ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

自分で決めると決めた

2021-08-29 22:36:49 | 日記

ずっと読みたいと思っていた本「西の魔女が死んだ」を読み終えた。

とても面白くて、どんどん物語の中に引き込まれて一気に読んでしまった。

私は観ていないが、映画にもなったのだとか。

機会があれば映画も観たいと思うが、本を読みながら情景が浮かんできて、まるで一本の映画を見終えた気分になっている。

ところで本のタイトルから、黒いマントをつけて箒に乗った魔女が出てくる児童書なのかと思っていたが違っていた。

いじめで不登校になった中学生の少女が、祖母の家でしばらく暮らすというお話で、あまりあらすじを書いてしまうと、これから読もうと思っている方がつまらなくなってしまうので書かないが、少女の祖母の言葉の一つ一つが心に響いてくるような本だった。

「大切なのは意志の力、自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です」

「魔女になるにはどうしたらいいの?」と孫娘に聞かれて、祖母が答えた言葉だが、ワクチンを打つか打たないかという非常に心が疲弊する議論を経験したあとだったせいか、この言葉はとても心に響いた。

自分で決めるというのは、とてもエネルギーがいる。

誰かの指示に従っている方がどんなに楽かと思う。

賃金を貰う仕事は指示に従わなければいけない場合が多いが、それ以外、生きていると自分で決めなければいけないことの方がずっと多い。

そのことに気づいて自分で決めることを意識し始めたのは、それほど昔のことではない。

それまでは親とか夫とか友人とか、世の中の大多数の意見とかに合わせて生きてきた。

その方が楽だったし、多分間違ってはいないだろうと思ったから。

でもいつからか、自分で決めることを意識する様になった。

それにしても自分で決めることに慣れていないと、自分で決めたことになかなか自信が持てない。これは今でもたまにある。

ただ自分で決めることを意識しだしてから、少し自分が変わってきたと思う。

自分の人生は誰のものでもなく、また誰のせいでもない。それがはっきりとわかったことは、自分で決めると決めたことが関係していると思う。

「意志の力って、あとから強くできるものなの?」と孫娘に聞かれて、祖母が答えた言葉もまた心に響く。

「生まれつき意志の力が弱くても、少しずつ強くなれますよ、、、最初は何も変わらないように思います。そしてだんだんに疑いの心や、怠け心、あきらめ、投げやりな気持ちが出てきます。それに打ち勝って、ただ黙々と続けるのです。そうして、もう永久に何も変わらないんじゃないかと思われるころ、ようやく、以前の自分とは違う自分を発見するような出来事が起こるでしょう。そしてまた、地道な努力を続ける、退屈な日々の連続で、また、ある日突然、今までの自分とは更に違う自分を見ることになる。その繰り返しです」

 

 


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心境の変化

2021-08-27 16:47:34 | 日記

あーやっぱり外はいい。気持ちも明るくなる。

これは、散歩に出かけたとある公園で思ったこと。

天気があまり良くなかったので、最近家に閉じこもっていることが多かった。

家に居れば、読書や動画を観るなどやりたいことはあるのだけど、どうも気分が沈んでくるのは太陽に当たらないからなのだろうか。

久しぶりの公園をマスクなしで歩いていたら、一緒にいた夫から「マスクをしないと、すれ違う人から嫌な顔されるよ」と言われた。

周りを見渡せば、たしかに公園を歩く人は全員マスクをしている。

とはいえ、もともと歩いている人の数が少ないので、滅多に他人に会わない。すれ違った人も覚えているだけで3人くらいしかいない。

その3人の人達に嫌な顔をされたのかわからないが、他の人が不安を覚えるのならマスクはしようと思い、急いでカバンからマスクを出してつけた。

すると夫が「飛沫を吸い込まなくても移るらしいから」と言った。

その言葉を聞いて「そう思うようになったんだ。変わったなあ」と思った。

空気感染の可能性が一部で出始めた頃、夫にそれを話すと一笑に付されたことがあった。

ちょうどその頃、夫とワクチンをうつかどうかでよく議論になっていた。

ワクチンを打つべきだという夫に、ワクチンの安全性がまだわからないから打たない方がいいと話すと、すぐに怒りのこもった声で反論された。

「マスメディアでも安全性は言われているし、世界中の人が打っているのだから大丈夫だろう。この感染拡大を止めるには、もうワクチンしかないだろう」と言うのが夫の言い分だった。

そんな時に空気感染のことを話すと、「そんなこと言ったら頭おかしいんじゃないかと言われるぞ」と、なんとも腹の立つ事を言われ、「いい加減なネット情報を見るのは止めろ」と言われた。

いい加減なのは、マスメディアの方ではないかと思ったが、それは飲み込んだ。

どっちが正しいとか正しくないとかを議論するくらい不毛な事はなく、それは自分の信じている宗教の方が、相手の宗教よりも素晴らしいと説得するようなもので、説得すればするほど相手の反感を買い、頑なにする。

また議論の後は、後味の悪さと疲労感しか残らない。

もう夫が打つのは仕方がないと思っていたのだが、夫は夜な夜なコロナとワクチンについて調べていたようだ。

徐々に態度が変わってきて、今は打たないという事で落ち着いている。

やはり自分で調べて、納得するしかないのだろうと思う。

公園でマスクをつけてから「ウイルスがどんどん変異して、そのうち空気感染どころか目が合っただけで感染したりして」と言ったら、真面目に「そうだな」と言われてしまった。

今のは冗談ですけど、、、とは言えないようなコロナの変異。

罹らないようにしっかり対策はしようと思っているが、コロナに怯えて家に閉じこもってばかりは居られない。

それはそれで病んでしまいそうだ。

やっぱりお天気の良い日は、お日様に当たりたい。

なるべく人のいない自然のある場所で、思いきり深呼吸したい。

 

 


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会話

2021-08-22 16:16:38 | 日記

久しぶりに高校時代の仲間たち9人でLINEでのやり取りをした。

コロナ前は年に一度集まって食事をしていたが、もう二年あまり集まっていない。

でも今は便利なLINEというものがあるので、こうして定期的に安否確認(笑)をしている。

還暦を過ぎると、突然倒れてそのまま、、、なんてことが現実味を帯びてくるもので、一人暮らしの友人などは「私が何も返信をしなければ、様子を見に来てちょうだいね」と言っている。

しかし、今回もみんな元気にLINEに参加していたので一安心。

かと思いきや、少し気になる事があった。

それは一人の友人が書き込んだ文章。

「○日に2回目のワクチン終わりました。40度近い高熱が二、三日あって調子が悪かったです。みんなはどうでした?」

みんなはどうでした?と聞くということは、友人はすでにみんなも打っているという事を前提にしているのだろうか。

困った。これは何と返事を書くべきか、、、

まだ打っていないとは書ける。

特にこの「まだ」という言葉を入れるか入れないかは重要で、「まだ」を入れることによって「打つ気はある」というニュアンスにもなる。

打つ気はあって今は順番待ちの最中、あるいは打つ気はあるが、様子を見てからにしたい、、、そんな意味にも取れる。

しかし今現在、私は打つ気が無い。打ちたく無い理由もある。

ただ、わざわざそのわけを書き込む事は、既に打った友人に対して、不快な気持ちや不安にさせるだけなのでは無いだろうか。

なんと書こうかと迷っていたら、次々に仲間から書き込みが入ってきた。

「微熱が出て腕がしばらく痛かったけど、すぐに治ったよ」

「私も数日、微熱があって仕事休んだ」

注射をした二人からの返信だった。

注射をした三人での会話を眺めながら、これからは友人同士でも打ちたい人と打ちたく無い人で会話が噛み合わなくなって行くのかもしれないと思っていた。

そういえば、夫もそんな事を言っていたことがあった。

夫は当初ワクチンは打つべき派で、これについては家族間で意見が分かれた。

家族では夫と次女は打つべき派で、私と長男夫婦が打たない派だった。

それが徐々に夫に変化が現れて、夫はまだ打たずに様子をみたいと言い出したのだが、その時に「でも打たないと、友だちにも会いづらくなるなぁ」と言ったのだった。

打つのは当然だと思っている友だちに会いに行こうと思っても、自分は打っていないとは言いにくく、打っていない自分からの感染を心配をさせるのではないかというのだ。

そんなことを夫が話していたのを思い出したが、ただ何がなんでも絶対に打たないと(私は)決めているわけではない。

将来もしも自分が安心だと思えるようなワクチンが出てきたら、打つかもしれない。

だから「まだ打っていない」は嘘ではない。

LINEに返事を書き込み始めたら、また他の仲間たちからも書き込みが入ってきた。

おやっ、注射とは全然関係のないことを書いてる。

その後に書き込んだ人もほぼ同じで、注射についてはスルーしていた。

これは予想だが、多分3人以外の人はまだ打っていないし、今はまだ打つ気がないのかもしれない。

みんな大人だから、さりげなくスルーしたのだと思う。

ワ○チ○という言葉が、友人同士の会話であってもタブーになりつつあるような今日この頃。

毎日が同じように見えて、実は世の中は間違いなく変わってきているのだと感じる。

 


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カラスアゲハ

2021-08-19 16:13:29 | 日記

来ないなぁ、、、と思いながら今日も庭を見ている。

何を待っているのかと言えば、一匹の蝶を待っている。

ところで蝶の数え方は、正式には動物と同じように頭(とう)を使うのだとか。

だから上の文章は、正しくは「一頭の蝶を待っている」となる。

でも日常では、あまり蝶のことを○頭とは言わないので、あえて匹を使ってみた。「頭」を使うようになったのは、諸説あるようなので、ご興味のある方は調べてみてください。。。

というわけで話の続き。

夏の間ほぼ毎日のように、子どもの手のひらくらいの大きな黒い蝶が、庭の花の蜜を吸うために来ていた。

何という種類の蝶かと調べたら、カラスアゲハだった。

黒い羽根にブルーの模様が美しい。

子どもの頃の私なら、間違いなく虫取り網を持って追いかけていたはずだが、大人になった今は、花の間をひらひらと舞う蝶の姿を見ているだけで満足で、蝶が来るのを楽しみにしている。

そして今日も元気で飛んでいるな、明日も元気でいてほしいなと思う。

それは今まで持っていた蝶々に対する感情とは、明らかに違う。

花から花へ飛び回る姿を見て可愛いと感じるし、姿を見せないとどうしたのだろうと心配になる。

それはまるで大好きな鳥(←趣味が野鳥観察)を、観ている時と同じ感情だった。

実は小学生くらいまでは、蝶を素手で掴むのはまったく平気だったのだが、ある時から虫全般が苦手になった。(とはいえ、虫を怖がる普通の女性よりは大丈夫だと思うが、、、)

特に蝶や蛾は、ひらひらと風まかせで飛ぶのでどこに来るのか分からず、下手するとこちらに向かって来そうな感じが嫌だった。

しかし決定的に蝶が嫌だと思ったのは、素手で羽根を掴んだ時に生暖かい感触があって、それが妙に生々しくて、以来蝶々が苦手になった。

それが今は庭に来るカラスアゲハを、まるで大好きな鳥を見るかのように見ている自分に少し驚いている。

以前、寒さが増してきた秋の日に、庭の鉢植えの葉にしがみついて寒さを耐えているバッタを見て、かわいそうにと思った事があったが、その当時は虫はあくまでも虫であり、鳥や犬や猫などの動物に対する感情と同じものは持っていなかった。

しかし、それが今少しづつ変化してきたと思う。

庭に来る蝶もそうだが、雨の日に窓の外側にとまっている蠅もまた可愛い。

激しく降る雨を避けて、雨の当たらない窓にとまって雨宿りをしている蠅。

賢いな(当たり前か?)と感心するのと同時に、蠅を愛おしく思う。

玄関前を箒で掃除している時、箒に驚いて大慌てで逃げる蟻や名前も知らない虫。

箒や私の足音に驚いて一瞬ビクッとするのが、虫も人と同じで親近感をおぼえる。

驚かさないように、踏んでしまわないようにと気をつけるようになった。

「一寸の虫にも五分の魂」と昔のことわざにあるが、前は分からなかったが、今は実感として少しわかるようになったのは年の功というやつだろうか。

ところで今日もカラスアゲハは来なかった。

一昨日の雨以来、姿を見ていない。

寒かったし、、、

そもそも蝶の寿命は短く、ひらひら飛んでいる成虫になってからだと2週間くらい、卵の時期からトータルしても40〜50日くらいの寿命なのだとか。

短い寿命を一生懸命に生きたカラスアゲハの姿を、今懐かしく思い出している。

 


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ごはんの匂い

2021-08-14 18:25:10 | 日記

今朝7時過ぎに、干しておいた洗濯物を片付けようと、和室に入った途端、ふわっとご飯を炊く匂いがした。

いい匂いだなぁ。

この部屋で嗅ぐご飯の香りが、とても懐かしくて思わず鼻をくんくんさせた。

義母が生きていた頃、義母は毎朝お釜でご飯を炊いていた。

その香りが、いつも義父母たちの部屋の隣にある和室にまで漂っていた。

そんなご飯を炊く匂いが和室でしなくなってから、もうずいぶん経つ。

義父が亡くなって一人になっても、仏壇に供えるために義母は毎朝ご飯を炊いていた。

しかしそれも施設に入所するまでだから、ご飯の匂いしなくなって三年くらいだろうか。

義父母と暮らしていた時は思ってもいなかったが、義父母が居なくなってみると、やはり懐かしさがこみ上げる。

ところで、どこからこの匂いが漂ってきたのだろう。

家中の窓は全部閉めているし、仮に開いていたとしても、ご近所の家のご飯を炊く匂いが漂ってくることは、今まで一度も無い。

また今日は土曜日で、いつもお弁当を持っていく長女と次女が休みの為、我が家はご飯を炊いていなかった。

だから家の中でご飯を炊く匂いがするのは、とても不思議だった。

ちょうど起きたばかりの夫が寝室で身支度をする音が聞こえたので、夫にもこの香りを確かめてもらおうと呼びに行った。

「和室でご飯を炊く匂いがするんだけど、確かめてくれる?」

そう言うと、夫はすぐに和室へ行って鼻をくんくんさせた。

「べつに匂いはしないけど」と夫。

そんな筈はないと、私も一緒に鼻をくんくんさせたが、つい今までしていたご飯を炊く匂いがまったく消えている。

「変だなぁ。今までしていたのに」と言うと、夫は隣の部屋、つまり義母が生前いつもご飯を炊いていた場所まで行って匂いをかんだが、やはり匂いはしなかった。

こうして匂いの元を辿りながら、義母が来ているのかなと思っていた。

今はもう義父母の部屋は、夫の部屋としてすっかり模様替えして、義母がいつもご飯を炊いていたガス台も無いが、義父母が生前と同じように、朝ごはんの支度をしている様子が目に浮かんだ。

私たちの目には見えないが、義父母たちが暮らしていた部屋が重なって存在しているように思えた。

ところで調べてみると、このように何も匂いの元がないのに香りがしてくることを芳香現象というのだとか。

私は前にも一度経験している。

それは今からもう30年以上前で、母が亡くなってしばらく経った頃のこと。

夜一人で母のことを考えていたら、急に周囲にお線香の香りが立ち始めた。

とても良い香りだった。

その時も今回と同じく匂いの元を探したが、窓は開いておらず、部屋の中には一本のお線香も無かった。

でも、母がそばに来ているんだと嬉しかった記憶がある。

なんとも不思議ではあるけれど、義父母がお盆でちゃんと帰ってきているんだと思うとやはり嬉しい。

ゆっくり楽しんでいってほしいと思う。

 

 


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内への旅

2021-08-11 21:28:32 | 日記

最近見る夢(将来の夢じゃなくて、寝ている時に見る夢)が楽しい。

とにかく毎晩多くの人たちが出てきてお喋りする。

夢の内容はすぐに忘れてしまって何を話したか覚えていないのだが、朝起きると、いつも心地良さが残っている。

夢に出てくるのは、大体知らない人が多い。

しかし今朝は珍しく夢を覚えていて、夢の中に亡くなった義父母がいた。

義父母はにこにこ嬉しそうにしながら、出かける準備をしていた。

義父母が出かける先は、我が家。

義父母とは同居していたので、出かける先が我が家だなんて、起きてからおかしな話だと思ったが、少し考えてわかった。

もうお盆が近いのだ。

お盆には、やっぱり亡くなった人たちが帰って来るのだなとあらためて思った。

それにしても、こんなに夢が楽しいと、ずっと夢の中にいたいと思ってしまう。

こちらの世界で肉体を持って生きるよりずっと楽で楽しそうだ、、、という考えが浮かんできたので慌てて否定した。

何のために私は生まれてきたのか。

今生の課題をやり切るために生まれてきたのではなかったのかと思い直す。

とはいえ肉体はすぐに疲れを感じるし、肉体を持って生きていく為には、仕事や家事などやらなければいけないことがたくさんある。

生きるって大変だなぁとつくづく思う。

だからこそ日々の中で、小さくても自分の楽しみを持つことが大切なのかもしれない。

私の楽しみは何だろう。

温泉に温冷浴に、、、そうそうネット動画でアニメを見るのも好きだ。

鬼滅以来、すっかりアニメの面白さにハマってしまった。それから読書も、、、

しかし、それよりも今一番興味があることは、自分の内面に入ることかもしれない。

先日の海でやったように深い呼吸をしてということもあるが、ほとんどは家事をしながらで、知らないうちに内面に入ることがある。

こういう時は、声をかけられても聞こえないことが多く、心の中はとても平和だ。

静かな海に漂っている気持ちになる。

いつもこんな平和な心でいたいのだけど、そうは簡単にいかず、時には目や耳から入ってくる様々な情報にイラッとしたり、そうかと思えばイラッとしている自分が嫌になって気分が落ち込んだりすることがある。

静かな海どころか荒れ模様の海だ。

でも、これも貴重な学びで、自分の直すべき弱点、今世での課題が明らかになる。

ネガティブな気持ちの中に入ることはとても辛いが、第三者になったつもりで自分を眺める。

自分のことは自分がよくわかっているのかと思うが、思いもよらなかった自分に出会えることがあって、内面への旅はなかなか面白い。

とはいえ、夫の言葉を借りると私は変態、、、じゃなかった、変人なのだそうで、それは私も自覚があるので、内面へ入ることは特におすすめはしない。(でも、たまにはいいかも)

日々の生活は、いつも面白おかしい事がある訳ではなく、ただ淡々と過ぎていく。

毎日、変わらない生活が送れる事とは、本当はこれだけでも大変ありがたいのだが、その中にちょっとでも自分の楽しみが見つけられたら、心はより平和で幸福感が増すように思う。

 

 


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マスクとカモメ

2021-08-07 17:25:39 | 日記

あまりに暑いので海へ行ってきた。

苫小牧ふるさと海岸。

ここは海水浴場ではなく、海を眺めたり、足だけ海水に浸かったりする公園のような海岸。

フェリーや貨物船が多く発着する苫小牧の海は、急に深くなっているので海水浴場はないのだそうだ。

この日は暑かったので、子ども連れの家族が多く、砂浜でお弁当を食べたり水遊びをしたりしていた。

穏やかで幸せな、違和感の無い自然な風景。

違和感の無い自然な、、、と思うのは何故かと思ったら、この海岸に居る人は私を含めて、誰一人マスクをつけていないのだ。

まあ密ではなく、人と人との間が十分過ぎるくらい開いているので、マスクをしなくても大丈夫なのだが、2年ぶりに見た誰もマスクをしていない風景は、なんだかとても新鮮だった。

今やマスクをつける生活が、当たり前になった。

スーパーに入ってから、うっかりマスクをするのを忘れていたことに気づくと、まるで服を着て来るのを忘れたかのように恥ずかしく感じることがある。

どこの店も入口に「マスク着用のお願い」というのが貼ってあり、そこに居る全ての人がマスクをしているので、買い物に行く時は、財布と同じくらいマスクは重要なアイテムになってしまった。

もちろんそれは、感染を防ぐためなのだが、それほどマスクが生活の中に浸透してしまったということだろうか。

ところで、お店でマスクを忘れると恥ずかしく思う私だが、外を歩く時は、よほど周囲に人が大勢いない限りマスクをしない。

人が多く集まっている店などでマスクを付けるのは仕方としても、ほとんど人がいない屋外で、花粉症でもないのにマスクをつけるというのが不思議でならない。

しかも、今は熱中症が心配になるくらいの暑さ。

しかし、この暑さの中であっても、道行く人は周囲に人が誰もいなくても、ほぼ98%の人がマスクをされている。まるで洋服を着るように。

もうマスクの扱いは、洋服と同等になったのかもしれない。

ただ洋服と違うのは、マスクは使い方を間違えると(身体に)危険ということだろうか。

さて、ふるさと海岸で海を見ていたら、とても気持ちが良いので、目を閉じて深い呼吸をしてみた。

波の音と深呼吸で、とてもリラックスできる。

しばらくして目を開けたら、すぐそばにいたカモメと目があって驚いた。

その距離、わずか40センチくらい。手を伸ばせばさわれそうな近さにカモメがいる。

どーしたの?と聞きそうになったくらい、じ~っとこちらを見ているカモメ。

写真手前が、近くにいたカモメ。

実はこのカモメ、他のカモメより身体がひとまわり小さい。

最初はまだ子どもなのかと思ったが、よく観察していると、どうやら他のカモメからいじめられているようだった。

身体をつつかれ、尾羽を引っ張られてかわいそうだったが、相手は野生動物なので何もしてあげられない。

なんとか強く生き抜いて欲しい。

海のそばでマスクをせずに深呼吸をしてとてもリラックスできたが、最後に少しカモメに心を残して帰ってきた。

 


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燃える指

2021-08-04 15:45:58 | 日記

暑い日が続いております。

いつもの年なら、このような暑さが続いてもせいぜい一週間くらいで、あっという間に秋を感じさせる涼しさになり、息苦しいほど暑かったことを懐かしく思うのに、かれこれもう二週間以上続いている。

天気予報によると、この先まだこの暑さは続くとか。

こんな長い猛暑が今後も続くのなら、妹宅でもついに買ったというクーラーを、考えてもいいのかもしれない。

ちなみに道内ではクーラーを買う人が続出しているそうで、今注文しても来るのは来年の春になるとか。

来年の春かあ、、、その頃はまだ寒いから「おまたせしました。クーラーつけに来ました」と言われたら断ってしまうかもしれない。

とりあえず、あと少しで涼しくなるはずだと思いながら、扇風機フル稼働で耐え忍ぶ。

ところで先日、ふと自分の指先を見たら指先から炎があがっていて慌てた。

青色が時折混ざる紫色の炎が、両手10本の指先でゆらゆらと揺れている。

暑さでついに手まで燃え始めたかと思ったが、それは以前にも見たオーラ(たぶん、、)と言われるものだった。ちなみにオーラは、練習すれば誰にでも見えるものだと思う。

二年くらい前に見た時も青の混ざった紫色だったが、色はその頃と変わっていないようだ。

面白いなあと見ていたら、夫がやって来たので「今自分のオーラが見えているよ」と教えると、夫は自分の両手を出して「見て」と言う。

このパターン、二年前と同じだ。

その時も夫が見てほしいと言ったのだが、手を出しながら「まだ?まだ?まだ見えないの?」とうるさく急かすので集中できず、結局見えなかった。

今回はどうだろう。

どれどれ、、、と夫の手を取って眺めると、今回は、はっきりと見えた。

夫の指先から出ているオーラの色は、レモンイエロー。

60過ぎのおじさんが出す色としては、あまり似合わない色かと思ったが、指先の周りにきれいなレモンイエローが見えた。

レモンイエローだと伝えると「レモンイエローってどんな意味があるの?」と夫に聞かれた。

どんな意味って、そんなこと知らない。わかるのは色だけ。

すると、夫がネットでレモンイエロー色のオーラの意味を探し出した。

見せてもらうと、当てはまる部分もあれば違うかなと思う部分もある。

こういうのを見ると、オーラって占いと同じようなものなのだろうかと思う。

若い頃は興味があった占いだが、今はすっかり興味を無くしてしまった。

ただオーラ占いは興味がないが、人によって違った色を発するオーラ自体は、とても興味深い。人体の不思議だと思う。

 

 


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