ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

引き寄せの法則

2016-10-31 16:12:19 | 日記
「引き寄せの法則」というような本が何年か前に流行ったことがあった。

私も確かに読んだと思うのだが、今やどのような内容だったか記憶もあいまいになっている。

覚えているのは、それがすでに起こったかのように鮮明なイメージを持つことだったり、欲しいものや行きたい場所の写真をいつも目に見える場所に貼っておくなどだったと思う。

確かにそうすることは、自分の希望を潜在意識の中に入れるという意味では間違いではないと思う。

ただ残念なことに、私は自分がそれを手に入れて喜んでいるイメージを鮮明に描けなかった。

イメージしようと思えば思うほど、頭がボ~ッとなった。

また欲しいものの写真を切り抜いて壁に貼るというのも非常に面倒くさくて、実際にやったことはない。

その当時は「なるほどー!!」と思って食い入るように読んだ(ような気がする)引き寄せの本だったが、私にはあまり参考になることはなかった。

ところが今、「引き寄せてるなぁ」と思うような出来事が頻繁に起こるようになり、それは自分の中ではまったく特別なことではなくなっている。

自分がこうなればいいのになぁと思う出来事であったり、欲しいなぁと思った品物などは、そのほとんどが叶うようになった。

例えば欲しい物などは、一生懸命探して、それなりのお金を出せば割と簡単に手に入ると思うのだが、庶民で専業主婦の私には自分の買い物には、そんなにたくさんの予算はかけられない。

そこで、これくらいの予算ならいいな~と思っていると、まさにその値段で欲しかったものが見つかるということはよくある。

しかも一生懸命探すことなく、偶然、通りかかったお店のバーゲンのワゴンにあったりする。

例えば、この前はお財布が古くなったのでそろそろ新しいのが欲しいなぁと思っていたのだが、自分の欲しいと思っているお財布は高くて予算に合わず買わないでいたのだが、それからまもなくして、たまたま通りがかって覗いた別のお店で欲しかったお財布が定価の半額以下になって売られているのを偶然見つけた。

もちろん即購入したのは言うまでもないのだが、このようなことが最近はよく起きるようになった。

だから必要な物や欲しい物は、たとえ今見つからなくても、近いうちに必ず自分の手に入ることになるという、なんというか確信のようなものがある。

欲しいものや起こってほしいことが手に入ることが少なかった以前の私と、どこが違うのかと思い返してみると、今はあまり欲しいものや起こってほしいことに執着しなくなったということかもしれない。

そうなったらいいな~とは思うが、絶対にそうならなければ嫌だとは思っていない。

また欲しい物であっても、何が何でもそれが欲しいとは思っていない。
手に入れば嬉しいけれど、なければなくてもいいやと思っている。

コツと言ってはなんだが、「こうなってほしい」と思ったら、あとは天に任せて、それを手放してしまうと叶いやすいのかなとも思う。

それにしても自分の気持ちや想い方ひとつで、周囲の世界が変わるというのはあるのだと思う。

心の中に秘めた思いを天に向かって発信すると、返事がもらえるというのはとても不思議なことだが、やはりそれもあると思う。

「天に向かって唾を吐く」ということわざがあるが、それは悪い想いを発信すると、それがそのまま自分に返ってくるということであり、それもまさしく本当のことだからこそ、ことわざになっているのだろう。

だから、できるだけ善い想いだけを発信していこうと思う。

これが私にとっての引き寄せの法則なのかもしれない。









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散歩

2016-10-26 15:49:26 | 日記
今日は長女チェリーが休みだったので、二人で散歩へ行ってきた。

散歩というと、家のすぐ裏に広がる森林へ行くコースか、家の周囲の住宅地を散策するコースなのだが、今日はチェリーと一緒と言うことで森林コースへ行くことにした。

森林へ入る時、財布は忘れてもこれだけは忘れてはいけないという物がある。

それは熊よけの鈴。
最近は熊の出没情報は聞かないが、今は冬眠前の食料集めの時期だと思うので、道でばったり出会って食料にされてはたまらない。

というわけで、鈴を鳴らしながら散歩をしてきた。

森林は今、とても紅葉の美しい時期です。



暖かく感じる秋の日差しの中をチェリーと二人、紅葉を眺めながら、のんびりと散歩をしてきた。

途中に一軒民家があるのだが、そこのお宅で飼われている山羊を見るのも楽しみで、今日も山羊さんはもぐもぐと口を動かしながらこちらを見ていた。
いつものように「メェ~」と挨拶をしてから横を通り過ぎる。

森の中を流れている小さな川では、釣りをしている方が一人いるほかは誰もいない。

美しい紅葉を堪能しながら歩いていたのだが、鳥の声とカサカサと鳴る枯れ葉の音以外は何の音もしない。

静かな森の中、人間に会わない代わりに熊に会うのではないかという恐怖心が少しずつこみあげてきて、鈴を鳴らす手にも気合が入った。

しかし、鈴の音だけでは熊さんに気づいてもらえないかもしれないので、歌をうたうことにした。

「まっかだな まっかだな つたの葉っぱがまっかだな もみじの葉っぱもまっかだな
しずむ夕日に てらされて
まっかなぽっぺたの 君と僕 まっかな秋に かこまれている♪」

「はい!ご一緒に~」
チェリーにも一緒に歌うように促したのだが、チェリーはぽか~んとしている。

なんとチェリーは知らないのだという。

この有名な曲を知らない!?

今は音楽の教科書に「まっかな秋」は載っていないのだろうか??

私は小学校で飽きるほど、まっかな秋を歌わされた。

話は逸れるが、そういえば「君が代」も小学校や中学校で飽きるほど?歌った。

だから、当然だれでも同じだろう、誰でも君が代を歌えるものだろうと思っていたら、そうじゃないことを知ってびっくりした。
身近な所では、なんと夫が君が代を歌えなかった。

夫曰く「学校では習ったことがなかった」のだとか。

夫の出身地は革新派の力の強い地域だったので、学校教育にもそういった影響があったのかもしれない。

というわけで(無理に話を戻す・・・)私が「まっかな秋」を歌っているとチェリーも真似て歌い出し、二人で大きな声で合唱しながら散歩をしてきた。

歌を歌いながらの散歩は、すっきりとリフレッシュした気分でなかなかよいものです。

お試しあれ。
ただし人のいない場所をおススメします。あしからず・・・







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三度目の復活

2016-10-24 14:58:39 | 介護
父が退院してから10日あまりが過ぎ、昨日も父の様子を見に高齢者住宅へ行ってきた。

退院当日はぐったりとして、果たしてこのまま退院させてもよいものだろうか?と思ったが、その後、父をみてくださる高齢者住宅の職員さんのお話によると、食事はいつも完食しているとのことだった。

また、退院後に行った妹も「お父さん、にこにこと笑っていた。要望に応えてピースサインもしてくれたよ」と言っていたので、まったく心配はしていなかった。

さて父の病名は「腸重積」だが、その原因となっていた腫瘍は検査の結果、やはり「大腸がん」だった。

幼児のこぶし大ほどの癌で、ステージⅡとのことだが、幸いきれいに切除できたことと、術後の経過が順調だったことから、今後は通院はしなくてもよいことになった。

これがもう少し若い人ならば3か月ごとに検査をするそうだが、父は86歳と高齢なうえに、自力では動くことができないほど弱っている為、通院する事は父の体力をますます消耗させるので、これにて病院は終了となった。

さて昨日の父だが、行った時にはベッドに横になっていた。

職員さんが「もうそろそろ起こしてもよいので」と言って、父に声をかけてくれた。

職員さんの手を借りて起き上がった父は、しっかりとした顔つきで私たち家族の顔を見るなり笑ってくれた。

また私の夫の顔を見ると、片手をあげて挨拶をした。

片手をあげて挨拶をするのは、私たち娘にはしないのだが、その伴侶たちには必ずする挨拶で、父がちゃんと理解している証拠だとわかって嬉しくなった。

医師からは「喉に詰まらせないものであれば、好きなものは何でも食べさせてください」と言われていたので、持って行ったジュースとプリンを出すと、父は美味しそうにそれらを完食し、まだ何か食べたそうな顔をした。

父はもう中身がなくなってしまった空き容器を手にして、「まだ残っているんじゃないか」と底をスプーンでつつくので、それを見ていた夫が「かわいそうだから、何か買ってくる」と言って、さらに飲み物を買いに行った。

父を見ていると、食べる欲はものすごい。

ついこの前、腫瘍を含めて20センチも腸を切ったとは思えない食べっぷり。

与えれば与えるだけ食べてしまうので、身体のことを考えると、かわいそうだが途中で止めさせなければいけない。

「次に来るときに、また持ってくるから。今度は何がいい?」
そう聞いたのだが、父は無言でうなづくだけだった。

ただ入院前よりも弱ったという感じはなく、もう二度と立つことは無理かもと思ったほどやせ細った足だったが、昨日は職員さんに支えられて立っていた。

父の生命力は本当にすごい。

人間そう簡単には死なないものだと思った。

というわけで、三度目の復活を果たした父であった。

あぁ、私も父のピースサインが見たかった・・・












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甘酒作り

2016-10-20 13:13:16 | 日記
気が付けば、ここ最近ほとんどお菓子を食べていない。

前は買い物に行くと、必ずクッキーやキャンディーなどを買って、子どもたちがつまめるようにと、おやつ箱に入れておいたものだったが、今はおやつ箱にはほとんど何も入っていないことが多い。

二人の子供が家を出て、お菓子の消費量が減ったこともあるが、それでも自分と長女チェリーが食べる分くらいは買いだめしてあった。

それがなぜこんなにおやつの量が減ったのかと言うと、私自身の味覚が変わったからなのかもしれない。

まずお菓子類を食べたいと思わなくなった。

これは以前の私には考えられないことで、昔はお腹がいっぱいでも甘いものならば別腹ということで食べられたはずだったが、今はそれができなくなってしまった。

特に生クリームたっぷりの洋菓子などは食べたくない。

スナック菓子と言われるものも、クッキーやケーキも、アイスクリームなども食べられない。

まだ和菓子ならば少し食べてもいいかな・・・と思う程度だが、それも積極的に食べたいとは不思議と思わなくなってしまった。

長女のチェリーもお菓子はあれば食べるがなければ食べなくてもいい方なので、自然と買わなくなってしまった。

そして、お菓子を食べたくなくなった代わりに、時々無性に食べたくなるものが出てきて、その時に食べたいと思うものはできるだけ食べるようになった。

例えば、ある時はすりおろした山芋を麦ごはんにかけた「とろろ飯」が食べたくなり、ある時は葛湯が飲みたくなり、ある時は魚介のマリネに入っている玉ねぎのスライスが食べたくなり、またある時はたっぷりの野菜を出汁と醤油で煮込んだ鍋が食べたくなった。

それから、この前などは以前の私ならば食べたいとは決して思わなかった「焼肉」が猛烈に食べたくなり、その日の夕食を焼肉にして、家族に「めずらしいね」と驚かれてしまった。

ところで、お菓子大好きだった頃の私は、自分の身体の声というものがほとんど分からなかったと思う。

それでも病気になることもなく今まで来れたことは本当に感謝しかない。

今は、以前よりもほんの少し自分の身体から発せられる声がわかるようになり、自分の身体が欲するものを食べてあげられるようになった気がする。

というわけで、今、私の身体が欲しているのが「甘酒」なのです。

父も甘酒好きなのだが、実をいうと私も甘酒好きで、よく酒粕を買ってきて作って飲んでいたのだが、今身体が欲しているのは、酒粕の甘酒ではなくて、麹から作った甘酒のほう。

砂糖を使わず、米と麹を醗酵させて作った自然の甘みのある甘酒が飲みたい。 

子供の頃に母が陶器製のかめで醗酵させた麹の甘酒を作っていたことを思い出すが、子供の頃はその甘酒はあまり好きではなく、砂糖をたっぷりと入れた酒粕の甘酒のほうが好きだった。

しかし、今になってあの自然な甘さの甘酒が飲みたいと思う。

母のようにかめで作るのは温度管理が難しそうなので、私はヨーグルトメーカーで作ることにした。

柔らかめのご飯を炊いて、少しの水でゆるめて、そこに麹を入れる。

あとは一定の温度にして保温すればOK。

作っている途中で、子供の頃に嗅いだ懐かしい甘酒の香りがしてきた。

そんなことで今、出来上がりを楽しみに待っている最中なのです。










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普通とは

2016-10-17 16:28:49 | 日記
長女のチェリーに知的な遅れがあるということが分かったのは、チェリーが小学校へ上がってからだった。

それまでまったくわからなかったのかと言えばそうではなく、幼児の頃は他の子供たちを見ると怖がって輪の中に入ろうとしないとか、テレビの幼児向け番組にまったく興味を示さないとか、ストローで水分を吸うことができないとか、上の子とは違ったところがあった。

多少気にはなっていたものの健診でも引っかからなかったし、そんな子もいるのだろうくらいに楽観していた。

ところが同世代の子供たちがたくさんいる幼稚園に入ると、とても困ったことがおきた。

友達が作れないのは当然だが、毎朝、幼稚園へ行きたくないと大泣きされ、しまいに登園拒否になってしまった。

年少、年中の二年間はなだめすかしてなんとか通ったが、チェリーはあまり楽しそうではなかった。

しかし、二歳年下の妹ピーチを同じ幼稚園に入れたところ、ピーチがいる安心感からか幼稚園最後の年長さんになった一年間は、やっと幼稚園を嫌がらずに行くことができた。

そして小学校入学。

幼稚園で心配の芽が膨らんでいた私は入学前に公的機関でチェリーを診てもらうことにした。

そこで知能検査をされた結果、問題なく普通学級に入ることができると言われ、ほっとして普通学級の小学校へ入学させた。

相変わらず、人の輪の中に入ることはできず、勉強も最初の頃はほかの子供との差はあまり感じずにいたのだが、そのうちできないことが増えていき、学年が上がるごとに周囲との差は大きくなるばかりだった。

なんとか他の子供たちについていけるようにと、私も夫も必死で勉強を教えたが、教えれば教えるほどに勉強嫌いになっていった。

そして私たち親が必死になればなるほど、チェリーは自らの殻に閉じこもって、勉強も学校もますます困難な状況になっていった。

今ならチェリーの気持ちを理解することができるが、その頃はチェリーをなんとかしなければいけない、なんとか普通にしなければ、普通になってほしいとばかり考えて焦っていた。

思えば「普通」という言葉、私はずっとこの言葉に縛られていたような気がする。

「普通」とは何か?

それは多数決をした場合、大多数の人が選ぶこと、または多くの人がしていることや過去から行ってきたなじみのあることだろうと思う。

だから、それを選ばなかったり、その基準から外れた人は「普通じゃない人」になってしまう。

そして、普通じゃないことイコール良くないことという暗黙のルールみたいなものがある。

そういう考えが生まれた時から世の中にはあったし、私自身そういうものだとずっと思い込んできた。

「普通じゃなくてもいいんだ」と思えたのは、チェリーを中学校の途中で特別支援に入れた時であり、特別支援に入ったことによって、やっとチェリーが学校という集団生活でリラックスして過ごせるようになったことがきっかけだった。

ところで最近読んで面白かった本に、非常に感銘を受けた文章があった。

それは、子供の頃からずっと「普通」という言葉に違和感を抱いていたという松岡弥太郎さん著書の「正直」という本。

一部抜粋させていただきます。

大人になって思うのは、普通からはみだすことは、自分を信じることであり、自分の中にある発見につながるということだ。
みんなと一緒という輪の中から抜け出し、自分の道を歩き出す。
年齢にかかわらず、これが自立であり、自分らしさを見つける旅の始まりなのではないだろうか。


実はこの本を読む直前に、チェリーのことではなく、「普通とは?」という問題に私は再び向き合うことになっていた。

そして、まさにグッドタイミングでこの文章に出会った。

この文章を読み、「これでいいのだ~!!!」そう思えた瞬間だった。








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主婦道

2016-10-14 11:49:51 | 日記
家事は手抜きをしようと思えばいくらでもできるが、とことんやろうとすると仕事は限りなくある。

そして、それらを一度にまとめてやろうとすると大変なので、私は通常の家事プラス1つか2つの家事をするようにしている。

例えば今日、私は冷蔵庫の掃除をした。
寒くなって氷が必要なくなったので製氷機を取り出してきれいにした。

それから落ち葉や虫の死骸がころがるバルコニーの掃除をした。

昨日は洋服の衣替えをしていたし、その前は窓ガラスを磨いていたし、さらにその前は窓のレールの掃除と下駄箱の掃除をしていた。

ほかにも仕事はいろいろあって、老親たちや子供の用事、家の雑用など、専業主婦とはいえ忙しく過ごしている。

ところで「専業主婦」というのは職業なのだろうか?

たまに銀行などで書類を書く時に自分の名前の横に職業欄があり、なんと書こうか迷うことがある。
「専業主婦」と書くべきか「無職」と書くべきか・・・

私は週に1~2度、塾のアルバイトをしているのだが、これが毎日ならばパートとか書くのだが、人手が足りない時の「お助けスタッフ」で 仕事というより趣味のようなものなので、とても恐れ多くて職業欄に書けずにいる。

ところで、この「専業主婦」なるものはいつ頃できたのかと調べてみると、意外とその歴史は新しく、昭和の高度経済成長時代に生まれたのだそうだ。

高度経済成長の頃は「企業戦士」と言われるサラリーマンが生まれ、家庭を顧みる時間もないほど忙しく働く男たちを後方(家庭)で支えるということで、女性は結婚したら仕事を辞めて家庭に入るということが一般的になったそうだ。

まさに私が働いていた頃のバブル期前後は、企業側も社員も「結婚したら仕事は辞めて家庭に入る」という考え方が一般的だったように思う。

しかし、さらに古い時代、例えば江戸時代は、女性も働く「共稼ぎ」が一般的だったそうだ。

江戸時代は「銘々稼ぎ」と言って、夫も妻もともに働いて、財産もそれぞれが別だったのだとか。
意外にも女性が自立していたことには驚く・・・

明治になっても共稼ぎは一般的なものだったそうだが、それは農家や商家というように女性も労働力として参加しなければならない職業形態が多かったからなのかもしれない。

しかし、今また世間では共働きの世帯が増えている。

共働きをしなければならない経済状況だったり、好きな仕事を続けたいという女性が増えいることも一因なのだろう。

一億総活躍時代?といわれる昨今、これからますます働く女性たちは増えていくのだろう。

そして将来、専業主婦というのは古い時代の遺跡的存在になるのかもしれない。

だが、私は主婦の仕事が大好き。

掃除をしたり、料理を作ったり、家族の用事に走り回るのも苦にならない。

でも本当は、家事ばかりではなくて仕事をすることも好き。

昔取った杵柄ではないが、特に数字を扱う事務仕事が好きだ。

今は毎年、家でうきうき年末調整をやり、塾の仕事で目の前にどっさりと積まれた小学生の算数を片付けていくのも楽しい。

というわけで、私は今日も専業主婦の道を突き進もうと思う。

さてと、これから父のところへ行ってくるとしようかな・・・(今日は父の退院!)








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痛みを知る

2016-10-11 13:55:13 | 日記
先日、腸の手術をした父は腸の接合部分からの漏れもなく、口からの食事も摂れて、今のところ身体的には大丈夫なのだが、意識の状態は悪化したように思う。

手術前はこちらからの呼びかけに反応があったのだが、術後はそうした反応が無くなり、目は開いているのだが、ほとんどこちらを見ようとせず、いつもぼーっとした状態が続いている。

高齢になると、入院するだけでも認知がひどくなったり筋力が衰えたりするなど弱ってしまうが、父の場合は大きな手術をしているので余計に弱り方が大きいように思う。

現在も入院中の父の身体はますますやせ細り、特に筋肉の無くなった足は骨折防止のガードルがはめられて細い棒のようになった。

先日、父の見舞いに行った時、ベッドに横たわりうつろな目をした父に「具合はどう?」と呼び掛けてみた。

しかし、やはり反応はまったく無かった。

その時だった。父の声が聞こえたような気がした。

「こんなになってまで生きていたくないな」

あぁ、父なら言いそうなことだと思った。

「でも生きなきゃだめなんだよ。寿命が尽きるまで生きなければ・・・」
私も心の中で父に向ってそう話しかけた。

母が末期癌で余命宣告を受けていた時、まだ20代で若かった私は新聞やテレビで「自殺」の報道を見ると、無性に腹を立てていたことがあった。

「まだまだ生きられるのに、なぜ自分で命を絶つのか。
生きたくても生きられない人たちがたくさんいるのに。いらない命ならば生きたい人にあげて」

そう言って、自殺する(しようとする)人の胸ぐらをつかんで張り倒してやりたいくらいだったが、今思うと、なんと思いやりのない自分だったのかと思う。

その時は、自殺したい人には、死にたくなるほどの苦しみがあることまで思いが及ばなかった。

私のそれまで生きてきた中で、落ち込むことや挫折はもちろん何度となく経験していたが、死にたいと思うほどのことは無かったから、自殺する人の気持ちを理解することができなかった。

「うつ?多少なりとも誰でもなることがあるのでは?それで自殺したいなどとは甘えでしょう」

実は私はつい最近までこう思っていた。

しかし、そうではなかったことを身をもって知ることになった。

前に少し書いたが、夏頃は心身ともにエネルギー不足に陥っているような感じがして、特に精神面は非常につらいということが続いた。

その時は理性では理解しているつもりだったので、「大丈夫。こんなことは大したことではない」と自分で自分に言い聞かせていたのだが、どんどんどんどん訳の分からないつらさに囚われていった。

ただ家族や他の人の前では、そのようなそぶりを見せないように普段どおりにふるまっていて、自分を抑圧していた分、今度は体調も悪くなった。

その時に考えていたことは、「うつで苦しむ人というのは、このような大変なつらさの中にいるのかな」ということで、「こんな心境の中にずっといるのは、さぞつらいことだろうな。今まで知らなかったとは言え、なんて傲慢なことを思っていたのだろう」ということだった。

ただ自殺をすることは、今も絶対にしてはいけないと思っているし、弱っている時でも、それはまったく頭には浮かばなかった。

「自殺だけは絶対にしてはいけない」ということは変わらない。

今はもう回復して、あのようなつらさを経験できてよかったと思えるほど元気になった。

そして「人の痛みを知る」と言う言葉があるが、それまでわからなかったうつの人の痛みというのが少しだけわかったような気がしている。

ただできれば、もう二度と経験したくないけれど。

そんなわけで、入院中の父が少しでも元気になってくれて、また笑顔をみせてくれることが今の一番の望みでもある。










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見送って

2016-10-07 14:30:33 | 日記
来春、就職予定の会社の内定式に出るため長男パインが帰省していた。

そして数日間自宅にいた後、大学のある街へ戻っていった。

次女ピーチの時もそうだが、子どもが家を出ていく姿を見送るのは何度やっても寂しい。

子どもが居なくなった家は、急にがらんとして広くなったような気がする。

ただ、これもしばらくするといないことに慣れるのだけれど、数日間は寂しさが続く。

思うことは、子どもに限らず「見送られる方」と「見送る方」のどちらが寂しいかと問われれば、私は断然「見送る方」に一票を入れる。

なぜなら見送られる方は新しい世界へ向けて出発するが、見送る方は昨日までその人が存在した世界から、存在しない世界へ変わるから。それが愛する人であれば尚更さびしい。

そういえば関東の大学に通うピーチのアパートに数日間滞在し、ピーチを残して帰る日のことだった。

帰る側の私は寂しさよりも、帰ることで頭の中はいっぱいだった。

「何時何分のバスに乗って、新幹線に乗って、電車にも乗って、空港には遅くても何時までに着かなくてはいけない」

ただでさえ方向音痴なのに、飛行機に無事に乗ることができるかどうかで私は精一杯。

とてもピーチの寂しさまで思いやる余裕がなかった。

一緒に行った長女チェリーと共に慌ただしくピーチのアパートをあとにして、しばらく歩いてからアパートのほうを振り返ったら、ピーチがカーテンのかげから顔を半分だけ覗かせてずっとこちらを見ていた。

そしてピーチに向かって手を振ったら、小さく振り返してくれた。

想像すると、私たちが帰ってしまうことで、きっとピーチは寂しかったのだろうと思う。

そんなことがあったと、帰宅してから夫に話すと「鬼!かわいそうに、そんなピーチを残してよく帰ってこれたな。俺なら無理だ、飛行機をキャンセルしてでもアパートに戻る」と言っていた(父親は娘に甘い 笑)

というわけで、やっぱり見送られる方より見送る方が寂しいと思う。

しかし、これは子どもに対する執着心とはまた違うような気がする。

執着心とは、例えば、「子どものために」という間違った考えの元、実は「子どもを自分の思うがままにしたい」という気持ちなのではないかと思うのだが・・・

ところで先日の夜、寝ようとして布団に入った途端、不思議な感覚を覚えた。

それは「執着心」という言葉が急に頭に浮かんだことだった。

「そうだ、私も死ぬまでに、執着心をもっともっと手離そう」
目をつぶりながらそう思ったら、身体がひとつずつ軽くなっていくような感覚がした。

それはまるで地上とつながっている鎖が次々と解かれていくような、そんな不思議な感覚だった。

それまで身動きができないくらい地上に重く縛り付けられていた身体が、どんどん軽くなって、まるで宙に浮かび上がるような気がした。

このことからも執着心をたくさん持っていると、結局つらいのは自分自身なのだとわかった。

子どもにも、ほかの家族にも、他人にも、そしてもちろん物質にも、できるだけ執着心は持たないようにしていきたい。

ただ間違ってはいけないのは、執着心を手放す=無関心ではないのだということ。

思いやりの気持ちは忘れずに持っていたいものだと思う。もちろん最善の努力も。







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自然とともに

2016-10-06 12:38:06 | 旅行
夏頃から自分の中のエネルギーのようなものが少なくなっているような、そんな気がしていた。

考えられる理由は、自分自身をしっかりと持っていられなかったのが一番の原因だと思う。

知り合いから悩みを相談されることがあり、それを一生懸命考えているうち、まるで自分が知り合いになってしまったような気持ちになることがあった。

また老親たちのことも「なるようになる」と思い切れていなかった。

エネルギーが切れてくると、気持ちが沈みがちになったり、どこが悪いわけではないのに疲れやすくなってしまったりということがあった。

そんな時、私はどうしようもなく自然の中に行きたくなる。

人間も自然の一部だから、大自然の中で休んでエネルギーを補給したくなるのかもしれない。

今までは裏の森林を歩くだけでも癒されたが、今回はそれだけでは足りず、ずっと温泉に行きたいと思っていた。

温泉は大地のエネルギーがストレートに伝わってくる。

だから温泉は健康にもよく、病をも治してしまう力があるのだろう。

ずっと行きたいと思いながら、なかなか行けないでいたのだが、先日、念願かなって温泉に行くことができた。

とは言え、夏ごろから感じていたエネルギー切れの症状は今はすっかり治り、また元気になっていたのだけど、やっぱり温泉は行きたい。

そこで、今回行ってきたのは市内にある豊平峡温泉という所。

源泉かけ流しで常に湯船からお湯があふれて流れ出しているほどの豊かな水量がある。

設備はやや古いが、お湯が良くて、広々とした露天風呂が最高に気持ちいい。

お湯に浸かっていたら、身体も心も元気になれた気がした。

ところで紅葉にはまだ早かったが、温泉近くにある豊平峡ダムにも足を延ばした。



札幌市内には、この豊平峡ダムと共に定山渓ダムがあるが、どちらも札幌のみずがめとして使われている。

こちらの豊平峡ダムのほうが古く、1972年の札幌オリンピックの年に完成したそうだ。

それまでは地下水をくみ上げて飲料水や料理に使っていたのだが、人口の増加にともなって水質の汚染や地盤沈下が深刻になりダムが作られたのだとか。

これを知って思い出した。そういえば家庭ではそれまで地下水を使っていたことを。

途中からは蛇口をひねれば地下水が出てくる様式になったが、それ以前は台所にくみ上げ式のポンプがついていたっけ。

幼い子ども(私)にはポンプで水を出すことが難しく、何度やっても水が上がってこなかったという記憶がある・・・

それにしても、きっとこの時代にピロリ菌に感染したんだろうなぁ。
(ピロリ菌は一説によると5歳までの幼児期に感染するのだという)

ピロリ菌の検査を受けたら私も弟も妹もみんな感染していた。

もちろん姉弟そろって除菌してきたが、こうしてダムができたお陰で、きれいな水を飲めるようになったのねと感慨が深い。


ちょうど放水の時間で、水が勢いよく噴き出していた。

ダムの水も元をたどれば雪解け水であり、大自然がなければ人間は生きていけないとつくづく思う。

人は自然と切り離されて生きることはできない。精神的にも、肉体的にもね。












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ノスタルジックな町

2016-10-03 16:21:02 | 旅行
先日は久しぶりに小樽へ遊びに行ってきました。

小樽は高速道路を使えば札幌から1時間足らずで着くので、お手軽なドライブコースになっています。

小樽は札幌では今や見ることができなくなった古き時代の建物が残っていて、小樽の街を歩くとノスタルジックな気分に浸れます。

というわけで、今回の小樽観光のテーマは「小樽 ノスタルジーな旅」なんちゃって・・・



こちらは今も開業している歯医者さん。

小樽にはこのような石造りの建物が数多く見られますが、じつはこれ、内部が木で組み立てられた木骨石造りという工法だそうです。

夏は涼しく冬は暖かいので倉庫として、明治20年ごろから小樽は建てられるようになったそうです。
また工期も短く、工費も安く抑えられたのだとか。

こちらは有名な小樽運河。
運河沿いに木骨石造りの建物が並んでいます。


昔の倉庫が今はレストランになっていますね。


運河と港を巡るクルーズ船もあるようです。

クルーズ船は乗りませんでしたが、別のものに乗ってきました。

それがこちらです↓


屋台船です~

決しておしゃれとは言えない屋台船ですが、ガイドさん付きの約40分間の小樽港周遊は勉強になることが多く、なかなか楽しかったです。


これは一見するとなんの変哲もない防波堤に見えますが、なんと日本で初めてのコンクリート製の外洋防波堤です。

こちらを作ったのは16歳で札幌農学校へ入学し、のちに大土木学者と言われた土佐出身の広井勇博士。

海に面した部分のブロックが斜めになっていますが、これはブロックを71度34分に傾斜させ、そのまま並置する「斜塊ブロック」という独特な工法だそうです。

外洋の波の力を独自に計算して工法を編み出す、広井勇博士の独創性と技術の真価が発揮された築港でした。

こうして明治41年(1908年)に幅7.3m,水深14.4m,全長1,289mの北防波堤が完成し、100年の荒波に耐えて今も当時のまま使われています。

ところで、この防波堤を作っている最中、北海道に大型の台風が上陸したことがあったそうです。

この時、広井博士はなんとピストルを持って防波堤を見守っていたのだとか・・・

もしも防波堤が崩れるようなことがあれば、そこで責任を取って自害するつもりだったそうです。
なんというのか、まるで武士のようですね・・・

この日本初のコンクリート製防波堤の完成によって、近代日本の港湾の整備が進んだというのですから、大変価値のある防波堤だということです。

ほかにもレトロなカフェで、美味しくて、590円という超お得なランチも頂いてきたのですが、せっかくのおいしいランチが私の写真が下手すぎて美味しそうに撮れなかった為、ここに載せるのは止めておきます。
(お店の人に美味しそうに撮ってくださいね!と言われ、はいはい、まかせてと返事をしてしまった手前、あの写真は載せるわけにはいきません。。涙)

というわけで、最後にもう一枚


今は廃線になった鉄道の線路です。

散歩するにはもってこいな場所です。








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ローカルな話題

2016-10-02 20:21:02 | 日記
今週末は暖かな秋晴れが続いていた。

休日にこのような良いお天気が続くと嬉しくなって、さ~て何をしようかなぁという気分になる。

ところで朝、某国営放送のローカルニュースを見ていたら、お天気キャスターのお姉さんのコメントに思わずにっこりしてしまった。

それは今日の天気予報を伝えている時だった。

「今日はよく晴れて暖かな一日となるでしょう。リスさん達は、どんぐり集めがはかどりそうですね!

天気予報を聞いていたスタジオの方たちから笑い声が上がり、お茶の間で見ていた視聴者も、私と同じように笑顔になっている人がたくさんいたのではないかと思う。

とても微笑ましくて、ほのぼのとするよいコメントだった。

札幌市内にある公園などではリスを見かけることができるし、うちの裏の森にもエゾリスがいて、冬には庭に置いた野鳥の餌を食べにやって来ることがある。

だから身近な動物ではあるので、お姉さんのコメントに、リスたちがほっぺをふくらませながらどんぐりを食べている愛らしい姿を想像して笑顔になってしまった。

いつもはお堅いイメージの国営放送の報道番組だが、これがローカルニュースになると、くすっと笑えるような場面があって楽しい。

以前、やはりローカルニュースでこのようなことがあった。

キャスターの男性はそれまで朝の全国放送のニュース番組を担当されていた「朝の顔」ともいえるような方だった。

春に北海道に異動になったのだろうと思う。

ゴールデンウイークが始まる前だったが、道内でひとつの事件があった。

それは、とある牧場から一頭の牛が逃げたというものだった。

「○○にある牧場から牛が一頭逃げ出しました。牛は重さ500キロあまりあるそうです。ゴールデンウイークが近づき、牛の捕獲が急がれています・・・」とかなんとか、男性アナはそう言ってニュースを伝えていたのだが、ニュースの内容はどちらかというと深刻なものだが、男性アナの顔はなぜか満面の笑みだった。

笑いたいのをこらえているような笑顔で、視ているこちらも笑顔になった。

いままで全国ニュースでけっこうシリアスなニュースばかり読んでいたのに、牛が逃げましたなんていうニュースを読むなんて、ほのぼのするな~とか思っていたのかもしれない(勝手な想像ですが・・・)

それにしても、今はほのぼのするどころか寒気がするような残酷なニュースが多い。

もちろんそれらも情報としては必要なのかもしれないが、たまにはこうしてほのぼのしたり心温まるニュースが聞きたい。

だから、ほのぼのニュースが多いローカルニュースはけっこう面白いのでよく見るし、二人の子供たちが住んでいる他県のローカルニュースも行った時には必ず見ている。

へ~え、そうだったのかというニュースがあって、こちらもなかなか面白い。



庭に来るエゾリスです。









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