ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

思い込み

2017-09-25 17:03:06 | 日記
用事があって、朝早い時間に出かけなければならなくなった。

休日だったので長女チェリーはまだ寝ていたが、出かけるから一緒に行かない?とベッドの中のチェリーに声をかけた。

チェリーは眠そうな声で「行かない。パソコンやってる方がいい」と答えた。

パソコンはチェリーがずっとハマっていることで、暇さえあれば歌やドラマなどの動画を延々と見続けている。

夢中になって見ているので「そろそろやめなさ~い!」と途中で言わなければ、何時間でもパソコンにかじりついているのではないかと思う。

「あまり長くパソコン見ていたらダメだよ。目が悪くなるからね」と言い残して、私は外出をしたのだが、急な用事だったので朝食で使った食器は洗わず、また部屋の片づけもできずで家を出た。

「帰ってからやればいいか」と思っていたのだが、用事が思った以上に長引いてしまい、帰宅できたのはお昼を過ぎていた。

「やれやれ、これから家の片づけかぁ」と少々お疲れ気味で家の中に入ってみると、びっくりしたことに部屋の中がキレイに片付いていた。

すると、にこにこした顔でチェリーがやってきて「お母さん、どう?きれいになっているでしょ?私が掃除しておいたんだよ」と言った。

驚いた・・・

「ちょっとこっちにも来て」と言うチェリーと一緒に行った台所は、朝シンクの中で山積みになっていた食器も洗ってあり、そしてキレイに片付いていた。

「すごい!びっくりした!ありがとう!」
うれしくて思わずチェリーを抱きしめてしまった。

まさかチェリーがここまで家事をやっておいてくれているとは、想像もしていなかった。
それどころか、きっとまたパソコンにかじりついているのだろうと思っていた。

知的な遅れがあるチェリーには時々家事を教えていたが、いつも途中で「ここまででいいよ。あとはお母さんがやるから」と言って全部やらせたことがなかった。

チェリーにできるのは、ここまでだろうという私の思い込みがあったからだ。

そして、私がいなくなったのをいいことに、チェリーはきっとパソコンにかじりついているというのも私の思い込みだった。

どうせできないだろうから・・・というのは、私がチェリーに対して思い込んでいる固定観念のようなもので、チェリーが幼い頃から今までずっとそのような想いがあった。

もしかしたら、そうした私の想いがますますチェリーを「できない子」にしていたのかもしれない。

ずっと前、チェリーに知的な遅れがあるのかもしれないと思い始めた頃は、標準とまではいかなくても他の子どもと同じように成長して欲しいと願っていた。

どうにかして同じようになってほしいという想いが強くありすぎたせいか、その反動として返ってくる「やっぱりできないか」という失望がまた大きくて、いつの間にか私の中で「この子はできなくて当たり前」になっていた。

今はチェリーはチェリーなりに幸せに生きて行ければ良いと思っているのだが、いやはやチェリーには親として教えられることがまだまだたくさんあった。

とても嬉しい出来事だったと同時に、自分でも気づかなかった心の内を見せられてドキリとした出来事でもあった。







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鳥とともに

2017-09-24 13:59:39 | 日記
久しぶりに定山渓温泉に行ってきた。

行ったのは、昨年初めて行ってとても気に入った「心の里 定山」  

自然に囲まれた中で、小鳥や水の音に耳を傾けながらゆっくりと足湯に浸かったりお昼寝をしたり、ヒーリング音楽が静かに流れる室内で本を読んだりと、時間を忘れてリラックスした時を過ごすことができる。

コーヒーやハーブティーなどの飲み物とお菓子が用意されているので、自由に選んで頂くことができる。


飲み物とお菓子を持って、まずは外の足湯へ向かいます。


何か所かある足湯の中で、庭に面した足湯からは野鳥の姿も見ることができる。
(蓮の花が浮かんでいる水が足湯ではなく、これは足湯から見えている池です。足湯はこの手前)


自然や動物の本がたくさんあり自由に読むことができます。
寝転がって読んでもOK


心静かにお茶を頂ける茶室もある。


行った時はちょうどテレビ番組の取材中で、カメラが入って女性タレントさんたちがくつろぐ場面などを撮っていた。

テレビで紹介されるほど知名度があがったせいか、昨年来た時よりも多くの方が来ていたような・・・
特に昨年は見かけることのなかった一人で来ている女性たちの姿があった。

みなさん何度もいらしているようで、慣れた様子でお菓子とお茶を持って、思い思いの場所で静かに本を読まれていた。

スタッフも女性なので、女性一人でも来やすいのかもしれない。

私もゆっくり足湯に浸かりながら、持って行った本を一冊読み終えることができた。

ところでこちらに置いてあったパンフレットに、とても心に響いた文章を見つけたので載せます。

むかし 
人はみな鳥にあこがれた
鳥のように翔べたらと想い
鳥のように歌えたらと想い
鳥のように遠くへ行けたらと
人は鳥にあこがれた
人は鳥に自由をみつけた

いま
人は鳥を追い越した
鳥よりも速く飛び
鳥よりも大きな音色で奏で
鳥よりも正確に海を渡る
人は鳥を追い越した
人は地球を我がものにした

あした
人はまた鳥を愛するだろうか
鳥の生きる自然を残して
鳥とともに歌い
鳥と親しみ鳥と暮らす
人は鳥とともに生きる道を
選ぶことができるだろうか


何度読み返してみても、なぜか心の奥にほんの少し、悲しみが湧き上がる。




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お経は・・・

2017-09-19 14:37:52 | 日記
前のブログ記事で私の両親が宗教的なものにはまったく興味がないと書いたが、嫁いだ家は毎朝欠かさずに神棚に手を合わせ、朝夕には仏壇の前でお経を唱えるという、実家とはまるで違った家だった。

神棚への朝のお参りは義父の日課、そして仏壇の担当は義母だった。

ちなみにお経をあげるのは義母だけで義父はお線香をあげるだけだったが、聞くところによると仏壇に毎日二回お経を唱える習慣は義母が嫁いできてから始まったようだ。

夫の家は、元々は神社を重視して神棚を大切に扱う家だったと聞いているが、子供の頃からずっとお寺のお手伝いをしてきた義母はお寺重視タイプで、義母が嫁いできてだんだんと力を持つようになると(笑)、お寺にたくさんの寄付をしたり、またお寺の行事にはお手伝いに行くなどして、夫の家はいつの間にか信心深い門徒の檀家になった。

義母は子供の頃から浄土真宗のお寺でお手伝いをしていたので、お経は全て暗記している。

お寺の住職さんから尼さんになって跡を継がないかと言われていたこともあったとかで、何十年と続けている朝夕のお勤めは義母にとって生活の一部になっている。

90歳になり認知症の症状が重くなってきたが、声を出して長いお経をあげることは義母の健康には役立っているのだろうと思う。

だが毎日の義母のお経が、もしかしたら外から様々なものを呼び寄せているのではないだろうかと思うことがある。

義母が毎日お勤めをする仏壇が置いてある部屋にはちょうど東北の方角に大きな窓がある。

東北というのは鬼門だが、そこから時々何かが入ってくると思うのは、ずっと前から感じていたことだった。

前に住んでいた家では鬼門から何かが入るという気配は感じたことが無かったことで、やはり義父母と同居して朝夕のお勤めが始まった頃から、そのようなことを感じるようになった。

ところで、仏壇のある部屋の問題の東北の窓から、まっすぐ進んだ場所の南西にあるのが私の寝室で、私は少し枕の位置をずらしているが、以前一度だけ東北の和室から来て、寝室へ入ってきた生きている人間ではない何者かがいた。

夢ではなかった。

ドアを開ける音がして誰かが近づいてきたと思ったら、いきなり左の腕をつかまれた。

入ってきたのが生きている人間ではなかったことは幸いだったが、やはり気持ちの良いものではない。

他にも仏壇のある和室の掃除をしていると視線を感じたり、和室の扉の前に誰かが立っているのを感じたり、そんなことが何年も続いた。
もちろん、他の家族は全くそのような気配は感じておらず、一度だけ腕をつかまれた以外は特に悪さをされることもなかったので、あまり気にもしていなかったのだが、同じことを書くようだが、やはり気持ちの良いものではなかった。

ところが、それが床供養を教えて頂いたことで、ほぼ毎日のように床供養をするようになったら、家の中での気配は消えた。

それでも義母のお経は毎日続いているので、ときどき何者かが入ってくることに変わりはない。

外から入って来ないようにすることもできるそうだが、床供養を知ったおかげで、入ってきたものを供養することができるので、私はそれでもかまわないと思っている。

最初、慣れない頃の床供養は、先祖供養とは違い何か得体のしれない物たちへの供養といった考えがあって、供養が終わると逃げるようにその場を離れていた。

しかし、今はその考え方もすっかり変わった。

信じられないかもしれないが、そのような誰にも供養されずにいるもの達が、今はとても愛おしく感じる。

以前は手を合わせながらも、何か嫌な感じがしたらすぐに逃げられるようにしていたが、今は落ち着いて心から成仏してくださいと祈ることができるようになった。

「自分の出したものは返ってくる」と聞くが、ここ最近では床供養をすると暖かなものが返って来る日もあると思えるのは気のせいだろうか・・・

さて、そのような訳でお経についてだが、義母が唱えるお経が良くないと言いたいのではない。

日本ではずっと昔に仏教が広まり、長い間、ほとんどの人は死んだらお経をあげてもらうものだと思い込んでいる。

だから亡くなってから救われたいモノ達が、お経に誘われてやってくることがあるのだろうと思う。

ただし家族や縁のある方からの心から成仏してほしいという想いがあって、お経を読むのは多少の効果はあるかもしれないが、何の関係もない他人にお金を払ってお経を読んでもらうことは、死者を成仏させることにはまったく効果がないと思う。

なぜそう思ったのか?

それは以前、義父の法事でお寺に行った時のことだった。

目の前で良い声のお坊さんが朗々と読経してくれているのも関わらず、その後ろで手を合わせていた私は何かに憑依を受けたことがある。

私は僧侶が読経する後ろで椅子に腰かけていたのだが、椅子から崩れ落ちそうになるほど、突然首から肩、腕全体が重たくなった。

あんなにはっきりと憑依されたと分かったのは、生まれて初めての事だった。

どうしようかな・・・と思いながら、一方で「お経、ぜんぜん効かないじゃん!」と思っていた。

とはいえ、父の葬儀でも読経していただいたように、日本ではまだまだ葬儀に僧侶とお経は欠かせないといった感がある。

うちの父も「死んだらお経をあげてもらうものだ」と思っているので、そのようにしてあげるのがベストであったと思うし、また、もしそうしなければ親戚からあれこれ尋ねられるのもめんどくさい。

ただ、これからは僧侶に読経をお願いすると言った葬儀のあり方も変わってくるのだろうなと思う。

なんだかとりとめもない文になってしまいましたが・・・おわり













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父の手帳

2017-09-17 17:19:23 | 日記
父がいなくなった実家へ片付けに行ってきた。

実家の片づけは、父が高齢者住宅へ移った頃から少しずつやってきているのだが、物が多すぎてなかなか片付けが終わらない。

家が大きいうえに母の希望で収納場所がたっぷりと有り、その収納場所にはぎっしりと物が詰め込まれている。

頂き物が多かったり、また要らない物を捨てられない母だったこともあって、ため込まれた物の多さと言ったらない。

母が亡くなって一人になった父も自ら要らない物を捨てるということはせず、さらにオシャレな父は母任せだった洋服を自分で買うようになってから、洋服の量がものすごく増えていた。
ほとんど服は買わなくなった私なんかより、父の方がずっと「衣装持ち」だ。

しかし、最近の雑誌でも「老親の家を片付ける」なんていう特集をよく目にするので、きっとどこの家でも同じようなものなのかもしれない。

さて片づけだが、自分たちが欲しいものはそれぞれがもらい、あとでリサイクル業者に来てもらうつもりで引き取ってもらえそうなものはよけて置く。

自分たちで捨てられるものはできるだけ捨てて、最後に残った物は業者に頼んですべて廃棄してもらおうと思っている。

そして今やっている片づけは、よけておくものと捨てるものの仕分けなのだが、片づけをしていると懐かしいものがたくさん出てきて、思わず手が止まってしまう。

特に実家のそばに住んで、より父と長い時間を過ごしていた妹は、父の愛用していたものに手が付けられないと言う。
それらの品を見ると元気だった父を思い出し、それから父がいなくなった寂しさに襲われるからなのだそうだ。
その気持ちはよくわかる。

私は母の時がそうだった。

母が使っていたもの、例えば洋服など捨てなければ・・・と思うものの、捨てるどころか見ることもできなかった。これはもちろん妹も同じだった。

それらがいつの間にか無くなっていたのは、すべて父が処分してくれたからだった。
父もよく一人で母の思い出がたくさんつまった品々を処分できたものだと思う。

だから、今度は私が父のものを処分してあげようと思う。

ところで整理をしていたら同じ黒の手帳が何冊も見つかった。

年度ごとに分かれていて、その数は10冊以上あり、母が亡くなる前年から父が77歳になるまである。

中をパラパラと見てみたら、父が毎日つけていた日記的なメモ書きだった。

仕事をしていた頃の日記は、その日にあった会議や行った場所などが書かれているだけ。

それが変わったのは母が突然の余命宣告を受けた頃だった。

母の病状が一行だけ、そこに書き加えられるようになった。

母の病状が悪化し、ついに亡くなった日も「妻逝去」とだけしか書いていない。

父にもいろいろな想いがたくさんあったと思うが、自分の心情などは一切書かず、淡々と事実だけが書かれていた。

「これも全部捨てよう」と思いながら、何気なく他の手帳のページをめくった時、感謝という言葉が目に入ってきた。

そこを読んでみたら、それは父が仕事で表彰された日で、実はこの表彰は父にとっては人生で嬉しい出来事ベスト3に入るくらい喜ばしいことだったのだが、そこには母に対する感謝の言葉が書かれていた。
この時はもうすでに母は他界していたのだが、「妻の写真を持って表彰式にでた」とあった。

父はどちらかと言うと仕事に生きるタイプで75歳まで現役で働いていたのだが、当時の父は子どもの目からみると「上から目線で物を言う人」という印象がとても強かった。

とても頼りになる父である反面、家族に対しても仕事関係の他人に対しても上から目線で遠慮なく物を言うので、昔の私は父に対してよくムカッとしていた記憶がある。

そんな父だったので、家族に対して声に出して感謝の言葉など聞いたこともない。

ところが、父が亡くなってから見つかった遺言書の中に、家族に対する感謝の言葉が書かれていたのと同じで、母が亡くなった後の手帳には感謝の文字がたくさん書かれていた。

その手帳の中には私の知らなかった父の姿があった。

親子と言えども日記を見るのはマナー違反だったのかもしれないが、父の想いがすこし分かって嬉しかった。

でも、この手帳も処分しよう。父もそれを望んでいるような気がする。

さて実家にあった欲しいものは、もうほとんどもらってきたのだが、もうひとつみ~つけた!!

これ↓



青竹ふみか足つぼボードを前からずっと欲しいと思っていたのだが、なんと実家で発見した。

妹は「いらない」と言うので、私がもらってきた。

足の裏は第二の心臓とも言われているそうで、血流を良くするためにもらってきたボードをさっそくフミフミしている。

これが痛いの痛くないのって・・・かなりの痛さですが、慣れるとそれもまた気持ち良さになってきます。







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夏の疲れ、たまっていませんか

2017-09-12 13:29:57 | 日記
「夏の疲れ、たまっていませんか?」と遠方に暮らす友人からメールをもらった。

夏の疲れか・・・たしかに少したまっているような気がしないでもない。

夏休みで帰省していた次女ピーチが、今朝また大学のある町へと戻って行った。

家に居たのは一か月ほどだったが、ピーチを送り出したら疲れがどっと押し寄せてきた。

先月の帰省間際に、ピーチから電話があった。
「荷物がたくさんあって持ちきれないから、先にそっちへ送ろうと思うんだけどどうすればいい?」

「どうすればいいってアンタ、それは段ボールに詰めて送ればいいっしょ」

「そっか、わかった。ところでどこに頼んだらいい?」

荷物一つ送るのにも親に聞いてくるという情けなさで、今更ながら娘に何もさせてこなかったことが悔やまれる・・・

なんとかピーチが自分で荷造りをして送ってきた大きな段ボール箱の中には、こちらで使う就活用スーツや靴、そしてノートや教科書類がぎっしりと詰め込まれていた。

重量はかなりある。送料もかなりかかったみたいだ。

ピーチはいま大学3年生で、夏休み期間中はこちらの企業2社でインターンシップを受けることになっていた。
「インターンシップもあるのに、こんなに教科書おくってきて勉強する時間あるの?」と聞くと、「他の人より遅れたから、やらなきゃいけない」と言う。

ところでピーチのいた夏休みは、普段の生活とは違って忙しかった。
パインの時もそうだったが、家を離れてたまに帰って来ると、ついおもてなしをしてしまうのだ。

普段たべていないのだろうから、あれもこれも食べさせたい、連れて行ってあげたい場所もある・・・など必要以上に頑張ってしまう、だから疲れる。

そんなわけで今年の夏休みもピーチの用事を優先させ、おもてなしをしていた。

まず就活用スーツだが、なかに着るブラウスが一枚しか入っていなくて、しかもヨレヨレだった。

一社は一週間のインターンシップなので、ブラウスが一枚ではとうてい間に合わないだろう。

すぐにピーチをつれてブラウスを買いに行く。

ブラウスを選んでいると、店員さんに「就活用のかばんはお持ちですか?」と言われて、持っていなかったことに気づき慌ててカバンも購入する。

また一か月しか家にいられないピーチに好物を食べさせたくて、ピーチが大好きないくらを買いに店をいくつも回った。

いくら・・・正確に言えばいくらにする前の生筋子なのだが、ちょうどピーチが戻る前にギリギリ店頭に生筋子が並ぶはずだった。

「まだ生筋子は出ないのかなぁ」と待っていたら、近所のスーパーのチラシに数量限定で生筋子が出た。
しかも100g398円のお買い得。これは並んでも買うしかない!

というわけで、生筋子を買う行列に並んだ末、なんとか生筋子をゲットすることができた。

それでいくらの醤油漬けを作り、お腹いっぱいのイクラ丼をピーチに食べさせることができた。

他にもピーチが食べたいと言うケーキを買いに行ったり、食べさせ過ぎたせいかお腹が痛いと言うので病院へも連れて行ったりと、気がつけばあっという間に一か月は過ぎて戻る日になっていた。

「じゃあ、あとで教科書の段ボール箱送ってね」と言って帰って行ったピーチ。

そうだ、そういえば高い送料かけて送ってきた教科書は使ったのだろうか?

箱の中を覗いてみると、上の何冊かは使ったような跡が残っているが、底の本は届いた時のまま。
もしかして出してもいないのではなかろうか・・・わざわざ送ってきたのに~!

それにしても箱を見ると隙間がけっこうある。これはまだ入りそうだなぁと思う。
そして食べ物を買いに行く。

買ってきた食品を段ボールの隙間に詰めながら、これだから何もできない娘になっちゃうのかもとまた反省しきり・・・

というわけで、あっという間にピーチの夏休み帰省は終わった。
ピーチがいなくなった家の中はまた静かになり、そして寂しくなった。

毎日、話し相手になっていたピーチがいなくなって一番さびしがっているのはお姑さんで、ピーチが出発する時には玄関で涙ぐみながら見送っていた。

大丈夫、また年末に帰って来るからとお姑さんをなぐさめた。

ところで、みなさん夏の疲れ、たまっていませんか?




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生き生きとするためには

2017-09-11 17:30:12 | 日記
私が結婚するまでずっと暮らしていた実家には神棚と仏壇が置かれていた。

これは祖父母の代からのものだったが、祖父母が亡くなってから、仏壇に手を合わせるのはお盆とお正月、そして祖父母の命日くらいなのもで、神棚に至っては年末年始の二日間しかお参りをしていなかったと思う。

だから実家の仏壇も神棚も、いくら内装に金箔を使って豪華にしていたとしても、生き生きとしたものがまったくなくて、昔からまるでどこかの空き家のように見えていた。
それは父が亡くなって空き家となってしまった実家と同じで、今でも実家の仏壇と神棚は、そして実家までも生き生きとした光がない。

もともと両親は宗教的なものに対しては興味がなかったのだが、新興宗教に入っている知り合いからよく誘いの電話があったりしていたので、そんなことからますます宗教が嫌いになっていた。

ただ先祖に対しては供養しなければという気持ちはあったようだが、それでも供養と言えるようなことはあまりせず、母はふざけて「ウチの仏さまは、ほっとけさまだから」などとよく言っていた。

私も新興宗教はもちろん宗教は好きではない。

でも先祖供養や床供養をやっているではないかと言われそうだが、私が嫌いな宗教とは団体になって布教活動をしたり集金活動をしたりしているもののこと。
そもそも入った目的が、自分の願望を叶える為という信者が多い所。
団体を大きくすることだけに一生懸命になっている所。
このような所にいては、本来の目的だったはずの自分の中の光を見つけることは不可能だろうなぁと思う。
(もしかしたら、そのような場にいても見つける人はいらっしゃるのかもしれませんが・・・)

なぜここまで嫌いな所をあげられるかと言うと、私も恥ずかしながらそのような団体に足を踏み入れたことがあるからで、ここでの経験があったからこそ、個人で行う先祖供養を初めて自分でやった時、不覚にも涙がこぼれてしまった。

あの時は、(今もですが)探していたのはこれだったと心から思えた。

これは誰に強制されて行うものでもなく、けっして団体にはならず、ただただ感謝のみを捧げる個人だけで行う供養。
自分が感謝したいと思うから感謝するだけであり、やめようが休もうが誰もにも怒られたりしない。
ただ、自分の本当の心が自分自身を見ているだけ・・・

これを始めてから、自分の内面を見ることがとても多くなり、感謝することで、私の頑強だった自我がすこし緩んできたのではないかと思える。

先祖供養をやる気になれない人は無理にやらなくてもいい。やりたいと思えた人だけがやればいいと思う。

だってやらなくても、(うちの両親のように)生きて行けるのだから。

ただ私自身はやり続けて本当に良かったと思っている。

自分の中にある心と外側の自分とでも言ったらいいのか、その二つの自分が最近一致してきたと思う。

バラバラだった以前の自分は生きるのが苦しいと思う時がよくあった。

今は一致していることがほとんどなので、生きることがとても楽であり楽しい。

・・・あれ、最初に書こうとしていたことと、話題がずいぶんかけ離れてしまったかもしれない。

この続きは書けたらまた次回にします。






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屋根裏

2017-09-04 13:12:37 | 日記
7月に帰省した弟と会った時、弟から子どもの頃に経験した不思議な話を聞いた。

弟がまだ幼稚園か小学校低学年だった頃、夜中に聞こえてくる「お経」の声で目を覚ますことがよくあったそうだ。

お経が聞こえてくる場所はいつも同じ所からで、そこは家の中の二階へ行く階段をあがった屋根裏だった。

当時住んでいたのは、木造二階建ての古い家で、私たち家族の寝室は二階にあった。

そして問題の屋根裏は寝室から近く、そこは荷物置き場になっていた。

弟が言うには「あの屋根裏は暗くて、実際は突き当りに壁があるのだけど、まるで先が見えない、どこまでも続く洞窟のような気がしていた」という。

弟に言われて思い出したのだが、それはまったく弟の言う通りで、その屋根裏は日が差さない為にいつも薄暗く、本当にどこまでも先が続く洞窟のようだった。

そしてお経の声も、たしかに私も聞いたことがあったことを思い出した。

「男性の声でお経を読む声が、あの屋根裏の奥から聞こえてくるんだ。気持ち悪かったけど、すごく良い声だった」と弟が言う。

そうだった。それは男の低い声で、今思い出すとなかなかの良い声だったかもしれない。

そんなことがあったことを思い出していたが、その古い家から私が二十歳の頃に隣の空き地に建てた新しい家に引っ越しをして、新しい家で私や母に起こったいろいろな怖い現象も思い出した。

弟は18歳で進学のために家を出たので、新しい家で暮らすことはほとんどなかった。
だから新しい家でのことは経験していない。

新しい家でいろいろと起きた奇妙な現象は、特に母と私が経験した。

あの頃は女性の霊が家にいるせいだと思っていたが違った。
男だった。

男だと思われる証拠があったのに、なぜ私は女だと思っていたのだろう。

そうだ、古い家を他人に貸した時に、母がその住人から「この家にはおばあさん(霊)がいる」と言われたことを聞いたせいだ。

母はてっきり先祖だと勘違いして「おばあさん、こちらへ来てください」と毎日祈っていた。

まったく余計なことをしたものだが、それも我が家の縁だったのかもしれない。

当時の私は怖さが極限になると、窮鼠猫を嚙む(きゅうそねこをかむ)状態で、霊に対して怒りをぶつけることしかできなかったが、今思い出してみると、かわいそうなことをしたなぁという想いが湧いてくる。

もっと早く適切な供養をしてあげればよかったが、その頃は供養の方法も知らなかったので仕方がない・・・

その後、先祖供養や床供養を知って、実家に長いこと棲んでいたものをやっと供養することができた。

今、実家ではまったく奇妙な事は起きなくなったし、何よりそのものが成仏してくれたとしたら、こんなに嬉しいことはない。

世の中には肉体が無くなっても、成仏できずにまだうろうろしているものがいる。

これは最近ほんとうにそう思う。
だから私はできる限り、自分が生きている限り、供養をしようと思っている。








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