕生日を迎えられたことに今日は深く感謝したい。












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誰かのために

2016-01-20 17:27:52 | 日記
アメリカで高齢者と大学生に「人助けが好きか」というアンケートをしたところ、「人助けが好き」と答えた高齢者は60%以上で、大学生は44%にとどまったそうだ。

若者の大半は「他人のことは他人のこと、大事なのは自分」と答えたそうだ。

これはアメリカでの結果なので、日本だとまた違った結果が出るのかもしれないが、このアンケートの結果から「人助けは、老人にとって良いストレス解消になる」という解説がされたそうだ。

しかし社会の第一線から退いた(専業主婦であっても)高齢者は、誰かの役に立つことを本当は強く望んでいる方が多いのではないかと思う。

ちなみにうちのお姑さんは、まだ自分で料理をするのだが、年々作れる料理が減ってきており、しかも味覚が変わってきて以前に比べると美味しいものが作れなくなってきた。

しかし、作った料理を家族やご近所の方にふるまうことが何よりの喜びになっている。

「おいしかったよ」と言われたら、本当にうれしそうな顔をしている。

ただ、作った料理をご近所に持っていくことは、もしかしたら近所に迷惑をかけているのかもしれないので、事前にご近所の方には「やや認知があるので、口に合わないものならば遠慮なく捨ててください」ということと「義母は自分の料理をもらってもらうことが嬉しいので、けっしてお返しの物を持ってこないでほしい」ということをお話をしている。

ご近所の方もわかって下さり、義母に優しく接して下さるのがありがたい。

義母もきっと誰かの役に立ちたいのだろうなぁと思うのだが、誰かの迷惑になっているとしたらそれは大変なので、ご近所に料理を持っていくという義母を止めなければいけないことがつらいところだ。

ところで人体の働きもまさしく同じなのだと石原医師が書いている。

「口は口のためにあるのではなくて、食物をかんで胃腸に送るためにある。

胃腸は胃腸自身のためにあるのではなくて、食物を消化して栄養素を血液中に送り、全身の細胞を養うためにある。

肺は肺のために呼吸しているのではなく、空気を吸い込み、全身の細胞へ送るためにある。

骨や筋肉や脳も、自分自身のために生きているのではなく、体を守るためにある。

体の臓器や血液中の白血球や赤血球などそのすべてが、自分自身のために生きているのではなく、ほかの臓器を助け、全体の生命を守るために働いている結果、自分たちも生かされている。」

これらの働きをしている臓器や細胞をもつ人間も「自分の為ではなく人のために生きたい」と願うことはごく当たり前のことなのだろう。

むしろそのようにしか生きられないようにできているのではないだろうかと思う。

だからその使命から外れて生きると、様々な問題を生み、しだいに生きることが苦しくなっていくのかもしれない。

ちなみに「人のために何かをする」「感謝の気持ちを持つ」と言った生き方をしていると、副交感神経の働きが良くなり、NK細胞の数と活性が増して、免疫力が上がることがわかっているそうだ。












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冷えは万病のもと

2016-01-18 16:23:58 | 健康
「今日は雪が降ったから大学が休校になった」

そう言って電話をかけてきたのは関東の大学に通う次女ピーチだった。

学校が休みになるくらいならきっと大雪なのだろうと思って「たくさん積もってるの?」と聞くと「ううん、10センチくらいかな」と言う。

「たった10センチで休校になるなんていいね~」と言うと、「うん、それはいいんだけど、もう寒くて寒くて布団からでられない。友だちから雪合戦しようというメールが来たんだけど寒いからって断った」と教えてくれた。

寒い、寒いと言いながら布団の中で丸まっているピーチの姿が目に浮かぶようだった。

たしかにピーチのアパートは換気扇から外が見えるくらいなので、これでは冬は絶対に寒いだろうと思っていたが、やっぱり寒かったか・・・

北海道に住む人は雪には慣れているが、寒さは苦手という人が案外と多いかもしれない。

なぜなら外は厳しい寒さであっても、室内はぽかぽか春のように暖かくしている家庭が多いから。

特に高齢者の家などに行くと、あまりの暑さに半袖シャツになりたいくらいの室温にしているお宅もある。

真冬に暖かい(暑い)部屋で、半袖シャツを着て冷たいビールを飲む・・・一昔前にはそんなことも聞いたが、省エネが進み今ではそんなことを言っていたらヒンシュクを買うだろう。

というより、冬に半袖で冷たいものなんて飲んだら、体が芯から冷えてしまうではないの!

「エアコンの温度を上げて、部屋を暖かくしなさいね。たくさん着込んで、温かいものを食べて体を冷やさないように」とピーチに伝えた。

そういえば夏にはこれと逆のことを電話でピーチに言ってなあ~

「エアコン入れて部屋を涼しくしなさいね、水分をとって、熱中症にならないようにして」とかなんとか・・・

ところで今回、私はしつこいくらいにピーチに「体を冷やすな」と言った。

「冷えは万病の元」とは昔からよく言われることだが、やはりそれは事実らしい。

1950年代には、子供たちの平均体温は37℃近くあり、大人でも36・6~36・8℃くらいはあったそうだ。

しかし、現代は36・8℃などという体温を持つ人は皆無になり、高くても36・2℃~36・3℃でほとんどの人が35℃台だそうだ。

(実は、そういう私も頑張ってもせいぜい35・9℃くらいまでしか上がらない)

50年代はガンで死ぬ人は13万人あまりだったそうだが、以後、現代にいたるまで、医師の数は増え、ガンに関する知識も増えて、治療法も進歩したというのに、ガンによる死亡者数は増えているそうだ。

またガンだけではなく、難病と言われるような自己免疫疾患が昔に比べると蔓延しているという事実があり、それらの多くは日本人の低体温化に原因があるのではないかということを石原結實医師がおっしゃっている。

1960年代に急速に経済発展を遂げて車や家電といった物が生活に浸透し豊かで便利になったのはよかったものの、それに伴って筋肉労働をする機会が極端に少なくなってしまったことが体温の低下を招き、現代人の病の大きな原因になっているのではないかと石見医師は言う。

手の平でおなかを触り、「冷たい」なら、たとえ汗かきで暑がりのように見える人でも「冷え性」なのだそうだ。

お中(体の中心)が冷たいのだから、体全体が冷たいというわけで、体温が1℃低下するだけで
免疫力が30%以上低下し、ありとあらゆる病気(うつ病なども)にかかりやすくなるそうだ。

私もこのことを知る前に寝ていて自分のおなかをふと触った時に、冷たいことがとても気になっていた。

暑くて手足を布団の外に出していても、何故かおなかだけは冷たかった。

実はおなかが冷たいというのは女性に多く、それは女性はおなかにあまり筋肉がついていないからだそうだ。

だからおなかを温めなければいけないわけで、それには腹筋を鍛えることと腹巻が有効だそうだ。

腹筋については、私は今までも毎日やっていたのだが、それに加えて最近、腹巻もするようになった。

これがなかなか良い。

おなかがいつもぽかぽか暖かく、寝るときも腹巻をしたままなのだが、温かいせいかよく眠れるようになったような気がする。
(腹巻をしてもおなかが冷たい場合は腹巻にカイロを入れると良い)

人間の腸には血管や神経がたくさんあり、体の中の免疫力の中心になっているそうだ。

だから腹巻をして運動もしておなかを温めると、腸が温まって血行もよくなり、免疫能力も精神状態も良好に保てるのだそうだ。
(腸にはうつ病に関係するセロトニンが90%も存在しているそうだ)

腹巻というと小さな子供がする姿かバカボンのパパくらいしか思い浮かばなかったのだが、これからはおしゃれな腹巻を探して腹巻ファッションを楽しみたいと思っている。













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想定

2016-01-15 17:20:35 | 日記
昨日は用事があって車で外出していたのだが、お昼過ぎに自宅に着いた途端、夫から電話が来た。

「家の暖房用と給湯ボイラーに異常はなかったか?」と言われ、「はて?なぜ突然そんなことを聞くのだろう?」と思ったら、地震があってかなり大きく揺れたとのことだった。

慌てて自宅に入るとお姑さんがテレビのニュースを見ていて「今すごく揺れたよ」と教えてくれた。

真冬のこの時期はだいたい一日中暖房をつけたままにしているのだが、地震で揺れたりすると一時的に暖房が止まってしまうことがある。

夫が心配するように、もしや止まっているかと見に行ったら、ボイラーは正常に動いていた。

お姑さんも大丈夫だったし、そうだ!Pちゃんは大丈夫だろうか。

オカメインコのP太郎はとても臆病で、小さな地震の揺れでもパニックを起こしてバタバタと暴れるのだ。

狭い鳥かごの中で、時にはケガをしてしまうこともあるので急いでP太郎のところへ駆けつけたら、P太郎はトサカの毛を立てたまま、細~くなって鳥かごの側面に張り付いていた。
(P太郎は恐怖を感じるとトサカを立てて体が細くなる)

P太郎もケガはしていない様子で一安心。

ところで私は夫に聞くまで地震にはまったく気づいていなかった。

思わず「えっ揺れたの!?」と言ったら「なにノー天気なこと言ってるの。すごく揺れたよ」と夫に言われた。

震度4で時間も長かったというのは、ここ最近はなかった大きな揺れだったらしい。

なぜ私が地震に気がつかなかったのかと言うと車の中だったからで、雪が積もってデコボコになった道を運転していた。

地震が起きている時に、私はデコボコ道を上下に大きく揺れながら走っていた為、地震にはまったく気が付かなかった。

それにしても被害が小さく済んで何よりだった。

ところで夫が真っ先に「ボイラー大丈夫か?」と聞いてきたのだが、地震が起きるとうちの家族はそれぞれに自分が大事に思うところに散る。

これは地震と言う非常事態の中で、それぞれが無意識に取る行動なのかもしれないが、うちの家族は見事にいつも同じ行動をしている。

例えば・・・

夫はもちろんボイラーを始めとする火気を消しに走る。

私も料理中であればすぐにガスを消すのだが、次に向かう先はP太郎のところだ。

子供が小さかった頃であればまずは子供なのだが、今は子供も大きくなったので一番小さなP太郎の元へ駆けつけてしまう。

鳥かごを手で押さえながらバタバタと暴れているP太郎に向かって「大丈夫だよ、大丈夫」となだめている。

これは次女ピーチも同じ行動をする。(さすがP太郎の信頼度ナンバーワンを得るだけのことはある)

そして長女チェリーは、なぜかテレビを押さえに行く。

うちのテレビはテレビ台に接している部分に耐震用のマットを付けているのだが、これが長年つけっぱなしの為、テレビとテレビ台がぴったりとくっついてしまい、ちょっとやそっとの力では取れない状態になってしまっている。

新しいテレビに買い替える時は、どうやってテレビとテレビ台を離そうかと思っているくらいなので、巨大地震が起きてテレビと一緒にテレビ台が動くことはあっても、テレビだけが倒れることは考えられないのだが、チェリーはそれでもテレビを押さえに行く。

なぜならチェリーは家族の中で最もテレビが好きなのだ。

それから88歳のお姑さんだが、お姑さんが真っ先に向かうのは仏壇で「あらあらどうしよう」と言いながら仏壇の前で立ち尽くしている。

お姑さんが地震の多い道東に住んでいた時、大きな地震で仏壇の中の阿弥陀様が倒れて頭が取れてしまったそうだ。

阿弥陀様の頭は接着剤で付けたのだが、地震の時はやはり仏壇が気になるらしい。

そんな風にそれぞれが大事なものを守りに散る家族の中で、長男パインだけは比較的冷静に状況を見守っているかのように動かない。
(もしかしたら恐怖で動けなくなっているのかもしれないが・・・)

このように家族がそれぞれに取る行動パターンがいつも同じなのが面白い。

それにしても、やはりもう一度地震が起きた場合の行動を考えておいたほうが良いのだろうと思う。

少なくともお姑さんは仏壇の前から離さなければならないだろう。

大きな仏壇が倒れて来たら大変だ。

今回、私はまったく地震を感じることはなかったが、「一瞬、四角い部屋が歪んで見えた」と昨日の地震のあと電話をしてきた妹の話を聞いて、やはりもう一度自分の行動パターンを想定しておこうと思った。











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甘党

2016-01-12 16:10:26 | 介護
高齢者住宅に住む老父のところへ行ってきた。

父は高齢者住宅の職員さんのすすめで毎日デイサービスに行くようになってから、とても元気になった。

デイサービスに行っていなかった時の父は、一日中自分の部屋のベッドで寝ていた。

そのためか父の筋力はみるみる落ちて自力での歩行が困難になり、また意識も朦朧とするようになって瞬く間に弱っていったのだが、デイサービスに行ってできるだけ起きているようにしてもらったところ、徐々に起きていられる時間が増えてきて、しだいに筋肉もついてきて、今では少しの距離であれば一人で歩いて移動することができるようになった。

私が行くと父はたまにデイサービスのベッドで寝ている時もあるが、しっかり目覚めている時の父は、目に力があって、つじつまの合うちゃんとした会話ができる。(急に話題が飛ぶことがあるが・・・)

職員さんも「お父さん、とても元気になりましたね」とおっしゃってくれる。

ただ、以前の寝たきりだった父に比べれば確かに元気になっているのだが、やはりレビー小体型認知症を患っていることや85歳という高齢もあって、若い人のようにすっかり完治して、ますます元気になるということはもはやない。

というか、すこしずつだが進行しているなと感じる。

レビー小体型の典型的な症状である幻覚をみることは薬で抑えられているせいか無くなったし、アルツハイマーに比べて日常生活における事を忘れてしまうということはないのだが、ときどき「あれっ、これは認知症のせいかな?」と思われるような父の行動を見ることがある。

それは食べるという行為だ。

甘いものが好きな父なので、父に会いに行くときはいつも父が好きなお菓子や飲み物を持って行くのだが、その食べ方がとにかくすさまじい。

まるで「飢えた子ども」のように一心不乱に食べる。

あっという間にひとつを食べ終えると、目はもう次のお菓子に行っており、二個、三個とお菓子を続けざまに食べていく。それもやはり一心不乱に食べる。

そばで見ていると、よくこんなに一度に甘いものばかり食べられるものだと思うくらい、ひたすら甘いものを要求し続ける。

途中でストップをかけなければいけなくなるほど食べ続けるのは、やはり認知症の影響だと思う。

実は今までは、父の部屋の冷蔵庫に持っていたデザート類や飲み物を入れていたのだが、職員さんによると夜中に父がそれらを全部食べてしまうため、職員さんに預かってもらって冷蔵庫内には甘いものを入れておかないようにした。

ところが冷蔵庫になにも無いことがわかると、父は自分で歩いて住宅内にある自販機にジュースを買いに行くのだそうだ。

すっかり夜型になっている父は、深夜に買いに出ようとするため、途中で転んでも誰にも気づかれない恐れがある。

そこで夜は一本だけ、冷蔵庫になにか甘いものを入れておいてもらうことにした。

とにかくそのように部屋の冷蔵庫に甘いものを置かなくなってから、父はますます私たち家族が持っていく甘いお土産を楽しみにするようになった。

ところで、父はなぜこのように甘いものに執着するのだろうと考えたとき、それは父の育った環境にあったのかもしれないと思う。

これは父の世代はみなさんがそうだったと思うが、戦中戦後は砂糖が貴重品の時代であり、甘いものなんてほとんど口に入ることはなかっただろう。

まして、父が育った家は非常に貧しかった。

日々の食べ物にも苦労していたくらいなので、甘いお菓子に飢えていたことは想像がつく。

ところで、私が子供たち(父にとっては孫)を連れて父の見舞いに行った時のことだった。

父が孫たちに「お前たちは、今はなんでも好きなお菓子を食べられるのだろう?」と聞いた。

うちの子どもたちが「うん」とうなずくと、父は「そうか、それはよかった。お母さん(私のこと)が小さかった頃は貧しかったから、お菓子なんてめったに買ってやれなかったんだよ」と言った。

その父の言葉を聞いて、私はそうだっただろうか?と自分の子供のころを思い出していた。

確かに私が子供のころは、今のようにいつでも豊富にお菓子が食べられる環境にはなかったが、それでもたまに母が作ってくれる甘い蒸しパンやドーナツを食べ、駄菓子だってときどき食べていた記憶がある。

父が思っているほど、私たちはお菓子が食べられなかったわけではなかったと思うのだが。

もしかしたら自分の幼かった頃と私たちが幼かった頃の記憶が混同しているのかもしれないし、お金があれば、もっとたくさん私たちに甘いものを食べさせてやりたかったという思いも父にはあるのかもしれない。

いろいろな思いが積み重なって、父のあのような食べ方になっているのかもしれないと思うと、がつがつと飢えた子のような食べ方もまた愛おしくなる。

というわけで、さて父にはどうやって甘いものを食べてもらおうかと思う。

ほんの少しでやめておくほうがいいのか、それとも、もう体を気にせずほどほどならば目をつぶって食べさせてもよいものだろうか・・・













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新パソコン使ってます

2016-01-08 17:18:14 | 日記
クリスマスに新しいパソコンを買ってもらった。

それまで使っていたのは息子のおさがりで8年以上も使いこんだものだったが、ネットサーフィンとメールくらいしかしない私にはそれで十分だった。

・・・が、徐々にパソコンから大きな音がするようになり、さらには画面が白黒になりだしたので、もうこれ以上は限界ということで夫が買ってくれた。

それにしてもパソコンってこんなに静かなものだったのかと思う。

そばでテレビを見ていた長女が「うるさくてテレビの音が聞こえない」というくらい大きな音がパソコンからするのは当たり前の感覚になっていた。

しかも画面が変わるのが早いっ!

よく「サクサク~する」と若い人がいうが、まったく「サクサク」という言葉がぴったりなくらいサクサクと画面が変わってくれる。

それまでは画面が変わるのをじっと我慢の子で待っていたのだが、あの長い待ち時間は何だったの?と思うくらい早い。

なんというストレスの無さでしょう~♪

そう、このような情報機器に弱い私にとってパソコン、ましてや古いパソコンはストレスだった。

しかし、ネットが普及して今まで知ることができなかった情報を得ることができるようになったのは、パソコンストレスも吹き飛ぶほど得ることのほうが大きい。

現実社会では会うことができなかった方々の考えや教えに触れることができるようになった。

今やパソコンはもう日常生活になくてはならないほどになってしまったのだが、良いこともあれば悪いこともありで、先にも書いたがパソコンに向かうのは私にとってストレスでもある。

だから、こうしてブログを書き、ほかの方のブログを読み、たまにネットショッピングをするのとメールのやり取りくらいしかしない(できない)

ところで新しいパソコンにも慣れてきたので、さっそく今朝撮った野鳥の写真をブログに載せようと思った。

ところが・・・むむむっ、どーやったら写真が取り込めるの??

こうなることは予想がついていたので、新しいパソコンであろうとなんだろうと何故か「サクサク」分かってしまう現代っ子の長男パインに写真の取り込み方を聞いておいたのだった。

しかし、なんか違う。パインが教えてくれたボタンはどこに行った??

あちこち開いてみたのだがよくわからず、知らぬ間にデジカメの写真はパソコン内部に取り込まれたらしいのだが、結局それをこのブログに使うことができなかった。

格闘すること二時間・・・あぁ疲れた。ストレスたまったかもしれない。

あきらめて後で夫に何気なく聞くことにしよう。(夫は私がブログを書いていることを知らないので・・・)

というわけで、野鳥の話を書くつもりがパソコンの話になってしまいました。

いつか野鳥の写真を載せたいものです。









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正しかった選択に

2016-01-04 15:47:30 | 日記
遠方の大学に通っている長男パインと次女ピーチが帰って来てにぎやかなお正月だった。

さて長男のパインだが、帰省すると必ず会う5人の友人たちがいる。

みんなおむつをしていた頃からの幼馴染で、始まりは私たち母親に連れられて公園で出会った。

母親同士の交流の場だった公園から始まった関係は、その後、親の手を離れてからも子ども同士の友人関係は今も途切れずに続いている。

パインは一浪して大学院に通っているので24歳になった今も大学に通っているのだが、就職した一人とフリーターをしている一人を除いて、パインと同じくまだみんな学生をやっている。

もとはパインと一緒に毎日のように公園で会っていたよく知った子ばかりなので、パインから年に1~2度聞くみんなの近況に私も安心したり心配したりしている。

さて、みんなは元気だったかな?

心配なのは二年前に大学を卒業後、就職せずフリーターをしている子だった。

すこしシャイだが、まじめでとても良い子だ。

スーパーでバイトをしていた時に見かけたが、普段話す時とはうってかわって、大きな声で呼び込みをしたりハキハキとした挨拶をして接客をこなしていた。

接客業に向いていそうだね・・・と話していたのだが、結局就職はしなかった。

聞けば何社も就職試験を受けたのだが、ことごとく落ちたのだそうだ。

シャイな子なので、面接で失敗することが多かったとか。

そうして何社も落ち続けているうちに自分の人格さえも否定されているような気持になって就活をやめてしまったらしい。
今はアルバイトをしているとか。

そんな友人もいれば、希望の会社に就職が決まった友だちもいたそうだ。

就職が決まった彼のことも私は赤ちゃんの頃から知っている。

体は小さかったがとても負けず嫌いの子で、体の大きかったパインとよくおもちゃの取り合いをしていた。

そして負けると、泣きながらパインに向かって行っておもちゃを奪い返そうとしていたっけ。

今や遠くなつかしい思い出だ。

さて彼は大学入試には失敗してしまい二浪している。

第一志望だった国立大に二浪して挑戦したのだが、結局入ることができず第二志望の私立大学へ行った。

「本当は大学院にも行きたかったが、親にずいぶん負担をかけたから4年を卒業したら就職するよ」とパインに話していたそうだ。

その彼がなんと幼い頃から憧れ続けていた会社に入社できることになったそうだ。

その会社とは某大手自動車会社。

自動車が好きであこがれの会社だったので、彼は大変な喜んでいたそうだ。

(そういえばパインとよく取り合ったおもちゃとは、車のおもちゃだった)

「二浪して回り道をしたけど、最後は希望が叶ってよかった」

そう言ってみんなで祝福したそうだ。

希望が叶った子、叶わずに希望とは違う道に進む子、将来がまだ定まらない子、障害物に阻まれて苦しんでいる子など、いろいろな人生を歩んでいるパインの幼馴染たち。

「あいつはいいなぁ。安泰だよなぁ」

そう言って就職が決まった友だちをうらやましがるパインだが、大手に入ったからと言って、映画のようにハッピーエンドで終わるわけではないことをまだ若いパインにはわかっていない。

もちろん自分の希望する道に進めればそれは幸せなことだが、人生はまだまだこれからで途中で様々な大変なことも起こってくるだろうということがまだ実感できていない。

大企業に入ることが幸せなのか、それはひとりひとりが感じるものなので何が幸せなのかはわからない。

そもそも幸せとは他人の評価で決まるものではなく、自分が幸せと感じているかどうかなのだから。

ところで現代社会では「成熟社会型の価値観」を持つ若者が増えているとか。

進学や就職先に大都会・東京は地方の若者にとっては憧れであり大舞台として語られることが多かったが、それがいま様変わりをしつつあるという。

都会より地元志向で、年々地元での進学や就職を希望する若者が増えているのだそうだ。

「経済的豊かさではなく人間関係の豊かさを、出世の高みより身近な満足を求める」若者が増えているそうだ。

幸せは案外身近にあることをいまの若者は本能的に察知しているのかもしれない。

「正しい選択なんてこの世にない。正しかった選択にしていくだけ」とは大学在学中に直木賞をとった朝井リョウさんの言葉だ。











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初夢

2016-01-02 20:34:05 | 日記
いつもはあまり初夢を覚えていないのだが、今年の初夢はしっかり記憶に残っている。

なんとそれは掃除をしている夢だった。

それも自宅ではなくて、よその家の掃除をしていた。

これはヘルパーの仕事をしていた影響かもしれないと思う。

とにかく汚い家だった。

虫の死骸があちこちに転がっているし、蜘蛛も巣も張っている。

およそ初夢には見たくないような夢だったが、私はそこで掃除を始めた。

手で触りたくない虫の死骸は掃除機で吸い取り、それから部屋中に掃除機をかけていった。

ここの部屋の住人が気持ちよく暮らせるよう綺麗にしようと思って、一生懸命そうじをしているところで目が覚めた。

寝起きは、ぐっすり眠って体を休めたというよりもしっかり働いてきた気分だった。

ところで不思議なことに何度か家のお掃除をしてあげると、そこの住人の方は自発的に部屋の掃除を始めることが多い。

これは夢の話ではなくて、現実にヘルパーとして派遣された家を振り返ってみてそう思う。

高齢者の方でも部屋をきれいに掃除してあげると、それまでは気づかなかった汚れが気になってくるようで、ご自分で片づけをしてくれるようになったりする。

また一緒に住む家族がいる場合でも、その家族の方が一緒になって掃除をし始めることがある。

以前、仕事で入ったお宅では家族がいるにも関わらず、どこもかしこも汚れ放題だった。

たぶん普段は掃除をすることはないのだろうなと思うくらい荒れていた。

ところがヘルパーとして入って半年ほど過ぎた頃からご家族の方々が掃除に加わってくださるようになり、家の中がきれいになっていったことがあった。

一度部屋がきれいになると、その気持ちのよさを感じてもらえるのかもしれないと思う。

そして、よそのお宅でも綺麗になった部屋をみると私もすっきりとした心地よさをおぼえた。

とはいえ、お正月から掃除をして夢を見てしまうとは、ヘルパーだったころの習慣がすっかり身についてしまっているのだろうか。

ヘルパーはしばらくお休みするが、自宅の掃除は今年もしっかりやろうと思う。

あ~やっぱり掃除が好きなんだなぁ。








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