ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

自然界の循環

2022-05-31 15:45:21 | 日記

庭からふと裏の森を見たら、一匹のキツネが死んでいた。

死んでいたのは大人のキツネだったが、なぜこんな住宅に近い場所で死んでいたのだろうと思った。

車が通れない森の中なので、交通事故というのはあり得ない。

また自然死ならば、もう少し人間のいない森の奥で死ぬのが、普通なのではないだろうか。

それとも他の動物に襲われたのか?

よく見ると、内臓の一部が出ている。

じゃあ襲った動物は何だろう?もしかしてヒグマとか、、、、怖

ここ数年、住宅地近くにヒグマが現れるようになってから、昔はよく裏の森を散歩している人を見かけたが、今はヒグマと鉢合わせするのを恐れて、歩く人はほとんどいない。

ただ今回のキツネは、ヒグマに襲われたのではないだろうと思う。

ヒグマなら襲ったキツネを食糧にするのではないかと思うが、キツネの亡骸は完全な姿のままだった。

それにしても、こんな家の側でキツネが倒れていてどうしよう、、、と思った。

土に埋めてあげれば良いのだろうけど、鳥とはあまりにも大きさが違いすぎる。

キツネは小ぶりな中型犬くらいあるし、運んで埋めるのも抵抗がある。

自治体に連絡すべきかと思ったが、そもそもそこは人が住んでいない森林であり、人や車が行き交う道路や公共の公園でもない。

自治体に連絡しても断られるかもしれない、、

今回はたまたま目に入る場所でキツネが死んでいたが、広大な森の中では、こうしたことは日常的に起きているのだろうと思う。

そこで気にはなるが、そのまま様子を見ることにした。

すると翌朝。キツネの亡骸は、他の動物に食べられて半分の大きさになっていた。

さらに次の日もまた小さくなっていた。

その様子を見ていた夫が「一歩入ると、この森の中は弱肉強食の世界なんだなぁ」と言った。

「自然界は弱肉強食」と言うのをよく聞いたことがある。

確かにそうかも知れない。

植物は昆虫に食べられ、ネズミなどの小さな生き物が昆虫を食べる。

そしてネズミは、もっと大きな生き物に食べられる。

でも大きな生き物が死んだら、その亡骸は腐って溶けて大地に染み込んで植物の栄養になる。

そう思ったら、自然界は弱肉強食の世界というより、互いに自分の生命を与え合って共生し、絶妙なバランスで循環していると言った方がぴったりくる。

自然界の中にあって循環できていないのは、人間だけなのかも知れない。

昔のトイレは汲み取り式で、排泄物を畑の肥料に使っていたことがあったらしいが、今はどこも快適な水洗トイレになった。

そのおかげで感染症などが減ったという利点は大きい訳だが、排泄物はあっという間に処理されるので土地の栄養分になれない。

また亡くなっても直ぐに火葬されるため、肉体が大地の栄養分になることもない。

この地球に住む生き物として、自然界の循環システムにまったく貢献できていないことが、なんだか恥ずかしい。

せめて汚さないように気をつけようと、キツネの亡骸を見ながら思った。

森で死んでいたキツネだが、それほど遠くない将来、その姿は循環して消えて無くなるのだろうと思う。

 


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美しい風景

2022-05-26 16:15:56 | 日記

旅行でレンタカーを借りて、岐阜や石川の山の中を走っていた時、初めてのはずなのに、前にも一度見たことがあるような既視感が湧き上がってきた時があった。

同じ山でも、北海道の山の景色とは違う。

真っ直ぐ上に伸びた針葉樹林は、エゾ松やトド松が自生した北海道の山の姿とは違っていた。

ああ、この辺りの山だったのかと思った。

今から十数年前、まだ長女の障害が受け入れられず、有りとあらゆることを試していた頃に出会った、とある会に所属していたことがある。

ある日、その会で数名が円になって座り、ある言葉を唱えながら、一種の瞑想のようなことを経験した。

それまで瞑想など一度もした事は無かったが、その日初めてやった瞑想で、不思議なことに目をつぶっているのに突然、目の前に大自然が現れた。

真っ直ぐに伸びた針葉樹林のある雄大な山脈。

その山並みを、上空からまるで鳥のように見ていた。

まるで実際の目で見ているかの様にハッキリとした映像だった。

その風景は今でも思い出せるほど美しく、瞑想が終わった途端、「山が見えた!きれい、きれい」と叫んで、周りの人を驚かせてしまったほどで、言葉では言い表せないほど美しく感動的な風景だった。

その山脈が、見慣れた北海道の山では無いことは分かった。また見たことは無いが、外国の山で無いこともわかった。

日本のどこかにある山なのだろうと言う確信だけで、それがどこなのか長い間わからなかったが、その答えがやっと見つかったような気がした。

そして、その瞑想会のあと、間もなくして私は会をやめた。

小さな違和感がだんだん大きくなったことが、やめたきっかけだったが、それは正解だったと思う。

あのまま会に居続けていたら、私は「他人になんとかしてもらいたい」という他人依存の考えから抜け出ることが出来なかった。

その後、やめてから先祖供養や神祀りを始めたが、一人で毎日、続けるうちに、迷える先祖霊をなんとか助けたいと思うようになっていった。

少し前まで「自分が助けてほしい」と思っていたのに、いつの間にか「自分が助けたい」に変わっていたのは、我ながら驚きだった。

ところで、会の瞑想で見た素晴らしい山の景色が忘れられず、その後も家で静かな時間を持って目を閉じていたら、何度かまた山並みを見ることができた。

ただ、その風景もある時からぴったりと見なくなった。

その代わりに見えて来たのは、恐ろしい災害後の風景ばかりになってしまった。

いつも見えてくるのは、濁った水に飲み込まれた街の様子。

高い街路樹の上の部分の葉が、水の上に点々と出ていて、それはまるで海に浮かぶ島のようだと思った。

この十数年の間に大変な水害が幾つかあったので、そんな影響もあったのかも知れない。

今なら、どんな映像が見えてくるのだろうとも思うが、もうあえて見ようと思って目を瞑ることはない。

見ようと思って見ていたあの頃は、自分の興味本位からだけだった。

初めて見た山の風景のように、見ようとする意識なく自然に見えてきたら、それは何か意味があってのことなのかも知れないが、意識して見ることに時間を費やすことに、今はまったく興味が持てなくなってしまった。

それよりも自分の肉体の目と、できれば心の目でも、美しい風景や自然を見たいなあと思う。

旅行へ行かなくても、身近にもそんな自然がたくさんある。

今は、畑に植えた野菜や花の苗から目が離せない。ちゃんと生きてるんだと思ったら、愛おしくてたまらなくなる。

 

 


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ふるさとを思い出す旅

2022-05-20 16:08:49 | 旅行

前回3月の旅行で岐阜へ行った時、岐阜駅構内に貼られていたポスターに目が釘付けになった。

それは飛騨高山と白川郷の観光ポスターで、せっかく岐阜へ来たのだから是非行ってみたいと思ったのだが、この時は伊勢神宮へ行くことが一番の目的であり、「場所的にも時間的にも無理だ」という夫の言葉に後ろ髪を引かれるように諦めた経緯があった。

というわけで、今回あらためて飛騨高山と白川郷へ行ってきた。

また正確に言えば、短大の時の旅行以来、41年ぶりに富山県と石川県にも行ってきた。

ところで最近ずいぶん旅行へ行くことが多いのだけど、実は夫が定年を迎えて時間が取れるようになったことと、一人で旅をすることができない長女には、今のうちに色々な場所を見せてあげたいこと、そして何より自分も旅行したいという想いが強くなった。

国内には、まだまだ行ったことがない所がたくさんあるので、できればこれからは経験や体験にお金をかけたいなあと思う。

さて目的地に着いたら、とりあえず駅に行ってみるというのが、我が家の旅行のパターンで、最初の目的地、高山市のホテルに荷物を置いてから歩いて駅に行った。

今回の旅は、まず富山空港でレンタカーを借りて、目的地では徒歩で周ることが多かった。

歩くと、ふくらはぎが、子持ちししゃもの様にぱんぱんになるが、地元の人の目線で町を見ることができるのでおすすめだと思う。

 

 

朝早く宿を出て、朝市を見てから高山陣屋を観光。中はかなり広い造りになっていて見ごたえがあった。

よく観光ポスターに載っている飛騨高山の古い町並み。

道の両側に水が流れているのだけど、これが見た目とてもきれいな水で、高山は水が豊かな町という印象だった。

驚いたのは、外壁に神棚がある家があったこと。

なぜここに?と思ったが、よく見ると、町の中にもたくさんの小さなお社が祀られている。

高山の人たちは、産まれた時からずっと、神さまがすぐそばにいて、神さまと一緒の生活を送ってきたのかなと思ったら、うらやましい気持ちがした。

 

そして、思わずマンガ日本むかし話のテーマソングを口ずさみたくなった白川郷。

「こういう所に生まれていたら、どんな人生を送っていたのだろう」と言ったのは夫だった。

夫が生まれたのは道東の港町だが、東京に憧れて18歳で東京の大学へ進み、結局ふるさとへ戻ることはなかった。

「ここで生まれても、やっぱり東京へ行ってたんじゃない?」と言ったら「そうだなあ」と言った。

ふるさとは遠きにありて思ふもの。。。草葺き屋根の家など無い土地で育っても、どこか懐かしさを感じる。「ふるさと」という言葉がぴったりな場所だと思った。

 

どちらの神社だろうと思ったら駅だった金沢駅。こんなにすごい駅は初めて!

 

今回二度目の訪問、兼六園。一回は短大の時だが、その時のことはもうすっかり忘れていて、まるで初めて来たかのように美しいお庭を眺めてきた。

 

ますの押し寿司など、お土産が充実しているので富山駅周辺には何度も歩いて行った。この辺りは、かなり詳しくなったのではないかと思う。

 

まだ書いていない場所にも色々行ったが、どこも本当によかった。

帰って来たばかりなのに、また同じコースを周って見たくなっている。


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幸せなお金の使い方

2022-05-13 17:12:08 | 日記

遥か昔、まだ短大へ通っていた頃、七泊八日と海外旅行並みの長さで、金沢と能登半島を友だち三人で旅行したことがある。

旅行費用はすべてアルバイトをして貯めたが、宿代節約のために夜行列車を使ったり、移動の全ては公共機関のバスか徒歩で節約した。

限られた資金での貧乏旅行だったので、泊まるのは安い宿と決めて、さらに高そうな食事処はパス。

また8月の本州は想像を超える暑さで、ふらふらになりながら観光名所を周った。

そこまで頑張って周った有名な観光地は、実はあまり記憶に残っていない。

それよりも名前も知らない公園のベンチに座って、三人で笑いながら缶ジュースを飲んだことや、バスの窓から見た何気ない景色、朝市で地元のおばあちゃんとの会話などの方が鮮明に記憶に残っている。

それは今でも思い出すほど、若かりし頃の楽しかった思い出の一つでもある。

ところで、どのようなことにお金を使った時、人は幸福を感じたのかという調査結果がある。

それによると、経験や体験を得られることにお金を使った人が、幸せの思い出にあふれているという結果になったそうだ。

経験や体験にお金を使った満足感は、時が過ぎるにつれて増加していく傾向にあるが、一方でモノにお金を使った場合の幸福感というのは、時間と共に減少して行くことがわかっているそうだ。

たとえば憧れのブランド品をやっと手に入れた時は嬉しいが、それも時間が経つにつれて冷めてくる。

新作が出たりすると、持っていたモノが急に古臭く感じてガッカリする。

でも若い頃の貧乏旅行は、40年経った今でも思い出す度に幸せな気持ちになれる。

ただし人の価値観は色々で、中にはモノを買って、いくら時間が経っても変わらずに幸せがこみ上げてくると言う人もいるだろうから、すべての人に当てはまるものではないのかもしれないが。

ここで思い出したのは、人がこの世に生まれてきて、再びあの世に還って行く人間の一生について。

これは、幸せなお金の使い方にそっくりではないかと思った。

この世に生を受けて、嬉しいことも悲しいことも、きついこともすべてを経験.体験してあの世に還った時、きっと満足感と幸福感でいっぱいになるのではないだろうか。

人が転生をする目的は、魂を磨くためだと言う。

そして、その人生が困難であればあるほど、魂に磨きがかかる。

だとしたら、たとえ経済的に恵まれない人生だったとしても、自分に与えられた人生の時間を十二分に生き切った時には、心から満足できるのではないか。

お金はあった方が便利だが、お金やモノで幸せを感じるのは生きている時のほんの短い時間だけであり、あの世に還る時は、大切なお金もモノも持ってはいけない。

身体一つ、、ではなくて、魂一つで還らなければならない。

自分に与えられた役割と場所で、これからも様々な経験と体験をして、淡々と魂を磨いていけたらと思う。

 

 


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マスク

2022-05-09 16:43:03 | 日記

半年ぶりに自転車に乗って買い物へ行ってきた。

春の風を感じながら、自転車を走らせるのは気持ちがいい。

車の往来の激しい通りに出たので、それまで走っていた車道から歩道へ移って走っていたら、向かい側から歩いてくる高齢女性の姿が見えた。

歩行者の邪魔にならないように、出来るだけ道の端に寄ってスピードを落とした。

すると、その女性は何やら不思議な行動を始めた。

急に手に持っていた大きなカバンで、顔を隠すようにして歩き始めたのだ。

「あ、もしかして、、、」と思った時にはすでに時遅く、あっという間にすれ違ってしまった。

後ろの方で、女性の大声が聞こえた。叫ぶというより、わめいていると言った感じ。

マスクx%△#?%◎&@□!!」

マスクという言葉だけはわかったが、あとは何を言っているのかわからなかった。

でも言っていたことは、想像がついた。

多分「マスクしろー」というようなことを言ったのだと思う。

実は、その時、私はマスクをしていなかった。忘れたのではなく、あえてしていなかった。

今までも滅多に人と会うことがない散歩では、マスクはしていないし、自転車もほとんど人の歩いていない道を走り抜けるので、しなくても良いだろうと思ったので付けてこなかった。

もちろんお店など室内では必ずマスクを付けるし、屋外でも混み合っているような場所を歩く時は付けるようにしている。

それは自分の身を守る?ということもあるが、それよりも他人に嫌な思いをさせないためにつけているという理由の方が大きい。

また今回のように、無用なトラブルに巻き込まれないようにするという意味もあった。

ところでコロナが流行りだし、世の中でマスクを奨励するようになった頃、公共の温泉で、裸でマスクをしているオバ様達に驚いたが、今では当たり前のように違和感がなく見ている自分がいる。慣れとは恐ろしいものだ。

しかし、あらためて周囲を見渡すと、一人で運転する車内であってもマスクの人の多いことに驚く。

また私のように散歩中や自転車走行中でも、ほとんどの人がマスクをつけていたことに驚いた。

すれ違う時に、顔をカバンで隠した高齢女性は、よほどコロナが怖いのだろう。(そして、きっと4回目も5回目も受けるのだろう)

このような人がいるのなら、今度から誰もいない屋外であってもマスクをつけるべきなのか?このような人たちに合わせるべきなのかと、少し考えさせられた。

ところで新聞のお悔やみ欄をみていると、最近、若い人が多いことが気になる。

これまでは、ほとんどが80代90代の方だったのに、最近は40代、50代、60代の方が載っている。それも一人や二人では無く、多い日は五名以上が載っていることがあり、たまたまの偶然なのか、、、なんだかモヤモヤしている。

ネットに書かれていることは、全部デタラメだったと思いたい。

何事もなくてよかったよかった、、、そうやって過ぎていけたらどんなに良いだろうと思う。

 


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お花見

2022-05-05 14:52:05 | 日記

今、桜が満開の時期を迎えている。

家の窓からは、森林の中に咲く山桜が見える。

山桜は、新緑がまばらで茶色っぽく見える森林の中では、格別の華やかさがあって心が躍る。

この時期は、少しでもたくさんの桜を見ておきたいと思う。

だから暇さえ有れば窓から山桜を眺め、出かければスーパーや個人のお宅にある桜を眺め、さらにそれだけに飽き足らず、わざわざ遠回りをして桜並木のある場所まで行って眺めている。

というわけで、北海道神宮の桜も見に行ってきた。

満開の桜と、もう一つ、満開になっている梅の花が見事だった。

ところで北海道神宮は桜の名所として地元では有名なのだが、これらの桜を最初に植えたのは誰だったのか、またなぜ桜を植えたのかということはまったく知らなかった。

ある日、新聞を読んでいたら知りたかったことが載っていた。

それによると、北海道神宮に桜が植えられた背景には悲しい物語があったこと、また長い歴史の中で、様々な人たちの思いが込められていることを初めて知った。

ところで、札幌の基礎を作ったのが島義勇(島判官)というのは、札幌市民なら知っている?かもしれない。

また島義勇(しまよしたけ)のことは知らなくても、北海道神宮内の六花亭で売られているお菓子「判官さま」を食べたことがある人は多いかもしれない。(判官さまは中にあんこの入ったお饅頭で、店頭で焼いてくれる熱々が美味しい)

なぜ「判官さま」と名づけられたお菓子が、神宮限定で売られているのかというと、実は島義勇が北海道神宮の建立に大きく関わっていたから。

島義勇とは、石狩平野を碁盤の目状に区画することを構想し、現在の札幌市の基礎を作ったことから「北海道開拓の父」とも呼ばれている。

もともと佐賀藩士だった島義勇は、1856年、当時、未開拓地だった蝦夷地を厳しい寒さの中で二年間歩き続け、詳しい調査をした。

その功績が認められて、開拓使判官となり、後に明治天皇より国土の神である大国魂命など「開拓三神」を祭ることを命じられた。

どこに開拓三神を祭るか考えていた島義勇は、札幌を都市化するための構想を練った円山の丘が、開拓三神を祭るのにふさわしいと、神社予定地にした場所が、現在の北海道神宮がある場所だそうだ。

ところが、島義勇は予算を巡る上司との衝突によって、札幌に来てわずか三ヶ月で罷免され、札幌を去ることになってしまう。

さらに佐賀へ戻った島義勇は、1874年に勃発した佐賀の乱の首謀者として、斬首の上さらし首という武士として無念の最期を迎えた。

島義勇が北海道へ渡った時に従者だった福玉仙吉は、現在の札幌の地で、この知らせを受けて非常に悲しみ、かつての主君を慰霊しようと、手稲の山々を歩き桜の木を集め、エゾヤマザクラを150本札幌神社(現在の北海道神宮)に献木したそうだ。

この時に植えられた桜が、のちに北海道神宮が桜の名所になった由来になり、その後も色々な人たちの植樹により現在のような桜の名所になったそうだ。

島義勇は、故郷、佐賀での最期は無念なものになってしまったが、札幌では「判官さま」として、今でも尊敬され語り継がれているというのは不思議なものだと思う。

お花見のあと、島判官さまを偲びながら、熱々の判官さまを頂いてきた。

 


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リメイク

2022-05-01 16:12:12 | 日記

散歩の途中でご近所さんに会った。

私と同じ歳の彼女は、いつ会ってもおしゃれで素敵な装いをしている。

彼女が身につけているものは、決して名のあるブランドものではなくて、どこでも買えるものが多いのだが、彼女が身につけると途端におしゃれに見える。

きっとセンスがいいのだろう。

今日も素敵な和柄のスカートを身につけていた。

「素敵なスカートね」と言ったら「これは、古い着物をほどいて自分でスカートに作り直したの」と驚くべきことをいう。

彼女曰く、病気をしてから既製品が肌に合わず困っていたそうだ。

既製品を着ると途端に肌が痒くなるので、仕方なく自分で生地を探して服を作ったら、これがとても良くて、以来、自分で作るようになったそうだ。

「下着のパンツまで作るのよ。生地を買って作ったり、古い服をリメイクしたりするから、最近ではもう洋服は買わなくなっちゃった」

自分で洋服を作れるなんて本当にうらやましい。

自慢じゃないけど、私はお裁縫が大の苦手で、これまで人生の大作は、子どもの幼稚園バック。あとはお弁当入れも作ったかな。

でも制服の上に着るスモックは難度が高すぎて、既製品で許してもらった。

あーなんだか書いていて恥ずかしくなってきた。

こんな風だから自分で洋服を作るなんて考えたこともない。

でも、着ていない洋服や着物をリメイクできたらどんなに良いだろうと、箪笥の肥やしになっている自分の着物を思い浮かべてしまった。

ところで名誉挽回を狙って書くわけではないが、お裁縫は苦手だが、編み物は嫌いではない。というか、むしろ好きで、気が向くと編み針を持って何か編んでいる。

多分、無心に編み針を動かしている時間が好きなのだと思う。

昔はセーターも編んだが、今は靴下とか手袋とか小さな物を作ることが多い。

しかし今、ちょっと大きな物を作っている。

それはブランケット。

寒い日の夜に足にかけるブランドが欲しかった、、、なんて書くとカッコいいが、なんのことはない。余っていた毛糸がもったいなくて、ぐるぐる編んでいるうちに大きくなってきたので、ブランケットにしようと決めた。

寝る前のひととき無心に編み針を動かしていると、ざわついた気持ちが静かになる。

ところでこの前、持っていたミシンをついに処分した。

まだ動くのでもったいないと思うのと、昔亡き母が毎月細々と積立をして買ってくれたと思ったら、申し訳なくてなかなか処分する決心がつかなかった。

母はなぜ裁縫が苦手な娘にミシンを買い与えようと思ったのか、まさか娘が裁縫ができないことを見抜けていなかったのかなど今でも不思議なのだけど、2000円とか書かれた、たくさんの領収書の束を見ると、ミシンを有効に使いこなせなかった申し訳なさとありがたさで胸が一杯になる。

でもどう考えても今後使う可能性はなく、処分を決めてからリサイクル店をいくつか当たったのだけど、型が古すぎてどこも引き取ってもらなかったので処分を決めた。

もう一度、利用してあげたかったが仕方がない。

だからなのか、余っていた毛糸たちを有効に利用してあげたいという気持ちが強まったのかもしれない。

古い服や着物をリメイクするご近所さんも同じ想いなのかなと思ったり、これが終わったら手袋編もうかなと思ったりしながら、今日もせっせと編み針を動かしている。

 


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