用事があって、朝早い時間に出かけなければならなくなった。
休日だったので長女チェリーはまだ寝ていたが、出かけるから一緒に行かない?とベッドの中のチェリーに声をかけた。
チェリーは眠そうな声で「行かない。パソコンやってる方がいい」と答えた。
パソコンはチェリーがずっとハマっていることで、暇さえあれば歌やドラマなどの動画を延々と見続けている。
夢中になって見ているので「そろそろやめなさ~い!」と途中で言わなければ、何時間でもパソコンにかじりついているのではないかと思う。
「あまり長くパソコン見ていたらダメだよ。目が悪くなるからね」と言い残して、私は外出をしたのだが、急な用事だったので朝食で使った食器は洗わず、また部屋の片づけもできずで家を出た。
「帰ってからやればいいか」と思っていたのだが、用事が思った以上に長引いてしまい、帰宅できたのはお昼を過ぎていた。
「やれやれ、これから家の片づけかぁ」と少々お疲れ気味で家の中に入ってみると、びっくりしたことに部屋の中がキレイに片付いていた。
すると、にこにこした顔でチェリーがやってきて「お母さん、どう?きれいになっているでしょ?私が掃除しておいたんだよ」と言った。
驚いた・・・
「ちょっとこっちにも来て」と言うチェリーと一緒に行った台所は、朝シンクの中で山積みになっていた食器も洗ってあり、そしてキレイに片付いていた。
「すごい!びっくりした!ありがとう!」
うれしくて思わずチェリーを抱きしめてしまった。
まさかチェリーがここまで家事をやっておいてくれているとは、想像もしていなかった。
それどころか、きっとまたパソコンにかじりついているのだろうと思っていた。
知的な遅れがあるチェリーには時々家事を教えていたが、いつも途中で「ここまででいいよ。あとはお母さんがやるから」と言って全部やらせたことがなかった。
チェリーにできるのは、ここまでだろうという私の思い込みがあったからだ。
そして、私がいなくなったのをいいことに、チェリーはきっとパソコンにかじりついているというのも私の思い込みだった。
どうせできないだろうから・・・というのは、私がチェリーに対して思い込んでいる固定観念のようなもので、チェリーが幼い頃から今までずっとそのような想いがあった。
もしかしたら、そうした私の想いがますますチェリーを「できない子」にしていたのかもしれない。
ずっと前、チェリーに知的な遅れがあるのかもしれないと思い始めた頃は、標準とまではいかなくても他の子どもと同じように成長して欲しいと願っていた。
どうにかして同じようになってほしいという想いが強くありすぎたせいか、その反動として返ってくる「やっぱりできないか」という失望がまた大きくて、いつの間にか私の中で「この子はできなくて当たり前」になっていた。
今はチェリーはチェリーなりに幸せに生きて行ければ良いと思っているのだが、いやはやチェリーには親として教えられることがまだまだたくさんあった。
とても嬉しい出来事だったと同時に、自分でも気づかなかった心の内を見せられてドキリとした出来事でもあった。
休日だったので長女チェリーはまだ寝ていたが、出かけるから一緒に行かない?とベッドの中のチェリーに声をかけた。
チェリーは眠そうな声で「行かない。パソコンやってる方がいい」と答えた。
パソコンはチェリーがずっとハマっていることで、暇さえあれば歌やドラマなどの動画を延々と見続けている。
夢中になって見ているので「そろそろやめなさ~い!」と途中で言わなければ、何時間でもパソコンにかじりついているのではないかと思う。
「あまり長くパソコン見ていたらダメだよ。目が悪くなるからね」と言い残して、私は外出をしたのだが、急な用事だったので朝食で使った食器は洗わず、また部屋の片づけもできずで家を出た。
「帰ってからやればいいか」と思っていたのだが、用事が思った以上に長引いてしまい、帰宅できたのはお昼を過ぎていた。
「やれやれ、これから家の片づけかぁ」と少々お疲れ気味で家の中に入ってみると、びっくりしたことに部屋の中がキレイに片付いていた。
すると、にこにこした顔でチェリーがやってきて「お母さん、どう?きれいになっているでしょ?私が掃除しておいたんだよ」と言った。
驚いた・・・
「ちょっとこっちにも来て」と言うチェリーと一緒に行った台所は、朝シンクの中で山積みになっていた食器も洗ってあり、そしてキレイに片付いていた。
「すごい!びっくりした!ありがとう!」
うれしくて思わずチェリーを抱きしめてしまった。
まさかチェリーがここまで家事をやっておいてくれているとは、想像もしていなかった。
それどころか、きっとまたパソコンにかじりついているのだろうと思っていた。
知的な遅れがあるチェリーには時々家事を教えていたが、いつも途中で「ここまででいいよ。あとはお母さんがやるから」と言って全部やらせたことがなかった。
チェリーにできるのは、ここまでだろうという私の思い込みがあったからだ。
そして、私がいなくなったのをいいことに、チェリーはきっとパソコンにかじりついているというのも私の思い込みだった。
どうせできないだろうから・・・というのは、私がチェリーに対して思い込んでいる固定観念のようなもので、チェリーが幼い頃から今までずっとそのような想いがあった。
もしかしたら、そうした私の想いがますますチェリーを「できない子」にしていたのかもしれない。
ずっと前、チェリーに知的な遅れがあるのかもしれないと思い始めた頃は、標準とまではいかなくても他の子どもと同じように成長して欲しいと願っていた。
どうにかして同じようになってほしいという想いが強くありすぎたせいか、その反動として返ってくる「やっぱりできないか」という失望がまた大きくて、いつの間にか私の中で「この子はできなくて当たり前」になっていた。
今はチェリーはチェリーなりに幸せに生きて行ければ良いと思っているのだが、いやはやチェリーには親として教えられることがまだまだたくさんあった。
とても嬉しい出来事だったと同時に、自分でも気づかなかった心の内を見せられてドキリとした出来事でもあった。