ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

道東を巡って

2020-07-31 15:18:41 | 旅行

夫の故郷へ行ったついでに観光もしてきた。

道東と言えば湿原、阿寒湖、オンネトーなど見どころ満載?なのだが、鳥好きとしては「丹頂鶴」は外せない。

夫曰く「子供の頃は、カラスと同じように家の上を飛んでいた」と言い「めずらしくも何ともない」と言うのだが、私は釧路で家の上を飛んでいる鶴なんて見たことが無い。

むかし遠くからゴマ粒くらいの大きさの鶴を見たことはあるが、今回はぜひ近くで日本最大の鳥、丹頂鶴を見てみたいと思った。

そこで鶴を保護繁殖している丹頂鶴自然公園へ行ってみた。

丹頂鶴は、江戸時代まで日本各地で(江戸でも)見ることができたが、徐々にその数は減り絶滅したと思われていた。しかし、1924年に再び釧路湿原で発見される。

その後、北海道では丹頂鶴を保護するため土地の買い上げや冬の給餌などを行ってきたが、保護増殖を目的として1958年に丹頂自然公園が開園したそうだ。

丹頂自然公園の中では、金網で囲った敷地に丹頂鶴のつがいが飼われている。二羽の間にいるのは、今年7月初めに生まれたヒナ。

雄と雌が交互にヒナに餌を運んで子育てをしている。

ヒナは約100日ほどで親と同じ姿にまで成長し、来年にはここから野生へと巣立っていくそうだ。

ちなみに現在は丹頂鶴の数は増え、2015年の調査では1600羽を数えたとか。

車を走らせていると、何度か道路脇の原野で野生の鶴を見たので、今はさらに数が増えているのかもしれない。

いつの日か、東京の空を飛ぶ丹頂鶴が見たいなぁ~なんて夢は膨らむ。

それにしても今回の旅行では鶴だけでなく、フクロウもよく見かけた。

・・・といっても作りもののフクロウなのだけど。

迫力のあるフクロウ↓(阿寒湖のアイヌコタン)

可愛らしいフクロウ↓

おや、こんなところにもいた!(ホテルの屋根)

最後に鳥ではないが、馬の絵がとても良かったので載せたいと思う。

神田日勝美術館↓

朝ドラを観ている方なら分かるかもしれないが、ドラマ「なつぞら」で主人公なつの幼馴染の青年画家・山田天陽(吉沢亮さん)のモデルになったのが神田日勝。

美術館で神田日勝の生い立ちや32年間の短い生涯などを読むと、ドラマではほとんど忠実に再現していたのだなぁと思う。

昭和12年、東京で生まれた神田日勝は7歳の時に戦火を逃れるため、戦災者集団帰農計画で拓北農兵隊に加わり、一家で北海道へ渡ってきたそうだ。

国からの援助はほとんどなく、農機具も満足にない中での開拓生活は苦難の連続だったという。

あまりの苦難に東京から一緒に来た仲間たちは次々に脱落して行ったが、神田一家はなんとか入植地の鹿追に定着することができた。

神田日勝は、後に東京藝術大学に進んだ兄の影響で絵を描き始める。

自らを農民画家と呼ばれることを嫌い、「農民である。画家である」と区別して語っていたという神田日勝の絵は、農耕馬を描いたものも多い。

ちなみに有名なのは、美術館の正面にも飾られている後ろ足が描かれていない馬の絵。

描いている途中で病に倒れたため絶筆になってしまったそうだが、ベニヤ板に描かれた馬は、その毛並みの重厚さや独特の雰囲気もあって、未完とは思えないほど完成した絵に見える。

32歳という若さで亡くなってしまったので、作品はそれほど多くは無いが、作品を見て行くと、日勝の力強さ、喜びと悲しみ、苦悩と迷いなどがそれぞれの絵から感じられて、作品の前からしばらく離れられないということもあった。

今年2020年は神田日勝没後50年ということで東京・鹿追・札幌の三会場を巡って展覧会が開かれている。

東京はすでに終了し、現在は鹿追で開催中、9月19日からは札幌近代美術館で観ることができる。よかったらどうぞ・・・

 


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夫の実家

2020-07-29 15:30:49 | 旅行

道東出身の夫が故郷で友人に会うと言うので、旅行を兼ねて行ってきた。

夫の故郷の釧路市は、義父母と同居するまで毎年、年に2~3回ほど帰省していた。

釧路市は札幌から車で7時間以上。飛行機で沖縄へ行くよりも時間がかかる。

子どもが小さかった頃、連れて行くのはかなり大変だった。

すぐに車の中で飽きてぐずり始める為、何度も途中で止まっては遊ばせながら行ったので余計に時間がかかった。

やっと到着すると、今か今かと楽しみに待っていた義父母に子どもたちの世話を任せ、私は早速食事準備に取り掛かる。

身体は疲れていたが、夫の実家では常に緊張感マックスだったので(若かったのね・・・)精神的疲れはあっても家事の疲れはあまり感じなかった。

でも釧路へ帰省することが決まると、毎回かなり憂鬱な気分になったのは事実だった。

さて、そんな思い出のある釧路へ行くのは、義父母と同居して以来16年ぶり。

もう夫の実家へは行かないし、長いドライブでぐずり始める幼子も連れていない。

徐々に近づく夫の故郷を、今は楽しみにしている自分がいるなんて、あの頃の私に教えてあげたい。

(大丈夫。釧路が懐かしくて、行くのが楽しみになる時がくるよ~と)

釧路市内に入って最初に行ったのは、町を流れる釧路川にかかる「幣舞橋」(ぬさまいばしと読む)

何度この橋を渡ったことかと懐かしい。

あの頃、幣舞橋から見た夕日の美しかったこと。

ちなみに幣舞橋から見る夕日の美しさは有名だそうで、インドネシアのバリ、フィリピンのマニラと並んで世界三大夕日と言われているのだとか。(ホントかな~)

さて食事は、市内の老舗蕎麦店「竹老園」へ行った。竹老園はとても有名な店で、上皇陛下が皇太子時代にご夫妻でいらっしゃったそうだ。

普通はこちら↑の入り口から入るのだが、座敷を要望すると庭に面した写真↓の入り口から入る。

竹老園のお蕎麦は綺麗な緑色で(緑色じゃないお蕎麦もある)白い更科粉にクロレラを加えてある(ん?グリン麺と同じ?)

竹老園は釧路へ行くと必ず食べに行ったものだったが、今回は16年ぶりの訪問。16年経っても味は変わらずおいしかった。

ところで竹老園でお蕎麦を食べていたら、結婚が決まって初めて釧路の家を訪れた時のことを思い出した。

義父母がわざわざ竹老園のお座敷を予約してくれて、コース料理を二人の姉の家族も一緒に大勢で食べた。

その時のことは、緊張していて味はほとんど覚えていないのだが、唯一そば寿司がめずらしくてすごく美味しいかったことが記憶にある。

あの時、夫の家族は初めて来た私をみんなで精一杯歓迎してくれていたんだ。そう思ったら胸の奥がきゅんとなった。

そして最後は、今はもう知らない他人が住んでいる実家へ行ってみた。

当時の庭があった場所には建物が建っていて、周辺はすっかり様変わりしていた。

実家の建物もリフォームして少し変わっていたが、家はほとんど当時のまま残っていた。

あの窓は台所、あの窓はリビング、あそこは二階へ続く階段の窓。

懐かしく思い出しながらふと横を見たら、遠い目をして家を見ている夫がいた。

ああ私よりずっと感慨深いのは、ここで育った夫の方だった。

 

 

 


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教訓

2020-07-24 15:42:20 | 日記

今日は世間では休日だけど、長女は仕事だった。

長女の仕事はカレンダー上の休日は関係なく、むしろ休日の方が忙しくなる。

しかしコロナで仕事がしばらく無かったことを思えば、仕事に行けるだけありがたい。今朝も張り切って仕事に出かけて行った。

ところで祝祭日は公共機関のダイヤが変わるので注意しなければいけない。

今朝も時刻表をしっかりチェックして送り出したのだが、「いくら待ってもバスが来ない」と長女が帰ってきた。

よく調べてみたらコロナの影響でバスの便数が減らされていた。(あちゃ~)

次のバスを待っていたら仕事に遅刻してしまうため、急遽夫が地下鉄駅まで車で送ることになった。

夫と長女が出かけた後、そろそろ長女を送った夫が帰って来る頃だと思っていたら、夫が慌てて帰って来た。

「今電話が来て、降りる駅を間違えて一つ先で降りたらしい。降りたことがない駅で、どうやって戻ればいいのか分からずパニックになってる。とにかく駅員さんに聞けと言ったんだが・・・」と夫が言った。

しばらく待っても長女から連絡がないので、長女の携帯に電話をかけるとすぐに長女が出た。

「駅員さんに聞いて戻る方のホームに着いた」という。

まだパニックの余韻は残っているが、とりあえず分かってよかった・・・と思ったら、しばらくして長女から電話がきた。

「いつもの駅に着いたんだけど、どっちが会社の方角なのかわからない。歩いている道がいつもの道と違うみたい」

文字で書くと冷静に話しているように思えるが、実際はかなりパニックになっていた。

地下鉄駅は、降りるホームによって出口が違うこともある。

長女はいつもの出口とは違う所から地上に出たようで、違った景色を目にして再びパニックになりかけていた。 

「この道でいいんだよね?なんか見たことがない場所なんだけど」という長女に夫は「すぐに迎えに行く」と言ってる。

迎えに行くと言っても、そこに着くまでかなり時間がかかる。

「落ち着いて!今歩いている道は間違っているから、来た道を戻ってもう一度駅に行きなさい」と長女に伝えて電話を切った。

電話を切ってから夫とどうしたらよいか相談した。

あちこち歩き回って迷ってもいけないので、やはり夫が迎えに行った方がよいかということになった時、また長女から「駅に戻ってきた」という電話がきた。

「落ち着いて周りをよく見なさい。見たことのある建物とかない?」と言うと、最初は「ない」と言っていた長女だったが、突然「あった!見たことのあるお店があった。わかった!こっちだ!」という明るい声に変わった。

会社の始業時間まであと10分。急げば間に合う。

「急いで!」と言って電話を切った。

本当にヒヤヒヤしたが、このような経験ができてよかったと思う。

失敗は成功(うちの場合は成長かな)のもと。

今回のことで私は休日ダイヤは念入りにチェックすべしということを学び、長女は乗り過ごしても慌てず駅員さんに聞くという事と、道が分からなくなったら、落ち着いて見覚えのある建物を探すという事を学んだ。

その前に乗り過ごさないことが一番大事なんだけどね、、、

 

 

 

 


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指が痛い

2020-07-22 13:36:33 | 健康

最近、左手の人差し指が痛かった。

40代後半頃から指の第一関節が腫れるへバーデン結節になっていたが、たまにエクオールのサプリメントを摂り、食事も大豆製品を意識して摂っていたせいか、指の痛みはなく進行は止まっているかのように思っていた。

しかし、今年に入ってから左の人差し指の先に違和感を感じるようになり、ついにはちょっとした圧力で飛び上がるくらい痛むようになってしまった。

ほかの指は大丈夫なのに、なぜ左手人差し指の先だけが痛むのか分からなかったのだが、いつものように室内灯のスイッチを押した自分の手を見た時に理由が分かった様な気がした。

もしかして左手の人差し指を使い過ぎてるのかもしれない。

そう思って、手を使う時に意識して自分の手を観察してみると、思った通り左手の人差し指を多用していることがわかった。

例えば拭き掃除で雑巾を持つのは左手で、特に細かな部分を拭く時は、左の人差し指を使っている。指先に力を入れてゴシゴシと・・・

また、室内灯のスイッチのように何かを押すという動作、つまむ動作も全部左の人差し指の先を使っていた。

子供の頃からほとんどのことは右手でするのだが、細かい作業をしたり無意識に使う時は左手の方が使いやすかった。

動作によって右手と左手を使い分けてきたように思う。

左利きは遺伝するとかしないとか、その辺は不明だが両親も祖父母も右利きだったが、父方の親戚には左利きが数名いた。

きょうだいでは弟が完全な左利きで、妹は右利き。そして私は動作によって左右を変える。

今まであまり意識していなかったが、意識してみると、けっこうな比率で左手(特に人差し指)を使っているのが多いことに気が付いた。

それからはなるべく左の人差し指を使わないようにしたら、少しずつ痛みが無くなってきた。

ちなみには、へバーデン結節にはカルシウム&マグネシウムが良いというのを読んだので、そちらも飲み始めたのだが、痛みが無くなってきたことの相乗効果もあるのかもしれない。

身体に痛みなどが出て行動が不自由になると、つくづく身体のありがたさを思う。

足を骨折して松葉づえになった時、普通に歩くことができる足を持っていたことがどんなにありがたいことか身に染みたはずだったのに、のど元過ぎればナントやらで身体に対する感謝を忘れていた。

というわけで、最近は夜に布団に入ると自分の身体に感謝してから眠るようになった。

「両足さん、今日も色々な所に連れて行ってくれてありがとう。両手さんもたくさん働いてくれたね、ありがとう。内臓さん、休まず働き続けてくれてありがとう」という感じ。。。

ちょっとメルヘンチックだが、なんとなく温かい気持ちになる。

そして、そのあとに気持ちよく眠れるというのは気のせいだろうか。

 

 


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夏の一日

2020-07-18 19:37:59 | 日記

最近散歩をしていると、電話ボックスを新しく設置している光景を目にする。

携帯電話の普及によって、一時は公衆電話がどんどん撤去された。

今や小学生でも携帯電話を持っていて、最近では公衆電話のかけ方を知らない子どもが増えたのだとか。

それなのに再び電話ボックスがあちらこちらに建てられ始めたというのは、災害を想定してのことだろうか。

災害の時、携帯電話は不便だ。

災害時、携帯電話は警察や消防への連絡が優先されるため通信制限がかかって繋がらなくなる。

また停電では、充電ができず使い物にならない場合がある。(2018年のブラックアウトの時がそうだった)

しかし、公衆電話は通信規制や停電の影響を受けないそうだ。

災害時優先電話として、停電の時でも無料で使うことができる。

東日本大震災の時、ちょうど青森にいた夫と息子が公衆電話を使って連絡をしてきたが、あの時は公衆電話があってよかったと心から思った。

ところで散歩コースに新しく電話ボックスが2か所作られているのをみて、最初は減っているのに珍しいと思ったが、実は減っているように見えて、2011年以降公衆電話の設置は増えているそうだ。

災害が多くなった今、いつもの散歩コースに電話ボックスができたことは心強い。

災害と言えば、「災害時の避難袋に足してください」という声がラジオからよく聴こえてくるようになった。

合言葉は「たします」だそうで、体温計の「た」、消毒液の「し」、そしてマスクの「ます」なのだとか。

コロナという新たな災害?が加わったので、避難袋に体温計、消毒液、マスクの三点を加えたほうがいいのだろう。

昨今の災害の多さ、そして世界中が大騒ぎのコロナ。国内さえも自由に行き来ができなくなるとは、昔は想像もしていなかった。

ところで海へ行ってきた。札幌から近い石狩浜の海水浴場。

今年はコロナの影響で石狩浜海水浴場の開設は中止されたが、自己責任で砂浜でくつろいだりすることはできる。

人が少ないので、ゴミも少ない。またとても静かでいい。

海岸には、人の代わりにカモメがたくさんいた。

一緒に行った家族が「ここは沖縄かハワイだと思えば、なんだかそんな気がしてきた」と言うのには笑ってしまった。

たしかに~そう思えなくはなかった。

騒がしい音楽がない夏の海水浴場で、波の音を聴きながら夏の一日を過ごして来た。

石狩浜もなかなかいい・・・

 


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筋肉は裏切らない!?

2020-07-14 15:35:20 | 健康

これまで何度か筋トレをしていることは書いたが、今やすっかり筋トレにハマってしまって毎日15分程度だが、筋トレを続けている。

あっ、毎日というのは間違いでした・・・正確にいうと、筋トレは週に6日で1日は筋トレをしない日を作っている。

読んだ本によると、筋トレは筋肉の肥大のためには、週2がベストなのだそうだ。

毎日すると、筋肉の修復が間に合わず疲労で腱や靭帯に障害を起こすおそれが出てくるそうで、休むことも筋トレの一環なのだとか。

と言っても、それは1日の筋トレの量が多い人の場合で、家事の合間に1日15分程度の筋トレなら、1週間のうち1日休めばよいくらいだという。

ちなみにトレーナーについて、ちゃんとした筋トレをやったことがないので、自分の行っている筋トレが正しいのかどうか分からないが、一応そのようなサイクルで日々こなしている。

そうそう、筋トレの前には必ずラジオ体操第一と第二を行っている。

これは固まった筋肉や関節をほぐすのにとても良い。

そして筋トレは、日によって上半身、下半身に分けてやっている。

筋トレを始めて、まず一番最初に肩と腕に筋肉がついてきたのがわかった。

腕立て伏せで大胸筋を鍛え、忘れがちな背中も鍛えていた。

すると、なんとこの歳にして胸が大きくなった・・・と書くと、女性らしい胸を想像してしまうが、実際は男性のボディビルダーのお胸のように筋肉がついて大きくなったのだと思う。

そして腕。こちらも久しく見ていなかった力こぶが見え始めた。

歳をとって振袖のように揺れる上腕にはなりたくないと思っていたので、小さくても力こぶが現れてきたのは嬉しい。

上半身はこんな感じで筋トレの効果が目に見えて分かるようになっていたのだが、問題はおなかでなかなか目に見える効果が出なかった。

しかし、ここに来てやっと変化が現れてきた。

まずウエストのサイズが少し小さくなった。

今まできついくらいだったズボンが、余裕で入るようになった。

また平熱が上がったのも嬉しい変化だった。

これまでの平熱は低くていつも35.8℃くらいだったが、今は36.4~5℃くらいになった。

こうなると、筋トレも楽しくなってくる。

もっと筋肉をつけたくて頑張ってしまう。

しかし筋肉がついてくると、なんだか身体が大きくなってきたような気がするのは気のせい?

しかし、もはやこの年齢(59歳)になると、怖いものは無い。

大きくなるのは全然かまわない・・・なんて、小さくなりたかった若い頃とは大違いの自分がいる。

というわけで長く続けていると、今までやっていたメニューが楽にできるようになってしまったので、ダンベルを持ってスクワットをやったり回数を増やしたりして負荷をかけている。

それにしても、いくつになっても身体は変わっていくのだなぁと思う。

「筋肉は裏切らない」って本当なんだ・・・ということを今実感している。

 


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お昼ごはん 夏の定番 

2020-07-11 16:00:46 | グルメ

7月になり徐々に暑い日が増えてきた。

暑くなってくると食べたくなるのが、グリンめんのトマトだれ。

グリンめんというのは、「緑色のひやむぎ」のようなもので子供の頃からの食べなれた味だが、これが北海道発祥だと知ったのは最近のことだ。

(ちなみに同じく道産子の夫も子供の頃から食べていて、子供の頃はひやむぎ=グリンめんだと思っていたとか)

北海道以外でも売っているのかどうかわからないが、道内ではどこのスーパーでも売っているのではないかと思う。

グリンめんの緑色はクロレラを練り込んでいるからだそうだが、味はごく普通のひやむぎと変わりない。

変わりないのだけど、ひやむぎとグリンめんの二つが並んで売っている場合は、食べ慣れているせいかグリンめんの方をカゴに入れてしまう。

というわけで、グリンめんでもひやむぎでもどちらでもよいのだが、冷たい麺をトマトだれで食べるとたいへん美味しい。

トマトだれの作り方は簡単で、普通のひやむぎのたれにトマトをサイコロ状に切って(あまり小さすぎない方がよいかも。一口大よりやや小さめくらい)入れる。

そこへごま油をたらりと入れたら出来上がり。

辛いのがお好きなら、さらにラー油をたらしてもいいし、酸っぱいのが好きならお酢をちょっぴり入れてもよい。

また、白ごまや青じそを追加してもおいしい。

ほかにも好みでいろいろ試して入れてみるとよいと思うが、絶対に外せないのがトマトとごま油。

私は、これだけでも十分おいしいと思うのだが、家族がどうしても青じそを入れたいと言った。

青じそは、毎年庭にたくさん生えてくる。

そこで庭に青じそを見に行ったのだが、まだ収穫するには小さすぎた。

少量しか使わないのに買ってくるのがもったいなくて、仕方が無いので小さな青じそから一枚だけ葉っぱを頂いた。

右側の葉っぱを採ったあとの青じそ↓ なんだか痛々しい姿になってしまった・・・

青じそは毎年こぼれた種から芽がでて大きく育ってくれる。

8月には食べきれないくらいになるのだが、今はまだどれも小さい。

ところで青じそは認知症の抑制に効果があるそうだ。

アルツハイマーは、たんぱく質のアミロイドベータが凝集蓄積されることで発症することが分かっているが、青じそにはそれを抑制する効果があるのだとか。

今のところ青じそに匹敵する効果のある植物は見つかっていないそうだ。

アルツハイマー予防の為にも、まだ小さな青じそを大切に育てねばと思う。

家族には、しばらくは青じそ無しで食べてもらおうか・・・

 


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函館旅行

2020-07-07 15:49:57 | 旅行

九州地方の豪雨で大変な被害が出ているとのこと。

コロナでまだ経済活動が停滞しているというのに、追い打ちをかけるようで本当につらい。

大雨でほとんどのバスが水に浸かってしまったというバス会社の方が、インタビューを受けながら泣いていたお姿が気の毒で仕方がなかった。

このような大変な状況なのに、お気楽な記事をあげるのが非常にはばかられるのだが・・・実は先週末、函館へ一泊の旅行へ行ってきた。

今は道内の宿泊施設や体験チケットを安く利用できる「どうみん割」のクーポンが出ており、それを利用して行った。

さてホテルを安くして頂いたので、今回はちょっと高めのオーシャンビューの部屋を取った。(少しでも還元せねば・・・)

部屋から見える津軽海峡。

津軽海峡をはさんで向こう側にうっすらと見えるのは下北半島。

道内の天気予報では、必ず「津軽下北」のお天気も言うくらいで、青森は意外と近い。

あ~本州へ行きたい。青森さ行きたい。

不思議なもので見えているのにすぐに行けないとなると、無性に行きたくなる。

今年は国内のいろいろな場所を旅行したいと思っていたが、コロナの影響でどうなることやら。

さて函館では、ホテル近くの海辺を散歩したりして過ごしていた。

今回はあまり観光名所には行かなかったのだが、唯一行った観光名所が立待岬(たちまちみさき)

アイヌ語の地名は「ヨコウシ」といい魚を待ち伏せするという意味だそうだ。

アイヌ語の「魚を獲ろうと立って待つ」という意味から、立待という地名になったとか。

津軽海峡に突き出した岸壁が絶景なのだが、残念なことに観光客の姿はまばらにしかいなかった。

外国の観光客はまだ皆無だが、クーポン配布で道民が動き始めたとニュースで言っていた為、ホテルも混んでいるのでは?と思ったのだが、予想に反してガラガラだった。

これは多分、各ホテルのクーポン取り扱い量が決まっている為、クーポン以外のお客がいなかったのではないかと思う。

そのため食事の時など、お客と同じくらいの数いる従業員さんに恐縮するほどサービスをして頂いた。

これが続いたら観光業はますます大変だろうな、なんてことを考えていたのでゆっくりすることはできたが、ちょっと寂しい気分も。でも温泉は貸し切り状態で最高だった。

ところで旅行中にちょっと、いやかなり嬉しいことがあった。

それは、なんと泊まっていた8階の部屋にカモメのお客さんが来てくれたこと!

窓枠に止まって、こちらを見ているカモメ。

ふと窓をみると「カモメや野生動物にエサをやらないでください」というステッカーが貼ってある。

う~ん、たしかに窓を開けて何かあげたくなってしまうのだが、ここは我慢してカモメを観察していた。

ガラス一枚でまじかでカモメを観察できたのだが、くちばしに貫通している細い穴が開いていることを発見。

水がちゃんと抜けるようになっているのだと、妙に感心した。

カモメも近くで見れたし、美味しい食事と最高の温泉を楽しんだ函館旅行だった。

 


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梅干作り

2020-07-02 20:26:55 | 日記

作り置きの梅干を食べてしまったので、今年は三年ぶりに梅干を漬けた。

今まではできるだけ減塩にして作っていたが、今年は塩分20パーセントにして漬けてみた。

梅を塩で漬けたのは6月24日だが、今日見たらしっかり梅酢があがっていたので紫蘇を入れることにした。

紫蘇を量ると250グラムだった。

梅が3キロなので、もう少し紫蘇があってもよかったかなと思ったが、雨の中また紫蘇を買いに行くのも面倒なのでこのまま続行。

紫蘇の塩分は、梅の時よりやや少なめの17パーセントくらいにした。

力を込めて紫蘇を揉み灰汁を出す。

紫蘇を揉んでいると、子どもの頃に母が紫蘇を揉んでいる姿を思い出す。

母が紫蘇を揉むと、きれいな紫色の汁がたくさん出た。

その汁をどんどん捨てていくのを見て、こんなにきれいな色水なのに勿体ないなあと思ったものだが、今は母と同じことをしている。

子どもの頃は分からなかったが、しっかり揉んで灰汁を出さないと、きれいな色の梅干しにならない事ということを、自分が梅を漬けるようになって分かった。

今はインターネットで梅干しの作り方や動画もあるので、初めて作る時でも困ることはないが、ふと思い出す子供の頃に見た母が作っている姿が今とても参考になっている。

また山菜の下ごしらえなども梅干しと同様に、子どもの頃に母がやっていた事を思い出しながら作っている。

今はいくら見ていても長く記憶に留めておく自信は無いが、10歳にもなっていない頃の記憶は、さすがに残っているものだと思う。

これは脳の若さもそうだが、面白いなと興味津々で見ていたからかもしれない。歳をとって色々な経験を積むにつれて、興味津々になれる出来事も少なくなってきた。

なんでも面白くて興味津々だった子どもの頃のようには戻れないが、できるだけ「子供心」を持ち続けたいものだと思う。

塩漬けした梅に紫蘇をのせて重石をしたら、このまま2週間くらい待つ。

ちょっと紫蘇が足りなかったのが気になるが、きれいに赤色になっているといいなあ、、、、

 

 

 


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