ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

祈り

2015-03-30 17:13:44 | 日記
毎朝、私は祈る。

まず神棚に向かって、この地球上に生かされている事に感謝の祈りを捧げる。

それから自分以外の生き物すべてが生かされている事に感謝の祈りを捧げる。

それは自分以外の人間はもちろんのこと動物たちや植物たち、そして虫たちも・・・とにかく全ての生き物たちが生かされている事に感謝して祈る。

次に先祖供養のために置かれた短冊に向かいお線香を立てて、生かされているに感謝の祈りを捧げる。

そして、顔も知らない多くの先祖やご縁のあった方々が、一人残らず光り輝く世界に行かれる事を願って祈りを捧げる。

ずっとこの生活を続けているので、もう祈りのない生活など考えられない。

祈ることを止めたら、まるでクリー○を入れないコーヒーのように味気ないものになることは間違いないと思う。(私はブラック派ですが・・・)

実は、この「祈り」というものは、人の心と身体の健康にとても良い影響を与えるという事が分かっているそうだ。

ただしそれは「良い祈り」をした場合に限られる。

祈りには「よい祈り」と「悪い祈り」があり、自分以外の他人のために祈ることが「よい祈り」であり、「あの人を蹴落としたい」「あの人が失敗すればいい」などという祈りが「悪い祈り」になる。

人間の脳には前頭前野内側部と呼ばれる部分があり、ここは自分の行動の評価を行っているところだそうだ。

脳が「よい祈りだ」と判断すると、ベーターエンドルフィンやドーパミン、オキシトシンなどの脳内快感物質が脳の中に分泌される。

なかでもベーターエンドルフィンは、脳を活性化させ、体の免疫力を高めていろいろな病気を予防する効果が期待できるとか。

さらに、ベーターエンドルフィンやオキシトシンが分泌されると、記憶力が高まり、集中力が高まることも医学的にすでに知られている。

一方「悪い祈り」と脳が判断した場合、ストレス物質であるコルチゾールという物質が分泌される。

コルチゾールは体に無くてはならないホルモンだが、過剰に分泌されてしまうと記憶の回路である「海馬」が萎縮してしまうことがわかっているそうだ。

とはいえ、心からそう思っていないのに他人の幸せを祈ると「それは偽善でしょ」と脳の中の前頭前野内側部がシビアに判断してストレスになってしまうので注意しなくてはいけない。

けっして無理をせずに自分以外の幸せも祈ることが、知らずに自分の運気を高めることになっているのだと思う。

私自身は、毎朝の祈りで自分のことをお願いすることはまったく無い。

たぶん個人的なことを祈ると、自分自身の胸の中心がもやもやとして気持ち悪くなるだろうと思う。

だから、これからも自分自身のことを祈ることはしないだろう。

そんなわけで毎朝、祈りの後は気分すっきり。「今日も頑張るぞ~」という気力が湧いてくる。

記憶力の方は、最近少々不安が出てきたが、脳の老化も祈りの効果ですこし遅くなっているのでは・・・?と信じている。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先祖

2015-03-27 17:13:18 | 日記
活字中毒と言われるくらい、いつもそばに本が無いと物足りなさを感じてしまう。

ピーチのことで気ぜわしくても、毎日すこしの時間でも本だけは読んでいる。

最近、非常に興味深い内容の本を読んだ。

それは与那嶺 正勝さんが書かれた「新・家系の科学」。

筆者は大学在学中に自分の家の家系図が載った本に出会い、以来家系の研究にのめり込んで、今まで二万件以上の家系調査をしてきたそうだ。

その結果、人には誰にも対応する先祖がいて、その人の辿った人生の影響を何らかの形で受けているということが分かったそうだ。

例えば、先祖で婿養子に出た男性がいるとしたら子孫もまた婿養子に出る男子が現れたり、技術者として成功している人の先祖を調べると代々技術者が続いていた家系だったり、比較的穏やかな人生を送る人の先祖を調べると、やはり先祖も穏やかな人生だったということが多いそうだ。

家系にはどんどん上向いていく家系もあれば、下降の一途を辿った末に絶家してしまう家系もある。

本には、そこにどのような違いがあったのかということが書かれている。

繁栄していく家、衰退していく家、その両方を調べていくとある共通点があったそうだ。

特に衰退していく家系には、必ず先祖に「色情問題」が出てきたそうだ。

例えば「不倫」、妾を何人も囲っていたような先祖がいると、家系はなぜかどんどん衰退していくそうだ。

そこには恨みや悲しみなど、男女のどろどろした感情が渦巻いていただろうから、それが子孫にまで影響を及ぼすというのは分かるような気がする。

また現代社会では珍しいことではない「離婚」もまた家系を衰退させる原因になっていたそうだ。

やはり夫婦が仲睦まじく、特に妻を大事にした家系(ここ重要!)は衰退することなく、むしろ上昇していくことが分かったそうだ。

夫婦仲がうまくいかないことで家庭内がおかしくなるのは当然だが、もっと恐ろしいのは、それがその後の家系、つまり子孫達にまで深い影を落としてしまうのだとか。

とはいえ、離婚原因にも色々あるように仕方なく離婚を選ぶこともあるだろう。

著者である与那嶺さんは、その解決策をどう書かれているのだろうか?

そう思いながら本を読み進めていくと、どうしても仕方なく離婚する場合になった時は、できるだけ恨みつらみなく別れるようにした方が良いと書かれている。

(しかし、もうすでに憎み合って別れてしまっている場合はどうするのでしょうね・・・)

ところで現代社会で問題になっている「引きこもり」や「不登校」。

これもまた先祖や夫婦仲の影響だと著者は書いている。

「顔も知らない先祖のやったことなど知ったことではないし、そんなことは信じない」

そう言って勝手気ままに生きている人も多いかもしれない。

筆者はこのように書いている。

「自分が成功すると、まるで自分がすべて行ったように思います。
ところが、家系の法則からわかることは、自分たちがいまこういう生活ができるのは、本当に先祖の人々の涙ぐましい努力があったからなのです。
とてもその背景を抜きにして、私たちの存在そのものは、考えられないのです」

私は、この逆もしかりなのだと思う。

何でも先祖のせいにして、自分勝手な考えや態度をあらためずにいるような人は、いつまでたっても苦しさから逃れることはできないのだろうと思う。

そして、やはり先祖供養は重要なのだということを本を読みながらつくづく感じていた。

さらに付け加えるなら、すでに憎み合って離婚してしまった場合でも、先祖を供養していくことでマイナスをプラスに変えていくこともできるのではないかと思う。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

節目

2015-03-25 16:18:24 | 日記
ピーチの合格発表があってから入学式までの猶予は二週間とすこし。

今は「あれもしなければ、これも用意しなければ」と気持ちばかりが焦っている。

そして忙しくなると、つい頭の中に浮かんでくることは「これが前期に受かっていてくれていたら。そうしたらこんなにバタバタしなくて良かったのに・・・」という事。

自分でもなんと贅沢なことを思っているのだろうと思う。

ピーチが行きたかった学校に行けるだけで、もったいないくらいに十分なのに。

そして前期だろうが後期だろうが、入学させてもらえるだけでありがたく、準備に時間が無い事くらい何でもないはずなのに。

たぶんこれは自分が寂しいからだろうなぁと思う。

長男パインに続いて、まさかピーチも本州の大学へ行ってしまうなんて、前期を落ちた時点で考えていなかったからね。

「人生の転換期だな。まさに今、歯車がカチッと回ったようだ」

そう言ったのは夫だった。

本当にそう思う。

思えば「育児」をする期間っていうのは、本当に短い。

おしっこだ、うんちだ、ご飯だと、毎日髪を振り乱して育児をしていた頃は、早く大きくなってくれないものだろうかと思っていたが、過ぎてしまえばなんと早かったことか。

長女チェリーのように障害があって親が手をかける期間が長いという場合もあるが、高校を卒業して進学や就職で親元を離れてしまうと、18年なんて本当にあっという間だったなぁと思う。

もちろんまだまだ親としての役目は続くが、家を離れる今年の春が次女ピーチの一つの節目だろうと思う。

最初は不安がっていたピーチだが、今は新しく始まる生活に期待と希望でいっぱいになっている。

まさに新しい門出という感じ。

そして明日ピーチは部屋を探すために、夫の付き添いで大学のある町へ向かう。

もうほとんど良い部屋が残っていないという情報もあるが、まぁ大丈夫でしょうと思っている。
(根拠はないけど)

そして4月になったら、今度は私がピーチと一緒に行くことになっている。

部屋の中を整理して、必要な物を揃えてこなければいけない。(もちろん入学式も出る予定)

行きはピーチと一緒だが、帰りは一人で帰ることになるのだなぁ・・・

いかん、いかん。また寂しくなってしまった。

とはいえ、楽しみでもある。

パインの時もそうだったが、新しい町やその周辺を見て歩くことはとても楽しい。

交通費もかかるので、そうそう頻繁には行けないが、忙しい引越し準備の合間にネットで観光スポットなどを調べている。

今年から関東方面をウロチョロできる!かも・・・











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合格

2015-03-21 14:54:07 | 日記
次女ピーチの大学入試の合格発表があった。

前期入試ではセンターに続き二次試験も失敗し、本人も納得の不合格だった。

次のチャンスで後期試験も受けていたが、前期に比べて倍率が非常に高くなるため、ほぼ国公立へ行くことは考えておらず、受かっていた地元私立大に行くことを決めて入学金と授業料の支払いを済ませていた。

ところが、まさかまさかの合格だった。

合格発表の日だという事は覚えていたが全く期待はしておらず、地元私立大に行くと思っていたので、ピーチからの「受かってた」という電話に嬉しさ半分、動揺半分の複雑な心境だった。

複雑な心境というのは、そこが道外の大学だということ。

長男パインも道外に出たが、やはり男の子と女の子の違いなのだろうか。

女の子なので心配がある。

しかもパインの暮らす東北はまだ近いような気がするが、ピーチの受かった大学は関東地方のとある県。

それは大学を受けるときに分かっていたことだが、正直あまり受かるというイメージができていなかった。

合格が現実になると、かなり動揺する・・・

東北も関東もそれほど大差はないのかもしれないが、それでもやけに遠いような気がして、また知らない土地なのでかなり不安がある。

それはピーチも同じだったようで大学に受かったとわかった時には嬉しかったようだが、時間が経つにつれてだんだん眉毛が下がってきた。

そして「一人で暮らすなんて不安。やっぱり地元の私大に行こうかな・・・」と言いはじめた。

「どっちでも良いけれど、あとで後悔をしないようにね」と言うと、ピーチはしばらく部屋にこもっていたが「やっぱり関東の大学へ行く」と言った。

友人たちから「遊びに行くから、関東へ行ったほうがいい」と言われたらしい。

そうと決まれば、やらなければいけないことは山ほどある。

部屋を決めなければいけないし、家具も揃えなければいけない。

その前に入学手続きをしに大学へ行かなければいけない。

入学式まであと二週間しかないのにできるのだろうか・・・

とりあえず大学からの書類を見なければ、先に進めない。

ところが肝心の合格通知がまだ来ていない!

「受験番号を見間違えたんじゃないの?」

そういいながら、受験票を手に何度もパソコンで合格発表の番号を確認した。

やはり同じ番号があるような・・・

「おめでとう!」とピーチに言うと、ピーチの下がっていた眉毛が元に戻って嬉しそうな顔になった。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火山灰

2015-03-16 14:28:59 | 日記
何年か前に入っていた会は宗教ではなかったが、非常に宗教的でスピリチュアル的なこともやっていた。

その会を意見の相違から辞めたことは以前も書いたが、実はもうひとつ辞めようと思った理由があった。

これは会の人たちにも言っていない理由だったが。

それは会の幹部の方が、他の方に私のことを指して「ちょうどひとり霊能者が欲しいと思っていたんだ」とおっしゃったことがあった。

それを聞いて私は非常に驚いた。

「私は霊能者ではない。霊能力なんて持っていない」と反論したかった。

なぜ彼らがそのように思ったのか、あとで考えてみると、ちょうどその頃から頭の中に鮮明にまるで映画の画面をみているかのような映像が見えてくることが起こっていた。

しかし、このようなことは、私が10歳くらいまでは頻繁にあったことなので、自分としては特に驚くようなことでもなんでもなく、また見えるようになったなぁと思うくらいだった。

また、そのような体験について誰かに話したことはなかったので、このようなことは誰もが見える普通の事であって、それが特に珍しいことだとは思ってもいなかった。

ところで、鮮明な映像で見えてくるのは風景が多く、不思議なことに人間の姿はない。

(あまりにも大きな災害の前は人間の声、悲鳴や叫び声が聞こえることもあったが)

動物の姿は、多くはないがたまに見る。

子供の頃は、馬が目の前を駆けていく映像をよく見ていた。

それはさておき風景の映像だが、それは宇宙空間の映像や雄大な地球の自然などのほか、いわゆる災害の映像だったりと、良くも悪くも自然を感じさせるものが多い。

中でも、その美しさに非常に感動し、今でも記憶が蘇ってくるくらいに衝撃的なほど美しい映像を見たことがある。

それは、ちょうど会のメンバー数名で瞑想をしている時に見えてきた。

私の視線はまるで鳥のように上空から見ていた。

眼下に見えてきたのは、本当に美しい山々だった。

その山並みを見ながら、ここは間違いなく日本のどこかの山で、そこは北海道ではなく、本州のどこかの山だろうと思っていた。

眼下に見える山並みには、杉かヒノキだと思うが大きな木々が空に向かってまっすぐに美しく伸びていた。

できることならば地上に降りたいと思ったほどで、気品さえ感じるような美しい山脈だった。

実際に本州の山を空から見たことはないが、木々の様子などから北海道の山でないことは間違いないと思った。

(後日、記憶を頼りにパソコンで調べてみたが、それらしき山脈は見つけることができなかった)

あまりの美しい景色に、目を閉じたまま「きれい!きれい!これはどこの山なの?」と叫んでしまったほどだった。

そして私が急に叫びだしたものだから、一緒にいた会のメンバーさんたちは驚いてしまったが、私はその時に見たままのことを話した。

たぶん、それが会の幹部の方に伝わったのかもしれない。

だから、あのような発言になったのだろう。

ただ、そのような映像は自分の意思で自由に見ようと思って見られるものではなく、まして「これこれを見てくれ」なんて頼まれたって、絶対に無理だと思う。

期待されればされるほど、何か見なければいけないという思いに囚われて、自分の自我が作り上げた間違ったものを見てしまう恐れがある。

過去にマスコミによく顔を出していた霊能者さんなどもそうだが、報酬を受け取って相談を受けたりするようになると、いつか正確なことが伝えられなくなるのかもしれないと思う。

そもそも霊能力と言うとなにか特別な力のように聞こえるが、これは本来誰にでも備わっているものだと思う。

太古の昔、人間がみんな持っていたはずの危険を察知する自己防衛本能なのだろうと思う。

文明が発達するにつれ、徐々にそのような能力が退化してしまったのかもしれない。

・・・というわけで、長々と書いてしまったが、一体私は何を書きたかったのかというと、昨夜久しぶりに頭のスクリーンに映像が見えてきて、一人上映会をしたということを書きたかった。

昨夜、布団に入った途端、見えてきたのは山脈ではなくひとつの大きな山だった。

周囲がやけに白くぼやけている。

もっと良く見ようと集中すると、地上は一面白い灰に覆われていた。

火山が噴火したのだろうか?

たくさんの白い灰が積もっている。

まさか富士山ってことはないでしょうが・・・

ところで、今月末にひさしぶりに家族で一泊旅行に出かける予定をしている。

行くのは北海道の屋根「大雪山系」の山。

そういえば、あの辺は火山地帯だしなぁ。(ブルブル)

これは自己防衛本能か、はたまた妄想か・・・

念のためにお天気でも傘を持っていこうかな(火山灰避けに)







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めんこい

2015-03-11 16:21:24 | 日記
すこし前にエゾリスが庭のバードテーブルに来たと書いたが、あれ以来エゾリスはほとんど毎日のように庭に来るようになった。

見ていると3匹ほどいるのだが、2匹はすこし餌を食べると居なくなるのに対して、そのうちの一匹はとにかく長く庭に居る。

私もずっと見ているわけではないが、見るたびに居るので、たぶん数時間は居るんじゃないかと思う。



せっせと頬袋に餌を詰め込んでいるエゾリス。

娘達はもちろんのこと、夫もエゾリスを眺めながら「めんこいな~」と目じりを下げている。

そう、本当にめんこい。

「可愛い」というより「めんこい」と言った方がよりしっくりと来るというか、エゾリスの可愛さをストレートに表現できていると思う。

めんこいという言葉は道内のほかに東北地方でも使われているそうだが、これは全国どこでも意味の分かる言葉ではないのだろうか(違う?)

聴き取るのが難しい津軽弁や沖縄の方言、それから明らかにその違いが分かる関西弁などに比べると、北海道は方言が少ないのではないかとずっと思っていた。

ところが北海道を離れて長い友人から「私も地元にいた頃は、自分も周囲も全然なまっていないと思っていたけれど、北海道を離れてみると十分になまってるってことが分かった」と言われて愕然とした。

「えっ、ホントに?でも、私はナンモなまってないっしょっ?」と聞くと、友人は言いにくそうに「いや、ちょっとなまってるかも」と言った。

そうだったのか、自分に訛りがあることを初めて知った。。。

ところで大学生の姪が学校の授業で面白い試験があったそうだ。

北海道弁を関西弁に置き換える試験だとかで、なんと姪は一問も間違えることなく満点を採ったと言う。

「だって私はバイリンガルだもの。お父さん(大阪出身)とお母さん(地元出身)の話す言葉を聞いて育ったんだから楽勝だった」とか。

バイリンガルって日本語と外国語を話せる人のことを言うんじゃなかったっけ?と思ったが、方言を自由に操れるのもバイリンガルだと言えば、そうなのかもしれない。(ちょっと無理があるが・・・)

何はともあれ、今日もまためんこいリスを見てほっこりした気持ちになっている。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交代

2015-03-04 14:57:50 | 日記
ホームヘルパーの仕事で、もう4年近くも訪問していた利用者さんのお宅から、この春やっと新しい利用者さんのお宅へと移動になった。

4年間も同じ利用者さんの家事援助のヘルパーをするというのは、かなり長いほうだと思う。

前に勤めていた事務所では半年くらいで移動になっていたので、今の事務所も同じだろうと思っていたが違っていた。

あまり長い付き合いになると、利用者さんとヘルパーとの間でお互いに「慣れ」が出てしまうおそれがあるので、半年くらいで交代させるという話を前の事務所では聞いていたが、今の事務所は違っていた。

人手が足りないこともあるが、利用者さんは気難しい方で何人も介護者を辞めさせるので有名だった。

そんな気難しい利用者さんとたまたま私が気が合うと思われて担当になり、以来ずっと変わることなく4年が経ってしまった。

でも利用者さんは気難しいところもあるが、とても良い方だった。

利用者さんが気にするところをきっちりやっていれば、それほど難しい方ではなく、むしろ楽しく会話が弾んだ。

・・・が、やはり4年は長かった。

仕事を辞めたいなぁと思ったのも、そんなマンネリ化があったせいかもしれない。

交代が決まったことを利用者さんに告げると、とても驚いた様子で「どうしてだ?」とおっしゃったが、最後の日にまたご挨拶をすると、「あぁ」と言ったきりそっけない態度でこちらをむこうともしなかった。

「さびしい」と思ってくださっているのかな?と、良いように解釈をして「これが最後じゃないですから。また来ますから!」と言ってその利用者さんのお宅をあとにした。

4年は長すぎたかもしれない。パートとは言え、私も一抹の寂しさを感じる。

さて、今日から新しい利用者さんの待つお宅へ行ってきた。

二週間ほど前に、そのお宅へ入っていたヘルパーに同行して仕事内容をメモ書きしてきたのだが、二週間も経っているので、かなり忘れている事もあり、行く前にメモを見て仕事の手順をシュミレーションする。

そして、利用者さんのお宅の前に止めた車の中で「よし!オッケー。行こう」と独り言を言って自分に気合を入れた。

次の利用者さんは、とてもジョークのお好きな明るい方だった。

初めてとも言えるお宅で、仕事はなかなかスムーズにとはいかないが、「気楽にやっていいよ」とおっしゃってくれた。

仕事が終るとお茶を用意して待っていてくださったので、お茶を飲みながら昔話やこの地域に関する珍しいお話などを聞かせて頂き、あっという間に時間は過ぎた。

今日もまた吹雪いているが、日差しがどこか春めいてきたような気がする。

着実に春は近づいている。

私も新しい気持ちで、また頑張ろうと思う。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共存

2015-03-03 16:15:29 | 日記
最近よく東田直樹さんの本を読んでいる。

東田直樹さんのことを知ったのは、昨年テレビで放送された番組を観たのがきっかけだった。

「この方はずいぶん障害が重いな」とはテレビ画面に映る東田さんを見ての最初の印象だった。

22歳の東田直樹さんは重度の自閉症であり、普通に会話ができず、意味のない叫び声を発したり、また少しもじっとしていることができない。

そして、ひとりでの行動が難しい為、いつも傍らにお母様が寄り添っていらっしゃる。

そんな重度の自閉症を持つ東田さんが、両親から教わった文字盤で自分の意思を伝えられるようになり、さらに今はパソコンを使って自分の考えを文章にすることができるようになった。

その文章は、今まで私が持っていた自閉症に対する価値観のようなものが、根底からひっくり返されてしまうほど素晴らしく、豊かな言葉で綴られており、一冊を読み終えた後も次々と読みたくなるような文章を書かれている。

自閉症である自分は、なぜ他人から見ると意味のないような行動をするのか、なぜ叫び声をあげてしまうのかなど、東田さんの本を読むとすべてに意味があってしていたことだと分かる。

それによって、他の同じような自閉症の方の行動もすこし理解できるようになった。

東田さんの本を読むといつもたくさんの感動や感銘を受けるのだが、今日たまたま開いたページに、まさに昨日からずっと頭の中にあった言葉「共存」があった。

「続・自閉症の僕が跳びはねる理由」から一部抜粋します。

人間愛について

愛は、誰もが持っているはずなのに、誰もが追い求めてやまないものです。

動物も気の合うもの同士がカップルになったり、群れを作ったりします。

もちろん、弱肉強食の世界ですから、そこには力関係が影響しています。

僕たち人間は動物とは違い、強い者だけが生き残るようにはなっていません。

仲間を助けたり、協力したりすることで、集団として生き残る力というものを持っています。

それは、人間には心というものがあるからだと思います。

心は目には見えません。

行動にも全て現れるものではないと思います。

僕は、心があるからこそ人間は、集団で生き延びてきたのだと考えています。

集団であれば、その中には弱い者、身勝手な者、価値観の異なる者など、様々な人たちが存在します。

戦争という無残な歴史を繰り返してはいますが、お互いが違いを認め合い助け合う中で、人間は存続してきたのだと思います。

人間愛とは、人間が人間であることを誇りに思うことではないのでしょうか。

自分を相手に置き換えて物事を考えることができたり、かわいそうな人を見るとほうっておけない気持ちになったりするのも心があるからです。

心にある良心は、それがなければ人間が存続できないものなのだと感じます。

誰かを好きになることも、知らない人を恐れることも心の揺れが原因です。

人が愛を大切にしているのは、愛こそが全ての問題を解決するキーワードだと知っているからです。

人間が求め続ける愛の理想は「共存」ではないでしょうか。

共存への道を探し始めた先にこそ、新しい人間の進化の形があるのだと僕は信じています。

以上 「続・自閉症の僕が跳びはねる理由」より


大切な生態系の一部を担っている「カラス」との共存もそうであり、またこの地球上に存在する数多くの生き物たちや植物たちとの共存、そして大自然との共存など、今こそ共存の道を探していかなければ人類に未来は無いのかもしれない。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カラス

2015-03-02 16:50:44 | 日記
朝、ごみを捨てにゴミ捨て場に行くと、カラスがゴミを狙ってゴミ捨て場の塀に止まっていることがある。

最近はカラスがゴミを荒らさないように、しっかりとネットをかけているので、そう簡単にはゴミ袋の中の生ゴミを食べることができなくなった。

でも、カラスも冬の間は餌が少なくて大変だろうなぁ。

危害を加えられないことを知っているカラスは、人間がすぐそばまで近寄っても逃げない。

じっと私がゴミを出すのを見ている。

つぶらな瞳で小首をかしげて見つめてくる。

可哀想だなぁと思う。

この雪の中では、餌も思うように無いのかもしれない。

できればこのカラスに、ゴミ袋の中に入ってる魚の頭をあげたいと思う。

でも、住宅街の中でそんなことはできない。

「あらやだ、あの奥さんったらカラスに餌をあげてるワ。ちょっと町内会で厳重に注意してもらいましょ!」

とかなんとか言われたりして。

心の中で「ごめん」とカラスに謝りつつ、カラスがつつかないようにゴミ袋にしっかりネットをかけてきた。

カラスはゴミを荒らす「害鳥」というイメージがある。

また全身が真っ黒というのも、見た目でかなり損をしていると思う。

しかし、カラスもまた自然の生態系の一部なのだ。

最近、札幌市内のカラスが減ってきていると言われる。

その数は10年前の3分の2まで減り、現在は5400羽だとか。

カラスはゴミを荒らすだけではなく、マイマイガやネズミを食べることで、害獣や害虫の大量発生を抑制している。

またカラスが人を襲うというのもよく聞くが、人に攻撃されたことないカラスは、絶対に人を攻撃してこないそうだ。

カラスも立派に生態系の役割を果たしている。

そんな自然の生態系を乱しているのは、相変わらず人間なのかもしれない。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする