ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

星のかけら

2017-06-29 13:19:35 | 日記
最近知ったことで「へ~ぇ、そうだったのか」と驚いたことがある。

これは理系の人なら、いや理系じゃなくても、知っている人は知っていることかもしれないし、もしかしたら世の中の常識なのかもしれないが。

知らなかった私が無知なだけかもしれないと思いつつ、これを知った時、とても新鮮な驚きだったので書こうと思う。

実は・・・私たちはみんな「星のかけら」でできていた!

これはどういうことかと言うと、私たちの体にある元素は、過去に宇宙で輝いていた星の中で作られたものと同じ、つまり私たちは星のかけらでできていたということ。

夜空に光る星は、月や惑星を除いて、ほとんどが太陽と同じく自分で光る恒星なのだそうだ。
(その昔、学校で習ったはずですが、今やすっかり忘れてました)

恒星がどのように生まれるのかと言えば、宇宙空間に漂う水素が主成分の星間ガスの中から生まれる。

水素と言うのは宇宙で最も軽い元素で、ビッグバンによって作られたものだが、この水素が主成分の星間ガスが集まって中心部が高温高圧となり、核融合反応が起こることで、星は光を放つと言われている。

恒星の中心では、核融合反応によって、私たちには欠かせない水素からヘリウム、そして炭素、酸素などの元素が次々と作られていく。

特に巨大で重たい恒星は、中心に鉄が融合されると超新星爆発を起こし、その膨大なエネルギーは、さらに金、銀、銅、ウランなどの元素を作り出し、それらは宇宙空間へまき散らされる。

そして、その中から、次の世代の恒星が生れると言われる。

恒星が生れ、進化し、最終的に爆発を起こして星の命が終わる・・・この元素循環を繰り返して、今の私たちの体もかつて宇宙のどこかで生まれた星の内部で合成された重元素を材料にしてできていると言うのが、私たちが「星のかけらだった」と言われる由縁だ。

私たちの内部には宇宙があると思っていたのだけど、この話を知って、納得できたような気がした。

このことから、書きたいことはいろいろあるのだが、その話はまた・・・










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運動をする

2017-06-26 15:04:31 | 健康
最近、週一で通っていたピラティスの教室が終わってしまって、すこしがっかりしている。

最初から決められた回数の教室だったので終わるのは仕方がないが、今後はピラティス講座の継続はないとのことで、どこか別の教室を探そうかなぁと思っている。

それにしてもピラティスはなかなか良かった。

今回の教室では、ピラティスの「さわりの部分」を習っただけだが、これが私たちのような初心者の中高年にもできる優しい運動だったので、楽しみながら運動することができた。

前にも書いたが、ピラティスで大切なのは呼吸で、呼吸に意識を向けながら、コルセットを開け閉めするイメージで体の中心を意識した動きをする。

動作はきつくはなく、額にうっすらと汗をかく程度なのだけれど、この運動が後から身体に効いてくる。

翌日にあちこちの筋肉が痛むこともあるが、それが心地よい。

しかし、身体の状態にもまして、運動をすると精神的にハイになり「もっと身体を動かしたい!」という気持ちが高まってくる。

だから最近は、ピラティスのない日は自宅でいつもストレッチをしている。

ゆっくりとストレッチで身体全体をほぐした後、スクワットマシーンでスクワットをする。
(スクワットマシーンを買ったので、楽にスクワットができるようになった)

この時、スクワットしながら、口を大きく広げて「あーいーうーえーおー」と言う。
これは顔のたるみを少しでも遅らせようとする涙ぐましい努力。。。

そして、週二回の仕事も車を使わずに、なるべくスロージョギングで行くようにしている。

仕事場までジョギングで20分程度なので、たいした距離ではないのだけれど、我が家は丘の頂上にあるため、行きは下り坂で楽なのだが、帰りは心臓破りの上り坂が延々と続き、それがかなりいい運動になっている。

しかし、夕飯の準備がほとんど出来上がっている時じゃないと、帰宅してから疲れすぎて家事ができなくなるので、毎回ジョギングで・・・というわけにはいかず、仕事のある日は夕飯の入念な準備が欠かせない。

さて、それから夕飯後には、帰宅した夫と一緒にまたスロージョギングへ出かける。
スロージョギングは、ほとんど歩いているような感じなのだが、それでも近所を歩いてくると気分もすっきり、夫も一日の仕事のストレスが軽くなるそうだ。

そして、今また泳ぎにも行きたくてうずうずしている。

しかし先日、整形外科に肩のリハビリに行き、そこで「水泳を始めてもいいでしょうか?」と聞いてみた所、「まだ駄目です!」と止められてしまった。

「やるのならば平泳ぎか水中ウォーキングにしなさい」とのことで、「クロール」は禁止とのことだった。

知らなかったのだが、気をつけないとクロールで肩を壊して、整形外科に来る方がけっこう多いそうだ。

私は泳ぎ始めると延々と泳ぎ続けてしまうので、やはりもうしばらくは水泳はやめにしておこうと思う。

それにしても、身体を動かすと気持ちが明るくなる。そしてどんどん動かしたくなってくる。

気持ちが沈むような時、私はあえて運動をする。

運動で気持ちのスイッチが切りかわると、なんでも前向きに取り組もうという意欲が出てくる。

しかし、別に無理してまで前向きな気持ちになれなくてもいいと思うし、時には人生の中で非常につらくて悲しくて仕方のない感情を味わいつくすことも必要なのだろうなぁと思う。

それがとてもつらくて困難なことであればあるほど、それを乗り越えるための準備が自分にできたということであり、その困難が自分を研磨してくれて、より光り輝く存在となっていけるのではないだろうか。
と私は思っているのだが・・・

つらいことも楽しいこともじゅうぶんに味わいつくすのが、この世界に生まれてきた理由の一つなのだろうとも思う。

さて、ではこれからストレッチ始めようかと思います。










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悲しい

2017-06-23 12:22:01 | 日記
二日前くらいから、なぜかあるお方のことが気になって仕方がなかった。

昨夜は眠ろうとしても、気になってなかなか眠ることができなかった。

あの方は大丈夫だろうか?ご家族の方々は大丈夫だろうか?

どうしても頭から離れないので感謝想起をして、夫用の睡眠剤をひとつもらって飲んでみた。

睡眠剤をあまり飲むことのない私は、通常量の半分の一つを飲んだだけで、あっという間に眠ってしまった。

なんだか、いろいろな夢を見たのだが憶えていない。朝起きると、胸の中心がざわざわした。

ところで先ほどネットを開いて、飛び込んできた文字に凍り付いた。

「亡くなった・・・」

逢ったこともなく、ただテレビやブログで拝見していただけなのに、いつもブログを読ませていただいていると、まるで息遣いまで聞こえるような近くに感じられることがある。
これはこのお方だけではなく、他のお方のブログであっても読んでいるうちに、その方のことがわかるような気がしてくることがある。

印刷された本よりも電波を使ったネットからの方が、より強く伝わってくるような気がするのは気のせいだろうか・・・

電波に何か秘密があるような気もするが、それよりも一度読み終わるとしばらく間があくか、もう読まなくなる本と違って、ブログは毎日もしくは数日おきに更新されることが多いので、書き手と同調するのかもしれない。

苦しんでいらっしゃるのがわかると、なんとか頑張ってくださいと応援したくなり、その方に嬉しいことがあると、私も自分の事のように嬉しくなる。

そんな風に気になったブログをついつい読んでしまう私に対して、夫は「よく他人のブログなんて読むよなぁ。俺は他人の生活には興味がない」と言って、ブログをほとんど読まなかった夫も、その方のブログだけは、たまに読んでいたようで「元気になってほしいなぁ」と言っていた。

本当に残念で、とても悲しいです。

でも、今は肉体の苦しみから解放されて、笑顔でいらっしゃることと私は思っている。
この方は転生も早いのだろうなあ。

小林麻央さんのご冥福を心からお祈りいたします。









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覚え書き・・・父のこと(続き)

2017-06-19 17:16:40 | 介護
「お父さんの具合、なんだか良くなったみたいだね」と妹と喜び合って帰宅した翌日、朝早くに病院から電話がきた。
「お父さんがあまり良くない状況なので、すぐに来てください」とのことだった。

病院からの呼び出しは、この頃になると頻繁に来るようになっていたのだが、それは私たち家族が「何かあったらすぐに連絡をください」と病院に伝えていたから。

信じられないことだが、家族によっては「亡くなってから連絡をください」とおっしゃって面会にも来ない方がいるそうだ。
家族の間で何があったのか知らないが、亡くなってから・・・とは、あまりにも悲しいことだなぁと思う。

それはさておき、病院から連絡が入って、再び急いで病院へ駆けつけると、父は昨日よりも苦しそうに息をしていた。
昨日は呼びかけるとこちらを向いてくれたのに、その日はまったく反応はなく、薄目を開けたまま、ただただ荒い呼吸を繰り返すだけで、素人がみても「これは危ないかもしれない」と思うほど父は衰弱していた。

様子を見に来てくれた看護師さんに「父はどうなんでしょうか?」と聞くと、「ちょっとこちらへ」と言って病室から出てから少し離れた廊下まで行くと小声でお話をしてくれた。

「病室だとご本人に聞かれるかもしれませんから。もしかしたら、ここで話していることも聞こえているかもしれませんが」と看護師さんはおっしゃってから、父の状態がかなり緊迫していること、もういつ亡くなってもおかしくない状態になっていることなど話してくれた。

看護師さんからお話を聞きながら、この看護師さんも人は死期が近づくと魂が肉体を離れて、遠くで話している人の会話を聞くことができると思っているのだなと思っていた。

人が死ぬと魂が肉体を離れるということは、疑う余地もないくらいにその通りだろうと私は思っているのだが、今回はやはりそうだったと思えることを体験した。

父の遺体を葬儀会場の和室に安置して、来ていただいたお坊さんに枕経を唱えて頂いている時のことだった。
枕経とは死後初めて死者に聞かせるお経のことで、死者が不安にならないようにというような意味があるのだとか。

枕経を聞きながら、布団に寝ている父に向って私や妹が手を合わせていたのだが、何気なく父の方を見ると、父の胸元に薄い影のようなものが立っていた。

その影は徐々にはっきりとなり、頭、肩が見えて、足の方も見えてきて、それははっきりと人の形と分かるようになった。

「お父さんだ」と思った。不思議と驚くようなことでもなく、手を合わせながら薄い影である父の姿をぼんやりと見ていた。

よほど隣にいる妹に教えようかと思ったが、それはやめた。

読経の最中にそんなことを教えたら、せっかくの厳粛な場がぶち壊しになってしまう。

現に父は自分に向けられてお経が読まれていることを知っていて、(たぶん)神妙な顔で自分の遺体の横に立ってお経を聞いていた。

父が亡くなった直後と言うことで私は悲しくて仕方がなかったが、なんだかそれが可笑しくて気持ちが和んだ。

薄い影の父は読経が終わると見えなくなってしまったが、それから実家にお参りに帰るたびに父の気配を感じる。
亡くなった時より若返って、にこにこ笑いながらリビングの椅子にすわっていることが多いのだが、寂しいことにその気配も日を追うごとに無くなってきている。

この世にいるのは49日まで・・・49日は笑顔で父を送ってあげようと思っている。






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覚え書き・・・父のこと

2017-06-16 18:06:13 | 介護
今は様々な情報に接することができるので、「人は死んだら、その存在は無くなる」と考える人は昔よりも少なくなったと思うが、それでも多くは「死とは忌み嫌うもの、できるならば自分も自分の周りでも、死はなるべく経験せずにいたい」と思うものではないだろうか。

かくいう私も同様で、できることならば死は、特に自分のことよりも親しい人たちの死は経験したくないと思う。

しかし、身体は無くなっても魂は永遠に生き続けると知ったら、この世で死は悲しむものであるが、あの世では喜んで迎えてくれる人たちがいるとしたら、受け止め方はすこしは違うのかもしれない。

それが分かったことで、父の死の悲しみが多少やわらいだように思う。

もちろん、父の身体が見えなくなり、もうその身体に触れることも声を聞くこともできなくなってしまったことはとても悲しいが・・・

亡くなっても魂は永遠に生き続けるということは、父の死でより確信が深くなったと思う。

それは父が亡くなる二日前のことで、妹と二人で病室で父に付き添っている時の事だった。

父は、鼻と口を覆った酸素マスクの下で苦しそうに息をしていた。

意識はあるのだけれど、呼吸することに精一杯の父は、私たちが話しかけても返事を返す余裕はまったく無くて、私たち姉妹の方を見てくれることだけが父の意思表示になっているような状況だった。

その日も私と妹が、二人並んで父のベッドの横に座って、おしゃべりをしていた。

突然父が私たちが座っているのとは別の方向に顔を向けたかと思ったら、目を大きく見開いて驚いたような顔をした。

「ん?おとうさん、どうしたの?」と聞いても、父は驚いた顔のまま視線を外さない。

父の目の焦点ははっきりと合っていて、ある一点を見つめていた。・・・が、そこには誰もいなかった。

「誰かいるの?」と聞くと、父はゆっくりと片手をあげて、誰もいない方向にいつもの挨拶をした。

父が元気だった頃、私たち家族や知り合いに会うと、必ず片手をあげて挨拶をしていた。

まさに父は誰もいない方に向かって挨拶をしていた。

妹と顔を見合わせて「誰か来ているのかな」と話しながら、「あぁ、ついに来たか、もう父の死は近いかもしれない」と考えていた。
それは母の時と同じだったから。

母も亡くなる数日前から母を可愛がってくれた亡き祖母が病室に来ているとしきりに言っていたことを憶えている。

父が片手をあげて挨拶をしたように、迎えに来ているのは多分父の知っている人なのだろう。

それはとても親しい人、母なのかな?と思ったりもした。

それからの父はしきりに誰もいない方を気にして、時々その見えない人に話しかけられたかのように、ハッとした様子で誰もいない方に振り向いた。

また時には誰もいない宙に両手を伸ばして、つかまろうとするようなそぶりもした。
まるで誰かの手を握ろうとするかのように・・・

妹は「何か写るかもしれない」と言って、父の気にする方向に向けてカメラのシャッターを切ったが、残念ながらそこには何も写っていなかった。
でも、たしかに父には見えていたのだろうと思う。

そして、そのようなことが起きてからの父はとても病状が安定した。
それまでの苦しそうな表情がすこし和らいで、呼吸が楽になったようにみえた。

苦しい合間に訪れた、ほんの少しの穏やかな時間だった。

私と妹は「あれ?なんだかお父さんの具合が良くなったね」などと話していたのだったが、その翌日からさらに父の状態が深刻になっていった。

続きはまた。




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みんな役者だった!?

2017-06-12 17:16:18 | 日記
父が亡くなって早二週間余りが経った。
もう二週間も経ったのかという気もすれば、まだ二週間しか経っていないのかという気もする。

どちらにしろ父の肉体としての姿が見えなくなってしまったのは寂しく、また「父に会いに行かねば・・・」という、時には義務感にさえなっていた高齢者住宅への訪問も、もう行かなくてもよくなったことを寂しく思う。

ところで、父の最期に家族みんなが父に感謝の言葉をかけてお別れができたことを思い出して、妹がこのように言った。

「あれはまるで演劇をしているようだったねぇ。
お父さんのベッドを家族が囲んで感謝の言葉を口々にかけて、それまで意識が朦朧としていたお父さんが最後の最後に、それを全部わかったように大きくうなづいてから涙を流して息を引き取ったなんて、まるでドラマか映画のワンシーンのようだったわ。
監督のカットー!という声で、亡くなったお父さんが起き上がって、泣いていたみんなが演技を止めたりして・・・ってちょっと不謹慎だけど、あの時そう思ってた」

たしかにね・・・そう言われればそう思う。

でも、ある意味、それは間違いではないと思う。

誰もがこの世に生まれてきて、周囲を取り巻く家族や縁のある人々の中で、それぞれの役割を演じているのだと思う。

その役割も当たり前だが一つではなく、取り巻く人の数だけ役割がある。
娘だったり、妻だったり、母だったり、隣人だったり、友人だったり、従業員だったり、先生だったり・・・

その時々によって私の役は変わるけれど、私の人生としての今はこの一度限りなので、その中でどれだけ自分の良心に沿った生き方ができるかが試されている。
試しているのは神様?いえ、それは自分自身なのだろう。

自分で自分がどこまでやれるのか試しているような気がしている。

人生には失敗もたくさんあるけど、肉体を脱ぐ最期の時に、自分の良心を満足させる演技ができたと思えたら、この人生は大成功だったと思うだろう。

ところで父はどうだったのだろうか?父は肉体を離れて自分の人生を振り返った時、どう思ったのだろう。

それは父にしか分からないことだが、私は父が自分の人生に満足しているような気がしている。

そういえば父は何年も前から銀行に遺言状を預けていたのだったが、もう一通、新たな遺言状が出てきた。

銀行にある遺言状よりも日付が新しく、それでも父が10年以上前に書いたものだった。

そこには、子どもたち(私たち姉弟3人のこと)には自分のできる限りのことをしたつもりだということと家族への感謝の言葉が書かれていた。

私たちがまだ幼かった頃、経済的に大変な状況でも、私たちにそれが不自由だと感じさせることなく育ててくれた両親には感謝している。

というわけで、父は満足して今は実家で過ごしている(かな?)
その話はまた書けたら書こうと思う。










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久しぶりに庭仕事

2017-06-07 17:12:42 | 日記
父の葬儀やまたその前からの疲れが出たのか、本当に珍しくひどい風邪を引いてしまった。
熱は出ないのだけれど、咳が出て、身体がとてもだるかった。

動くことがとてもつらくて、目をつぶればどこでもそのまま眠ってしまうくらいのだるさ。

軽い風邪ならば病院へは行かず、家でじ~っとして自然に治るのに任せていたのだが、今回はいつもと違ってあまりにつらいので病院へ行ってきた。

診断はやはり風邪。
喉が炎症を起こしているとのことで、一週間分の薬を出してもらい飲み続けていたら、やっと昨日から身体のだるさが無くなった。

・・・というわけで、遅くなってしまったが、昨日やっと我が家の畑に野菜の苗を植えた。



植えたのはミニトマト2本と青じそ1本。

いつもはもっと色々な野菜の苗や種を植えるのだが、体調が万全ではない今年は欲張らずにこの3本だけにした。

あとは菊好きなお姑さんのために、ピンク色の花を咲かせるであろう食用菊の苗も植えた。

しばらく手入れをしていなかった庭は雑草がたくさん伸びていた。

いつの間にかスズランも花を咲かせていた。



スズランの花はとても良い香りがするので、切り花にして毎年洗面台に飾っていたのだが、今年はそんなことをする余裕もなく、気が付けばスズランの間に雑草がのび、そして花は終わろうとしていた。

これから少しずつ雑草を抜いたりして、庭の手入れをしていこう・・・

ところで、ふだんは邪魔者扱いされている雑草と言われる植物たちにも大切な役目があるそうだ。

道内で農薬も肥料も使わずに自然栽培で野菜を作っている農家の村上貴仁さんによると、自然が持っている自然治癒力は人間の比ではないほど高いそうで、自然は、自然のままにしておくと、どんどん治癒力を高めて、その土地に合った健康な状態を作り出すそうだ。

例えば、ある畑でキャベツを育てたとして、キャベツというのはたくさんのカルシウムを使う為、キャベツを収穫したあとの畑はカルシウムが不足してしまうそうだ。

従来の農業のやり方では、不足したカルシウムを補うためにカルシウム剤を畑にまくのだけれど、村上さんの畑ではそのままにしておくそうだ。

すると、どのようなことが起こってくるかと言うと、放っておくと畑にある性質を持った植物(あかざやアオゲイトウなど)が生え始めて、畑を覆いつくすそうだ。
それらの草には共通する性質があって、なんと自分の体の中でカルシウムを合成できる植物で、その草が枯れて土にかえれば、カルシウム不足だった土地は栄養素の過不足ない健康な土地に戻ってしまうのだとか。

また村上さんはキャベツを作っている隣でジャガイモを育てて、そのあとにどんな植物が生えてくるのか実験をしたそうだ。

その結果、キャベツの畑には先ほどのカルシウムを補う雑草が生えてきたのに対して、隣のジャガイモを作った畑にはまったく別の草が生えたそうだ。

ジャガイモは、土の中の養分をあまり使わない為、ジャガイモを作った後の畑は、養分過多になってしまうことがあるそうだが、驚いたことにジャガイモ畑に生えてきた草は、余分な養分を吸収してくれる性質をもったイネ科の植物だったということだ。

肥料を与えた畑にはいろいろな草が生えてくるが、肥料を与えずに放っておくと、ここはキャベツ畑だった、ここはジャガイモ畑だったと、はっきりと分かるような分布で雑草が生えてくるのだという。

雑草と思われていた草が土壌改良していたとは驚きだった。

我が家の庭も、これからは雑草は取らずに自然栽培で行こうかしらん。
とは言え、家庭の庭は見栄えも大切なので、やはり雑草は抜きたくなると思うが・・・

久しぶりの庭仕事、太陽を浴びて元気になれたような気がした。








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お父さん、ありがとう

2017-06-03 10:58:45 | 日記
長く記事の投稿ができなかったが、先月末に父が亡くなった。86歳だった。

父は誤嚥性肺炎で入院していたのだが、一時はよくなったかのように見えた肺炎が再び悪化して、亡くなる前の最後の二週間は父もかなり苦しかったと思う。

私たち家族は何度ととなく病院から父が危ないという連絡をもらい、昼夜問わずに病院へ駆けつけるという日が続いていた。

そして本当に最期のお別れとなった日、本州に行っている孫や義理の息子などが帰って来ていて、深夜だったが家族みんなが揃って、父を囲んでお別れをすることができた。

最期の日は、それまで苦しそうにしていた父が、呼吸が楽になったようで穏やかな顔になり、体調は落ち着いているように見えていた。しかし、それとは反対に呼吸数はどんどん少なくなっていた。

「もうこれで最期だ」と家族だれもが思った時、父の周囲を囲んでいた家族みんなが口々に父に対する感謝の言葉をかけていた。

「おとうさん、今までありがとう」
「おじいちゃんが援助してくれたお陰で留学できたよ。ありがとう。おじいちゃん大好き」
「向こうでお母さんに会ったら、みんなしっかり頑張っているから安心してって伝えて」

泣きながら声をかけ続けると、今までほとんど反応の無かった父がまるでそれに応えるかのように大きくうなづいて、左側の目から涙を一粒流してから目を閉じ、そして逝ってしまった。

向こうでお母さんに会ったら・・・と言ったのは妹だったが、まだ亡くなっていない父に母への伝言を託すとは、ふだんなら笑い話になるところだが、この時は誰もが真剣で生きている父に話しかける最後のチャンスとばかり、今まで照れくさくて言えなかった感謝の言葉もたくさんかけることができた。

本当に父とは良い別れ方ができたと思う。

本当は父が元気なころに、もっともっと感謝の言葉を言えていたらよかったのだけどと思うが・・・

しかし、妹とも話したが、父に対してやってきたことに、もう後悔することは何もない。

やれることはすべてやったと思う。

ただ悲しみは変わらずで、父を思い出すと涙が出る。

また淡々とクールに葬儀をこなしていた弟が、葬儀で最後の挨拶の時に言葉を詰まらせて泣き出したのには胸が痛んだ。

弟は離れた場所で暮らしているので、父の最期には間に合わず、また父の介護にもなかなか参加することができなかった。
それは仕方がないことだが、もしかしたら弟なりに思う所があったのかもしれない。

ただ姉弟で争うことなく協力して後始末を進めていることに、父も喜んで見ていてくれているような気がする。








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